2-2
「殺すって……シェムハザ様を……!?」
そう口にして、篝はハッとしたように辺りを素早く見回す。
「大丈夫だ。盗聴はされていない。……いや、本人以外なら例え聞かれていようと問題ない」
「……関わってるのは狭霧さんだけじゃない、って事ですか?」
「そうだ。既にかなりの眷属が、シェムハザの暗殺に賛同している」
篝は当惑した顔を見せる。無理もないだろう。魔王無くして眷属は生まれてこない。眷属は魔王に対して深い忠誠と敬愛を抱いて然るべき、というのが常識だ。その眷属があろうことか魔王を殺そうとするなど、人間の子が親を殺すよりも尚一層異常で信じ難いことだった。
「……教えてください。どうしてそんな事になったんですか?」
アッシュも無言ながら、仮面の奥から狭霧をじっと見つめていた。狭霧は深々と嘆息する。
「……シェムハザが『十二の比翼』同盟の一員なのは知ってるよな?」
「ええ、まあ……」
悪魔は基本的に自身の勢力単位の利益を優先して動く。そもそも協調性、思いやり、皆仲良く、ラブアンドピースなどといった言葉とは一切無縁の存在だ。悪魔同士の潰し合いも珍しくはない。と言うより、天使との戦いよりもそういった悪魔間での勢力争いのほうが多い程だ。質・量共に圧倒的に悪魔に劣る天使達が未だ戦力的に対抗できているのは、そういった事情があってのことだった。
しかし、悪魔達も流石にそこまで馬鹿ではない。終わりなき不毛な勢力争いを疎んだ一部の有力な悪魔達は、同盟として一応の協力関係を結ぶこととした。
そうして生まれたのが『十二の比翼』同盟である。とはいえ、実際に参加勢力同士が協力することはそう多くない。参加者の提案や依頼、同盟全体への指令が実際に実行されるのは、それが互いの利益に一致した時のみだ。そこに強制力は無い。
そんな『十二の比翼』にも、唯一にして絶対の掟が存在する。それが参加者同士の不可侵だった。そこを失ってしまえば、そもそも同盟の意義自体が揺らいでしまう。他の全てが緩く適当な同盟も、その掟だけは絶対だった。
シェムハザは、その掟に触れてしまったのだ。
◯
一月ほど前のことだ。
当時、シェムハザの軍団はかねてから領土内での小競り合いや略奪を繰り返す悪魔の一派に手を焼いていた。そんな行為を許しておけば、他の勢力への示しがつかない。悪魔はナメられたら終わりだ。しかし悪い事に、その一派は同盟の一員、魔王フルーレティの配下にあったのだ。フルーレティに改善を求めても一向に状況は変わらず、かと言って表立って排除すれば同盟の掟に触れることになる。
八方塞がりとなったシェムハザの眷属達は、とうとうその一派の主要な構成員の暗殺を決意した。
その日、狭霧を中心とした眷属達は覆面と外套を纏い、件の一派の駐留する砦の資材置き場で息を潜めていた。その片隅で青白く光るのは、起動中の転移術式の魔法陣。
予め潜入した仲間が用意したこの術式で実働部隊が転移、この時間酒盛りの最中であるはずの標的の悪魔達数名を素早く殺害し、騒ぎが広がる前に再びこの転移術式で逃亡。最後に術式を消去して証拠を消すという算段だった。
無論、今の状況で標的達が暗殺などされれば、疑いはシェムハザ達に向けられるだろう。だが確たる証拠は無い。フルーレティとしても何の対策も打たなかった落ち度もあり、一応の配下とはいえ別段有能な訳でもないただの下っ端。波風を立てるよりも暗黙の黙殺を選ぶと考えられた。
「……時間だ、行くぞ」
狭霧の号令で、数人の悪魔がそれぞれの得物を手に資材置き場を出る。夜闇に紛れ、迅速かつ慎重に中庭の練兵場に急ぐ。標的達はそこで宴会の最中のはずだった。
途中で出くわした悪魔達は、無音で瞬時に殺していく。シェムハザの数千を数える眷属の中でも手練れを集めただけあって、全てが順調に進んでいた。
一行は一陣の風のように突き進み、とうとう目標の中庭に躍り出た。標的達はやはり酒宴の最中だったらしく、狭霧達にも気付かずに馬鹿騒ぎをしている。
「よし、殺るぞ」
つかつかと歩み寄る狭霧達にようやく気付き、赤ら顔の悪魔達は怒声を上げる。
「何だァテメーらぁぁ!!」
一触即発の緊張が張り詰め、いよいよ臨界に達しようとしたその時━━。
標的の背後の壁が、爆発した。
狭霧達も含め、その場の全員が凍りつく。吹き飛んできた巨大な石材で、叫んだ悪魔は潰されていた。
土煙の中から、巨大な影がのっそりと姿を現わす。
「なっ……あっ……!?」
全く予想外の乱入者に、狭霧達眷属は驚愕に慄く。
現れたのは、シェムハザだった。
「よぉぉぉぉウ……オメーるぁ……ズルいじゃねえぇんか、こんな楽しそふッなイベント……。俺も混ぜるろよ」
その目は蕩け、呂律も回らず、足取りも覚束ない。明らかに酒と薬でハイになっていた。当然顔と姿など隠しているはずもなく、モロに丸出しだ。
「シェム……ッ……主様……!? ど……どうしてここに……!?」
「んお前らの姿が見えなかったからぁよォー……なぁーんかおかしいと思ってその辺の奴を締め上げたら教えてくれたずえ? 間違えて殺しちまったけどらぁ……」
――最悪だ。狭霧は叫び出したい衝動に駆られた。
シェムハザは、常軌を逸したレベルの莫迦だ。常に己の幼稚で短絡的な価値観のみを絶対とし、周囲の事など一切考慮しない。酒と薬に溺れ、眷属や仲間の命すら路傍の石ほどにも思っていない。かつてロシアの戦線で指揮を担った際、火中に飛び込む虫か湖に身を投げるレミングの逸話もかくやと言う程の無謀な作戦で大量の兵を無駄死にさせ、後に“潰滅戦線”と呼ばれるその戦いの最終的な敗走への引き金を引いた悪名は、今も巷に轟いている。
そしてさらに厄介なのは、それでも魔王の地位を維持し続けられる程に、本人が凄まじく強いということだった。自ら指揮したその戦線でも、阿鼻叫喚、死屍累々の地獄絵図の中を常に最前線で戦い続け、結局指の一つすら失わずに余裕の生還を果たした。『十二の比翼』に名を連ねるのもひとえにその圧倒的暴力によるものであり、謀略や政治闘争とは一切無縁のままその座を勝ち取ったのだ。
そんな愚者そのものなシェムハザだが、何故かこういう都合の悪いタイミングでのみ、天才軍師もかくやという異常な勘の良さを発揮するのだ。これまでいつもそうだった。その度に狭霧達眷属が必死で彼の尻拭いを強いられてきたのだ。
「てめっ……何してんだぁぁぁぁ!!」
叫んで斬りかかってきた敵を、シェムハザは蚊でも潰すかのように平手で叩き殺す。さらに向かってくる数人を、即座に剛腕で文字通り殴り飛ばす。彼らは砦の壁に潰れたトマトのようにへばり付いた。
シェムハザについて評したとある魔王の言葉で、特に有名なものがある。曰く、『奴の強みは防御不能の威力かつ回避不能の速度の攻撃を無尽蔵のスタミナと鋼鉄の頑強さを併せ持つ超リーチの巨体から際限無く繰り出すことだ』と。
こと接近戦において、シェムハザはまさしく無敵の存在だった。
「主様!! どうかお下がりください!! ここは我々だけで十分です!! 貴方様の手を煩わせるほどの事では……!!」
狭霧の必死の呼び掛けに、シェムハザはにっこり笑顔で応えた。
「馬ぁ鹿。何言ってんだよ水臭うぇなあ。俺なら心配ないぜ! こんな奴ら一捻りどぁ!!」
眩暈を覚えてよろめく狭霧を、他の眷属達が支えた。覆面で見えないが、彼らの顔色も蒼白であろうことは確かだった。
「オラオラァァ!! 十二の比翼が一つ!! 魔王シェムハザのお通りだぁぁ!! 全員死ぬまでブン殴ってやるずおぉぉぉ!!」
鼓膜を震わす凄まじい大声で叫びながら砦の内部に殴り込んでいくシェムハザの後姿を見て、狭霧と眷属達はあいつを殺そう、と決意した。
◯
「………………」
篝は完全に絶句していた。アッシュも面食らったように固まっている。
「……で、今に至るわけだ。フルーレティ卿からは既に何通も抗議の書状が届いてる。だがシェムハザは謝罪も補償もする気は無い。このままいけばフルーレティ卿どころか同盟の全員に袋叩きにされて、俺達は終わりだ。もうシェムハザを殺す以外に道は無いんだよ」
「……な……なるほど……事情は分かりました」
狭霧は黙りこくるアッシュに目を向ける。
「……お前は? やっぱり親殺しになど協力できないか?」
「…………」
「……奴の魔力が自分に流れていると思うだけで、僕は気が狂いそうになる。僕たち眷属はこれまで散々奴に苦汁を舐めさせられてきた。何度殺そうと思ってきたか分からない……。だが直接攻撃は勿論、奴には魔法も一切通用せず、呪殺師を雇っても気付きさえしなかった。……まともな主の下に生まれた奴には分からないだろうが……」
「……勘違いするな」アッシュはかぶりを振る。「……そちらの事情はどうでもいい。重要なのは私がするべき事とその方法、そして与えられる見返りだ」
狭霧は一瞬あっけに取られ、それからくつくつと笑った。篝は呆れたように額に手をやる。
「なるほどなるほど……。うん、分かりやすくて面白い奴だな」
「……すいません、失礼な奴で……」
「いや、まどろっこしくないのは好きだ。……それじゃあ、お望みの本題に入ろうか」
椅子に座り、狭霧は脚を組む。
「……篝との契約が無くなった以上、アッシュには僕がするはずだった役目を代わりに果たしてもらう事になる。……シェムハザ殺害の実行役だ」
「えっ……待ってくださいよ、でも……」
「そう」狭霧は浮き足立った様子の篝に頷きかける。「相手は地上でも有数の魔王だ。まともにやって殺せるわけはない。まともにやればな」
「……何か、策があると」
「その通り」彼はアッシュに不敵な笑みを向けた。「暗殺の実行役の他にもう一つ頼み事がある。その策の為に必要な品物を、協力者から受け取ってきてほしい。かなり危険な場所に住んでいる相手でな。要は信頼に足る実力かどうかのテストも兼ねてるわけだ」
「……成る程な」
「既に同盟とフルーレティ卿への水面下での根回しは万全だ。シェムハザの死後は、眷属一同フルーレティ卿の傘下に入ることになっている。出来た空席に直接滑り込むのは流石に無理だが、俺は卿の軍で上級幹部として取り立てて貰える。お前たちも俺の筆頭配下として推薦しよう。どうだ?」
篝が目を輝かせてアッシュを見る。アッシュはこくりと頷いた。
「……いいだろう」
「よし!」狭霧は膝を叩いて立ち上がる。「決まりだな! いいか、まずはここに行って目的の品を受け取ってくること。話はそれからだ。さっきも言った通りかなりの危険地帯だが、そのくらい切り抜けられなきゃお話にならないからな」
狭霧は篝に数枚の地図を渡し、にやりと笑んだ。
「期待してるぞ、二人とも。僕の役に立ってくれよ?」
◯
クーパーのドアを閉め、篝はようやく一息ついた。来た時と同じく、アッシュは助手席に座る。
「……煙草、いいか?」
アッシュが頷くのを見て、篝は車窓を開けて一服する。
「……何だかとんでもないことに巻き込まれたもんだなあ……」篝は紫煙を吐き出す。「けど、これはデカいチャンスだ。こいつを掴めれば、俺達は一気に目的に近付ける」
その横顔に、アッシュは問いかける。
「……お前の目的とは……何だ?」
「あれ、言ってなかったっけか」
灰皿に灰を落とし、篝は笑う。
「お前と同じだよ。……いや、ちょっと違うか。お前にとっての手段が、俺にとっては目的なんだ」
「……?」
「……この十年で、沢山の仲間が死んだ。他の人間や悪魔に殺されることもあれば、病気や飢えで死んだ奴もいた。……時代が、世界が悪いと言われる事もあるが、俺はそうは思わない」
篝の表情にあったのは大きな悲しみと、それ以上に深い怒りだった。
「……仲間を守れなかったのは、俺が弱かったせいだ。どんな敵も不条理も踏み潰せるくらいに俺が強ければ、あいつらは死なずに済んだんだ」
拳を握る篝に、アッシュは僅かに目を見開いた。ありとあらゆる責任を自らのものとするその思考は、ある種傲慢ですらある。とても一人の人間が背負い切れるものではないだろう。
「……力が欲しい。強い力がな。ありとあらゆる理不尽さから家族を守れるだけの力が、俺は欲しいんだ。その為ならどんな事でもする。俺は必ず、のし上がってやる」
篝は力強い眼差しでアッシュを見る。
「お前も一緒だぜ? アッシュ」
アッシュはその目に見覚えがあった。重荷を背負って尚、真っ直ぐに立つ者の目。彼の主、カイムと同じ眼差しだった。
「……ああ」
アッシュは少し戸惑いながらも、小さく頷いた。
「さて、それじゃあ目的地は……結構遠いな……んん?」
篝が地図を広げ、眉間にしわを寄せる。
「……どうした?」
「……この街……知ってるな。デカい駅があって、結構栄えてた街だぜ。ここにあった予備校通ってたんだよ俺。そうか、ここかぁ……」篝は表情を緩め、遠い目をする。「懐かしいなあ……あの頃は俺も毎日電車乗って、冷房とWi-Fiのある部屋でアイス食べながらネット出来てたんだもんなあ……」
「わいふぁい……?」
聞き覚えのない単語に怪訝な顔をするアッシュに、篝はくしゃりと笑った。
「ははは、何でもない。……ああ、そうだ。弁当貰ったんだっけか」
篝は小さなバスケットを開く。中身は焼いたパンだった。付け合わせのジャムはほんの僅かだが、これでも精一杯の贅沢だ。
篝は感謝の言葉と共にパンに噛り付きながら、もう一つをアッシュに手渡す。
「ほら、お前の分」
「……え? ……あ、ああ」
アッシュは受け取ったパンをしげしげと見つめてから小さくちぎり、仮面を持ち上げて食べた。それを見て、篝が硬直する。
「……お前……」
「……ん?」
「お前、普通の顔あったのかよ!? 元々そういう見た目の悪魔かと思ってたわ!!」
身を乗り出す篝に、アッシュは面食らった表情で顔を引く。
「……この面はカイム様の眷属になる際に造ったものだ。元の私を捨て、新たにカイム様の眷属として……」
「へえー! 勿体無いだろ! そんなキレーな顔してるのに!」
「なぁっ……!?」
アッシュの頰が紅潮する。
「俺と違ってさ! ずっと外しときゃいいじゃん!」
「……ば……馬鹿を言うな……」
「いや、嘘じゃねえって。本気だって」
「うるさい!」
慌てて顔を隠すように、アッシュは再び仮面を下ろす。篝はその顔を覗き込んだ。
「ん? お、照れてんのか?」
「照れてなどいない!」
「いや、照れてる照れてる。絶対照れてる」
「うるさいと言ってるだろう……! さっさと出発したらどうなんだ!」
「あははは、分かりましたよー」
不機嫌そうにそっぽを向くアッシュと、反対に楽しそうにハンドルを握る篝を乗せ、クーパーは目的地に向け出発した。
◯
「……クソ多いッスすね……」
雑居ビルの屋上。雷火とリリィ、アルテミス、想兼の一行は、目的地周辺の様子を伺っていた。
雷火は想兼から双眼鏡を受け取り、柵に肘をついて覗き込む。少し見ただけでも、道路や建物内に大量の屍者がふらついているのが見て取れた。リリィが初見の双眼鏡にわくわく顔で袖を引っ張るので貸してやる。
「……確かに多いな、これは……」
「大災厄以前は交通の要所として栄えた街のようッスからね。……それにしても、この量は少し異常ですが」
「雷火ー、本当にここ行かなきゃダメなのー?」
不満たらたらな様子のアルテミスに、雷火は溜息と共に頷く。
「仕方ないだろ、俺の知り合いの魔術の専門家がここに住んでんだよ。文句ならそいつに言ってくれ」
「えー、こんなところにー? 誰なのー?」
「……あ」
何かに気付いた想兼が口を開けたまま固まり、目だけを動かして雷火を見る。雷火が静かに頷くと、その表情がゆっくりと苦々しいものに変わった。
「……最悪ッス……最悪ッスよ……」
「……黙っててくれ……アルテミスの士気に関わる……」
「えっ? どうしたんですか? どんな人なんですか一体?」
「もー、何なの二人だけでコソコソしちゃってさー。そういうの良くないと思いまーす」
「思いまーす!」
何も分かっていない様子のリリィとアルテミスに、雷火と想兼は顔を見合わせ、重く沈痛な溜息を吐いた。




