0-1
二年前、妻が死んだ。
それまでいかに効率良く敵の脳漿をぶち撒けるかしか知らなかった俺に、他者と己を愛することを教えてくれた妻は、戦地から遠く離れた拠点で野盗に襲われた。
俺が駆け付けた時には、妻の四肢は妙な方向に折れ曲り、かつて口付けを交わした唇や知性と芯の強さを感じさせた瞳は、それを乗せる頭ごとどこかに吹き飛んで失くなってしまっていた。
そうして妻が死んだ時、俺は別の戦場で敵の脳漿をぶち撒けていた。
二ヶ月前、娘が死んだ。
妻と共に娘をつくった時、人間にでもなったつもりかと周囲からは散々嘲笑されたが、そんな事は気にも留めなかった。愛する者と共に血を分けた子を成し、守り育てていくとはこれほど幸福な事なのかと驚き、感動すら覚えた。
妻を亡くしてからはその想いは一層強くなり、どんな事をしてでもこの子を護っていこうと堅く誓った。
だが生まれつき身体が弱かった娘は、些細な風邪を拗らせてそのまま息を引き取った。花の名前を授けた娘は、その花を直に見ることすら無かった。
そうして娘が死んだ時、俺はやはり遠く離れた戦場で敵の脳漿をぶち撒けていた。
失意の底に落ちた俺を、周囲の仲間――と思っていた連中は口々に嘲った。それ見たことか、悪魔が人間の真似事などするからだ、と。
奴らはどうしようもない屑だ。敵を殺す事しか頭に無い。他者への思いやりなど一切持ち合わせず、自分以外の全てはどうでもいいと思っている。
だが恐らくは、奴らの言い分が正しいのだろう。護るべき妻も娘も失って、結果から見れば、俺も奴らと何も変わらない屑でしかなかった。
俺は悪魔だ。人は人らしく、天使は天使らしく、そして悪魔は悪魔らしく。誰もが自分の身の丈を知り、その生き方から逸脱すべきではなかったのだ。
それに気付くのが、俺はあまりに遅すぎた。
◯
悪魔、“果てなき薄暮”は、薄暗い石造りの通路を歩いていた。
戦争が始まってから建てられた城塞は多いが、ここは数百年前に人間が造ったものだと聞いていた。
そう、戦争だ。十年前に始まった戦争は、泥沼の状態のまま今日まで続いている。薄暮もほんの数週間前まではその戦争に身を投じていた。だが娘を失い、抜け殻のようになった彼は前線では役立たずの用無しと見做され、こうして見知らぬ辺鄙な土地に飛ばされてきたのだ。
既に陽は落ち、頼りない蝋燭の灯りだけが通路を照らしていた。外では秋の夜風が枯れ木を揺らし、ひゅうひゅうと薄気味悪い音を立てている。
ここがどこなのか、自分が何をさせられるのか、何も知らない。もしかすると説明があったのかもしれないが、薄暮は聞く耳を持たなかった。どうでもよかったのだ。どうせ全てを失った身だ。今更何があろうと、たとえ死ぬことになったとしても、薄暮は何の躊躇も無く受け入れるだろう。
「よう、見た顔だな」
不意に声を掛けられ、薄暮はのっそりと顔を上げる。
見ると通路の先、大柄な人影が壁に寄りかかって立っていた。
蝋燭に照らされたその顔には、薄暮も見覚えがあった。
「……アスモデウス卿」
「へえ、ご存じだったとは光栄なことで。俺も知ってるぞ、“果てなき薄暮”だろ? 何度か現場で見覚えがある。どこだったか……ロシアにいたことあるか?」
「……ああ、まあ。四年くらい前か」
アスモデウスは高名な悪魔だ。“不死殺し”の名で知られるその活躍は薄暮も何度も耳にしており、実際に遠巻きに見た事もあった。だがこうして直に話したのは初めてのことだった。
アスモデウスは古びた鎧を纏い、幅広の大剣を本差として、さらに過剰と思えるほどの幾つもの脇差をじゃらじゃらとぶら下げていた。薄笑いを浮かべたその顔は、武人と呼ぶには少々品性が足りない。それは薄暮もよく知る、殺人者の顔だ。全身から漂う血の匂いと殺気は、同類の薄暮には到底隠し切れるものではない。
出会ってまだ間も無いが、薄暮はすぐに確信した。アスモデウスは所謂、典型的な悪魔だ。暴力を愛し、悪徳を好み、他人の不幸で飯を食う類いの外道。そんな手合いをこれまで薄暮は数え切れないほど、心底うんざりするほど目にしてきた。
「そうか、やっぱりな。あそこは酷かったよな、何せ指揮官が無能も無能、知ってるか? あいつも今や連盟の末席に……」
「……ああ、悪い。その話はまた後でゆっくりと……。……それより、俺はここで何をすればいいんだ? 何も聞いてないんだが」
話が長くなりそうなのを察知して遮った薄暮に対し、アスモデウスは怪訝な顔を浮かべた。
「なんだ、そうなのか? と言っても、仕事ってほどのもんでもない。ただのお守りさ。この先の牢にいるガキが逃げ出さないように見張って、一日二回食事を持っていく。それだけだ」
「……ガキ? 捕虜か?」
「さあね、詳しいことは俺も知らんよ。ただ天使でも悪魔でもない、ただの人間のガキだ。どんな理由で生かして閉じ込めておくのやら。まあ、どうでもいい仕事さ。適当にやってくれ」
薄暮は内心で自嘲した。まさか子供のお守りとは。とても悪魔の仕事とは思えない。今の自分にはその程度の価値しか無いということか。
それも当然かもしれないと思った。何せ自分はそのお守りすら満足に出来ず、一人娘を死なせたのだから。
長い通路の突き当たり、やはり石造りの小さな塔が、薄暮の受け持つその牢屋らしかった。
塔を見上げて、薄暮は重い息を吐く。これから自分はこの中にいる子供の世話をすることになる。まだ見た訳ではないが、悪魔に幽閉された捕虜の様子など容易に想像がつく。きっと生気のない目でうずくまり、薄暮を見て過剰に怯えるか、もしくは既に全てを諦めてロクな反応すら示さないだろう。
数ヶ月か数年かは知れないが、この地の果てでそんな哀れな子供と一緒に過ごすと考えると、枯れ果てた薄暮の心にも流石に多少の憂鬱が生まれてくる。いっそ投げ出して逃げてしまおうかとも思ったが、その気力すら湧かなかった。
耳元で、そんな自分を嘲笑う声がする。娘を亡くしてから頻繁に聞こえる、疎ましい幻聴だ。耳を塞いでも嘲笑は止まず、憂鬱に拍車をかけた。
もういい、嫌になったら首でも括ってさっさと死んでしまおう――。
諦観と共に、古びた木の扉の錠を開けた。
最初に目に入ったのは、血のような深い赤。
それは件の子供が身を包むローブの色だ。子供はこちらに背を向け、秋の冷たい夜風が吹き込んできているというのに、小さな窓を全開にして食い入るように外を眺めていた。
頭に被ったフードからは銀糸の長髪が溢れている。痩せ細った白い手足から見ても、どうやら少女らしい。剥き出しの石の床にべたりと着けた裸足が寒々しいが、それを気にする様子も無い。
「……何をしている?」
声を掛けると、少女は驚いたように振り向いた。どうやら気付いていなかったらしい。大した集中力だ。
その顔はやはり雪のように白く、瞳はローブと同じく真紅。いかにも不健康そうな外見だが、しかしその表情は薄暮の予想とは裏腹に、輝くような生気に満ちていた。
「あっ……!? えっ、あ、あの……貴方は……?」
「……今日からお前の世話を見ることになった。……一体何をしてたんだ?」
「ああ、貴方が! お世話になります! 今ですか? そ、そうですね……そのですね……」
少女は少し照れくさそうに、そしてそれ以上に嬉しそうに笑った。
「……星を、見ていたんです!」
それが、少女と悪魔の邂逅だった。