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act.3 フィアールカ(3)

 かろうじてウィーゼンの前では笑顔でいたが、エディに送られて帰路についたとたん、雨で互いにそれぞれ傘をさしていることもあって、表情を隠すようにしてフィアはとぼとぼと歩いていた。


「なんです、その雨期真っただ中に舞い戻ったようなじめじめした顔は」


 エディの言葉にいつもなら適当に言い返すフィアも、今日ばかりは応じる気力がなかった。


「……別に……」


 とだけ答えて、またフィアは口を閉じた。

 静かな雨音は、エディのことばではないが、また雨期に戻ってしまったかのようだ。この雨だと、せっかく雨期明けで咲いたセツの白い花もいたんでしまうことだろう。仕入れに影響してしまうかもしれない。

 ぼんやりとそんなことを考えて、またため息をついた。


「ウィルが、気にしていましたよ」

「え?」


 エディの思わぬことばに、フィアは今度は傘をあげてエディの方を見ていた。

 そんなフィアにエディは目線を合わせることもなく、淡々と前を向いて歩き続けながら話す。


「目の手当の終えたあと、話している内に元気がなくなっていったと。疲れがでたのかもしれないから、辻馬車があれば拾って乗せてあげてくれ、と。帰り際にウィルから言われました」


 フィアはウィーゼンの勘の鋭さに驚いた。


 ……気づいていたのか。


 フィアは細やかなに自分の気配を読み取ってくれる恋人のことを嬉しく思い、反面、今はそれほどの恋人の前で連日どれだけ薬臭い自分をさらしていたのかと思い、ただただ底の見えぬ沼に落ちてゆくような苦しい気持ちになった。


「何か困ったことでも起きましたか。ウィルの回復になにか悪い兆しでも?」


 エディの言葉にフィアは首をふって否定を示した。


「いや……彼の身体は順調に血のめぐりがよくなっていると思う。もちろん簡単にすべての痺れや痛みは抜けないだろうが……足の痛みが軽くなったように、身体の痛みにも徐々に薬は効いていっていると感じる」

「じゃあ、いったい、その暗い顔はなんですか? 私に向かって女性らしい言葉遣いができなくなってるときは、たいていあなたは何かに深く動揺しているときでしょう。何がありました?」


 フィアの心内に踏み込むような問いをしてくるわりに、エディの話し方は心配している口調ではない。職務質問をするかのような問い方だった。

 だが、その淡々とした雰囲気が、今のフィアにはありがたかった。それに、『エディならば包み隠さず答えてくれそうだ』とフィアは思った。

 思い切って唇を動かした。


「……エディ。聞きたいことがあるんだが」

「なんです」

「私は……私は、その……」


 フィアがそこで言葉を切ってしまうと、エディは息をついた。


「はっきり言ってください、まどろっこしい」


 エディの当然ともいえる言葉に、フィアは勇気を振り絞った。


「その……私は……臭いだろうか?」

「は?」


 エディが声をあげて、足を止めた。

 つられるようにしてフィアも歩みを止めて、思い切ってエディに真向かう。


「今日はセツの花の香りらしいからそれほどじゃないかもしれないが……。昨日とか一昨日とか……その前とか……。いや、ウィーゼンのところに通ってきたこの日々、私は……私は毎日薬草臭かったのだろうか? エディにもウィーゼンにも我慢させてきてしまったのだろうか」


 真剣にそういうフィアに、傘から落ちた雨しずくがぽたりとフィアの鼻先に落ちる。

 だがそれを拭く余裕すらなく、フィアはエディに向かって言った。


「……こ、こんなことを聞けるのはエディくらいだ。エディ、本当のことを言ってくれていいから……覚悟はできているから……」


 しとしとと雨の降る夜道、必死な顔でそう言い募ったフィアは、覚悟のためにぎゅっと目を瞑った。

 他者からみれば、降りしきる雨の中、錆色の髪の華奢な女が必至に背の高い男に何かを訴えている場面であり、そこに含まれるは色恋沙汰だろうと誤解される状況であったろうが、幸いにして雨の夜道に誰もいなかった。


「何言ってるんですか、あなたは」


 呆れた声が響いた。


「ウィルと思いを交わせて幸せ絶好調ってときに、なんて方向性違いの悩みを抱えてるんですか。私はてっきり、ウィルのもっとそばにいたいとか、帰りたくない、とかそういうことで帰り際に元気をなくしてんじゃないかと思ってたんですが」

「そ、それは、ずっとそばにいたいに決まっている! だ、だが、匂いが! 洗わなければ、そばにいられないじゃないか!」

「……匂いって……」


 怪訝な顔をしたエディはしばらく逡巡した後、思い当たったことがあったのかフィアの方をのぞきこむような仕草をした。


「あぁ……”薬店の匂い”ですか」


 言い当てられて、フィアは俯く。

 無意識に胸元まで流れる自分の錆び色の髪を掴んでしまう。

 エディはそんな仕草のフィアをしばらく見つめたあと、すっと手を伸ばしてきた。

 驚いて身を引こうとすると、エディの手はフィアの鼻先におちた雨しずくをぬぐった。


「服は着替えてるでしょう? 髪にしみついた匂いまでさすがに私は気づきませんよ。ま、すごく近づけば微かに薬草の香りがするときはありますが、別に不快な匂いなわけじゃない」

「で……でも、ウィーゼンは……そ、その……今日の私の扱った花の香りも、昨日のも一昨日のも、その前のも……言い当てた」


 フィアの絶望したような声に、エディは眉をひそめる。

 けっしてフィアに同情するような表情ではなく、『なに馬鹿なこと言ってるんですか』という表情で。


 実際、そのときエディは、フィアに呆れていたのだった。

 フィアは気づいていなかったが、髪の香りをそこまで当てるということは、よほど相手に密着していなければわからないことだった。――ゆえに、薬店の鉄則は、あくまで「逢引き」の前に、洗髪と着替え、なのだ。

 衣服には匂いがしみつくから、さすがに服がそのままであったら、薬店の匂いを感じたかもしれない。けれど、衣服はすべて洗濯済のものに着替えて店から出てくる。しかも、薬店で勤めているときは、髪も薬を煮出す中に髪が落ちてはいらないよう、頭全体をまとめるように布でまいて仕事している。もちろん、仕事を終えたら、その布ははずして、洗濯行きなのだった。


 髪に染みついた日々変わる薬草の香りにまで細かく気付くというのは、心身ともに相手に密接していなければわからぬこと。

 いわばフィアの今の問いは、ウィーゼンがどれだけフィアのことを細かく感じ取っているかを示しているということでもあった。

 また、エディのいない合間に「ウィーゼンがフィアの髪に触れている」ということを、フィア自らがエディにばらしているということでもあった。


 エディはため息をついた。


「フィア、あまりウィルのつぶやきを気にしなくていいと思いますけど」

「だが……」

「目が見えない分、嗅覚が鋭くなっているんでしょう。もともとあの人は五感に優れた人ですしね」


 エディはばかばかしい話につきあってられないという風に、てきとうなあしらいでそう言うだけにとどめ、また歩き始めた。

 だがフィアがその時叫んだ。


「エ、エディ!」

「……なんです」

「あ、明日から、薬店に迎えに来てくれるのを遅らせてくれないだろうか……洗髪してから、ウィーゼンのところに行きたい」


 必死な形相のフィアをみて、エディはあっけにとられたようにまじまじとフィアの目を見返した。


「洗髪? 髪を洗ってからだと、ウィーゼンの家に着くのも、またフィアの家に帰ってくるのもずいぶんと時間が遅くなるかと思いますが」

「……それでもいい! 匂いをつけていく方がいやだ。頼む!」


 最初は面倒そうに、首を横に振ったエディだった。だが、フィアが何度も頼むと、はぁっとため息をついた。


「……いいですよ。洗髪してから行きましょう。匂いを気にしながら薬草を扱ってもらって手違いがあっても困りますしね」


 エディの言葉にフィアは心底ほっとして、心からの礼を述べた。

 そんなフィアに、エディは「まぁ、ウィルにも今以上に発奮するきっかけになるでしょうしね」と答えたのだが――……その意味はフィアにはよくわからなかったのだった。



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