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act.3 フィアールカ(1)




 ――薬店に勤める薬草師、薬師には、鉄則がある。

 

 その「鉄則」をフィアが耳にしたのは、王都の薬店で勤め始めてしばらくしたころだった。



 みずから話しかけるのは苦手なフィアも、ぼちぼちと同僚や先輩と交流できるようになり、昼食に誘ってくれるようになったときのこと。


『あのね、薬店で勤める者にはね、鉄則があるの』


 真剣な顔でそう切り出した先輩薬草師を前に、フィアは背筋を正す。そんなフィアに一度頷いてから、先輩は言葉をつづけた。


『それはね……逢引き前には洗髪と着替える、ということよ』

『逢引き前に洗髪と着替え、ですか?』


 思わず聞き返してしまった。薬店で勤める者の鉄則というからには、もっと厳めしい生命にかかわるような何かかと身構えていたのだ。

 なのに、逢引き前に洗髪と着替え、とは……フィアは少々呆れたのだが、それは表情に出さずに心の中だけに留めておいた。けれども、目の前の先輩は非常に真面目かつ心配げな表情でフィアの顔を覗き見る。


『フィア、本当にわかってる? 髪をきちんと洗うことと、すべての衣類を……もちろん肌着までをすべて着かえてから、恋人と待ち合わせるのよ? 理由は……わかるわね?』

『……は、はい』


 あまりに先輩が真剣に繰り返すので三度も頷いたフィアだった。

 なんとなく先輩の言いたいことは伝わった。つまり、「薬草の匂い」を落としてから人と会うように、ということなのだろうフィアは悟ったのだ。


 薬草の匂いは、確かに独特だ。

 「薬草」の一言でまとめられてしまうが、薬草とされるものは、草や花もあれば、木の皮や根も含まれる。

 種類さまざまな草木花だが、薬となる効き目と結びついてか、それぞれ独特の香りを持つものも多いのだ。


 吸い込むと鼻から胸までスッとする香りもあれば、嗅ぐだけで思わず眉間に皺がよってしまう癖のある香りもある。

 うっとりするような甘い芳香もあれば、くしゃみを招くような香りすらある。

 さらに薬店では、それらの薬草を煮出したり蒸留したりして、薬効をさらに高める作業をするので、薬店というのは独特のにおいに満ちているのは一般常識だった。

 薬店の扉を開けると、その日、特に念入りに煮出したり抽出したりした草花の香りに満ち満ちてるものだ。もちろん長時間働く薬草師や薬師というのは、仕事を終えるときには、それらの匂いが髪や衣服にしみついてしまっている。


『フィア、本当にわかったわよね? 今は薬店に勤めはじめで、恋人なんて作ってる間がないでしょうけど、今後ゆとりができて誰かと待ち合わせるようになったら、絶対に”洗髪”と”着替え”よ。どちらも、忘れちゃだめよ。もちろん入浴できるのに越したことはないけれど、仕事の後に外湯なんて行ってたら、逢瀬の待ち合わせ時間を深夜にしなきゃいけないんだから。でも、どんなに急いでても、着替えと髪だけは洗う!』


 フィアは、妙に具体的にくどいほど何度も同じことを繰り返す先輩の言葉に頷いた。


 ――逢引きするときに薬臭いのは問題だろうと教えてくれてるんだな。


 先輩の熱心さに少々引き気味になりながら、フィアは納得した。


 ただ、うなづきつつも、その頃の仕事に慣れるのに必死なフィアにとって『逢引き』なんて言葉は、あまりに縁がないことばだったのも事実だった。

 そもそも砦でのウィーゼンとの別れを経験していたこともあって、恋人と言う言葉はフィアにとっては別の国にあるような遠い言葉だったから。


 つまりフィアは、先輩からの忠告である「鉄則」を守るような出来事もなかったし、フィアの心に残る黒い髪に黒い瞳の男”ウィーゼン”をいまだ消せずにいたこともあり……自然とその「鉄則」は頭の片隅へとおいやられた。


 そうして、残念なことに……”着替え”は覚えていたものの……”洗髪”という部分を、忘れてしまったのだった。



 ――三年後に、かの鉄則の忘却を、心底後悔することになるとも知らずに。





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