act.2 ウィリアム・ローウェル2
だが、そんな龍に憧れ夢想していた私も成長し、目に見えぬ幻の存在にばかり胸躍らせているわけにはいかなくなった。
十代に入る頃に、私の剣術が目に止まり、軍人学校の道が示されたのだ。
実は、もともと剣を身に着けようと思ったのは「龍」のためだ。
龍探しのためには、冒険者か雇われ剣士となり世界を旅しなければならない……だから剣を習おう……そんな少年の夢のはじまりだった。
「龍に会いに行く夢」があったからこそ、私は周囲より真剣に真面目に剣術指南を受けていた。
こどもというものは、夢中になればそこそこに力がつくものだ。しかも、私の場合は、大柄な父の血統が色濃くでたのか、骨太で筋肉がつきやすく、体格に恵まれていた。
十代に入るころには同い年の周囲よりも頭一つ大きな身体となっており、父はそんな私の体格に目をつけて、早々に軍人学校に入れることに決めたのだった。
その頃には貴族の位と広い屋敷だけはあっても中は火の車であった経済状況のことも私は気づき始めていた。
だから、私の入学の裏に、将来私の行く部隊の特殊性により、入学時期から手をつけておきたい軍の上層部が資金援助を申し出てくれていたことを理解し、すべて父の言う通りにした。
反抗心がなかったわけではない、
だが、反抗するには、身体の弱い兄も、もう長くはないであろう母のことも、年老いていた父のことも見捨てられるほどに私は強くはなかった。
父は私が軍で特殊任務につくことをきっかけに、軍とのつながりを作り、もう一度事業の方を成功させることを狙っていたのも知っていた。
そして結果的にそれは成功し――家は保たれ、館や領地、使用人を手放さずに済んだのだった。父に流されて進む私の人生も決して無駄ではなかったのだと思う。
むかし周囲に叱られても迷惑をかけても「龍ごっこ」だけはし続けていた私だが、龍に憧れて、冒険者や雇われ剣士になって世界をめぐるなどとは、夢物語にすぎないのだということをようやくわかりかけていたのだ。
そして、それを裏打ちするように、軍人学校で繰り返し言われた。
「現実を、見ろ」
「どんなに悲惨な状況を目の前にしても、幻、空想、夢に浸るな。その逃避の一瞬は、選択の誤りとなり、命とりとなる」
「今そこにある音、匂い、気配、味、そして目に映るものに敏感になれ。そこから得る情報から、現実になりうることを割り出し、行動せよ――けっして、空想や曖昧さで回避するな」
それは一人の教師からおそわったことではなく、事あるごとにさまざまな場面で言われたことだ。
――……夢想にふけるな。
特に私が配属されることがすでに内々に決まっている部隊は、目にするもの、音や会話、匂い、味覚、すべてから情報を探る必要性のあるものだった。
人が人を殺めるために、攻め入るために何が必要で何が弱点で何が隙となるのか――それらを探るのに、結局必要なのは五感の現実なのだった。
目に見えぬ絆を信じているうちに、裏切りものに殺される。
相手の能力を見誤るがゆえに、防御を怠り、攻め入られる。
敵の偽情報を見破れなかったために罠に陥り、自軍が壊滅する――……。
生き残るために必要なこと。
勝ち抜くために必須なこと。
それらは目の前の現実のなかにある。けっして思い込みの中には存在しない……と。
肉体的にぎりぎりまで追いつめられるような体術の訓練。
水も携帯食料も最少に詰めたリュックで潜伏を訓練する生き残り訓練。
膨大な暗記量に、処理できなければ叱責と留年が容赦なくくだされる厳しい学業。
そして、実際の戦地入り実習で目の当たりにする、おびただしい量の血を前にした時のむせて倒れそうなほどの匂い。腐敗がはじまった死体の処理の苦しさ。
そうして、現実ばかりに直面しろと突きつけられるが故に、軍人学校の生徒の多くは心の安定を崩し、退学していった。
もしくは、その突きつけられつづける現実に耐えかねた心を、他者への暴力や暴言で気をまぎらわせる者もいた。性的なことにふける数分から数時間の解放に逃げ込む者もいた。
夢想や幻の存在に想いを馳せることを遮断されるがゆえに、現実の生身の痛みや快楽にふけるのかもしれない。
そのころ、私に仕え続け、私と共に同じ道を歩んでくるエドラストに尋ねたことがある。
『エディ。ここにいて、狂いそうにならないか。逃げたくならないか』
エディは不思議そうな顔をした。
『……別に、ここの生活に問題を感じたことはありませんね。衣食住は与えられていますし……。まぁ訓練はまだ小柄な私には辛いと思うこともありますけれど、仕方ないことですしね』
早くに身体が大人になった私と違い、成長期が少し遅いらしいエディは、十代後半になってようやく身長ものびはじめ、髭もはえ始めた。それでもまだ顔つきも声もまだ大人になりきっていない。
だが、その語調は私よりよっぽど達観したようなどこかすべてを突き放したようなものだった。エディは身体の成長はゆっくりな体質なだけであって、その心は私よりはるかに落ち着いていた。
『それに、私はもう仕える場所を決めていますから、逃げるという発想にはなり得ませんね』
さらりとそんなことをいう同い年の乳兄弟であり幼馴染であり従者である男を、まぶしく思った。
同時に、エディに「友として弱音を吐く場所になってもらえないか」とほんの少し期待していた自分が打ち砕かれた瞬間だった。
この時から、私は、エディとは友人になりえないのだと悟った。
彼は私を主人として仰ぎ見るし、私は主人であらねばらないのだ。
主――その立場は果たさねばならない。富めるもの、身分ある者の果たすべき役目は確実に存在し、財を持たぬ私にも、エディの主であるということは明確なことが、このときよく分かったのだ。
なぜなら、「主」たる立場を果たすために……果たせるべき人間になるために、私は生まれながらにしてエディの生母を私の「乳母」として奪う形となったのだから。
身体の弱かった私の生母が私を育てられなかったために、与えられた乳母――それはエディから母を奪うことでもあった。
エディに与えられる乳は、まず私に。
エディを抱き守るべき両腕は、泣く私をあやすことに使われた。
常にエディは私より後回しにされていた。そのことの不思議さに気付いたとき、身分というものの恐ろしさと、家の中に、いや社会の中に根付く生まれながらにして背負う道の違いについて突きつけられた。
でも、まだ夢を見ていた。私は軍人学校に入るまで、まだ夢の中にいたのだ――。
――仲間として龍になりきって駆け回ったのは、ほんのひとときの夢だったのだ。
私はかつて龍のようになりたいと思った。枯れた大地を潤すような、英雄に。
けれど、私が龍になるのではなく――私という人間こそが、龍という美しく強い、目に見えぬなにかに癒されなければならぬほどに……枯れ果てていた。
私の本質は……争いは嫌いなんだろう。戦うことも、命を奪うことも。そのことに直接加担することも。
だが、争い戦い、勝利することこそ、私に与えられた使命だった。
その使命を果たすべく、私は幼きころから、私自身すら知らぬ間に他者から富や立場や権利といったものを奪ってきたのだ。私はただ身分ある家に生まれたというそれだけで、衣食住を優先的に満たしてもらえ、あまつさえ子供の母親を乳母として奪ったのだ。
それを考えれば、逃げるわけにはいかないと思った。
愚かな私は、エディのように達観することはできないだろう。
けれど、思い込んで徹することならば……得意だ。
私は、軍人になりきる道を自らの意志でこのとき選んだ。
私は良き軍人になろう。
任務を果たし、務めを果たし、そして良き主となり、もし出世の階段をのぼるのならば良き隊長にもなろう――……。
エディをはじめ、私に仕えてくれるもの、後輩、部下、同僚を守ろう。
それが使命なのだと思い、私は軍人に徹する日々を覚悟した。
そうして、私は心身ともに迷いも恐れも夢も心の奥底へと沈めながら、年を重ねた。