act.2 ウィリアム・ローウェル(ウィーゼン)
※ウィーゼン視点。
「ウィル、ちょっといいですか」
ノックの音とともに入ってきたエディは、私の手をとり、何かを触らせた。
紙と布張りの感触に思い当たることがあって、思わずエディがいる方向に顔をあげる。
「この本は……」
「懐かしいでしょう? 午前中、本家の方に行った折に見つけました」
「そうか……。皆、元気だったか。……兄は?」
「相変わらず線は細いですが、お咳もなく顔色もよろしかったですよ。ウィルのことを気にかけていました。何が足りないものがあればすぐに用意しますと」
エディはそう言いながら、手にしていた本以外にも数冊私の枕元に置いたようだった。
「なので、この本をいただいてきました。お兄様、『まだあいつは龍が好きなのか』って、大笑いでしたよ」
くすっと笑うその気配に、私もすこし安心する。
「見事に”龍”の本ばかり、よくあつめましたよね。ウィルの”龍狂い”でどれだけ振り回されたことか」
「一緒に楽しんだだろう?」
「楽しかったといえばそうでしょうけれど……きっと、何をしていたって、あの頃は楽しかったんじゃないですか」
「……そうかもな」
本の表紙を撫でると、想い出の中の本よりもずっと小さく感じた。
「今からフィアを迎えに行ってきます。あとで彼女にわたしてみたらいかがですか。昔のあなたのことを話してあげると、喜ぶと思いますけど?」
部屋を出ていきざまにそう言い、エディは出かけて行った。
「昔の……私、か」
幼年の頃を話したりして、フィアははたして喜ぶのだろうか。
ぼんやりと自分の幼き頃を思い浮かべる。
それは、今日、エディが本家から持って帰ってきた龍の絵本や本と共にあった幼年時代だ。
****
幼年の頃。
目に見えぬ、幻の存在に憧れたものだった。
物語に出てくる妖精や幻獣、魔物。
いや、当時は幻とすら思っていなかった。己がまだ「見たことがない」だけであって、どこかに必ずいると信じてうたがわなかった。
そんな幻の存在の中でも、私が特に憧れたのは……昔語りに現れる、龍だ。
雨を降らせ、大地を潤すという存在に無性に惹かれた。「龍」をあらわす古代文字すら存在することに感激し、幼き私はむさぼるように、関連する物語を読んだものだった。
こどもが物語を読みこめば、次に訪れるのは、その憧れの存在になりきる”ごっこ遊び”が始まるものだ。私もそうだった。
絵本や物語を読み込むだけでは飽き足らなくなった私は、乳母の子であるエドラストとともに、シーツをかぶり、ひらひらと風にはためかせながら、空を飛んでいる気分になって庭を走り抜けはじめた。
龍が雨を降らせる存在と知れば、じょうろに水を注ぎ、雨を降らせながら走った。
時に水くみを失敗し、廊下を水浸しにして乳母にも執事にも叱られた。ごっこあそびで使ったシーツに泥染みをつけて洗濯婦を困らせたこともある。いたずらが過ぎると父の耳にもはいり、厳格な父からは尻に鞭というきびしい躾まで入った。
だが、それでも私は父の不在を狙い、エディをともない龍になりきって遊んだ。
それまで比較的”おとなしい子”とされていた私は、「龍」に憧れることですべてが変わった。
空を飛び、雨を降らせ大地を潤す、幻の存在。
大らかで、慈愛に満ち、水を与える知恵ある者。
そんな存在に自分もなれたらと思い、おもいつくままに真似をした。
じょうろに水をため、エディと台にのぼって降らせる。
降らせた雨は、光をはねかえしながら庭木へとたどり着く。
水をうけた緑が息を吹き返す、そのきらめき。
エディと共に、定型文句を言う。
『我が名は”青龍”。水を統べる者』
龍は美しく、強く、優しい――気高き存在。そんな姿になりきる気持ちで、幼き声で必死に重々しい口調をまねて宣言した。
風が身をつつむ。陽光が降り注ぎ、じょうろの水しぶきが我を包む。
気持ちが高まったところで、足に力を入れる。
身体に巻いたシーツをはためかせながら、高い台から足台を蹴って飛ぶ。
足裏が地を離れた瞬間、風をうけてシーツが広がる。
じょうろから残った滴が飛び散って、きらめき美しく広がるのを見て――世界の中を――飛べたような気がした。
世界を守る英雄になれたような気がしていた。
――実際は”飛び降りる”だけだが――子どもの私にとって、その一瞬は、たしかに「飛べて」いたのだ。
世界は目に見えぬもので満ちていて、きらめいて美しいものだと信じて疑っていなかった。