act.3 フィアールカ(5)
結局、二人だけになった部屋。
エディがお茶を持ってきてくれる前も、妙に静かだった二人の間が、さらにしんと静まり返ってしまった気がした。
フィアはどうしようかと視線を泳がせた。
何から、どんなことから、話していいのかわからない。
こうして沈黙にひたってしまうと、考えてみれば、ウィーゼンとフィアには、話題のとっかかりというものがないのだった。
いや、それは違うとフィアはふっと思い返した。いつも、ウィーゼンがふわりと話しかけてくれていただけなのだ。
「お茶を、もらえるか」
ふいに、ウィーゼンの声がした。
顔をあげると、ほんの少し首をかしげて、ウィーゼンがフィアの方を向いていた。
フィアは、あわてて先ほどエディが持ってきてくれていた茶器を手に取り、ウィーゼンの手に触れて、そっと持たせた。
「ありがとう。いい香りだ。フィアも飲むといい」
ウィーゼンの自然な言葉かけに甘えて、フィアは「あぁ、そうする」と返事をする。もっと気の利いたことを話しかけたい自分なのに、結局、返事から始まる会話になるのを不甲斐なく思いながら、エディの淹れた茶を手にとった。
ふたりで、お茶をすする。
少し間があいて、ウィーゼンが茶器を脇の台に置いた。視覚では確認できていないはずなのに、的確にこぼさずに茶器を置いている。慣れた範囲であれば、まるで見えているかのように過ごすことができるウィーゼンの姿を、フィアはぼんやりと見つめた。
「フィアは、髪を触れられるのが、嫌だったか?」
突然の、単刀直入な問いかけだった。
あまりに無防備にぼんやりしていたフィアは、びっくりして、ウィーゼンの顔をみて首を横に振った。
「そんなこと、ない!」
即答だった。うわずった声になったが、恥ずかしさより、焦りだった。誤解されたくなかった。
そんなフィアの顔を見えているかのようにウィーゼンは微笑んで受け止めた。
「あぁ……そうだろうな、と、思った」
ウィーゼンが不思議な返事をしたかと思うと、小さく笑った。
「うぬぼれているみたいだが……実際、うぬぼれているのかもしれないが、フィアは俺のことを好きでいてくれるのだと、なんとなく髪に触れていて、話していて……わかっているつもりだったんだ」
フィアの前で、ウィーゼンが小さく息をついた。自嘲するような息遣いで、フィアはいつのまにか自分のスカートを握っていた。
「今日、髪を結っているんだろう?」
「うん」
「……フィアが髪を結いあげている姿を想像することができないなと、思ったんだ」
「え?」
「布で巻き上げているのはみたことがあるけれど、王都の女のように、編み上げているのは見たことがないから」
フィアは、想いもしなかったことを言われて、ウィーゼンを見つめることしかできなかった。スカートを握る手だけに、ぎゅっとさらに力が入る。
何かわからないけれど、胸が苦しくて。
「我ながら……まどろっこしい言い方をしているな。……かっこ悪いな」
ウィーゼンがふっと、また微笑んだ。
フィアは突然、目が潤む気がした。次の言葉がなんだかわかる気がして、でもそれを言わせてしまってはいけない気がして……。でも、それこそ、ちゃんと自分が聞いておかなければならないことな気がして……。
たくさんの想いが突然交錯して、結局、フィアは、スカートを握りしめるだけにした。
ウィーゼンの言葉に、耳を傾ける。
「俺は……フィアを”見たい”、と思ったんだ」
「……うん」
「見えるようになりたいと、望んだ」
「うん」
「でも……見えないんだ」
呟くような最後まで聞き取って、涙がにじんだ。
フィアは、握り締めていた自分のスカートを放した。
それからウィーゼンに近寄った。
「ウィーゼン……」
呼びかけて……『ごめん』と言いかけて、やめた。
うまく言えなかった。フィアが、ウィーゼンが髪を梳くのが好きと言ったことも、薬店の匂いを帯びる髪を楽しんでくれているという言ったことも、そこにある、本当の真意――……フィアのことを知りたい、近づきたいと思っているということを……読み取れずにいたことを。あやまりたい気がした。
でも、あやまることじゃない気もした。
ウィーゼンにとって、フィアを知るには、触れて、聴いて、匂いに頼るしかないのだ。もしくは――……味わう、か。
それをどういう風にして話し合っていいのかわからない。でも、あやまったりするのとも違う。うまく言葉にできなくて、まとまらなくて、結局、フィアは冗談めかして、今日、髪を洗ってきた理由だけを話すことにした。
「……薬店には、鉄則があるんだ」
「鉄則?」
「うん。逢引きの前には、洗髪と着替えをするようにって……働きたてのころ、先輩に教わった」
「……”逢引き”?」
「うん。でも、忘れてた。逢引きなんてすることがなかったし……。だから、髪を洗う理由なんて考えたことなくて……それで、昨日、ウィーゼンに髪の匂いを言われて、その鉄則を思い出して、慌てて髪を洗うことにしたんだ。髪から薬の匂いがしてるなんて、恥ずかしくて。だけど乾ききらなくて、編んだって言うわけ。呆れた?」
フィアが聞くと、ウィーゼンは首を横に振った。
「なんとなく、そういうことだろうとは思った」
「ウィーゼンは、勘がいいから」
「いや、エディに言わせると、鈍い男なんだそうだ。……触れられず、香りもかわってしまうと、言葉が頼りなんだが……俺は、フィアには……いつも、うまく言葉で伝えられていないな」
ウィーゼンがそう言って苦笑したので、フィアは言った。
「それなら、味わったらいい」
ウィーゼンが顔を向けるまえに、フィアは思い切ってウィーゼンの首に両腕を回した。そして、ウィーゼンの頬に自分の頬を摺り寄せる。
驚いているウィーゼンの雰囲気が、拒むものでなくて、フィアはほっとする。そして胸がくすぐったくなる。
それから、さらに、恥ずかしさを抑え込んで、フィアは自らウィーゼンに口づけた。
お茶をのんだばかりだから、互いの唇が潤っているのがわかる。触れあっているところから生まれる熱。溶けていく、二人の境目。
口づけの中で、フィアは結い上げていた自分の髪の髪紐を片手でほどいた。ハラハラと髪が落ちてくるのがわかる。
ほんの少し唇を放して囁く。
「ウィーゼン……髪を梳いて」
ウィーゼンの手をそっとさすると、ウィーゼンの手が応えるようにゆったりとフィアの背中に回された。ほどかれた髪先を撫でてくれるのを、フィアは目を閉じて味わう。
優しい感触がそっと髪をゆるませていく。
編んだあとがのこる、うねる髪を、ウィーゼンの指がほどいていくのを背に感じて、フィアは『あぁ、これだ』と思った。優しくいつくしむ感触。これがウィーゼンの触れ方だ。
目を閉じていても、今、触れているのがウィーゼンだとわかる。
ウィーゼンもきっと、腕の中にいるのが、フィアだということが分かっていることだろう。薬の匂いをまとっていなくても、何色の髪であっても――……この分かち合う温度を、覚えている。
長い口づけの後、そっと告げた。
「ウィーゼン。……ウィーゼンは、私の髪を梳くのが好きと言ったが……たぶん、私は」
妙に照れくさくて、フィアは鼻先をウィーゼンの鼻先にちょんとすりつけた。
「どうした?」
「……ウィーゼンに髪を梳かれるのがすごく、すごく好きだ」
言ってから、フィアは妙に恥ずかしくなって、ちょっと身体をそらした。
だが、ウィーゼンの手はゆるまらなかった。
その日、フィアの髪はウィーゼンの手によって、編んだあとが消えるほどにいつくしまれた。
ちなみに、湿り気がなくなり、さらに手櫛によって艶やかな髪になったあたりで、まるで図ったかのように、エディによる扉のノックが響いたのだが――……ほどかれた髪について、エディが一言も触れなかったことにフィアはほっとしたのだった。




