act.1 エドラスト
・ウィーゼンの部下であるエディ(エドラスト)の話。
・フィア(本編主人公)は登場しません。
・本編読了推奨。
天に召されるそのときまで、エディは家庭をもたなかった。
エディに恋人がいた時期もあったが、終生、伴侶と呼べる人はいなかった。
エディには養子ふくめて、子という存在はなかった。
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「言っときますけど、私はフィアのこと恋愛対象としてみていませんからね。妙な気をまわさないでください」
エドラストこと通称エディがそう言ったのは、ウィルが日課にしている手足を動かす訓練をしている時のことだ。ちなみに、先日、ウィルとようやく想い交わしたフィアは不在である。
自室のベッドに腰をかけて、腿をゆっくりと上げ下げする運動をしていたウィリアム・ローウェルことウィルは、突然のエディの言葉に足の動きを止める。
エディはリネンの交換の手は止めないままに、そんなウィルを見遣った。
驚きを隠せない表情のウィルの黒い瞳と視線を合わせてみるが、その瞳は像を映してはいないことをエディは知っていた。
表情が読み取れないので気配で感じ取ろうとしてくるウィルを前に、エディは大げさなため息をつく。
「フィアと想いを告げ合うことができて以降、ウィルが微妙に私の気配をうかがったりそわそわ気にかけたり気を遣おうとしているのが不愉快です。やめてもらいたいですね。私はフィアに気はありません」
「……」
黙ったままウィルは、少し俯いた。
その沈鬱な元上司の表情をみてエディの顔は引きつった。
「……ウィル、勝手に『エディは、俺のために、フィアのことを好きでないそぶりをしてくれているのではないか……』みたいに一人悩んで浸るのはやめてください!」
最後は強く言い放ったエディに、さすがに本気を感じたのか、ウィルは再び顔をあげた。
その真剣な表情を見て、エディは内心『やっぱりこの人誤解してたのか……』とあらためて思った。
「……エディは、無理をしていないか?」
「してませんよ。ちなみに、あんなにウィルのことしか見えてない女性にわざわざ恋をするほど、私は暇じゃありません」
エディはもう一度息をついてから、ウィルの傍に立った。
抱えていた取り換えた寝具のリネンの山を脇に置き、ウィルの前で片足を床につけ、ひざまずく。
見えぬ黒目の主人は、エディの動きがわかっているかのように追い、ひざまずくエディの顔の方に的確に顔を向ける。
「ずっと私がフィアを送迎しているから、私が彼女に惚れ込んだとでも思いましたか? ”薬草師殿の送り迎えを頼む”とおっしゃったのは、ウィル、あなたなのに?」
「……他の女性に対してよりは、気にかけているし、丁寧に接していると感じたからな。好意を持っているのかもしれないと思った」
率直に思ったことを言うのは、主人であるウィルの「美徳」だとエディは思っている。
ただ、色恋沙汰に関して、主人は純情一途すぎてあまりにむず痒く感じて見ていられない時がある。
自分の好きな人を、周りの他の男も好きになっていると誤解するのは、あまりに幼稚な恋の思い込みだろう……とエディは呆れる。
恋の手練れがフィアとエディの二人でいる姿をみたら、すぐに恋愛関係ではないことを悟るはずなのだ。現に、薬店の薬師や薬草師は最初はフィアとエディの関係をかんぐったものの、しばらくすると恋愛ではなく何か他に理由があるってことを説明せずとも気づいたようだった。
つまり、それくらいにフィアとエディには甘い雰囲気が皆無なのだ。
だが、ウィルは違った。完全にエディはフィアに気があると思い込んでいるようである。
おそらくウィルはフィアに夢中になりすぎて、心の視野が狭くなっているんだろうとは思う。
エディは思い出す。自分の主人であるウィルは人間関係、物事全般に対してほとんど「特別」を作らない分、いったん「特別」ができてしまったら歯止めがきかないタイプだった。
昔、「龍」が大好きだったウィルに、いったいどれだけ「龍の物語ごっこ」、「龍を探す探検」、「龍になりきる変身」につきあわされたかわからない。連日、四六時中、「龍、龍、龍!」……異常だった、本当に異常だった。
だが、その後、成長とともに龍とくりかえさなくなり、大人になると目立って何も執着しなかった。 いつだって、ウィルは一歩引いて物事の大局を見つめるようになっていた。
どうやらそれは、単に「特別」が見つかっていなかっただけらしい。
今、ウィルは「龍」にかわる、とっておきの特別と想いを交わしてしまったのだ。
エディは、ウィルにわかるようにと言葉をかみくだいて自分の感情を説明した。
「フィアには、感謝してます。薬を用意してくれたことだけではなく、彼女はウィルに希望を与えてくれた。これは心の底から感謝していることですし、この恩はいつか返さねばとは思っています」
「……」
「多大な恩と感謝を感じているのに加えて、彼女がフィアが……成人女性にしては、あまりに生真面目で駆け引きを知らないので、世間的な心配をしていますね。これはまぁ……なんというか、妹や弟を気にかける気持ちに近いです。ただ、はっきりいいますが、恋愛対象ではありません」
なぜこんな大の男に説明してやらねばいけないのかと少し思う気持ちがあれど、エディは自分の主人が、現在、「恋愛に関する思考段階は十代思春期と大差ない」という状態だと割り切り努力した。
……いらぬ誤解は勘弁してくれ。
それが正直な気持ちだ。
「そうか。親愛の情……と思っていいのだな」
エディの説明は通じたようだった。
ウィルのことばに「はい」と返事すると、エディの目の前の男はあきらかにほっとしたような表情を見せた。ウィルもずっと気が気でなかったのだろう。恋敵が傍にいるかもしれないという状況を。
その表情に苦笑しつつ、だが同時に、エディは自分の主人が、恋しい人を恋敵に決して譲ったり身を引いたりしない人間であることも知っていた。
そう、もしエディがフィアのことを万が一にも恋していたとしたら……ウィルは悩みはするだろうが、決してフィアを囲む腕を解きはしないだろう。
ウィルという人間は自分の望みをやすやすと他者にわたすほどにお人好しではないことも、エディはわかっている。
……そもそも、気に入っている人間を傍に配置する習慣が身についてるのは、人を使う立場、上流育ちの現れ。私には無い感覚だ。上に立つ感覚がわからない私には。
エディはすこし自嘲的にそう考えながら、少しだけ主人をからかいたい気持ちになった。
なんせここ数か月、おそらく”薬草師殿”の正体に気付いているウィルは、ずっとエディのことを複雑そうな表情を向けてきていたのだ。はっきり言って、お門違いな誤解を向けられて、少々疲れ気味のエディだった。
エディが”薬草師殿”の話題をひとたび出すと、こらきれぬであろう感情が伝わってきた。エディが送り迎えで”薬草師殿”から聞いた話を盛り込むと楽しそうな顔をしたが、同時にうらやましそうな顔にも見える。
もっと話題を聞きたいだろうに、根ほり葉ほりきいてはいけないと自制するかのように話を止める主人に、じれったくて何度叫びだしたくなったかわからない。
『はやくウィル自身で”薬草師殿”に愛の告白でもなんでもして、ぶつかってください!』
と、何度も言いそうになったのを、ここは邪魔してはいけないところだとエディは耐えてきたのだ。
……ということで、溜まった鬱憤を晴らすごとくエディは、何気ないさらりとした口調で言った。
「まぁ、ウィルが心配してしまう気持ちもわかります。綺麗な人ですしね」
一瞬……ほんの一瞬だが、ウィルの眉がぴくっと動いたのをエディは見逃さなかった。予想していた反応に、にやりとエディは笑って言葉を続ける。
「フィアの同僚の薬師が言ってたんですけどね、薬店で働くフィアを見初めた男が、食事の誘いに来たことも何度かあったそうですよ」
ぴくぴくぴく。眉間に深い渓谷ができそうになっているが、どうもウィルは意志の力で抑えているようだった。
「……あぁ、ウィル、すみません。彼女がけっこういろんな男性に好意を持たれてるっていうのは、今まで報告してこなかったですね。なんせ、”薬草師殿”が”フィア”であることは伏せる約束をしていたので。でも、私が送り迎えを始めてからは、彼女にちょっかいをかける男達はいなくなったそうです」
エディがウィルの強張る表情を楽しみながらそう言い終えると、ウィルとエディの間は静かになった。
開け放った窓から鳥のさえずりが聞こえる。ゆるやかな風と共に、木々の葉が揺れる音がする。
穏やかな晴れた午後の日……だが、今、この寝室にはひんやりした空気と緊張感がただよっている。
エディはウィルがギリギリした”やきもち”を必死で抑えているらしい顔を楽しんだ後、からかうように声をかけた。
「嫉妬しました? それとも送迎を私がしていること、悔しいですか?」
「……」
身体の自由がきかなくなったウィルに対して、このように話しかける人間は珍しいのだろう。一歩間違えば、意地悪な物言いであることをエディは自覚している。
だが、エディにとってはウィルという存在は確固たる主人であり、人として仕えていく存在。逆にいえば、身体が不自由になろうが目が見えなくなろうが、ウィルがウィルであることは変わりない。
だからこそ、退役するときにウィルが言った「対等に話をする人間であってほしい」という命令にエディは従う。
からかうときにも、手を抜いたりしないのがエディの信条である。
ウィルはしばらく黙っていたが、ふぅっと息を吐いた。
「彼女に言い寄る男がいるのではないか……そう思ったことは、何度もある。この数年の働く彼女の姿を見つめた男がいると思うと……胸が焼けそうだ」
ウィルは素直に言う。エディは、
……そういうことはフィアに言った方が効果があるんでしょうけど。
と思いつつ黙っていた。
ウィルはエディの内心を知ってか知らずが話し続ける。
「それにお前が言うように、彼女の送り迎えができるエディのことをうらやましいとも思う。この身体が自由に動けば……そう思うことも、やはりある。エディとフィアで、フィアの正体を隠す……そんな約束が交わされていることに、ものすごくやきもちをやく自分もいる。今、正直、お前に腹が立っているくらいだ。もちろんお門違いなのはわかっている」
自分のくやしさをさらりと口にする主人に、エディは次は心の内で舌打ちした。
隠したいことをさらっと話せるのは、器が大きいからだ。こういう些細なことにすら、きちんと受け止められるウィルという主人には、結局エディはかなわないのだ。
……さらりと本音を言えてしまうところが、知らず知らずのうちに他者の心をつかむ。本当に、生まれもっての人たらし。
ついつい悪態を心の内でつきつつ聞いていたエディ。
だが、次の言葉で息を詰まらせた。
「けれど、私の最愛の人であるフィアールカを任せられるのは、エドラスト、お前だけだ」
……最愛の人を任せられるのは、お前だけ。
息が止まってしまったようになったエディの前で、ウィルは泰然とそこにいる。身体に毒の痛みを抱えたまま、ただそこで自分の愛する人を想っている。自分の腕では「物理的」に守れなくなったその人の身を案じている。
エディの目からみて、ウィルは決して自嘲的な表情ではなかった。自分の動かぬ身体を恥じるだとか、負い目を感じるだとかして、まわりをやっかむとか劣等感に陥るとか……そういう表情は微塵もなかった。
ただ穏やかに笑む、ウィルがいた――。だから、エディは再び、感じた。
……『あぁ、この男には敵わない』と思った。
「エディなら、腕はたしかだ。どんな暴漢が来てもフィアを守るだろう。私が守り切れぬ、その道中を、彼女の暮らしのあれこれを、エディの腕と知恵ならば助けてくれると信頼している」
真正面からそう言われて、エディは二の句が継げない。
そんなエディの詰まらせた息を理解しているかのように、ウィルは言葉をつづける。静かに。
「……そして、今後、たとえエディがフィアを愛し、私から奪おうと考える時があったとしても……お前は、フィアの命だけは狙わない」
確信したように話すウィルに、エディはそれまでのウィルをからかう気持ちをすべて忘れて、ただ唇を噛んだ。
……「フィアをねらうな」その命令は、かつて「砦」で下されたもの。そして自分はそれを受け入れた。
受け入れたのならば従い続けるのみ。
たしかにその想いはエディにあった。だが、ウィルに言ったことはない。
なのに、ウィルは「昔の指示」が「今」もエディの中にきちんと息づき、エディがそれを「果たし続けて」いることを、ウィルは知っている――主人として。人を従える者として、的確に。
主人が使用人の働きを知り、正当に評価し信頼する……それは簡単なようでいてなかなかできないこと。それをやってのけるからこそ、ウィルという人間はいつまでも人を魅了するのだ。
エディは小さく唇を噛んだ。かなわない悔しさも、信頼されている喜びも、なにか一つに割り切れることではない。ただ、エディがあらためて思うのは。
……本当に、本当に、ほんとうっに! この人は、生まれ持っての”人たらし”だ!
内心大いになじる。
そして、なじりはするが、エディもまた幼い頃からウィルに仕えてきた自分を今更変えようと思っていない、つまり「無意識の人たらし」にたらしこまれた側なのだ。
「信頼してもらえて、嬉しいですね」
さして嬉しくもなさそうな声音を作りつつ、エディは口早に言って、そそくさと脇においていたリネンのシーツやカバーが入った籠を抱えた。
……せっかくからかおうと思ったのに、こちらの方が面食らう言葉をもらってては楽しくない。
エディは籠を持って立ち上がり、早々に、
「無駄口が過ぎました、洗濯夫がそろそろ来る頃ですので、リネンを渡してきます」
と言って、立ち去ろうとした。
だがそのとき、
「エディ」
と、ウィルが名を呼ぶ。
呼ばれれば使用人は立ち止まるしかない。主人の声を聞くしかない。
「……なんです」
「もし”薬草師殿”が……あの”薬草師殿”の方がエディを愛してしまったらと考えたことがある」
仮定でも他の男と愛し合う可能性に「フィア」という名を言いたくなかったらしいウィルに、少々呆れつつエディは「それで、どうしました」と先を促した。
「……もし薬草師殿がエディを愛しても、私は渡せぬと思った。相思相愛であっても、渡せぬ、と。だが、そう思ったところで、どうしようもない。動かぬ身体も、見えぬ目も」
エディは籠を持つ手に力が入って、籠を潰しそうだと感じた。
「だが、どうしようもなくても、私は認めぬだろう。たとえ駆け落ちされても、私の心はきっと認めない。認めないし、手をつくして、”薬草師殿”を自分の元に引き留めようとする自分がいるだろうと思った。……どんな手をつかっても」
ウィルの言葉に、エディはため息をついた。
「……牽制しても無意味です。先ほど言ったように、私はフィアを恋愛対象としてみることができない」
「それを聞いて……正直、とても安心した」
本当に安心したように言うウィルは言った。それからエディの前で、ウィルは少し考えこむような表情をみせてから、何かを決心したように言った。
「ただ、フィアとのことは理解したが……。エディ自身のこの先のことだが。お前が添い遂げたいと思う人が現れたら……今のように私に四六時中仕えているような状況では新生活は無理だろう? もし……もしお前に愛する人ができて、ここを離れて暮らす必要がでてくるとか、どこか稼ぎの良い仕事先が必要ということならば、そこを選ぶことをどうか躊躇しないでくれ」
ウィルの静かな声は、エディに、エディの人生の歩めと告げていた。
……この人は、本当に、どこまでも「お坊ちゃま」だ。
エディは光を映さぬウィーゼンの顔を少しのぞきこんで、睨んだ。
睨んだとしても、彼はエディの顔は見えない。
ただ、きっと、殺気は感じ取るだろう。
「……私は、フィアのような華奢な女性ではなく、肉付きの良い女が好きですよ。面倒見がよくて、こちらが黙っててもいろいろずっとしゃべっててくれるような人が好みですね。……そういう女は、世の中にいっぱいいるだろうし、この先、何かの縁があって付き合うかもしれないし、恋を楽しむかもしれないし、私も結婚を考えるかもしれない」
静かに静かに冷え切った声で、エディは言った。語る内容は甘い未来なのに、その声は磨かれた剣のように鋭い。
「けれどね――、それは『主』あってのことです」
「主……」
「そう主あってのこと、なんですよ。『主と、主が愛する者』に仕える私のこの生活を、受け入れ理解しない女を、私は髪一筋も望まない。この私の生活そのものを理解しない人間と、生涯を共にする意味などない」
「それでは……エディ、エディの人生はどうなる」
ウィルの言葉に、エディは深くため息をついた。
「世の中にはね、太陽のように自らが輝き生きる性質の者と、輝く者に仕えてその光に照らされることでいきていく月のような者がいるんですよ。私は後者です」
「なんだそれは」
「あなたにはわからないことかもしれません。ただ、仕える者の本気ならば幾度も目の当たりにしたでしょう? あなたはお育ちの伯爵邸に仕える者たちは、真剣に身をささげる者が多かった。零落した時期を支えた執事は? メイド頭の仕事を理解せぬ夫を早々に離縁したマーサのことは? 我が子の私よりも、乳から怪我の手当からすべて貴方を最優先にした乳母のことは? あなたはどう思いますか。皆、本気でしたでしょう。生涯を『他者』にかけることに寸分の迷いもなかったでしょう」
主従――それは狂気の沙汰なのだろうか。
けれど、それがあるからこそ、例えば、激戦区の鮮血も抉られた内臓も飛び散るような戦場であっても、饐えた匂いが充満する牢獄であっても、生きようと目指すことができる――主がいるから。主の元に帰ればいい、ただ、そう思えば存在意義が保たれる――。
そういう追い詰められた者の心の置き場は、やはり存在する。
拒まれても、理解されなくても、存在はするのだ。
「あなたは、そこにいてかしずく者たちを魅了する姿でいればいいんです。身体が傷だらけだろうが、目が見えなくなろうが……。仕える者にとっては、光になる。……それはきっと重い責務でしょうが、あなたはそれができる人だ」
エディがさらりとそういうと、ウィルがエディの真意を問うようにじっとエディの顔を見た。
エディはそれ以上なにも言わず、ただ見えぬウィルの目を承知でにっこりと笑い、「失礼します」とエディは今度こそ、ウィルに背を向けた。
「……仕え続ける……。それで、いいのか」
背にかけられた声に、エディは立ち止まる。
迷いもせずに、こたえる。
「それが、いいんです」
「……」
「恋や愛に人生を捧げる者もいる。歌に芸術にすべてをつぎ込む者もいる。私は……主に仕えるのが己の道だと思っている。人それぞれ、でしょう」
エディが告げると、しばらくウィルは黙っていた。
それから腹の底から吐くような深いため息をついた。
「ならば、思いぞんぶん、フィアを守って支えてやってくれ……フィアの心は奪わずに」
ウィルがそんな風に言ったので、エディは肩をすくめた。
「フィアの身も心も、ほんの隙間もないくらいあなたで埋め尽くしてるくせに何いってるんですか。ね、 ”ウィーゼン”?」
主人が恋人から呼ばれる愛称をわざとよびかけて盛大にからかうと、エディは今度こそ、主の部屋を後にした。
****
エドラストは、あくまで陰としてフィアとウィルを支え続けた。
そうして。
長い年月を経て。
彼の「主」と「主の愛する者」を最期まで見送った彼は、病床についた。
エドラストもまた、いよいよ天に召されるという時、身寄りのない彼の傍にたたずみ、彼のしわくちゃの手を取ったのは――……。
「主」の黒い髪、「主の愛する者」の紫の瞳を引き継いだ者。
「……ありがとう。お父様とお母さまと、私を……この家を支えつづけてくれたことを感謝しています」
ほっそりとした女の指先が包む、皺の寄った老いた働き者の手。
その皺のある手は、返事するように数回動く。
だが、その動きを最期に、そのまま力を失ってゆく。
動かなくなった手に、透明のしずくが落ちた。
乾いた皺の肌が潤う。
ぽたりぽたりと落ちる滴は、手の甲に受け止めきれず粒となって流れてゆく。
「エディ……いつか、私がそちらにいくときは、ちゃんと迎えに来てね」
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天に召されるそのときまで、エディは家庭をもたなかった。
エディに恋人がいた時期もあったが、終生、伴侶と呼べる人はいなかった。
エディには養子ふくめて、子という存在はなかった。
けれど。
彼には、主が、いた。
生涯つかえる、主がいたのだ。
それで、彼は、十分に、幸せだった。
fin.