♯7 追手
小鳥達の賑やかで騒がしい歌声に、亜麻色の髪の女性――エレノアは目を覚ます。黒檀色の机から頭を上げ真向いにある窓を見ると、白く眩い日差しが室内に差し込んでいた。大きく欠伸をした彼女は椅子に凭れかかると天井へ伸ばした両手の指を絡ませて、高く唸りながら伸びをする。
席を立つと彼女は部屋の右奥へと歩き、扉を右手で引いて開け、灯の消えた寝室へと入った。
薄暗い闇の中。エレノアは浅葱色のドレスを脱ぎ、それをベッドの上に置いた。そしてその場に屈むとベッド下の引き出しを引き、彼女は浅緑の無地に孔雀青の襟のポロドレスを取り出した。ポロドレスを頭からかぶると右、左と腕を袖に通し、スカートを下ろし皺を伸ばす。
肩甲骨よりも少し下まである艶やかな亜麻色髪を解き、髪を括っていた黒茶の紐を唇で挟む。左手を頭の後ろに、右手を左肩の前に持って行くと髪を左肩より少し後ろに集め、咥えていた紐で柔らかく纏める。
引き出しを戻し、部屋を後にしようと扉を押し開けた時、玄関の扉を打つ音が聞こえた。
「あら? 昨日の二人かしら」
村落に居るのは、エレノアただ一人である。それゆえか、突然の来客に彼女は首を傾げた。が、昨夜の青年が再び来るかもしれないと言い出て行ったため、彼女は何の警戒もしなかった。昨夜の事を思い出したのか眉尻を下げ、彼女はしばし俯いた。そしてそれを掻き消すように首を左右に何度か振ると、長く深く息を吐く。
寝室を出、テーブルの傍に立ち止まると、彼女はすっかり冷たくなった紅茶をティーカップに注ぎ、それを一気に飲みほした。香りよりも苦味と渋みが口に広がり、彼女は思わず顔を歪めて舌を出す。しかし、口直しを用意する暇はない。仕方なくテーブルにカップを置き、彼女は入口の扉へと向かった。
上着掛けにかけていた白衣を手に取ると彼女はそれを華麗に羽織り、袖に通した腕で下襟を引き襟元を整える。扉の右に右手をつき、彼女は左手でゆっくりと扉を押し開けた。壁と扉の間の景色、外壁の剥がれ落ちた家を後ろに立つのは、予想していた人物とは異なる者だった。
眼前の見知らぬ客人は、朽葉色の波状毛を持ち、銀縁の眼鏡をかけ、白地に錫色の格子柄のシャツに香染のベストを着用している。にこやかに笑む顔は好青年的な印象を与えてくるがどこか狐のようだ。エレノアは見知らぬ人物に気を張り詰め、客人に冷たい視線を送る。
「おやおや、白衣なんか着て。天使気取りですかね?」
口角を歪に上げ薄目を開き、客人の男は嘲るように言い放つ。弓形に歪められた目に警戒心が頂点に達したエレノアは勢いよく扉を閉め、逃げるために玄関扉から離れる。寝室へ続く扉の取っ手を掴もうと右手を伸ばした瞬間、彼女の背後で巨大な音がした。何事かと振り向いてみると、玄関の木扉が大男の持つ大槌により粉砕されている光景が目に映った。
戦慄するエレノアの家に盗賊のような風貌のやつれた男が侵入し、入り口左の飾り棚に並べられた、乾燥した草の入った小瓶を次々に床に落として行く。その行動に激高し、エレノアは小汚い男に掴みかかる。
「なんて事してくれるの! 私が、私の父さんが、私達亜麻毛の民が、町の人々の病気を治療する為に、どんなに苦労して収集して、どんな思いで研究してきたと思ってるのよ!!」
これまでのすべてを目の前で壊された悔しさに歯を喰いしばりながら、エレノアは怒りと悲しみの眼差しをすぐ前の男に送る。吊り上げられた目には涙が溢れ、色白な肌は赤くなっている。充血する白目の中で滲み潤む琥珀の双眼に、盗賊風の男は動揺する。細くしなやかな両手で胸倉を掴まれている男は、目の前の女性の涙を拭おうと、垂れたまま強張らせていた右手を目の前の女性に伸ばそうとした。
盗賊風の男の頭が爆ぜ、骨と肉片が飛び散った。鮮血がエレノアの肌とドレス、そして白衣を血紅色に染める。事をすぐ目の前で目の当たりにした彼女は、血の気の退いた顔で後ろを向く。
エレノアの真後ろに居た客人は、とても柔和に笑んでいた。立ったまま動かなくなった首なし死体に向けられた客人の右の人差し指の先端からは、白い煙が細く立ち上っている。
「仕事に情など不要。悪人に心が揺らいだのが悪いんですよ」
客人は淡々と言葉を紡いだ。そして革靴で床を踏み鳴らしエレノアに近寄ると、彼女の細い腕を白衣の上から強く掴む。歯を喰いしばるエレノアに敵意の目を向けられるが、客人はなおも穏やかな笑みを崩さない。
「大いなる神を侮辱する者、ウィッチ=エレノアよ。来ていただけますね?」
* * *
太陽が東の空に輝く頃。白銀の長髪を靡かせる青年――ハーヴェイは、エレノアだけが居る荒れた村落をめざしていた。右肩に乗る黒い翼の小さな天使はエレノアに会うのが嫌なのか、進行方向とは逆に飛び立ち逃亡を謀る。しかしハーヴェイに捕らえられ、黒のトレンチコートの中に入れられた。
「昨夜時点で利用価値も手を貸す必要性もなさそうな、礼儀知らずに会いたくはない」
不服を唱え低く唸る天使を無視し、ハーヴェイは川沿いの道を往く。川は日に照らされて美しく煌めき、澄んだ水の中で数匹の小魚が悠々と泳いでいる。実に平和な景色を歩きがてらに眺めながら、ハーヴェイは静かに微笑んだ。
穏やかな川の水面、手のひらほどの範囲円形に小さな泡が無数に現れ、それらが消えると同時にそこに何かが浮かんだ。ハーヴェイは小首を傾げ、現れた物体に目を凝らす。
物体の正体は一匹の魚だった。それは胴体の片面を天に向け、浮かんだまま動かない。他に浮かんでいる魚はない。澄んだ川でたった一匹が、何の前触れもなく死に、浮かび上がった。
心の中で何かがざわめき、ハーヴェイは血相を変えた。
「嫌な予感がする……。まさか……」
某日の赤い惨劇が脳内を駆ける。彼は背筋に悪寒が走るのを覚え、全身に鳥肌が立つのを抑えられない。
震え立ち竦む彼の顔を襟元から顔を出す天使は見、軽く握った小さな手でハーヴェイの左胸を打つ。暑さに寄るものでない汗を滝のように流すハーヴェイを見据え、厳しくも落ち着いた調子で天使は言う。
「呼吸して落ち着け。そして落ち着いたまま急げ」
前髪の間から覗く額に冷たい汗を伝わせながらも、あくまで冷静な光を放つ紅い眼に促され、ハーヴェイは大きく息を吐く。目を瞑り天を仰ぎ、鼻から爽やかな空気を肺に取り込み体中に巡らせる。正面に顔を戻しゆっくりと持ち上げられた瞼の下に覗くのは、ある程度の平常心を取り戻した空色の双眼。
立ち止まっている暇はない。己に言い聞かせるように小さく呟くと、彼は村落へと駆け出した。
昨日紅茶を飲んだ家が、もう目と鼻の先にある。そのまま走れば目的地だという所で、ハーヴェイは急に停止した。エレノアが一人で住む家の扉が、不用心にも開いたままだ。眉を顰めしばらく見ていると、家の中から二人の男が現れた。一人は黄枯茶の波状毛を持つ男、一人は扉の上から頭が見える筋骨隆々の大男。
「こら、離しなさいよ! 私は行かないわ!」
扉のほうから、聞き覚えのある声がした。驚いたハーヴェイは玄関扉に注目する。白茶の扉の向こうに見えた者。それは、太い腕に後ろから両腕を拘束された、白衣を羽織り、亜麻色の長髪を後ろで結わえた女性――エレノアだった。
天使は無数の黒い羽根となり、ハーヴェイを中心に旋風を起こす。白銀の髪の間から覗くハーヴェイの眼は紅く染まり耀いている。彼の左手に集まる漆黒の羽根は徐々に形を成して行き、一本の闇色の剣となった。両の膝を深く曲げ、籠った力で地面を蹴る。背から漆黒の羽根が一対生え一つ羽ばたき、ハーヴェイの体は上昇する。その勢いで空中を翔け、彼は扉の上に止まった。
視界の端に現れた一人の青年に大男は息を呑む。一方エレノアは扉の上辺に立つ『黒翼の天使』を見上げ、少々安堵したように口元を弛ませる。ハーヴェイは左手に持つ剣を眼下の大男の喉元に突きつけ、冷然たる眼差しで言葉を紡ぐ。
「その女を、エレノアを離せ。さもなくば――」
言葉が終わるより前に、銀鼠の杭がハーヴェイの腹を貫く形で現れる。傷口からは鮮血が滴り、口から命が溢れ出る。ハーヴェイは目を見開き、そのまま後ろに倒れ扉の向こうに消えた。
重い物が地面に落ちる音がする。希望を見つけたエレノアの顔からは血の気が一気に退き、涙が溢れ止まらない。何度も頻りにハーヴェイの名を呼びながら泣き叫ぶエレノアを横目で見、朽葉色の髪の男はほくそ笑む。
「神に仇なす者はすべて敵だ。特に貴様はな、ルシフェル……」
その場に居る、己以外の誰にも聞こえないくらいの声でそう呟き、今度は眉根を寄せ厳しい顔をする。
嘆く声の響く中、男は一人蒼天を仰いだ。