♯6 セラム郊外
トンネルを背にして右手のほうに、崖の下に続く道がある。その幅は人二人分ほどで、片側は崖、もう片側は所々道が崩れている。そのため亜麻色髪の女性は、道の中央を歩くようにと青年に指示を出した。
女性の後ろを歩き村落へ向かう道を往きながら、白銀の髪の青年は天を仰ぐ。外へ出た時に見た碧空は黄色みを帯び、その中を漂う積雲は西日を受け支子色に染まっている。その光景に青年は、まるで遠い過去を懐かしむように目を細くする。
青年が上の空で歩いていると、不意に黒衣のベルトを何者かに掴み引かれた。驚き振り返ってみると、前方を往くはずの亜麻色髪の女性が呆れたように青年を見ていた。
「何やってるの、ちゃんと前を見て歩きなさい」
彼女の声に足元を見ると、遥か下に流れる小川が目に入った。もしも、もう半歩踏み出していたら――。青年は自らが寒気立つのを感じ、そして胸を撫で下ろす。
自分の不注意に微苦笑し、青年は女性のほうに向き直る。
「引き止めてくれて、ありがとうございました」
それを聞くと、女性は再び進み出した。そして青年はその後に続く。今度は虚空を見つめずに、青年の髪よりも少し高い位置でまとめられた、揺れる亜麻色の髪を眺めながら。
白銀の髪の青年の右肩に腰掛ける、青年と酷似した容姿の小人は、青年の頬を小突き、声を低くして問う。
「いったい、空に何を思っていた?」
それに青年はうら悲しいような笑みを返し、そして視線を地に落とす。そのまましばらく項垂れたのち、少々湿気の残る冷たい空気を一息に吸い込み、白藍色の空を仰いだ。
「今まで見てきたのと同じ空のはずなのに、なんかこう、違う空だなぁ……、と」
何かを懐かしむような眼差しで、青年は遥か彼方の空に見入る。哀愁を帯びたようにも見えるその横顔を、小人は静かに見つめていた。
* * *
紺色の空に星が瞬き始めた頃。亜麻色髪の女性の家を目指し、一行は村落を東西に走る土道を歩いていた。道中、不揃いな石煉瓦でできた外壁を破壊されている家屋が数多に見られた。その度合いは薄暗がりでもはっきりとわかるほどであり、また害を受けた家の数は全体の九割を超えている。その事に白銀の髪の青年は首を傾げ、前方を行く女性は顔を俯ける。
程なくして、先頭を歩く女性は立ち止まり、後ろに居る青年の方を振り返る。
「さて、着いたわ」
彼女は三段ほどの石段を上り、白茶に塗られた木製の扉を開き家の中に入ると、扉を開けたままで青年に中に入るように促す。それに青年は会釈を返すと、外套の埃を払い、地面を蹴り靴裏の土を落とし、女性の家にそろりと上がる。
入ってすぐの部屋は白熱灯の光に包まれていて、中央に黒檀色をした二本足のテーブルが一卓と、同じく黒檀色の椅子がテーブルを挟んで二脚あった。室内は目立った損傷はなく、そのかわりに何人かに部屋中を無計画に歩かれた痕跡がある。
「はぁ。埃一つ残らないくらいに綺麗にしてたのに」
亜麻色髪の女性はそうぼやく。その顔はまるで苦虫を噛み潰したようだった。
女性は水の入ったケトルを火にかけると一度外に出、白衣についた土や埃を払い落とし、白衣を腕にかけた状態で家の中に戻る。身に纏う浅葱色のドレスはヒダのない至って簡素なもので、襟元にのみ勿忘草色のレースがあしらわれている。
「そのコート、ここにかけておいてね」
彼女は入り口に向かって左の上着掛けに白衣をかけ、白銀の髪の青年を見てそう言った。青年は黒のトレンチコートの襟を左手で掴み、しばし顔を俯ける。そして顔を上げた彼は、眉尻を下げて微笑む。
「申し訳ないですが、このままで居させてくれませんか?」
青年が脱ぎたくない訳を説明する事はなかった。しかしその事に何かを感じたのだろう、女性はそれに同意した。
入って右の壁にあるアンティーク風の食器棚から、桃色の薔薇が描かれているティーカップを三つと、同じく桃色の薔薇の絵があるティーポットを取り出した女性は、何かを思い出したように青年のほうを見る。
「そうそう、助けてくれてありがとう。良ければ名前を教えてくれない?」
青年はにこやかに頷くと、口を開き言葉を発そうとする。しかしその瞬間、右肩に座っていた白銀の長髪を持つ小人が青年の視界を埋めつくした。青年が驚いている隙にコートの中へ入り襟元から頭だけを出すと、小人は悪感情を持っているような眼差しで女性を睨む。
「お前に私の名を教える気はない」
その言葉に苛立ったのか女性は小人を睨み返す。そして彼女は溜息を吐くとテーブルの上に食器を置き、小人を小馬鹿にして言った。
「もしかして、私のせいで見つかったから名乗らないの? 原因はあなたなのに」
確かに、街で数多の兵から逃げていた時に女性が悲鳴を上げたのは、青年の襟元から突然飛び出した小人の頭に彼女が驚いたからだ。それは事実に相違ない。違いはないが、しかし。
小人は瞼を閉じ一呼吸すると、落ち着いた調子で静かに言う。
「私が原因なのは認める、済まなかった」
女性を前に、小人はゆっくりと頭を下げる。それを見て得意になっているのか小人をせせら笑う女性に、小人は長く息を吐く。そして静かに顔を上げ薄目を開けると、はたと女性を睨みつけ、語調を強め言い放つ。
「だが、お前にも責任はある。それを認めないならば、私は名乗る義理さえない」
そして青年の襟元から後ろ襟に移動し、黒き双翼を羽ばたかせ、小人はそこから飛び立った。入口の壁、扉の右に止まり扉を押し開けると、小人は外の暗闇へ消えて行った。
小人の発した声は、女性だけに向けたわけではないような、怨嗟と悔恨の混ざったようなものだった。その事が気がかりなのだろう、青年は眉尻を下げ入り口を見つめる。そんな彼の後ろで、女性はティーポットに茶葉を入れ、沸点から少し冷めた湯をケトルを回しながらポットに注ぐ。
「ごめんね。わかってるの、私が悪いのは」
静かに、呟くように彼女は言った。ティーカップに紅茶を淹れ、その香りを彼女は寂しそうに味わう。
二人きりの静かな部屋で、青年は室内を見回した。黒檀色の食器棚には、白に金縁、桃色の薔薇の絵が描かれた時期の食器が並んでいる。キッチンのワークトップは白色で、キャビネットは食器棚と同じく黒檀色。白い壁のその部屋は、床、柱、家具のすべてが黒檀色をしていた。
何かに気づいたのか、青年は食器棚の向かいの薄型棚に近寄る。段には割られた硝子瓶が雑多に置かれており、床を見ると硝子片や、大部分を踏み躙られ粉々になっている乾燥した植物が散らかっていた。
「その棚に置いてた物はね、傷薬とか、飲み薬とかなのよ」
悲しそうな声が青年の耳に届いた。振り向く青年の眼に映った亜麻色髮の女性は、哀切な笑みを浮かべていた。
薄型棚の左に窓を見つけた青年は、そこから空を仰ぎ見る。小人が出て行ったのは夜のはじめ頃だったのだが、今は濡羽色の空に数多の星が散りばめられていた。
女性に断りテーブルの上の冷めた紅茶を一杯飲み干すと、青年は入り口へと向かう。それを留めるように、女性は言葉を発した。
「私の名前はエレノア。天使さんに、ごめんなさいって伝えておいて」
思いの篭った声に青年は足を止め――『天使』という言葉に口元を緩めた。
彼は振り返るとにこやかに笑む。
「僕の名前は、ハーヴェイです。伝えておきますね、エレノアさん」
そう残し、白銀の長髪を持つ青年ハーヴェイは、亜麻色の髮の女性エレノアの家を後にした。
* * *
満天の星の下、村落を見下ろす崖の上。漆黒の双翼を背負う小人は、星々の薄明かりに白銀の長い髪を照らされていた。
砂を踏みしめる音が聞こえたためにそちらを見ると、空色に輝く双眼が小人を見下ろしていた。
「ここに居たんですね。探しましたよ、ルシフェル様」
安心したような青年の声に、白銀の髪に黒翼の小人――ルシフェルは視線を前に戻す。その態度に対し困ったように笑うと、青年はルシフェルの左に腰掛けた。
「亜麻色の髪の女の人……、エレノアさんというらしいです。ごめんなさいって言っていましたよ」
ルシフェルに並び夜空を見る青年は、ルシフェルに視線を向けずに言った。ルシフェルはそれを聞くと、安堵したような息を漏らす。
「過ちを過ちと認めない奴は苦手なのだが……。そうか、認めたのか……」
どこか嬉しそうな声のルシフェルを見、青年は静かに微笑む。
「あと、『天使さん』と言っていました」
その言葉に小人は青年のほうを向き、対し青年は静かに微笑み頷いた。
彼女――エレノアは確かにそう言った。という事は、ルシフェルの後ろ姿を見たのだろう。白銀の髪に漆黒の羽。魔女狩りの都市セラムにおいて『悪魔』と呼称されるその姿を、エレノアは確かに『天使』と呼んだ。
常に無表情で冷徹な雰囲気を醸し出すルシフェルは、この時はさぞ恥ずかしそうに顔を背け、そして幸せそうに微笑んだ。
そして天使は、目前に昇る二日目の下弦の月を眺めながら、とある歌を口ずさむ。それは神への復讐者には似つかわしくないキャロルだった。それに青年は首を傾げるが、幸せそうな天使の横顔に彼は、天使がその歌に嫌悪の念は抱いていないと知った。
そして青年は天使に微笑むと、月を見つめ賛美の歌に聴き入った。