♯5 追われる身
亜麻色髪に白衣の女性は、急に体を倒され目を閉じた。静止したのを感じ彼女が目を開くと、そこには蜘蛛糸のような髪が逆光の中輝いていた。視界の半分弱を占め光を遮る影は、どうやら若い男性の顔のようだ。影の中で陽に照らされたように煌めく空色の眼を持つ彼はほっとしたように目を細め、とても穏やかに微笑んでいる。
手を弾かれた拍子に後ろへ倒れた兵士は、石畳に打ちつけられた背を鎧越しに擦りながら起き上がった。兵士は黒尽くめの青年が、標的を抱きかかえているのを目撃する。状況を理解しきれずに目を丸くしていた兵士だが、とある事に気がつくと目を剝いて驚いた。走ればすぐに追いつく事が可能であろう距離に居る、女性を横抱きにした青年の髪。その色は硝子でできた繊維と見紛うほどに透き通った、白銀だった。
「あ、悪魔だ! 悪魔が魔女を、助けに来たぞ!」
兵士は額に汗を伝わせながら、声を上げた。それに青年は自分の頭を触ると、帽子がなくなっている事を知り口角を引き攣らせる。青年は女性を抱えたまま駆け出して、一番手前の十字路を左に曲がった。
「お、おい、起きろ! 亜麻色が逃げ出したぞ!」
兵士は左右で伸びている同僚を起こし、三人で手配者を追う為に走り出した。
後方を走る兵達を少しずつ引き離しながら、黒衣の青年は静かに呟いた。
「悪魔……、か」
白銀の髪を持つ者は、バベルという名の孤児院では『堕天使』と言われていた。それがここでは、『悪魔』と呼ばれている。その事が気に食わなかったのだろう、彼は密かに眉根を寄せた。
神話という物語の影響を多大に受けたあの場所と、魔女と魔術に関する迷信が蔓延るこの場所では、最も重要とされる物が違う。それゆえに呼び名も異なるのだが――堕天使と、悪魔。立場が『神に仇なす者』というのには相違ないのだが、神話世界において、二者の行動原理は異なった物だった。
堕天使は、神への復讐心に静かに燃える者。悪魔は、人々を巧みな言葉で惑わす者。一般とされていた物語の中では、そういった違いがあった。それは彼が知る限り変わりはしなかった。修道女が伝える話でも、図書室の奥のあの本でも。
「……なんだか、一気に堕ちた気分だなぁ」
そう言い、青年は苦笑した。後ろの下方でまとめられた髪を巻雲のように靡かせて、彼は女性を抱えたまま、誰も居ない通りを疾走する。
大通りを突き進み通りに入り、脇道に逸れては再び通りに出、東西南北縦横無尽に、碁盤目状の都市を駆け廻る。しかし青年は、追手を撒く事はできないでいた。
彼が人を抱えているという事もあるだろうが、それはあまり重要ではなかった。確かに、女性の重さにより、何も持っていないときに比べ彼の走る速さは遅くなっている。が、それでも、初めの三人の姿はとっくに見えなくなっていた。
逃げ延びる事が難しい理由。それは、追手の数の多さだ。昨晩の脱走者を捕らえる為、全ての兵士が駆り出されている。その数、ざっと三百。とてもではないが、一人の逃走者に対する数としては多いだろう。
また、外出している住民の姿はどこにもない。昨日の昼のように少しでも外に人が居たのなら、服装を変えさえすれば、髪の色を知られない限り紛れる事ができただろう。しかし今、この城郭都市セラムにて屋外に居るのは、青年らと兵士達のみ。そのため仮に変装しても、すぐに暴かれてしまうだろう。
「まったく……、よくここまで逃げ場をなくせるね、本当に……」
青年は感心したようにそう言った。そうする暇はないというのに、彼はそうせずには居られなかった。
女性は横抱きにされたまま、青年の顔を仰ぎ見る。彼の肌はきめ細かで不自然なほどに真白く、まるで雪のようだ。眼は見る事はできないが、兵士から救出された時に透き通った空色の双眼を見、彼女はとある物を思い浮かべていた。それは純粋と調和の言葉を秘め、透き通る水を意味する名を持っている。
彼女が青年を見つめていると、彼の胸元から、頭がひょっこり飛び出した。それは青年のように白銀の髪を後ろ下で結わえている。
「逃げ切れるのか?」
それは駆ける青年を見上げ、話しかけた。それに青年は、困ったように笑う。
「難しそうですが、逃げ切らないわけにはいかないですよね」
その言葉にそれは、当然だというふうに頷く。しかしそれは青年の言うように困難であり、このままでは捕らえられる事は目に見えている。
それは深い溜息を吐き、どうしたものかと顔を顰める。そして何を思ったのか、それは亜麻色の髪の女性のほうを向いた。
「女、お前はどう思――」
それの言葉がそこで詰まった。それの眼に映ったのは、白衣の女性が困惑の笑みを浮かべたまま固まっている姿。女性は今にも叫び出しそうだ。
どうしていいかわからずに困り果てたような顔で、それは紅玉に似た双眼で女性を見つめる。そして頬に汗を伝わせると、それ青年の服の中に引っ込んだ。
が、その直後の事だった。
「き……、き……、きゃああああ!」
女性の叫び声が、城郭中に響き渡る。ひとしきり叫び終えた彼女は両手を口で塞いだが、既に手遅れだ。場所がわかったという趣旨の話声が、あちらこちらから聞こえてくる
青年は女性の顔を覗き込んだ。その顔には少しばかり焦りが見える。彼は困ったように笑う。
「何をやってるんですか。見つかってしまいましたよ?」
「だ、だって、ちっちゃい頭が……!」
青年の言葉に、女性はそう言い訳をする。それに青年は顔を少しばかり上に向け、そして呆れたように溜息を吐いた。
『小さな頭』の正体。それは青年にとって、今、最も身近な人物だ。彼は胸から顔を出したその人と会話するという事に慣れ切っていた為に、その光景が不自然なものだという事をすっかり忘れていた。
「次からは少し、気をつけてくださいね、小人さん」
苦笑しながら、青年はそう呟いた。女性の悲鳴の原因となった小人は青年の後ろ襟から、目から上を出していた。
いったいどれほどの距離を駆け、どれだけの角を曲がっただろう。白衣の女性を救出し逃走を始めた頃に東の空に輝いていた太陽は、いつの間にか西に傾いていた。
曲がってすぐに人が二人通れるか否かくらいの路地があり、その入り口付近に一辺がおよそ子供が両手を広げたほどの立方体をした木箱が二つ積まれていた。青年と女性、小人の三人はその裏に、息を殺して身を潜める。五人ほどの男の声が近づいて来、そしてそれらは遠ざかって行った。幸いにも、青年達は追っ手を撒く事に成功したのだ。
ただこのままでは、見つかるのも時間の問題だろう。
追手の数は多く、たった一人を追う為に三百の兵が投入されている。何があっても逃がしたくないという、都市の実権を握る者の意思が窺える。
また、三人が逃げ込んだ路地は、入り口に背を向けると目の前には、住宅の外壁が聳えていた。今彼らが居る場所は、前と左右に道はない。逃げ場のない状態で見つかれば、それは死ぬのと変わりない。
「参ったなぁ。飛ぶわけにも行かないし」
青年は空を仰ぎそう呟くと、左手で耳の裏を掻いた。彼の右肩には小人が腰を掛け、同じように蒼天を見上げている。
その左前方で、女性はきょろきょろと辺りを見回す。焦りで落ち着けていないように見えるがその一方で、彼女の目は冷静そのものだ。
彼女は右斜め前の角に、痩せ型の人が一人やっと通れるほどの裏路地を見つけた。青年の前を横切って、彼女はそこに入って行く。
「逃げられるわ。ついて来て、こっちよ!」
彼女は住居の間の狭い路地を、樋を避けながら奥へと進んで行く。青年は戸惑いつつも彼女の後に続き、住居と住居の隙間を奥へ入って行く。
裏路地を十分くらい進むと、おおよそ一部屋分の面積がある場所に出た。その中央には階段が一本、薄暗い地下へと続いている。どこに続くかもわからない場所に下りる事を青年は躊躇するが、女性はドレスを少々たくし上げ、青年の挙動を気にせずに階段を下りて行く。
「何してるの? 行くわよ」
彼女は振り返り青年にそう言うと、早足で地下へ向かう。青年は小暗い空間を前に尻込みし一歩後退するが、肩に乗る小人に頬を叩かれ渋々段を下る。
下りた先は、古びたトンネルだった。蝙蝠が飛び交う音と油虫が動く音、そして鼠の鳴き声が暗い中わずかに聞こえる。蝋燭などの灯はなく、ただ闇に包まれている。よって目は使い物にならない。にもかかわらず、女性は迷わずに歩いて行く。
青年は身震いしながらも、足音を頼りに彼女の後をついて行く。彼は女性が躊躇わず進む事に首を傾げ、独り言のように言った。
「見えないのに進めるんだなぁ」
それが耳に届いたのか、女性はクスと笑った。
「ここは一本道でね、迷う事はまずないの。それと、前から微かな風を感じるのよ」
彼女の言葉に、青年は納得が行ったように頷いた。彼には風を感じる事は出来なかったのだが、それは彼にそういった習慣がなかったからだろう。
しばらく二人が進んで行くと、視線の先に白い光が現れた。それは次第に大きくなり、空の青がその中に浮かんだ。
「ここを出たら、目的地はすぐよ」
女性の言葉に、青年は急ぎ足で出口を目指す。そんな中、外の明かりに照らされる所に鼠の死骸が二匹分転がっており、それを見た青年は一瞬立ち止まる。そんな彼に小人は溜息を吐き、女性は可笑しそうに笑った。
トンネルを抜けると、一行は草が疎らに生える崖に出た。その先端に女性は立つ。
「着いたわ、私の村に」
彼女の視線の先には、飴色をした屋根の集まる村落があった。