♯2 復讐の契約
白銀の髪の彼――ハーヴェイは、膝の上の古びた本を見つめる。彼が差別を受ける原因である髪色は、【黒翼の天使】と同じであるからというのだ。それにより修道士達に堕天使と言われるようになり、食事その他を分けられ、その中でここ、孤児院バベルで暮らす彼と同じ孤児達が真似をし始め、そして今に至る。
【黒翼の天使】の謂れのルーツを知る為、彼は立入りを禁止されている図書室で本を探そうとするも複数のブラザーに差し押さえられそれが叶わず、立ち入る事のできるエドガーにこっそり本を取ってきて貰うように頼んだのだ。
黄ばんだ表紙を開くと、そこには漆黒の双翼を携えた、左手に剣を持ち高く掲げる、短髪に黒ずくめの男の後姿が描かれていた。その下に書かれている文章に、彼は目を通す。そこには次のように書かれていた。
――他の神をすべて蹴落として唯一神となり、己の都合の良い世界を創った神クライスト。それに異を唱え堕天したセラフ、ルシフェル――
その内容に、ハーヴェイは不思議そうに首を傾げる。
「聞いた話と違う」
聞かされていた話。善良の神に反逆し、平和なる世界の崩壊を企み、数々の厄災を生み出した結果、神に仕える天使達に倒され、地に堕ちた天使。それが、元々インプットされていたルシフェル像だ。神など信じていない彼には全くどうでも良い話だったのだが、既存知識と大方正反対のこの文に、彼の好奇心は掻き立てられた。目の前にある新たな知識に目を輝かせ、彼はページをめくる。
読み進めるに連れ次々に現れる、今までは知りもしなかった数多の事――ルシフェルが明けの明星を指し、光を齎す者を意味するという事。元はケルブであり、神の気まぐれでセラフになった事。勉学も狩りも彼の右に出る者は居なかったという事。書いてある全てが初耳で、彼は時を忘れて読み耽った。
読み終えた頃には陽が西の空を茜色に染め、群青色の東の空には赤みがかった望月が顔を出していた。
「ああ、夕飯を食べ損ねちゃった。まあ良いか……。って、え?」
最後の1ページ、著者名が書かれている箇所に、彼は目を見開いた。そこに書かれていた名、それは――
「【Lucifer】?」
彼は驚いたように目を見開いた。ルシフェルは神や天使や悪魔等と同じく神話という名の御伽噺の住人なのであり、この世に存在するはずのない存在だから。
どこからか黒い羽根が1枚ふわりと舞い落ち、本の上に止まった。カラスの物にしては軟らかいそれに、彼はまた、首を傾げる。
* * *
深夜。望月が南中に昇り月光が世界を照らす頃、ハーヴェイは物音と悲鳴に目を覚ました。寝惚け眼で窓の外を見ると、右手に槍を持ち白の服に身を包む男が血の海の中に立っている。ハーヴェイが身を乗り出すと男は彼の方を向き、獲物を見つけた獣のようにニヤリ、と笑った。それに彼は、歯を打つ音がするほどに震える。元の白い顔はもはや青白いと形容するのが妥当なほどに血の気が退き、暑さによる物とはまた違う汗を掻いている。
しばらく後、何かを感じたのか彼は唐突に振り返ると、慌てて部屋から出て行った。
髪を真後ろに靡かせて、肩で息をしながら、彼は廊下を走り、階段を駆け下りる。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――!」
予想している事が事実でない事を祈るように言い続け、足が縺れようと、階段から滑り落ちようと関係なく、彼は先を急ぐ。一体何があったのか。それは解らないが、想像はできる。それでも、それが現実とは異なる事を願いながら彼は走り、汗に濡れる両手を握りしめる。
孤児院の入り口、巨大な木の扉。それを押し開け見える庭で、孤児院の子供達、シスター等、ブラザー等、そしてマザーが、血の海の中に生気なく横たわっていた。
「そん、な……。嘘……」
震える左手で自らの頬を抓る。後に残るような鈍い痛みに眉を寄せた後、彼は頬に涙を伝わせる。夢などではない。予想していた中で最悪の、事実。彼は力なくその場に座り込む。血塗れた白のタキシードの男は、それを見て不快に微笑する。そして彼の眼前に立つと、槍を引き、彼の心臓を狙い振るう。
突如、月の明かりが遮られたかと思うと、一人の少年が、彼と男の間で腹を槍で貫かれ立っていた。
「エドガー!」
男は舌を打ち、槍を引き抜く。すると少年――エドガーは、音を立てその場に崩れ落ちた。ハーヴェイは動かない体を引き摺りながら彼に近寄り、必死にその名前を呼ぶ。エドガーは蒼い顔を顰めながらも、いつもの明るい顔で彼に微笑む。短く切れる息をしながら、血を伝わせる口で、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「良い……、か? 絶、対に……生き、ろ……」
瞳から光が消え、手を力なく地面へ落とす。それにハーヴェイは目に溜めた涙を零し、歯を喰い縛る。その光景に槍を持つ男は空を見上げ、左手で顔を押さえ、嗤う。吹き荒れる暴風により枝葉のざわめく音に混じる不快な嗤い声に、ハーヴェイは拳に力を込める。
「何が、可笑しいの?」
ピタと風が止み、辺りは静寂に包まれる。突如重みを増した空間に男は眉を寄せ、銀色の髪を見下ろす。ハーヴェイは俯いたまま、震える声で静かに、言葉を発する。
「何の罪もない人を殺して、何が愉しいの? 尊い命を犠牲にして、何が面白いの?」
歯を軋らせ目を見開き眉尻を吊り上げると、顔を上げ、月光により硝子玉のように輝く双眼で白服の男を真直ぐに見、彼は声の限り叫ぶ。
「皆は、まだ生きられたんだ。どんな理由があったとしても、それを奪ったあなたを、僕は絶対に許さない!」
そう喚く彼を男は嘲笑し、無慈悲に槍を振るう。槍頭がハーヴェイの胸を捉えようとした時、辺りに風が吹き荒れ、世界が灰色に変わり、全てが静止した。唯一色を保ち動くことが可能なハーヴェイは、不自然な世界に辺りを見渡す。現状を理解できずに戸惑う彼の前に、あの黒い羽根が一枚、彼の後方より舞い落ちる。後ろを向くと白銀の長髪を後方で一つに纏めた黒服の男が、ハーヴェイを見つめ立っていた。それは疑うまでもない、本で見たルシフェルだった。
人形のように整った、不自然なほどに真白い顔は、無表情ながらも悲しみの色を湛えている。彼は静止世界の中、血の海とその中に横たわる人々を眺め、そして冷たくなったエドガーへ視線を移し、静かに呟く。
「……餌、だな。私と酷似した、お前を誘き寄せる為の」
鋭い氷柱のような一言に、ハーヴェイは顔を歪ませ震え上がる。己の存在のせいで、形上の仲間が、家族が。そして唯一笑い合い、泣き合い、助け合う事の出来た親友が、殺された。真実かどうかは定かではない。それを確かめる術は皆無である。だがその理由は、忌み子である彼にとっては断定するに十分だった。
蒼白の顔で荒く息をする彼を横に、ルシフェルはただ、淡々と語る。
「神は自身にとって都合の良い箱庭を創り、必要ない物を排斥する為には手段を選ばない。故に、理不尽な正しさが罷り通る。この世は残酷だ。しかしそれは無力な者には変えられない」
起伏のないただただ単調な言葉に、ハーヴェイは頭を抱え、悲鳴を上げる。止め処なく涙を流しただ絶叫するばかりの少年に、ルシフェルは一つ息を吐く。そして漆黒の双翼を背に生やし、紅く耀く双眼でハーヴェイを見つめ、そっと左手を差し出す。
「だが仮に、私と契約し、私の器となるならば。理不尽な正しさを破壊するだけの力を与えよう」
その言葉にハーヴェイは声を堪え、涙を拭う。そしてルシフェルの紅い眼を見つめ、眼前に差し出された手を取る。ルシフェルは不敵に笑み、突如吹き荒れた暴風は漆黒の羽根を舞わせ、彼らを囲む渦をつくる。
世界に色が戻る。槍使いの前に立つ黒い渦が退くとそこには、左手に闇色の剣を持つ、一人の青年が居た。銀糸のような髪の間から覗く双眼は、まるで全てを見透かしているかのように紅く、煌々と耀いている。タキシードの男はそれに戦慄するも、対象が目の前に居るという事実に口角を上げる。両手で槍を持ち深く息をすると、眼前の青年の腹を狙い突く。
辺りに金属音が響き、切断された槍が宙を舞った。ただの金属製の棒切れとなった槍の柄を手に男は立ち尽くす。それに青年は顔色一つ変えずに、男の首を狙い剣を薙ぐ。男は飛びずさりそれを回避、棒切れを持ち直し青年に突進すると、相手の脳天を狙い振り下ろす。
青年の姿は縦に二つに割れ、闇にゆらりと溶ける。それに惑う男の胸は次の瞬間、背中から闇色の剣に貫かれた。朱色の鮮血が舞う。体を反らせ、見開かれた目で宙を仰ぎ、男は口から血の飛沫を上げる。カランと音を立て棒切れは地面に落ち、それを持っていた両腕は重力に逆らう事を忘れた。
一つの命が消える始終を傍で見つめていた青年は、剣を男の胸から引き抜く。支えを失った男の体は、音を立てその場に崩れ落ちる。傍らに立つ青年の黒衣に散る鮮血は赤黒く変色を始め、左腕は深紅に染まる。
青年は漆黒の翼を背に生やし、天頂に昇る望月に剣を高く掲げる。
「……ここでは、何も起こらなかった」
瞬間、辺りは光に包まれた。
* * *
それ一夜明けた豪雨の日。バベルに住む金髪の少年は、とある部屋の扉を打つ。室内から返事がない事を不思議に思い、彼はその扉を引く。室内はただ薄暗く、生活感こそあるものの、そこには誰の姿もなかった。
「エド……、居ないの?」
金髪の少年が発したその声は空しく、雨の音に掻き消された。
騒動の翌日から孤児院の全ての住人は、昨日の騒動とハーヴェイの記憶は消えた事にも気づかずに生活していた。
しかしその日以降、エドと呼ばれる向日葵色の髪の少年――エドガーは、そこに姿を現す事はなかった。