♯1 白銀の髪の少年
広い世界の片隅に、山を背負うように建つ孤児院がある。その建物の中の一角で、透き通るような白銀をした短髪を持つ少年は、両手で腹を押さえ蹲っていた。
「なんでテメェなんかがここに居るんだよ! さっさと死んじまえ!」
傍らに立つ金髪の少女は高笑いをしながら、足元に転がる少年の腹を右足に力を込めて蹴る。少年は激しい痛みに目を見開き、くすんだ白い壁に体を打ちつけられ音を立て崩れ落ちた。騒動を眺める二人のシスターは止めに入ろうとせず、少年の事をただ憫笑している。
通りかかった三人の子供達が、少年に対する暴行に加担する。壁に寄りかかり項垂れる少年の前髪をブロンドの髪をした少女が左手で掴みそのまま持ち上げ少年を立たせると、彼女は勢いをつけた右手で少年の左頬を殴る。右に倒れる白銀の髪をした少年の両腕を金髪の少年が後ろに回し、ブロンド髪の少年が銀髪の少年の腹を蹴る。
悪意に満ちた笑い声が、孤児院内に木霊する。白銀の髪の少年は抵抗せずに暴行を受ける。しかし彼は眉を顰める事もせず、ただ穏やかに微笑んでいた。
「笑ってんじゃねーよ、気持ち悪ぃんだよ!」
はじめの少女が怒号を上げ拳を振り上げる。それを振り下ろそうとした瞬間、彼女の背後で、床を鞭で打つような音が響いた。
その場に居た全ての者の視線が、音の発生源に集まった。そこには向日葵色の髪を後ろで一つに結わえた少年が、棕櫚箒を右手に立っていた。
「無抵抗な相手に四対一ってのは、ちと卑怯なんじゃねぇか?」
低い声でそう言いながら、一歩、一歩と、彼は集団に近寄って行く。柄の根元を持ち箒を振れば届くだろう距離で立ち止まると、彼は主犯の少女に冷たい視線を送り、彼女に柄の先端を向ける。
「そんなに暴れたいんなら、俺がまとめて相手してやるよ」
少年の威圧感に戦慄する少女に、彼は嗤笑する。少年相手にまるで蛇に睨まれた蛙のように、ただ震えている少女を見て、加担していた三人の男女は顔面蒼白になり方々へと散って行った。そして一人になった主犯の少女は、一目散に逃げて行った。
加害者達が居なくなったのを確認すると、少年は溜息を吐き箒を下ろす。彼が後ろを向くと、騒動を見物していたシスター二人は各々作業に戻っていた。
彼は箒を壁に立てかけると、倒れたまま放置されていた白銀の髪の少年を壁に凭れさせる。少年の顔の赤黒い痣や青痣は、他よりも白い肌のせいか酷く痛々しい。彼は両手で痛む腹を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。
「抵抗くらいしろっていつも言ってんだろ? 人が良すぎるぞ、ハーヴェイ」
向日葵色の髪の少年は呆れたふうにそう言うと、左腰のウェストポーチから取り出した軟膏壺を銀髪の少年――ハーヴェイに差し出した。ハーヴェイはそれを受け取ると口元の血が滲む痣に薬を塗り、向日葵色の髪の少年に返す。
彼は壁に右手をついて立ち上がろうとするが、思うように体が動いていないのだろう、足に力が入らないようでよろけている。少年が慌てて体を支えると、ハーヴェイは微笑んで静かに言った。
「ありがとう、エドガー。でも、一人で立って歩けるよ。慣れてるから」
向日葵色の髪の少年――エドガーはその言葉に、支えていた手を離した。ハーヴェイは引き攣った笑顔をしている。彼は一歩踏み出すと、壁を滑り落ちてしまった。それを見てエドガーが駆け寄ろうとするが、ハーヴェイはそれを制止する。
蒼白の顔に冷や汗を伝わせながら、彼は声を絞り出すようにして言う。
「他の誰かが殴られてるのを見たくはないんだ。理由を持ってる僕がそうされるのが一番良い」
目尻から雫がこぼれた事を、彼は知っているのだろうか。
ハーヴェイは体を引き摺りながら自室へと戻って行った。黒く小さな背中が見えなくなった頃、エドガーは深く息を吐く。
「まったく……、無理しやがって……」
扉を開くと、部屋の中から埃の臭いが一気に溢れ出てきた。鼻を突く臭気にハーヴェイは僅かに眉を寄せ、溜息を吐いて部屋に入る。
開けたままの扉とは反対側の窓の、硝子の窓を内側に開き、黒塗りの鎧戸を押し開く。すると室内に、爽やかな微風が流れ込んで来た。遠方の山脈の澄んだ緑はどこまでも広がる青に映え、傍の一本木の葉々は風にそよぎ、どこからか小鳥達の歌声が聞こえる。
真昼日の眩しさに目を細め、そしてふと下を見る。庭の中央で干されている数人分の布団を見つめ、彼は愁いを帯びた表情で笑う。
窓に向かって右側のベッドに敷いてある薄い掛布団と継ぎ接ぎだらけのシーツを窓枠にかけ、ベッドの下から脚立を引っ張り出して入り口右の壁の傍に立てる。ベッドと反対側の机の側面にかけてある布はたきを手に脚立を上り、隅の蜘蛛の巣を取り除き、天井や壁をはたいて埃を落とす。舞う埃に彼は咳をするが、それでも構わず作業を進める。
子供達の部屋は基本、シスターやブラザーによって常に清潔に保たれている。毎日室内を掃除され、晴れた日は外で布団が干される。それが彼に対してだけは行われていない。
食事、風呂、掃除、服装等々、多岐に亘ってハーヴェイは他の子供達と差別化されている。同じ命、同じヒトであるはずの子供達と彼は、ただ彼が白銀の髪だというだけで、修道士等に人と否の扱いをされているのだ。彼が三つで施設にやって来た頃は異を唱える者も多かったが、七年の時を経た今、エドガーの他は彼自身もそれに従っている。
「それで良いんだ。嘆いても、何も変わらない。僕は、皆とは違うんだから」
作業の手を止め、ハーヴェイは首にかけているペンダントを服の中から取り出し、天使を模る漆黒のペンダントトップを陽に翳す。抜けるような青空の如く澄む両の瞳でそれを見つめ、彼はまた微笑する。壮大な青の中の漆黒はより暗く、深く見えた。
不意に、扉を打つ音が聞こえた。彼は慌ててペンダントを服の中に入れ直すと、机の上に布はたきを置き、恐る恐る扉を開ける。そこには、両手にそれぞれ普通の子供達用の食事の盆を持ったエドガーが居た。ポカンとした表情で固まっているハーヴェイに、彼は困ったように言う。
「部屋、間違ってないぞ。これ重いんだ、早く入れてくれ」
その言葉に我に返ったのか、ハーヴェイは扉を開き入口を開ける。それにエドガーは溜息を吐き、一言断ってから室内へ入る。
部屋の中央、色褪せたペルシア絨毯の上に、エドガーは静かに盆を置いた。それぞれの盆にはプレートとスープがあり、プレート皿には白パンが一つ、レタスが二枚、ミートボールが三つ乗っている。スープはまだ湯気が立ち上っていて、コーンの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
普段与えられている、同じ器に入れられた雑穀とスープとは異なった、どれだけ足掻こうと手の届かないはずの物を前にハーヴェイは目を輝かせるが、それを口にしようとはしなかった。
微動だにしない彼にエドガーは痺れを切らしたのか、盆の片方をハーヴェイのほうに突いた。
「食えよ。昼飯、まだなんだろ?」
そう促されたハーヴェイは困ったふうに頷くと、左手で白パンを取り口に運ぶ。そして小さく口を開くと、パンをほんの少し齧り咀嚼する。食む度に口の中に広がるほのかな甘みと芳しい香りに、彼の顔は自然と綻びる。
無心にパンを頬張る彼を見つめ、エドガーはどことなく嬉しそうに笑む。そんな彼にハーヴェイは、口の周りにパンくずをつけたまま不思議そうに首を傾げる。その様子があまりに滑稽に見えたのだろう、エドガーは吹き出し笑いした。
「どうしたの? 冷めちゃうよ、ご飯」
相手の態度など関係ないとでもいうようなハーヴェイの言葉に、彼は目に涙を溜め必死に笑いを堪えながら、右手で白パンを取ると大きく開けた口で噛み千切り咀嚼する。いつになく軟らかいように感じる食感に、彼は思わず目を見開いた。
パンを食べ終えたハーヴェイは木のスプーンを手に取ると、スープを二回ほどかき混ぜてから掬い、口に含む。コーンの甘みと滑らかな舌触りに頬を蕩けさせる彼の顔は、実に幸せそうだ。木のフォークに持ち替えミートボールを口に入れ、その熱さに慌てて口を開閉させる彼に、エドガーは食事中だというのに左手で口を押えて笑う。行儀の悪い彼にハーヴェイは、困ったように眉尻を下げた。
口の中で冷めたミートボールを咀嚼し小さく音を立て飲み込むと、ハーヴェイは嬉しそうに微笑んだ。その様子にエドガーは、髪色の通り向日葵を思い浮かばせるように、子供らしく笑う。
「旨いだろ?」
嬉しそうな彼の声に、ハーヴェイは幸せそうに頷く。重い空気の籠る薄暗い室内に、彼らの周りにだけ、仄かに明るい空間ができた。
双方の食事が終わり、重ねた盆の上にプレート皿とスープボウルを乗せる。そこでエドガーは何かを思い出したようにウエストポーチを開くと、一冊の古びた厚い本を取り出した。
「これ、言われてた本だ。ブラザーに隠れて持ってきた」
本を差し出す彼に、ハーヴェイは感謝の想いを伝え本を受け取る。それに静かに頷くと床の盆を拾い上げ、エドガーは部屋を後にした。
部屋に一人となったハーヴェイは、机の側面にかけてある手箒を手に取り、埃を払い落としたベッドの上に本を置く。そして壁に立てかけられた棕櫚箒で部屋中の埃を塵取りに集め、それを部屋の片隅の屑籠へ捨てた。
掃除用具一式を元にあった所へ戻すと、彼はベッドへ腰を下ろし一息吐く。そして本を手に取り、表紙の埃を払う。今まで見えなかった、その本の題は。
【AN ANGEL WITH BLACK WINGS】