69.0話 再び学園へ
―――6月12日(月)
憂が学園へと復帰した。
姉の送りの時間は以前のように早めだ。
軽自動車内から千穂の顔を見るなり、憂が泣き出し、千穂も感化されるという、感動のシーンが見られたがいつもの事なので省略させて頂く。
この日、今までと違ったのは駐車場から正面玄関への道すがらだ。
千穂が車椅子を押していた。
数日間の欠席のきっかけとなったあの日、長めの白いプリーツスカートは、その時、着ていたセーラー服と共に鋏を入れられた。もうひと組の夏服は裾上げ済で短い。つまり、憂が自走するとパンツが丸見えとなってしまうのだ。この事を憂は忘れていた様子だったが、愛も千穂も記憶していた。
説明すると、すぐに赤くなった。現在はスカートの裾を押さえ、大人しく車椅子に座っている。
因みに憂の夏服は新たに二着、発注中である。憂の夏服が一着減った事を知った総帥もプレゼントの為に発注をかけている事を、憂の家族は誰も知らない。五着まで増加してしまうのだが、それは今は関係ない話だ。
千穂と憂とが、駐車場からC棟正面玄関への道に合流すると、まばらなC棟の生徒たちが大集合し、久々に取り囲まれてしまった。しかも今回は男女入り混じっていた。後から到着した生徒たちも、その輪に憂の復帰を直感し、どんどんと合流した。
その円の中心では朝の挨拶と共に、憂の学園復帰への祝いの言葉が次々に掛けられていた。暖かいようなそうでないような謎な光景だった事は言葉にするまでも無いだろう。
挨拶と祝辞を済ませた生徒は、その輪から抜けようとしていたが、生徒の壁に阻まれ上手く行かない。群衆の壁はどんどんと厚くなる。
見かねた梢枝と康平は、初めて輪の中心から憂たちを救い出すべく動いた。男子たちもがサークルに加わっているからかもしれない。
……が、上手く助け出す事は出来なかった。
通りがかったクラスメイトや生徒会長も声を張り上げたが、この日の輪はなかなか解けなかった。
騒動を聞き、駆け付けた警備隊が抑えるまで、その狂乱は続いたのだった。この警備隊の中にも総帥の息が掛かった者が居るが、これも別の話だ。
この騒動も、ひと重に憂の人気がもたらしたエピソードと云えるだろう。
クラスメイトと警備隊。更には護衛に守られ、憂と千穂が疲れ切った表情で教室に辿り着くと、そこでも祝辞の嵐だった。
朝礼までそれなりの時間を残しているにも関わらず、クラス全員が集まっていた。憂が月曜から帰ってくる事は京之介から健太に伝わり、全員が知ることとなっていたのである。
教室内の祝辞は教室外のそれとは違い、入れ替わり立ち代わりであった。泣き出す者まで現れる始末だ。京之介も圭佑も憂の帰還を喜んだ。瀬里奈も陽向も憂にしっかりと『おかえりなさい』と伝えた。屈託のない笑顔だった。彼女たちの負の感情は消え去っているようにも思えた。
「おはよー! 憂ちゃん、おかえり!」
「おはよ――ただいま――」
「憂ちゃん! はじめまして……だね! 待ってたんだよ!!」
そう言えば新たに5組に転室した7名は、初めて同じ教室内に居ると云う事になる。元々、憂のファンとも謂える転室者たちだ。それはもう嬉しそうにしている。だが、慣れていない為、配慮に掛けているようだ。梢枝がそっと憂に耳打ちしている。
――――――――。
「はじめ――まして――よろしく――」
順番に行われる対話の途中、千穂は憂を残し、自身の席に着いた。疲労困憊で。
千穂は梢枝から聞いている。もはや教室内に於いて、憂への悪意は存在しないと。
それでも梢枝も康平も、憂の傍を離れなかった。再び、何か起きてからでは遅い。もう後悔はしたくないのだ。
「憂さん……心配……していた……」
何名かぶりの涙だった。男子では初だった。凌平は感涙しつつも、そう言って憂を迎え入れた。彼が直接、憂と話したのはこれが実は初めてである。
「――ど――どうも――」
対する憂は困惑の表情だったが、それも仕方の無い事だろう。ぶっちゃけると、憂は男子の涙に引いていたのだ。
因みに廊下へと繋がるドアも窓も開け放たれている。
多くのギャラリーが見守っている。憂の復帰のめでたい日くらい、他のクラスの皆さんにも幸せのお裾分けを……と、クラス委員長の提案である。
「おい……キザ男が泣いてるぞ……」
「あ。ホントだ……。そんな感情あったんだ」
……などと陰口も聞こえたが、凌平は外野を気にしなかった。周りを見る余裕さえ無かったのかも知れない。
利子は、いつもと違う時間に現れた。8時50分前。利子は居ても立ってもいられなくなった。ギャラリーを掻き分け、開け放たれたドアに飛び込んだ。
もちろん、家人からの電話で憂の出席を伝えられていたからである。
「ごめん! 憂さん! ごめんね!!」
開口一番、利子は謝まり始めた。そこからは半狂乱状態だ。
「わらしが○×#@¥(*△*;$………」
泣きながら言うものだから……。違うか? とにかく何を言っているか分からなかった。
だが、憂に何かが伝わったようだ。
小柄な少女は、両サイドに控える男女の手を借り、立ち上がると腰を折った。
「――ごしん――ぱい――おかけ――しました――」
それだけ言って、小首を傾げる。言葉探しだ。
教室内の全員が静かにじっと待った。次の言葉を。
「――なんだっけ?」
3分ほど後にそう漏らし、もう一段階、深く小首を傾げる。
優しい苦笑いがそこかしこで湧き出す。
憂は頭の位置を戻すと、少し不満げにムッとした表情を見せたが「――まぁいいや」と仕切り直す。
再び、静寂が室内を満たす。
再び、耳を欹てる。
「また――よろしく――ね?」
『ね?』と共に首を傾げ、その後、はにかみ微笑む。注目を集めている為か、どこか恥ずかしそうにも見えた。
その儚い笑顔に魅了される者が続出した。
室内は静寂を超えた無音が支配する。
「――あれ?」
憂は困惑する。次第に眉が下がり、黒目がちな瞳に薄っすらと涙が溜まった。『またよろしくね』を受け入れて貰えなかったと思ったのかもしれない。
パチパチ……。
誰かの拍手が聞こえた。
それは周囲に波及していく。
誰からともなく始まった柏手は、さざ波のように広がり、嵐のような盛大なものに移ろっていった。
教室を飛び出し、廊下やグラウンドで見守っていた5組の外へと広がった。
転入初日の控えめながら全力だった、ほぼ全員の拍手。
それは1ヵ月と数日後、クラス全員を超えた拍手へと変わり、再び憂を迎え入れたのであった。
この日のC棟1年5組は、3時間目修了まで底抜けに明るかった。憂が不在の間の空元気は本物に変化した。
拍手の後、我に帰った利子は羞恥に頬を染め、教室から逃げ出した。その姿にドッと笑いが溢れた。
憂は1時間目までの残り時間数分、ようやくグループメンバーと合流した。朝礼は、なし崩し的に中止となった。元々、毎日行う必要はなく、問題ない。
拓真も勇太も佳穂も千晶も。もちろん千穂も笑顔で憂を迎えた。
「憂ちゃん! 淋しかったよー!!」
そう言いながらハグしようとした佳穂を千晶が押し退け、何も語らず憂を強く抱き締めた。
「なんだよー!! 千晶のバカー!!」
涙目で抗議する佳穂の姿に、至るところで爆笑する同級生の姿が見られた。
千晶の初めての抱擁に狼狽した憂の頭を、勇太がポンポンすると、その腕を拓真と康平が2人掛かりで憂の眼前に固定した。
「やめてくれー! オレが悪かったー! ノリなんだー!!」
憂は容赦なく噛み付いた。その場のノリもあったのか、今まで一番くっきりはっきり歯型を残していた。
その歯型を周囲に見せ付ける勇太に笑いが集まった。圭佑すら笑っていた。
そんな空気は先程述べた通り、4時間目に入ろうとする頃まで続いた。
空気が変わったのは、凌平が気遣わしげに放ったひと言がきっかけだった。
「憂さん……。眠らなくて……いいのか……?」
その瞬間、クラス内の浮ついた空気が一気に冷めた。
皆、それを忘れていた訳では無い。口に出さなかっただけ……或いは意識し、忘却しようとしていただけなのだ。凌平を除く転室者たちも憂が欠席に至った経緯は既に耳に入っている。
憂が初めて頭痛を訴えたのは4時間目である。
この日は誰がどう見ても、朝からよく思考している。もしも再発したら、またあの憂の苦しげな声を聞かなければならないのだ。
「――だいじょうぶ――」
憂は自信満々と云った風情で断言した。
しかし、グループメンバーでさえ不安げな表情を隠せなかった。千穂を除いて。
3時間目とは打って変わった重苦しい雰囲気で、4時間の数学Ⅰは始まった。
数学の女性教諭は授業を始める前に、憂に傍まで歩き、心配で堪らないと云った調子で声を掛けた。憂の頭痛が始まったのは1週間前のこの時間だ。心配になるのも当然だろう。
「立花さん……。少しでも……頭が……痛いと……」
そこで言葉を切ってしまった。憂は小首を傾げる。伝えたい事が伝えられない。もどかしさと悔しさが女教師の胸の内を支配する。
千穂は憂に囁く。時間を掛け、ゆっくりと伝える。
『少しでも頭痛を感じたら、すぐに教えて』
たったこれだけの言葉を時間を掛け、伝える。
その千穂の表情は安らぎに満ちていた。
「――わかった」
憂の返答に満足そうに千穂は頷く。数学教師は千穂に感謝の意を述べ、教卓へと戻っていった。
「……千穂は心配じゃないの?」
佳穂が問い掛けると、千穂は事も無く返答する。
「憂が大丈夫って言ってるんだよ? 私は信じてるから」
4時間目の数学は結局、何事もなく終了した。憂が言った通りに。千穂が信じた通りに。
女性教諭が心底ホッとした顔で退室すると、佳穂は苦渋の表情で呟くように語る。
「悔しいなぁ……。千穂に差を見せ付けられた気分……」
意外な男が淡々とした物言いで「俺もだ」と同意した。拓真だ。
拓真はこの中で一番、憂と付き合いが長い。いや、優と……と、言うべきか。
その拓真も千穂のように堂々としていられなかった。忸怩たる思いをしているのであろう。
「まぁ、拓真は心配症だからなぁ……」
勇太のフォローに拓真の反応は無かった。
昼食時は憂の幸せそうに弁当のおかずを頬張る姿に癒やされた……が、時間の経過と共に、再び重苦しい雰囲気が漂っていった。クラスメイトたちは、それでもまだ心配なのだろう。
5時間目の英Ⅰ。英語教師の山下はOCの時間では無いにも関わらず、デイビッドを伴い現れた。
「今日は、たっての希望により、特別に参加する事になりました……と、言ってもほとんど見学するだけですけどね」
山下教諭のその言葉の通り、ディビッドは、ほとんど言葉を発しなかった。発した言葉は授業の開始時と修了時。あとは中盤の1度だけだった。
憂にとって、午後は転入当初から……。それこそ、頭痛に悩まされる以前から果てしなく続く、戦いの時間だった。
憂は頭痛が始まる以前のように、船を漕ぎ始めた。脳が睡眠を欲し始めたのである。それでも必死に睡魔に抗い、なんとか授業に参加する。憂からしてみれば、ディビッドの前でだけは眠る訳にはいかない……と、云った処だろう。
そんな状態になっても頭痛は発生していない。克服したのは本当だったと教室中に安堵が広がる。
堪ったものではないのは、前後に座る千晶と勇太。隣に座る千穂だった。また机に頭をぶつけ脳震盪……など洒落にならない。頭が振れる度に、フォローしなければならない。故に全く授業に参加出来なくなった。
その様子を見たディビッドは静かに憂に近付き、そっと口を開いた。
「Ms.Yuu? もう……ねむりナサイ……」
「アナタの……本気……わかった……」
「もう……じゅうぶん……デス」
以前より、よほど流暢になった日本語を聞くと、すぐに眠りに落ちた。眠気のピークでもあり、到底、理解出来たとは思えない。おそらくディビッドの表情に安心したのだろう。
5時間目の修了の鐘の音に憂は飛び起きる。それはいつもと何ら変わりの無い日常だ。
「起立……礼……着席……」
一連の動作を終えると、ディビッドは3度目の言葉を発した。
「良い……クラス……ですネ。ありがとう」
因みに憂は、中央管理棟のディビッドを訪ねた事は無い。非常勤の外国人講師たちは憂の来訪を心待ちにしている。そして、その日を夢見て日本語の猛勉強中なのである。中央管理棟にある外国人講師たちの控室は今では日本語以外、禁止となっているほどだ。
閑話休題。
この日、憂の頭痛は彼女とその家族の言葉通り、発現しなかった。
痛覚の回復に端を発した憂の頭痛問題の克服は、ここに完結を迎えたのである。
その夜。憂の上機嫌は留まる所を知らない状態だった。
夕食時、しきりに笑顔を振り撒く憂を中心とし、騒がしかった。父も母も兄も笑顔が絶えない。
そんな中、姉だけは1つ気掛かりがあった。
(こんなに早く頭痛問題解決するなんて……)
(……困ったな)
(仕事、どうしよう……?)