65.0話 距離の違い
―――6月8日(木)午後
「肇さま。憂さまの姉が退職致しました」
「そうか……。辞めたか……」
「如何なさいますか?」
「ふむ……。失業給付をすぐに受けられるようにしておけ」
「かしこまりました。それでは、姉に有利なように手配致します。退職金など可能な限り……で、宜しいですか?」
肇さまは映像から目を離し、私を一瞥すると満足そうににやりと嗤う。
正直に言うと、あの姉は気に入らない。幾度となく肇さまの好意を無下にしてきたあの姉は……。
賢い遣り方。贈り物の大半を断る事で、肇さまを巧く誘導している。憂さまに惹かれる肇さまは、それにより益々、想いを募らせる事に……。
「どうした? 即、行動の君らしくない」
「……これは失礼を致しました」
踵を返し、隣室のデスクに向かう。
「あの姉に君の考えているような裏はあるまいよ。単に遠慮しているだけだ」
「……それならば良いのですが」
私は肇さまの自室を辞すると、すぐに行動を開始。社長へ直接の電話。我ながら慣れたものです。
「はい。山崎ですが……」
「秘書の一ノ瀬と申します。初めまして」
「……一ノ瀬さん? あ! はい! お初にお目に……いえ! その!」
普通に初めましてで宜しいのでは? 使い慣れない言葉遣いをするべきではありません。電話越しでは、お目には掛かれていません。
「落ち着いて下さい。本日、そちらを退社された立花 愛についてですが」
「はい! 社の総力を持って幾度となく引き止めたのですが、本人の意思が思いの外――――
―――あの方の傍に立つようになり、16年が経過。
切っ掛けは蓼園関連企業の末端にまで送信された一件のメール。
【右腕を探している】と云うタイトルのメールだった。
蓼園関連の末端。蓼園の名を冠していない小さな工場に務めていた。新入社員、当時18歳の私は、無謀にもそれに応募した。単に総帥と呼ばれる男をひと目、見たかったから。
【俺の秘書がまたも胃に穴を空けおった。長く務められる者がおらず、ほとほと困り果てている。だからこそ、なんでも話せる者を探している。応募の条件は蓼園を愛する者。これだけだ。諸君らの『我こそは』に期待している。以上】
蓼園グループ総本山。蓼園商会本社の豪華な応接室が面接の舞台だった。
筆記試験も何もなかった。応接のソファーに深く体を沈め、彼は只一人、そこに居た。
『蓼園を愛しているか?』
彼はつまらなそうに、どこか不機嫌に、退屈そうに質問を飛ばしてきた。
『成績平凡な私をグループの末端に迎え入れて下さった感謝、その程度には愛しております』
私の応えに、彼は目を瞠った。嘘を吐くのは簡単だった。でも私は彼を見た瞬間に直感した。この人に嘘は通じない。全てを見透かすと。
だから私は素直に応えた。そうするしか無いと思ったから。
歯に衣着せぬ物言いは子どもの頃からだった。これが原因で学園……。蓼学では浮いていた。だから何もしなかった。置いていかれない程度の勉強をしたくらい。故に成績は平凡だった。
その歯に衣着せぬ物言いが、生まれて初めて役に立った。
『今の蓼園をどう思う?』
『井の中の大蛙。こう思っております。企画製造販売。この分野だけはお見事です』
『ほう? だが、他分野に進出し、辛酸を舐めた企業は多い。綺羅星の如く……だ。君ならどうする?』
『そこは未だ詳しくありません。ですが、手段を選ばず、なりふり構わず行動すれば『分かった。もういい』
駄目だった。元の通り工場で働けばいい。そう思った。それで問題無かった。総帥に会う目的は果たした。
でも……。
次に彼の口から出た言葉は、余りにも意外な言葉だった。
『俺には夢がある。経済で世界を牛耳ってみたい。数多の物語で黒幕と呼ばれる存在。そんな存在に俺はなりたい。餓鬼の頃からの夢だ。そんな幼稚な夢を真面目に追い掛ける変人だ。お前は変人について来れるか?』
彼は世間では拝金主義の現実主義者。
現実では違った。彼は誇大妄想家だった。
面白い人。
こう思った。
『喜んで』
私は彼が伸ばした手を握った―――
「しかし、そんな前例は……」
私は前例と云う言葉が嫌い。それは機を逸する。彼と歩んだ日々。幾度となく、その言葉を耳にした。前例など考える暇もなく行動し続けたから。その度に前例と言う言葉とぶつかった。
「総帥の意向です。宜しいのですか?」
「ぐ……。分かりました。仰せのままに……」
「では、そのように」
一方的に電話を切る。面倒な時には便利な言葉が手っ取り早い。
最後には心の声が聞こえてましたね。そんな事では、グループの更なる高みには登れません。
拡大を続けるグループ。私は、あの方に見出され、寝る間を惜しみ勉強した。その後の多方面への進出は私の主導。
私はいつしか総帥の懐刀と呼ばれるようになった。
あの方と共に歩み、あの方と同じ数の恨みを買って。
……13ヵ月前の事故であの方は変わってしまった。
私財を投げ打ち、彼女に注ぎ込む。市場調査も出来ん輩が建てた下らん物件と言い放った、高層マンションの空室を全て私財で購入。その内、二部屋を身辺警護に惜しげもなく渡した。
覇道への資金では無かったの?
夢は捨ててしまったの?
あの子のせいで諦めてしまったの?
それとも「どうした? 君らしくないな」
「……観終えられていたのですか」
ドアの立て付けが良過ぎて困りますね。いつの間にこちらへ?
「優くんは現役時代も素晴らしい! いつ見ても感動ものだ!」
蓼学の決勝戦。対戦相手だった藤校の選手の家族が撮っていたビデオ。小さな大会で優さまが優勝を成し遂げた試合のVTR。暇を見付けては、榊 梢枝の撮った今現在の憂さまと共に繰り返し、視聴する。
「あのVTRで心より安心しました。本当に女児が好きと言う訳では無いようですので」
「おいおい。君までそんな事を言うのか。勘弁してくれ。若かった君に手出ししなかっただろう?」
「趣味に合わなかっただけの可能性もありました。18と云う年齢が高すぎた可能性も。それよりも、肇さま? 私はまだ若いつもりですが?」
「あ。いや……すまん……」
……相変わらず可愛い人。私にだけ見せてくれていた表情。それなのに……。
……。
嫉妬。
子ども相手に見苦しい。
「憂くんは特別だ。嫉妬する必要など無い」
「え?」
やはり全てお見通し。顔には出さなかった自信があるのに。
「はははは!! 君のそんな顔を見たのは久々だ! 愉快だ!!」
…………。
聞いてはいけないのかも知れない。彼の逆鱗に触れるかも知れない。それでも……。
「夢は……どうされたのですか?」
肇さまの射抜くような視線。それがすぐに人懐こいものに戻る。けれど、強烈にその視線は瞼に焼き付いた。
「……忘れてはおらんよ。少し遠回りしてみようと思っただけだ」
「憂さまを……」
………………。
…………ふぅ。
……言いかけて止めてしまった。彼も私もそれが嫌いなのに。
『憂さまを売り飛ばす事が貴方に出来ますか?』
彼なら私が言いかけた言葉を理解したはず。でも彼からの叱責は無かった。私を伴い、「肉が欲しくなった」と、ホテルへと向かった。
彼はフォークとナイフを巧みに操る。彼のテーブルマナーは完璧。容姿に似合わず……。
……いけません。心を読まれてしまう。
叱られるかもと思い、彼に目をやる。
幸い、彼は見てなかったみたい。
私も肉汁溢れる厚いお肉をフォークで抑え、ナイフを入れた瞬間だった。
「見縊って貰っては困る」
彼は、そう言うといつものようにニヤリと嗤った。
チュルチュル。
憂の不器用に麺を啜る音。
ズズー!!
その隣では上手に剛が麺を啜る。
その音を聞くと憂はムキになって啜る。
でもチュルチュル。
「おと出ない――なんで――?」
きちんと咀嚼して飲み込んでから疑問を口にし、首を傾げた。
「何でって……聞かれても……」
ズズー!
私もお母さんもラーメンを啜る。
「うぅ――くやしい――」
「悔し……がられても……」
優の頃は音立てられてたのにね。不思議。
チュルチュル。
「憂?」
いつまでも音を立てられない憂に聞いてみる。
「午後……どうする?」
憂は昼食前に寝た。だからしばらく大丈夫。
「――さいほう――おしえて――?」
「裁縫ねぇ……。あのスポー痛っ!」
「いいよ。続き……しよっか」
「何すんだよ。バカ姉貴」
「空気読めない阿呆な弟に制裁加えただけよ」
「……愛も剛も……。可愛い妹をオロオロさせて楽しいのかな?」
お母さん、声が低くなってますよ?
ちょっと……顔、見られない……。目が笑ってない時、異様に迫力あるから……。
「ごめん……」
「いや、俺こそ……」
あんたも同じだね。
「うぅ――みぎて――ぶきよう――」
「ゆっくり……焦らず……ね?」
時間はたっぷりあるからさ。
「――うん」
ちょくちょく縫い始めた巾着袋。完成した巾着は2袋。あと5袋。
ま、その内、縫い終わるでしょ。
「いたっ!」
……また刺してるし。
憂は痛みの無かった期間に、気を付けるって気持ちが薄れた。ぶつけても何やっても痛くなかったんだから仕方ないよね。
憂は刺しちゃった人差し指をぱくり。それで十分。痛みの反射で深くなんて刺さらない。憂の場合、血もすぐに止まるからね。
左手の保護もしない。何度も痛い目に遭って、気を付ける事を覚え直さないといけないから。それはきっとみんなが1度は通った道。幼児の頃、走って躓いて転んで泣いて……。何度も泣いて、足元に気を付け始める事と一緒。
憂は2度目。可哀想だけど体で覚えないとね。
それにしても……人差し指咥えてる憂……。可愛すぎるって。反則じゃない?
あ。やめちゃった。憂は人差し指の尖端。刺さった部分を見詰める。右手で左手のその箇所を絞る。出血無し。絞れば出そうなものだけどね。
「――とまった――」
残念そうな声。
「何でやねん」
「あぅ――」
おでこをペチリ。
「――つっこみ」
おでこに触れて嬉しそう。
「なんで……やねん?」
今度はペチリは無し。真面目に質問。
「みんな――してくれない――」
あぁ。寂しいんだね。顔に全部出てるし。
……遠慮しちゃうよねぇ? こんな儚い雰囲気を纏った子にツッコミとか。私だって家族じゃなかったら出来ないかも。
1番、理解してくれてるのは千穂ちゃんかな? でも千穂ちゃんは手を出してツッコむタイプじゃないよね。佳穂ちゃん、千晶ちゃんのどっちかがツッコむタイプだったら、いつかツッコミ入れてくれるかもね?
「その内……ね?」
「うん――」
……なんか、ヤケに反応早いよね。いつからだろ? 今まで気付かなかった。もっと良く見てあげないと……。ま、その為に仕事辞めたんだけどね。
憂……? これからはずっと見ていてあげられるからね。
憂はウェットティッシュで指を拭ってから、裁縫に復帰。刺さないようにね。
憂の不器用な手が、ひと針ひと針、ゆっくり時間を掛けて縫っていく。
いいね。このゆっくりした時間……。
コンコン。
「愛? 島井先生がお見えよ」
ドアの向こうから、お母さんの声。
「はい! 上がって頂いて!」
「……失礼しますね」
ガチャ。ドアが開く。
……既に上がっておられたんですね。
「――せんせい!」
……嬉しそうにしちゃって。人が好きだからね。この子は。
「こんにちは」
「こんにちは――!」
「先生。昨日はすみません。私の勝手な判断で……」
「いえいえ。私も、あの後、利子先生に状況を伺いました。当然の判断ですよ。気になさらないで下さい」
今日はお医者さんモードかな。オンオフがはっきりしておられて素敵な先生。
「憂さん。無理は……駄目ですよ?」
「――うん」
憂は小首を傾げる事も無く返事した。やっぱり……回復してる……。
「……?」
島井先生は首を捻って、考え始める。もしかして気付いた? あの一瞬で?
「憂さん?」
「はい――?」
「頭痛はありませんか? 今は何をされてましたか?」
島井先生はゆっくりと……だけど、途切れさせずに話し掛けた。テストされてるんだよね? やっぱり気付いたんだ……。私の方が長く接してて気付いたばっかりなのに……。これは悔しいな。
憂は流石に小首を傾げる。先生は真顔でじっと反応を待つ。
様子を見ながら。脳がオーバーヒートしちゃったら大変だからね。
「だいじょうぶ――」
しばらく待つと憂は答えた。
「もうひとつ――なに?」
島井先生の表情が弛緩した。
「裁縫……楽しそうですね」
「うん――。できること――見つけた――」
憂は恥ずかしそう。それでも笑顔を見せてくれた。先生の顔を心なしか赤く染まる。相変わらずのおじ様キラーぶり。
「先生?」
憂が手縫いを再開すると、私は先生に声を掛けた。
「はい。回復が見られます。貴女の予想通りですよ!」
先生は私を気遣った物言い。やっぱり敵わないね。この先生には。
そんな島井先生から、はっきりと聞いた『回復』って言葉。嬉しくて、視界が歪んだ。涙は堪えたけどね。
「それでは私は帰りますね。憂さんの脳に先程、負荷をかけてしまいました。早めに休ませてあげて下さい」
「はい……。あ、先生?」
「どうされましたか?」
学園の欠席。これも私の勝手な判断。
「憂に学園を休ませているんですけど……。頭痛が無くなるまでって……」
「……うん。そうですねぇ……」
先生はいつもの台詞。考えを纏める時に出ちゃうのかな?
「その方法、痛覚回復の時と同じ、千穂さん流ですね」
「はい。そうです」
「――千穂――?」
あ。そっか……。聞き取れちゃうんだね。いくらか回復したし、大好きな千穂ちゃんの名前だしね。
「ちょっと、宜しいですか?」
島井先生は私を部屋の隅に導く。憂に背中を向けてひそひそ話。憂は不満そうに唇を突き出してた。ごめんね。
「それで良いと考えます。出来れば友人にもしばらく会わない方が良いかと……。憂さんにとっては辛いでしょうが、その想いが頭痛を切り離してくれるかも知れません。医師としては何とも歯痒い話です……」
「――っ――ぅ――」
先生の話が途切れた瞬間に小さな声が耳に入った。
「憂!? 何を!?」
………………。
……憂は……。
……自分の指に針を突き立てていた。
「……申し訳ありません」
憂の針を取り上げ、止血が終わると、島井先生は開口一番、そう謝られた。
私は憂の2度目の自傷行為に動揺した。
先生の手により、憂の左手人差し指からの止血が終わると、私の動揺も収まってきた。痛覚の回復した憂は、深くは刺せなかった。それでもよっぽど、縫ってる最中に刺してしまった傷よりは深かった。
「みんなに――あいたい――」
私の動揺が収まった事を把握しているかのようなタイミングで、憂は口を開き始めた。
「いらない――」
…………何が?
「――いたみが――あるから――あえない――」
違う!! そうじゃない!!
「憂! 違うの! 痛みは! 必要なの!」
ポロポロと大粒の涙を零す憂に、私は必死に言葉を繋いだ。
「いらない――いたみ――」
「いらないのは……頭痛だけ……」
「いたいの――きらい――」
憂は私の言葉を聞いていない様子だった。
「憂!」
乾いた小さな音。
私はそんな憂の頬を打った。極力、威力は抑えて……。このままだと折角、回復した痛覚がまた失われるんじゃないかと怖くなって……。
「――お姉ちゃん」
憂は驚いて私を見上げた。見上げた憂にスマホが差し出された。憂はそれを受け取り、耳に当てると表情がガラリと変わった。
「千穂――!」
「――うん――わかった――」
…………。
小首を傾げて、考えて……。
しばらく、千穂ちゃんと電話越しに話した。
…………。
「いたみ――いる――ずつう――いらない――」
憂は千穂ちゃんとの電話で、私が伝えたかった事を理解していった。
「あうの――それまで――がまんする――」
「千穂も――みんなも――さみしい?」
………………。
私は、悲しくて、情けなくて、憂の声を背に妹の部屋を後にした。
入れ替わりに剛が憂に部屋に向かった。私の顔を気にしながら。
お母さんは何も聞かずに傍に居てくれた。
……お母さんは何も言わなかった。
それからしばらくすると島井先生がリビングに姿を見せられた。
「憂さんは眠られました。千穂さんの言葉に納得し、休まれたのでもう大丈夫です」
「ありがとうございます」
私の代わりに答えたのは母だった。
無言の私に島井先生は労るように、独り言のように声を掛けて下さった。
「距離が近すぎるからこそ、想いが届かない事もあります。今は千穂さんの距離こそ、届きやすかったのでしょう。私は何1つ、言葉を掛けられなかった……」
島井先生の声も淋しそうなものだった。
それから2時間後。
「姉貴。憂が起きた。呼んでるぞ?」
「ごめん。今はちょっと……」
「しっかりしろよ! ったく!」
剛は悪態を突きながら、2階に戻っていった。
それからすぐに剛はまた降りてきた。
憂と一緒に。
「お姉ちゃん――ごめん――また――おしえて――?」
そう言って、縫いかけの巾着袋を掲げてみせた。




