62.0話 副作用
―――6月5日(月)朝
パジャマを脱ぎ脱ぎ。そのパジャマの上をポイ!
お尻を浮かせてパジャマの下を脱ぐと、それもポイ!
ペチン。
「――あぅ」
憂のおでこにツッコミを入れる。前はきちんと畳んでたのに……。
私のせいかな? ……とか、思いながらもやっぱり畳んであげちゃう。
うーん。我ながら過保護なんだと思う。ちょっと考えないといけないかな?
憂はスカートに足を通すと、ゆっくり慎重に立ち上がって、スカートを引き上げるとホックを止めてファスナーに手を。スムーズだねぇ。
もう家ではギプス不使用。学園には嵌めていくんだけどね。
またベッドに座ると、セーラー服の袖に両手を通して被る。ポンって感じで頭が出てくる。
脇のファスナーを降ろして、スカーフを整え始める。なんでそんな難しい顔してんのよ?
なんか……すっかり慣れちゃったね。男の子の頃を知ってる身としては、ちょっと複雑。セーラー服だもんね。
そう言えば……突然、忘れたようにまごまごする事がある。あれは何なんだろう? 本当に忘れてるのかな? 記憶障害って、そんなに複雑なものなの?
お……っと。スカーフも整ったみたいだし、処置に移りましょうかね。
夜の間も履かせてたソックスを脱がせて、手早く左足の包帯とガーゼを外す。傷口は……もう、かさぶた張ってるね。深いからここからが長いかもだけど。化膿しなくて良かったよ。
綿球に消毒液を染み込ませて、足の裏をこちょこちょ。中心から外側にくるくるくるくる。
「あははは!!」
こちょこちょ。じたばた。
「もう! 動かないの!」
あれ使って拘束するぞ?
……あれ。大失敗。やらかした。無駄な出費。困ってないからいいけどさ……。
千穂ちゃんもわざわざ飾っていかなくてもいいのに。
『目立つ所に置いておきたいんです!!』
……なんか力説してたなぁ。千穂ちゃんの言葉には納得できたけどさ。あれを買っちゃった本人としては、ちょっとキツイ。まぁ、もう1人の妹の発案だから逆らわないけどね。
振り向いていた顔を憂に戻すと私の視線に釣られたのか、あれを見てた。
私の目線に気付くと、キョロキョロ。
……なに顔を赤くしてんのよ。挙動不審だし。使わないって。妹相手に出来るか。
軟膏を綿棒に取って、こちょこちょ。
「ぅ――く――うぅ――」
お。耐えてる。左足をピンと伸ばして動かない。こちょこちょ。
「うぅ――やぁ――」
「はい。おしまい」
「ふぅ――」
おっきな溜息。
……どれだけあれに怯えてんのよ?
それから5分ほど。憂の支度完了。
やっぱり白が似合うね。黒も似合う。昨日、憂が千穂ちゃんたちと遊びに行った時は、白のワンピース。前に千穂ちゃんと3人で、あの場所に行った時とは全く違う服装。千穂ちゃんも驚いてた。やっぱり意外性は大切にしたい。今度は何を着せようかな? 憂も服装に関しては文句言わないから楽しい。
「お姉ちゃん――いこ?」
「うん」
行ってきまーす。いってらっしゃーい。そんな遣り取りの後、憂の手を引いて車へ。面倒くさいから、車椅子さんは車の中。両手を引いて後ろ向きに前進。片方ローファー、片方ギプスって状態でゆっくり歩かせる。運転席の後ろのドアを開けると、憂が小さな体をかがませた。
ガン!
「いたっ――!」
………………。
ちょっとは気を付ける事を覚えないとね。
憂はおでこの上の方を擦りながら、後部座席に座る。
座ってもまだ擦ってる。憂の左手を掴んで、空いたおでこをペチッ。
「ややこしい」
ツッコミを入れると涙目。唇を突き出す。その唇を押し戻すといつもの通り、頬を膨らませた。可愛いヤツめ。
「痛っ!」
噛んだ! 噛んだよ!!
「――ほんとに――いたかった――」
そう言って、またおでこの上を擦り始める。嘘……じゃなさそう。
……ほんとに? 過呼吸、無かったよ?
試しに憂の柔らかほっぺの両側を摘んで引っ張ってみる。ギューって結構、力を込めて。
「ぃひゃい! ――いひゃいよ!!」
……嘘。
痛覚、戻ったんだ……。
憂の頬に一筋の光。嬉しいよね……。良かった……。
本当に良かった……。
憂を抱き締める。強く強く。
「――お姉ちゃん――いたいよ?」
その声は嬉しそうだった。
……あ。来た。いつもの赤い軽自動車。
「憂ちゃん来た!」
「今日も騒がしい一日になるんだろうね」
「なに? 千穂ぉー!? 急に千晶がおばあちゃん化したよー?」
「はいはい。そうだね」
「千穂? 今、どっちに言ったの? わたしじゃないよね?」
「きっとあたしにじゃない」
……佳穂、わかりにくいよ? 今のは否定の方だね。きっと。
「2人に言ったんだよ?」
「あ。なんかむかつく」
「わかる」
愛さん、今日もきっちりと丁寧に駐車。すぐに出るから問題ないはずなんだけどね。
「おはようございます!」
佳穂が助手席側の後部座席のドアを開けて挨拶。そこに車椅子が載せてあるからだね。たぶん。
「佳穂ちゃんおはよー! みんなもー! 康平くんもおはよー!!」
今日は大勢でお出迎え。佳穂と千晶が早く来た。珍しい。千晶の場合は、起きるの遅い佳穂に付き合ってるから遅いだけなんだけどね。寝坊助さんだから。佳穂ちゃんは。
「おはようございますっ!」
あ。康平くん出てきた。大声で挨拶されて開き直ったのかな?
「康平くん、おはよ」
愛さんは佳穂が車椅子を開いた事を確認すると、指定席のドアを開く。
「みんな――おはよ――」
憂の声で、またみんな挨拶。
……あれ? やけに頭の上を気にしながら出てきたね。
「あははは!! 憂ってば、おっかしー!!」
愛さんは笑顔を見せながらも周囲をキョロキョロ。
「何か話が? この辺、見てきますね」
「そう? ありがと」
「いえ……そんな……」
康平くんってヤケに愛さんに弱いよね。気のせいじゃないよ。年齢差は……6つ、かな? 愛さん、彼氏居ないし。居ないのは間違いない。隠してるワケじゃない。彼氏居たらあんなに憂にべったり出来てないよね?
康平くんも相当いい人だし、くっ付ける方向で動いてみる? 梢枝さんはどうなんだろ? 企画中のパジャマパーティ……。勉強会だっけ。その時にみんなに話してみようかな?
「こうへい――おかえり――」
「憂さん、ただいまや。愛さん、大丈夫です。大声で無ければ……」
「お疲れ様」
愛さん、にっこり。康平くん、赤面。
「惚れてるね。あれは」
「みんなに大発表です。憂の痛覚が戻りました」
千晶の呟きは、愛さんの言葉のインパクトにかき消された。
「愛さん……ホントに……?」
車椅子の憂は、不思議そうに小首を傾げてた。
そんな憂に愛さんがごにょごにょ。何のお話だろね?
こんこん。かららら。
千晶がノック。
佳穂がドアを横にスライドさせてくれる。
車椅子の憂を先頭に職員室に突入。愛さんの指令はリコちゃんへの速やかな報告。
憂がちょこっと会釈。私も見習って会釈しながら入室。
「あら? 珍しい。相変わらず可愛いね」
……もちろん、憂に向けてのひと言。ちょっと……むかっ。
「失礼します。リコちゃんいらっしゃいますか?」
「憂ちゃん! あぁ……1年5組の授業を受け持ちたい……」
「私も転室したいわ」
「白鳥先生を失脚させちゃおう。それがいい」
「賛成!」
「ダメです!」
冗談でも言っていいこととダメなことがあります。
……なんで私が先生方を叱らないといけないのかな?
結局、誰1人、リコちゃん呼んでくれないし。
「リコちゃん――は――?」
「あー。ごめん。忘れてた。リコちゃん先生なら学園長に呼ばれて……。応接室じゃないかな?」
んー。無駄足かぁ……。先生、憂向けに話して欲しいな。仕方ないから後ろから耳元に語りかける。
「リコちゃん……居ないって……」
――――――。
「いない――? どこ――?」
「応接室……かも……だって」
――――。
「いこ――?」
うーん。いいのかな? 学園長と一緒の事、省略しなきゃよかったかな?
「私も……マミちゃんって……呼んで?」
「今のが噂の5組が誇る純正制服コンビの遣り取りかぁ。噂通り美しい……」
「うわぁ! 白鳥先生と1-5受け持ちの先生に殺意がぁ!!」
……ここってホントに職員室?
「――マミちゃん」
「あぁ……! すっごく嬉しい! ありがとう! 憂ちゃん!」
「私も! 私も呼んでくれ!!」
「……僕もクラスで名前呼びしてみようかな?」
「女子にはやめておいた方が宜しいかと……。セクハラ、パワハラで訴えられますよ?」
「……世知辛い世の中ですね」
「全くです」
……あの。憂を離して貰えないと立ち去れないんですけど。佳穂たちも廊下で待ってるし……。
「千穂さんに憂さん、お待たせ! ごめんね。すぐそこの廊下でクラスの子が待ってるから驚いちゃった」
「リコちゃん――おはよ!」
「……先生、おはようございます」
憂に先を越されるし。
「いたみ――もどった――!」
うわ。随分とストレートに……。まぁ、どの道バレちゃうからね……。難しいことは抜きでいいのかも。
リコちゃんセンセは……固まってるね。
「憂さん……それ、ホント……?」
あ。そう言えばそうですね。私も聞いただけだし。
「ちょっと……ごめんね……」
リコちゃんの右手が憂の左手の甲に伸ばされる。
「白鳥先生!!」
「それはダメですよ!」
「あ……。はい! ごめんなさい!」
つねろうとしたんですよね? 気持ちは分かりますよ? センセ?
「なんで止める!? 白鳥先生を1-5担任から降ろす絶好のチャンスだったのに!!」
「あ! しまった!!」
冗談か嘘か判りません。職員室って面白いかも。
リコちゃん、落ち込んでるし。喜怒哀楽激しい人だから。
「憂……? ちょっと……ごめんね」
「――千穂?」
憂の肩を掴んでギュー。肩揉みの要領でちょっとずつ力を足していく。
「千穂――いたい――よ?」
ちょっと早過ぎない? あんまり力入れてないよ? もうちょっとギュー。
「いたっ! ――いたい! ――千穂!」
…………可愛いなぁ。か弱い抵抗しちゃって……。
「いたい!! 千穂! いたい――!!」
「千穂さん!? もう分かった! 十分だから!!」
はっ!?
「うぅ――千穂――ひどい――」
私は何を……。
「ごめん! ごめんね!」
「千穂――こわい――」
…………。
真面目にショックですよ?
「――ごめん――なさい――」
……それは何へのごめんなさいなのかな……?
ガバリ。
リコちゃんが憂を抱き締める。よく見るなぁ……。こう言うシーン。愛され妹キャラだから仕方ないのかな? 私はちょっと複雑です。ちょっと複雑って言葉、変だよね。どっちやねーんって感じ?
「……なんてうらやま、けしからん」
「セクハラって騒いでみますか?」
「学園長が白鳥先生の味方だからなぁ……」
まだやってたんですか……。
憂の痛覚が無かったことについて生徒内では、なんかあいまいな感じ?
職員室で憂の話を聞いてた先生たちには、リコちゃんから口止め。総帥さんの存在までちらつかせて。念入りに。
人の口に戸はなんとか……って言うから、無駄かもだけどね。
無痛の話自体が、あまり広がってなかったんだって。情報通の梢枝さんの話なんだけどね。噂を大きく拡散させてた人たちは部活に精を出してるんだって。だから噂の広がりが前より遅い。
……よくわからないけど、そうなんだって。
机に頭をぶつけたりしてた時も『いたい』言ってたし。そんな事もあって、情報は広がりが遅い上に混乱状態なんだとか。
痛みに鈍いだけ。
痛覚は全て失われている。
部分的に痛みが無いだけ。
ごちゃごちゃしてて、どれが本当の事か分からないとか。
『好ましい状況やわぁ』って、言ってたから良い傾向なんだろうね。
……よく分かんないけど。
そこに職員室で憂が言っちゃった『痛み戻った』発言でしょ?
先生方から無痛からの回復の噂が広がったとして、無痛の噂そのものが混乱状態?
だから……。えっと……どうなるんだろうね?
『その内、無痛そのものが無かった事になるかも知れへんねぇ』
……なんだって。ちょっとごちゃごちゃしすぎてて分からない。私みたいな普通の人には。
そんな相変わらずの噂の人物。
憂に異変が起きたのは4時間目。憂の好きな数学の時間だった。
「うぅ――」
先生の声が聞こえるだけの静かな教室に、憂のうめき声が響き始めた。
「――いたい――」
「憂? 大丈夫? どこが……痛いの?」
千穂の問いに憂はいつもの通り、小首を傾げて、考え始め……すぐに思考を放棄した。
「あぁ――いたい――」
頭を抱えて、机に突っ伏す。
「立花さん!?」
添枡の後任の女教師も動揺を隠さない。この先生も憂の事が可愛くて仕方ない先生の1人だ。自分の受け持つ数学だけ良い点数を取ってくれた、障がいを抱える薄幸の美少女。可愛く思わないはずがない。
「ちょっと――ねさせて――」
それから5分ほど『あぁ』『うぅ』と唸り、そして入眠した。
千穂が憂の背中を擦り、千晶が憂の頭を撫でてあげていた。
その間も一応、授業は進行した。しかし、教師を含めた全員が集中出来なかった。ほぼ全員では無い。全員が……である。
憂が規則正しい寝息を立て始めてからも、空気はどこかおかしかった。苦悶の声こそ上げなくなったものの、やはり心配なのだろう。
「先生? ウチ、お腹が痛うて……。少し外させて下さい……」
……そう言い残すと梢枝は途中で離席したまま、授業が終わるまで帰ってこなかった。
キーンコーンカーンコーン……。
4時間目の終業を鐘が鳴ると、モゾモゾといつもの通りに憂は起き出した。
「憂? 大丈夫?」
「――ちょっと――マシ――」
マシ。逆を言えば、まだ痛いと言う事だ。女教師は憂に辛かったら保健室に……と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで教室を後にした。入れ替わるように戻ってきたのは梢枝である。
「憂さん、千穂さん、病院……行きますえ? 島井先生は、もう来てはる……」
そして、今日もまた蓼園総合病院最上階へ赴くのだった。
千穂の授業の遅れが心配になってくるが、心優しい少女として、むしろ内申には良い影響を及ぼすかも知れない。
状況は梢枝により、既に島井に伝わってた。痛覚の回復と頭痛の事。千穂も梢枝も憂は頭痛に苦しんだものと断言した。
「頭……痛かったの?」
千穂が車中で憂に問い掛け、後悔する羽目になった。
考えようとした途端に『いたい』と呻き始めたのだ。
最上階のVIPルームに到着すると、憂はすぐに寝かし付けられた。祐香と梢枝、そして千穂。この3人で。これは島井の指示だった。渡辺もVIPルームに駆け付けた。島井は渡辺に情報を伝達しながら、2人とも難しい表情でその様子を診ていた。
10分以上、辛そうに呻きながらようやく眠りに就いた。脳が欲する午後の昼寝の時間である。普段の寝入りは早い。睡眠欲と苦痛による覚醒がせめぎ合ったのだろう。
憂が眠りに付くと、島井が口を開いた。それは医師としてのものだった。
「……そうですね。痛覚の回復の副作用……と、云った処でしょうか? 以前にも……いや、貴女方に言ってないのかな? 実は憂さんの脳は物理的に半分ほどになっています。残った半分の脳は普段から酷使され続けています。今までは皮肉な事に無痛症に守られていたのでしょう……。そう推測します」
「……頭痛への対策はありませんか?」
梢枝の知識は深い。だが、それはあくまで年齢に見合わず……と、注釈を付けなければならないレベルだ。医療知識で専門家たちに敵う筈はない。
痛み止めくらいしか無いだろうと思う。
左足裏の傷。これも化膿を恐れるならば抗生物質と化膿止めを予防内服すればいい。ところが島井は、内服薬の処方をしなかった。軟膏の塗布の回数を増やし、化膿の防止を図った。つまり、内服を善しとしないのだろう。已むを得ないと梢枝は思う。
「…………」
島井先生は眉間に皺を寄せ、考え込む。
「まさかこんな事になるとはねぇ。これだと折角回復した痛覚がまた失われちゃうかもねぇ。上手い事、頭痛だけを切り離してくれたらいいんだけど……。普通なら有り得ないけど、憂ちゃんだからねぇ……」
島井の間を渡辺が埋めた。心配な表情のクラスメイトたちに沈黙は良くないとでも思ったのかも知れない。
「そうですね。しばらくは早めに睡眠を取り入れましょう。授業の兼ね合いを含めた対応を。それと極力、憂さんと会話をする際、考えなくて済むよう話し掛けましょう。『元気ですか?』ではなく『元気だね』と云った具合ですね」
島井は簡単に言ったがそれは難しい。千穂も梢枝も安易な返事は出来なかった。
「そんなに難しく考えないでいいよ。島井先生の言い方が悪かっただけだからね。要は脳に負担を掛けないようにしてあげればいい。今朝、何時に起きたか知らないけどね。それからしばらくは普通に話し掛けてただろうし、普通に授業を受けてたんだからね。出来るだけ……。可能な限り……でいいんだから」
「……それなら」
梢枝は返事をしたが、千穂の表情は冴えない。
「……千穂さん?」
梢枝は、その凛々しい顔を顰める。今や妹分とも思える千穂まで凹んでしまっては仕方が無いだろう。
……以前の彼女ならば違ったかも知れないが。
「私……。私のせいかも……」
「……どう言う事かな?」
島井は訝しそうに。それでも優しく千穂に問い掛けた。
「私……憂を誘導したんです。強く願わないとダメだって思って……。痛みが必要だって憂自身が思わないといけないって思って……」
「なるほど!!」
「先生。声が大きいです。憂ちゃんが起きちゃいます」
祐香に渡辺が窘められる。どうにもこのVIPルームでは看護師の力が強いようだ。実際に島井も渡辺も看護部長も、憂の専属看護師たちには頭が上がらない部分がある。
「あぁ。ごめん。それにしても千穂ちゃん、凄いね」
「……え?」
「僕、目から鱗がポロポロと。そりゃもう沢山」
「あの……意味が分からないです」
「『そうですね』でお願いします。島井先生?」
「あ、あぁ……そうですね……」
言うのか。良い人だ。『そうですね』は島井の口癖だ。多くの者が気付いている分かりやすい癖だ。ようやく空気が和んできた。憂の知り合いには場の雰囲気を大切にする人が多く見られるのは何故だろう?
「我々、医師の悪い所でしょうね。我々はよく気持ちや思いなどを切り離して考えてしまいます。今回の痛覚の回復も千穂さんの言葉を聞くまで、針が刺さると云う外部刺激に脳が反応し、身体のピンチを未然に防ぐ為の防衛本能として、痛覚が戻ったと考えていました。千穂さんの言葉は我々の曇った目から膜を剥がしてくれたんですよ。お手柄です。ありがとう」
「いえ……そんな……。私は私の思い付きで……。その結果がこれだし……」
悲しそうに千穂は眠る憂を見やる。
「痛覚はこれからの生活で必須なものです。まずは喜びましょう」
「…………でも……」
「今まで、頭痛の比では無い状況を乗り越えてきた憂さんです。きっと大丈夫ですよ」
そう語った島井にも願望が見て取れたのだった。