59.0話 言葉の重さ
重苦しい雰囲気だ。
主治医の島井も鈴木看護部長も、専属看護師の伊藤もなかなか話を切り出せない。
千穂は多少はマシになったものの、幾分か蒼白だ。
拓真も……梢枝さえも自責の念に囚われ、顔を上げられないでいる。
そんなVIPルームに愛が到着した。恵も傍に寄り添っている。
「怪我……酷いんですか?」
「いえ……。針での傷ですから。しかし、若干、深く刺さった様子で……」
「どのくらいで治ります?」
「憂さんならば1週間もあれば……と云ったところでしょう」
「そうですか……」
愛もまた俯いてしまった。そんな『お姉ちゃん』の姿を見ると意を決して、千穂は口を開く。愛がまた顔を上げた瞬間とほぼ同時だった。
「あの!「良かったー! 憂を本当に叩くつもりだったんだけど、必要なくなったみたいだね!」
「え……?」
全員が驚き、顔を上げた。さもありなん。声を上げられたのは千穂のみだ。
「鞭。通販しちゃった! よくわかんないから3種類ほど!」
「えぇ!?」
愛は手慣れた手付きでスマホを操作すると、千穂に画面を見せた。
そこには何やら如何わしい通販サイトの購入履歴。
たしかに3種類の鞭の画像が載っていた。千穂はその下に【他6点】の表記を目にした。鞭3種の画像の上にも何かあるらしい。表示が10件だとすれば、16点と云う事になる。
「あ、あの……他「あー!! ホントに良かったー!! これで痛覚回復は近づいたよね!?」
言いながらスマホを待機画面に戻すと、スーツの内ポケットに仕舞い込んでしまった。見せてあげないと云った態度である。
千穂は静かにそっと憂の前に移動した。梢枝もだ。
「あ、あの!! 憂に酷い事するつもりだったんですか!?」
「千穂――?」
「梢枝――?」
憂は自分を守るように立った2人の行動が、不思議で仕方ないようだ。しきりに2人と姉を見比べている。
「憂を……鞭で……ね」
愛は何かを振り下ろすジェスチャーと同時に、憂への配慮の口調で話した。立ちはだかった2人を無視する姿勢を伺わせている。
「――え!?」
「昨日の言葉! 本気だったんですか!? 見損ないました!!」
「ち、千穂さん!?」
降って沸いた険悪ムードに病院関係者サイドにも動揺が波及する。恵以外に。
「痛み……無いから……大丈夫」
「愛さん!!」
憂は小首を傾げた。梢枝はここに来て何やら理解した様子で見せ、一歩下がった。一方の千穂は興奮状態に陥った様子だ。
「お姉ちゃん――それでも――いやだ――よ?」
憂は涙目で怯える。姉の動作で理解してしまったらしい。
そんな憂を抱きかかえるように覆い被さり、「大丈夫だよ」と憂をあやす。千穂は全力で憂を守るつもりだろう。姉が本当に鞭を手にしていたとしても同じ行動を取った……かは、不明だ。
「大丈夫……。嘘だから……」
「「「……え?」」」
いくつかの声が重なった。2回目の……さもありなん。
「嘘だって!!」
尚も訝しげな面々を前に「本当に嘘ですよ」と恵が援護した。
―――本当に嘘なのである。
愛はNSに到着するなり、出迎えた恵に千穂の様子を聞いた。
怪我の経緯は島井のセダンの車内からの電話で聞いていた。その時、今朝の千穂の様子を思い出し、自責の念に囚われているだろうと予想していた。
恵の返答は予想通りのものだった。
そこで1つ芝居を打った。
千穂を挑発する事で元気付けようとしたのだ―――
「千穂ちゃん! これからもその調子でお願いね!」
千穂が、ものの見事に反応を示したので、愛は明るい調子で言葉を発した。かなり満足そうである。
「お姉ちゃん……。あ!」
……時折、思考内で『お姉ちゃん』呼びしていた事が仇となった。ついつい、そのままを愛の目の前で呟いてしまったらしい。
「あ!! それ、すっごく嬉しいかも!? 私も『千穂』って呼んでいい?」
「ごめんなさい……。お姉さん……」
「……残念。まだ早かったかぁ……」
「――どう――なってる――の?」
憂は小首を傾げ、いがみ合っていた筈の2人を見比べていたのだった。
そこからは報告会となった。千穂は元気をある程度、取り戻した様子だ。ある程度なのは……今日は重い日らしい。察してあげて欲しい。
梢枝は犯人を名指しした上で、処遇はここに居る面々に任せた。
「私としては許せない……。けど、それが憂にとってマイナスになるなら我慢する」……と、愛は語った。そして憂に問い掛けた。ズバリ、ストレートに。
「憂は……許す……許さない……?」
憂は小首を傾げ、長い間、思案した後に返答した。
「――なに――を?」
彼女は何故、足の裏に怪我を負ったか、いまいち解っていなかった。
……この状況の説明には、かなりの時間を要した。タブレットが教室に置き去りとなっている影響もある。
なんでもない、と誤魔化すことも出来たが、愛はそれを善しとしなかった。
憂はようやく自身が悪意……イジメのターゲットとなっていた事を理解すると、事もなく言い放った。
「――しかた――ない――よ」
「おせわ――されて――ばっかり――」
……翻訳しよう。『チヤホヤとお世話されてばっかりの自分を嫌う人間が出てくるのは仕方ない』と言った。オウム返しを繰り返し、得た言葉を纏めたものだ。
その前に理解していなかった事に驚く。
「もう――しない――それで――いいよ?」
憂が自分の意思を表明した。
それはこの場では何よりも重い。
あの2人を許せない想いは強い。しかし方向性は定まった。憂が許すのなら許す。穏便に済ませる方向で話は纏まった。
たくさん話してくれた少女を見て、島井は、かつての憂の言葉を思い出す。
『――ボク――ふつうに――くらし――たい――』
それは突然の言葉だった。
今のように、その時はよく話してくれた。
『――がくえん――いきたい――』
『――いえに――かえりたい――』
啜り泣きながらも、どこか申し訳なさそうに、そう希望を口にした。
知る者たちは頭を突き合わせ、その細やかな希望を叶えるため、幾度となく話し合った。こんな事態も当然のように予測していた。
その為、総帥の威光を傘に、学園長を引き込んだ。千穂、拓真、勇太。この3名が好きに動けるように。
つまり今回のイジメに関して、介入の難しい病院サイドは元より静観の構えなのである。冒頭の重苦しい雰囲気は、実際に憂に悪意が向けられた為にもらたされたものだ。彼ら病院サイドも憂に並々ならぬ想いがある。
ここに来て、脳外科医・渡辺が合流した。なんでもオペを済ませた直後らしい。
彼への状況説明の傍ら、看護部長は憂に慈愛の表情で話し掛けた。
「憂さんは……どうして……優しいの?」
憂は看護部長の言葉を受け、小首を傾げ考え込む。
どうしてそんなに優しくしていられるのか。今回の一件は怒りを露わにしても問題ないはずだ……と鈴木は思う。
鈴木はフローレンス・ナイチンゲールを敬愛している。
そのナイチンゲールに関する書籍で知った言葉を、今も胸に抱いている。
『愛とは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること』
鈴木は、この言葉を胸に慈愛の精神で患者に応対し続けてきた。長年のそれが認められ、看護師たちの頂点に立った。その高みで多くの看護師を観てきた。自己犠牲を厭わない、若かった看護師も観てきた。その者たちの多くは歳を重なるにつれ、どこか変わっていった……と、鈴木は嘆く。
憂の優しさは、そんな若かりし頃の看護師たちの博愛に匹敵した。
「みんな――やさしい――から――」
鈴木の瞳がより一層、輝く。受けた優しさの分、自らも優しく接する……と、この少女はそう思っていると捉えた。
……そんな優しさに溢れた少女にそっと手を伸ばす。
「――いじめて――あたりまえ――なのに――」
話は終わったものと思っていた。続いた言葉に手が止まり、息を呑む。咄嗟に否定を投げ掛けられず、押し黙ってしまった。
「かくして――くれてる――だから――」
小さく儚く自嘲する少女を強く抱き締めた。更なる言葉は聞きたくなかった。
「かんご――ぶちょ――?」
なんと云う事でしょう……。
そう鈴木は思った。この少女は自身が敵意を向けられて当然の存在と思っていた。現時点で向けられる敵意が少ないのは、男子から女子へと変貌した事実を隠しているからだ……と。
残念ながら憂の指摘は的を射ている。事実が判明した時、奇異の目に晒される事は間違いない。その中で、いずれは明確な悪意も育まれる事だろう。
「――え?」
「――えぇ!?」
話を聴いていた愛も、千穂も、恵も。憂を抱き締めた。伊藤は悲しそうにその様子を見守っていた。
「……どう言う状況かな?」
学園での一連の出来事を知った渡辺は、その光景を目の当たりにすると、不思議そうに首を傾げたのだった。
「……ずるいわぁ……」
……梢枝は自分が参加するスペースを見付けられなかった。
報告会は再開された。
拓真は無痛について保健医に話した……と明かした。梢枝も例の2人と話す最中、秘密保持が出来なかったと伝えた。
これについては誰1人、彼らを咎めなかった。
憂の足裏からの出血の発覚は、公然周知の中だった。何故、痛がらなかったのか。想像は容易だ。
「これは島井先生の判断ミスですねぇ」
「……そうですね」
渡辺の指摘を島井は即座に認めた。だが、少し思案すると言い分を反転させた。
「うん? 公表していたとしても同じではないですか……」
改めて考えた結果、どの道、同じであることに気付いたらしい。
「あ。ホントだ。すいません」
「「…………」」
医師たちのどこか間の抜けた遣り取りに、一同は沈黙する。
―――纏めておこう。
憂が無痛症である事はすぐに広がってしまう可能性がある。憂に関する噂の広がりは異常に早い。最近はスレッドの住人そのものに変化があるようだが、それでも早い。
無痛の事実が広がる。これは更なる同情を集めるだけに過ぎない。
同じように悪意を向けられた場合には問題となるが、それは今、考えても意味を成さない。
バレた事が問題となるのは痛覚の回復後の話だ。
痛覚の回復。前例は無いのかも知れない。それは脳再生と云う真実の発覚に繋がる恐れがある。
無痛を公表していた場合、やはりそれが回復したことに疑問を抱く者が現れるのだ。
つまり最初から公表していようがしていまいが関係の無い事なのだ―――
医師も看護師も学生も会社員も考える。激論を交わす。垣根を越えて意見をぶつけ合う。
そんな中、VIPルームの人数は更に2人増加した。
女性秘書を伴い、現れた人物。この街の……蓼園市のドン。蓼園 肇その人である。
彼は島井からの報告を受け、駆け付けたのだった。
彼は伊藤によってNSを経由し、VIPルームに入室した時、苛立ちを隠そうともしていなかった。その場のほとんどの者に緊張が走った。梢枝さえもだ。総帥の力を持ってすれば、今回の失態により、解雇、退学、復学不能……そこまで可能だ。今の梢枝には憂の居ない生活は考えられない。想像もしたくないのだ。弱くなる以前の梢枝からは、想像も付かない変化と云える。
だが、総帥の態度は憂が「そうすい!――ひさしぶり!」と笑顔を見せると一変した。
「憂くん! 久しぶり!」
「肇さま? 憂さんはれっきとした女性ですよ?」
抱き付こうとしたが、女性秘書によって阻まれた。
「……わかっている。ちょっとした冗談じゃないか……。それより、傷はどうだ? 島井くん?」
「憂さんならば、全治1週間と云ったところです……」
「犯人を退学させろ」
温度が急激に下がった……が、それもすぐに戻る事となった。
「憂は許したいそうです」
愛の言葉に目を剥き……、そして破顔した。
「わははははは!! 憂くんは優しいな!! それでこそ天使だ!! いいぞ! 流石だ! 懐の広いことよ! 皆もそう思わんか!?」
曖昧に返事を返す一同を満足そうに見回すと、女性秘書に指示する。
「学園長くんに今すぐ連絡を入れろ。その2人を呼び出し、2度目は無いぞと説教だ。儂の名を使っても構わんと」
「承知致しました」
女性秘書はスマホを取り出し、そして少し困った表情を見せた。
「あぁ。そうですね。スマートフォンの使用は、もうここでも問題ありません。ここに居るのは憂さんの絶対の味方だけですから。もう撮られて困るものもありませんので」
以前は秘密保持の為、持ち込み禁止となっていた写真機能の付いた機器の持ち込みだったが、島井は今は梢枝も信用しているようだ。全員が電源をOFFせぬまま持ち込んでいる。
「それは助かります」と女性秘書は、すぐに学園長に連絡を入れたのだった。
「今は何を話していた?」
「それは……」と島井は詳細に説明する。無痛症について噂の封じ込めに走るか、様子を見るか……。そして様子を見た場合の想定される事態。そこを議論していた……と。
「捨て置け。儂も小児性愛に目覚めた等、くだらん事を言われている。火の粉を無駄に払えば要らん所に飛び火する」
総帥の言葉は強い。物理的にだ。総帥はその気になれば島井さえ、身の破滅へと追い込める。
方針は一瞬で決まった。脳再生について勘付かれ、広がってしまっても已むを得ないと。
そうと決まれば、次はそれが広がり、各方面から干渉が始まった時の対策だ。
再び討論が熱しかけた頃、憂が腹を抑え、困り顔を見せ始めた。
「憂? どうしたの?」
これに気付いた千穂が問い掛けた。全員が注目する。
「――おなか――すいた――」
『はら――へった』とは言わなかった。千穂の言い付けを守っている。いい子である。
「おぉ! それはいかん! 中止だ! この話は次の機会だ!!」
やはり憂の言葉は総帥の言葉よりも重いのだった。
総帥の名誉の為にひと言加えておきたい。
小児性愛。あながち間違っていないようにも見受けられるが、対象は憂にのみ向けられている。
性的な目は向けていない事も断言しておこう。
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簡単に予告など入れてます。文字数制限のお陰で「ごく簡単に……」ですが(;´Д`)
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