58.0話 不運の重なり
――6月2日(金)
【ごめん! 憂がなかなかトイレから出て来なくって!】愛
(もう……なんなのかな!?)
5分ほど前、愛からのメッセージを受け取った千穂は苛立っていた。返事は返した。大丈夫ですよ……と優しい文面で送った。
だが、イライラしている。愛からのメッセージで始まった事ではない。朝、目を覚ました直後から不機嫌だ。
……あの日である。
千穂は憂の事故後、体重を大きく減らした。それ以降、生理不順となってしまっている。
今回は2ヵ月空いた。そして、いつもより重い。
(憂はまだ無いって……いいなぁ……)
千穂は1人、頭を振る。
(いい訳ないじゃない! 私のバカ!)
……自分でイライラを募らせて貰っても困る。
スマホで時間を確認する。8時44分。まもなく朝礼の開始時間だ。
朝礼には遅れたくない。以前、みんな心配したと千穂を責めたからだ。
(あ! 来た!)
愛の愛車(軽)がいつもより乱暴に駐車される。
「ごめん! この子、珍しく便秘だったんだよ!」
愛が降車するなり言い訳した。
「……急ぎましょう!」
「う、うん!」
愛は慌てて後部座席の助手席側のドアを開き、憂の隣から車椅子を引っ張り出す。
千穂は憂の乗る指定席のドアを開けると『憂? 降りるよ』と素早く憂を立たせた。
「千穂――? ――おはよ――」
「うん。おはよ」
憂を立たせると既に車椅子準備済み。小さな手を引き、すぐに座らせる。憂のスカートは膝下の物だったが、焦り苛立つ千穂は気が付かなかった。
「愛さん、行ってきますね!」
「あ。うん。気を付けて……」
車椅子を押しながら駆けていく千穂の後ろ姿を見ながら愛は思った。
(あの日かな……?)
正解である。愛は腕時計を確認すると「いっけない!!」と、また慌てて愛車に乗り込み、暴走気味に発車させていったのだった。事故は起こさないで頂きたい。
(ちょ! 千穂ちゃんなんでこんなに急いでんだ!?)
康平は憂の下駄箱に到着した。遅い到着のこの日、周囲は人で溢れ、騒がしい。
「……はよー!」
「おはようございます!!」
(千穂ちゃんの声だ! 早いって!)
慌てて憂の上靴を取り出し、引っくり返した。
「あ! 憂ちゃんに千穂ちゃん! おはよ!」
「おはよ!」
(よっしゃ! 今日もなんも無し!)
「憂! 前、上げるよ!」
「わぁ――!」
「憂ちゃん、おはよー!」
いつもより勢いがあったからだろう。千穂の声掛け虚しく驚く憂なのであった。ちょっと可哀想である。
「康平くん! ありがと!」
千穂が憂のローファーを康平に手渡し、交換で上靴を受け取ると憂に履かせる。
「……あれ!?」
なかなか上手く履かせられない。
周囲の喧騒を聞き流しつつ、千穂は力を入れ、やや強引に憂の小さな左足を上靴に押し込んだ。
「憂ちゃんだー! おはよー!!」
「――あれ?」
「ゆ、憂さん、おはようございます……」
多くの挨拶の中、憂が小さく呟き小首を傾げた時には、千穂はドタバタと自分の靴を履き替えている最中だった。
「――おはよ」
「千穂ちゃん? 落ち着きや?」
「憂! 行くよ!」
千穂は自身も靴を履き替えると、パタパタと車椅子を押しながら走っていった。そんな千穂の背中を2人は見詰める。
「千穂ちゃん、どうしたんだ?」
「あの日やないですかねぇ……?」
「うわっ! 急に出てくるな!」
「なんですか? 人を幽霊か何かみたいに……」
「似たようなもんやろ?」
教室の自身の席に着き、朝礼が終わるや否や、千穂は机に突っ伏してしまった。
結論だけ言えば朝礼にはギリギリセーフだった。
教室に向かう途中で、各教室に移動する担任教師たちに追い付いたのだ。
この日の朝礼は7月の頭に開催される『大運動会』についての話があった。
高等部からの参加希望者が少なく、募集期間を延長するそうだ。
『大運動会』について説明しておこう。
大運動会は初等部、中等部、高等部の合同で行われる運動会である。
その名の通り、初等部に合わせた運動会である。
初等部の児童は全員参加。中等部と高等部は参加希望者を募り、参加する形式が取られている。つまり、初中高の交流を兼ねた運動会……なのである。
利子に話によると毎年、応募者が少なくて困っているらしい。暑い時期の開催の為、已むを得まい。詳しい話は本日5,6時間目に話し合うそうだ。
利子は朝礼を終わらせると、すぐに憂の元に小走りで駆け付けた。
千穂もそれに気付き顔を上げる。具合は悪そうだ。薄っすらと脂汗をかいている。
しかし、彼女には憂のトイレ他、使命がある。早退など出来ない。それも不機嫌の原因の1つのようなのだが責任感の強さか。
憂が何やら足元を気にしていた。もぞもぞしており、気付いた勇太が声を掛けようとした瞬間、利子が先に声を掛けた。
「憂さん……お願いが……」
「――はい?」
憂は顔を上げ、背筋を伸ばし対応を開始する。
「大運動会……参加して……欲しいの」
もちろん『治ったら』だが、憂には長い。省略したのだろう。
憂は小首を傾げ思案を開始した。
「――いいです――よ?」
2分ほど後で色良い返事をした。元々、部活もなければ、外せない用事も病院通いくらいのものだ。
「本当!? これで参加者問題は一気に解決だよー! ありがとー!!」
憂の人気にあやかったと思われる。たしかに憂の参加が周知されれば希望者殺到だろう。今度は人選に困りそうな予感がするが、それはその時とでも思っているのだろう。
「それなら……私も……」
「千穂さんも!? ありがと……って、大丈夫!? 顔色悪いよ!?」
「大丈夫です……」
「無理せず、ダメだったら保健室にね。憂さんの事ならお友達に今日だけでも任せてね」
「はい……」
利子はもう1度、「本当にありがとね」と礼を述べると足早に背を向け、立ち去っていく。1時間目の始業が押し迫っているのかもしれない。
「千穂ー。無理するなー。あたしら頼れー?」
「ほんま、大丈夫でっか……?」
「うん……。とりあえず、1時間目は寝とく……」
「千穂! その前に……ナ○ンエース飲んどく?」
「ロキ○ニンもカ○ナールも有りますよ……?」
「ロキ○ニンで……」
憂を含めた全員が心配そうに千穂を見詰める。
「……よっぽど辛いんだね」
千穂が痛み止めを内服した直後、始業の鐘が鳴った。
数学教師への挨拶と点呼が終わると、すぐに千穂は宣言通りに突っ伏してしまった。
千穂が眠るまでの間、憂は授業への集中など出来ず、よしよしと千穂の頭を撫でていた。それが心地良かったのか、しばらくすると彼女は穏やかな寝息を立て始めたのだった。
憂は千穂の入眠を見届け、小さく微笑むと、一度だけ足元を気にした。その後、すぐに気を取り直し数学の授業に集中し始めた。数学は唯一、付いていけている科目だ。熱中し、足元の事は忘れてしまったようだ。
発覚したのは一時間目の修了後の事だった。
「千穂。憂ちゃんも見学なんだから保健室行ってきなさい」
2時間目は体育の授業である。ギプス装着中の憂は当然ながら見学なのだ。もしも本人がやりたいと言ったとしても、周囲も体育教師も止めてしまうだろう。
「ちょっと寝たら楽になったよ? 薬も効いてるみたいだし。ありがと」
そんな会話の中、憂が徐ろに立ち上がり、車椅子から脱出した。
「憂?」
「――なんか――ごみ――?」
そう言うとギプスに覆われた右足一本で立ち、左足の上靴を脱ごうとし始めた。
「ごみ? 何も入ってへんかったけど……」
「憂ちゃん? 危ないよ?」
千晶がすぐフォローに入る。放っておくと転んでしまいそうだ。
「机……持ってて……」
彼女の指示通りに机に両手を突き、左足を後ろに上げた。その足を支え、上靴を脱がす。すると、それでなくとも千穂への心配から翳っていた表情が歪んだ。
「……な、にこれ……」
「え? なに……?」
「どした?」
千晶の声を聞いた千穂と佳穂が席を立ち、回り込む。
「「…………!?」」
2人とも言葉を無くしてしまった。そんな女子たちの異変に拓真と康平が動き出す。勇太はすでに困惑の表情だ。窓際最後方席の勇太の位置からは確認できた。赤く染まった憂の白いソックスが。
「――どしたの――? ――ごみ――あった?」
憂は小首を傾げ、問い掛けた。至って、平然とした表情で。
「え!? ううん!? なんでもないよ!!」
「痛っ!」
千晶から奪うように受け取り、上靴に突っ込んだ手をそのままの勢いで引き抜いた。康平の右手第三指……中指には赤い珠が出現した。
再び、そっと右手を差し込みゴソゴソと手を……指先を動かす。
「あ――」
憂がバランスを崩す。両手を机に突き、体を支えているとは言え、ギプスを嵌めた右足1本での立位保持には、彼女の場合、無理がある。
憂は車椅子にそっと座らされた。
憂はスカートを気にしながら足の裏を確認する。先程、咄嗟に佳穂が誤魔化そうとしたが、意味の無い行為だ。佳穂を含めた全員がそれを理解している。
「――あれ?」
見ればクラス中の注目を集めていた。次の授業が保健体育であるにも関わらず、息を顰め成り行きを注視している。
康平がそっと上靴から右手を引き出す。康平の右手には血液が付着していた。自身のごく少量の血と、残りは憂の血だ。
その憂の血に塗れた康平の右手の指先にあったもの。長さ2.5cmほどの短い縫い針。
それを見た瞬間、梢枝が無表情に歩き出す。
千晶は憂の靴下を脱がし、愛嬌のある顔を顰める。
憂の足を見て、千穂の両手が小さく震え始める。
拓真がスマホを片手に教室を後にする。
勇太が悔やみ、奥歯を噛み締め俯く。
佳穂は体育館へ……とクラスメイトを促す。
梢枝は呆然としていた女子2名に声を掛け、2人を伴い何処かへ去る。
「――ごみ――ちがった?」
憂は自身の血塗れの小さな足の裏をペタペタ触りつつ、小首を傾げたのであった。
1人ずつ整理する必要があるようだ。
まずは拓真。彼は憂の足の裏の傷が深いものと見るや、島井に連絡を入れた。
『すぐに行きます』と言質を取った拓真は、教室に戻るなり、「保健室に……」と憂の車椅子を押し始めた。
佳穂はクラスメイトたちを体育へと追い立てると、拓真の後を追い、保健室へと同行した。
勇太と千晶は教室に留まった。千穂が恐慌状態……とまではいかないが、激しく動揺していた為だ。
「私……。憂の上靴……。何か引っかかって……。無理に履かせて……。刺しちゃった……。刺したんだよ……私が……」
「千穂……」
「千穂ちゃん……」
「私……。朝からイライラしてて……。私のせいだ。私の……」
千晶が千穂を強く強く抱き締める。精神的に脆い部分が彼女にあるのは、以前の体重激減が証明している。
「1人で抱え込まないで。早く気付けなかったのは、わたしたちもなんだ」
「そう、だよ。オレ……憂が足元、気にしたの見たんだ。でもオレ……」
梢枝は2人を伴い、屋上へと向かった。今のところ屋上には、ほとんど人が立ち入らない。
そこに向かう最中、思う存分に思考した。
2人組はかつて、3人組であった。当初、憂を心良く思わなかった者は5組内に3名居たのだ。その内の1名は、現在連行中の2人が画鋲を仕込んだ後、付き合い切れないと離れていった。少女はその際、もうしないようにとしっかりと言い含めていた。
そこまでは把握していた。
それから2人は一切、憂に手出ししなかった。転室まで大人しくするだろう……と思ってしまった。
朝礼の前も後も千穂を気にするあまり、憂の動作には気付かなかった。授業中、ふと足元に視線を送った事には気付いたが、憂が授業に集中し始めた為、それを重く捉えなかった。
失態だ。梢枝は爪が皮膚を傷つけるほど、強く拳を握りしめていた。
康平は拓真の行動を見届けると、梢枝を追いかけた。合流すると屋上の扉を開いた。瀬里奈たち2人を伴って。
「貴女たち……ですよね?」
梢枝は彼女らを真っ直ぐ見据え、切り出した。切れ長の目が一層、細くなっている。
「……何の事ですか?」
応じたのは瀬里奈だ。もう1人の少女は青ざめている。
「クラス内で憂さんに悪意を持ってはるのは貴女方だけです」
「そうかもね。5組の中ではね。あたしたち、あとちょっとで転室だよ? わざわざそんな事しないって」
「余所のクラスの方がしはった……と?」
「……知らないわよ。でも、そうかもね。あたし、あの子って大嫌い。媚売っちゃってさ。あたしみたいな子が他にも居たっておかしくないでしょ?」
梢枝は歯噛みする。隠しカメラは、しばらく何も起きなかった為に撤去した。アレが見付かると騒ぎになる。それは憂にとってマイナスだ。
確信はあるが証拠が無い。
「話は終わり? それじゃ、行くね」
「待てや」
振り向いた背中に康平が待ったを掛けた。
「今度はあんた? 何よ?」
瀬里奈は半身で振り返る。見れば、彼女の瞳は怒りを湛えていた。
「良心が咎めんのか? 酷い怪我だった」
「あたしに言「なんで!? なんであの子、針が刺さって平気そうなの!?」
「ヒナ!?」
「ほんのちょっとチクって刺さって「ヒナ! やめて!!」
「もうやめるのは私たちだよ!! ねぇ! なんでなの!?」
動揺したまま、犯行を自供したのは、どこか大人しそうな少女だ。
「痛み……痛覚が麻痺してる」
隠すだけ無駄だった。憂が痛そうな素振り1つ見せなかった事は、クラス中の者が目撃している。
「は!? 何それ!? それ知ってたらあたしらだって、あんな事しなかったよ! あんたたち知ってたの!? 隠してたんだ! あたしらばっかのせいにしないでよ!!」
「瀬里奈!」
瀬里奈は自身がヒナと呼んだ少女を残し、逃げ出した。
康平も梢枝も追わない。金に近い茶髪の少女は自白した。それで十分なのである。憂の傍には誰かが絶えず付いているはずだ。
「……ヒナさん?」
「ヒナタ。あだ名で呼ばれたくない……」
陽向。それが残された少女の名前である。陽が当たるように……と願って付けられた名前だろう。そう名付けた両親の願いは届かず、皮肉にも陽陰に身を投じてしまった。自らを貶めた。
「陽向さん。詳しくお話、頂けますね?」
「……はい」
陽向は良心の呵責からか、洗いざらいをぶちまけた。
昨日の放課後、遅い時間まで残り、決行した事。憂の上靴のゴム底に縫い針を斜めに深く刺し込んだ事。以前の画鋲も自分たちの行為であり、康平が毎朝、上靴チェックしている件を知っていた事。本当は軽く刺さって痛がり、イジメを認識させる事で調子に乗った憂を大人しくさせようとしていた事……。
「あの……私たち、退学ですか……?」
「……わかりません。憂さんたちに任せようと思っています」
「梢枝?」
甘くなった……と康平は思う。添枡の時は断固とした態度で免職を迫った。それが今回はよりによって『任せよう』と言う。優しいグループの事だ。許すかも知れない。だが、康平は梢枝の変化を喜ばしくも感じた。
憂たちは保健室に居た。
眼鏡を掛けた真面目を絵に描いたような保健医の男性は、口元を歪める。
「……酷い。なんでこんな事に?」
拓真もまた、隠しようが無かった。針による傷を負った今回の件は、すぐに学園中に広がる事になるかも知れない。
拓真は憂の無痛症……。隠し事の1つを話した。
「無痛……可哀想に……」
保健医は哀しみを湛え、憂の足の裏の傷を洗浄、消毒した。化膿しなければいいが……と言葉を添えて。
そして、保健室に島井が現れると状態を伝えた。
「どうかよろしくお願いします」と深く頭を下げて。この保険医にとって、大切な生徒の1人……なのだろう。
島井は憂の車椅子を押し、1-5を訪れると千穂を回収した。佳穂から自身が教室を離れるまでの千穂の状態と、生理不順の事を密かに伝えられたからだ。佳穂も千穂をよく見ている。直接、月のモノの問題を聞いた訳ではなかったが、気付いていたのである。
梢枝と拓真も同行を申し出た。2人とも話さねばならない事があった。
結果、いつかの5名でいつもの病院へと向かったのだった。
道中は、あの時とは違う重苦しい車内であった。
思えば、この日の事件は不幸な事件であった。
……いくつもの不運が重なった。
愛の到着がもう少し早ければ、康平が上靴の底から深く刺さる縫い針に気付いていたかも知れない。
到着が遅かったばっかりに多くのC棟生徒の挨拶攻めに遭い、注意を逸らされた。
千穂が不機嫌でなければ、もっと憂の様子を見られただろう。
朝礼後、利子が話し掛けなければ、憂は上靴を脱いでいた可能性もあり、勇太も深く考えたかも知れない。この場合はすでに針は刺さっているが、酷くはならなかったと推測できる。
佳穂も千晶も……梢枝を含む全員が全員、千穂の容態が気になった故に、異変を見落とした。
……無痛症を公表していれば、そもそもあの2人も実行には移さなかったはずなのである。