55.0話 都落ち
―――5月29日(月)
「――ちゃん」
「――お姉ちゃん」
「……んぅ?」
憂……? どうしたの……?
「――しっこ」
…………?
あ。そっか……。
私は、もぞもぞとベッドから起き出す。
…………?
あれ? 昨日、ちゃんとトイレ済ませて寝たはずなのに。
そんな事もあるかな? 私もあるし……。でも……これは困ったね。いよいよ部屋を変えなきゃかもね。憂の1階への引っ越し。
でも……部屋を1階に移したとして……途中で、もしも転んだら? 頭を打って失神したら? 最悪、朝までそのまま……。それは困るね。
どうしたらいいのかなぁ……?
私に続いて、憂も布団から出てくる。すぐに憂に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「お姉ちゃん――ごめん――」
「いちいち……謝らないの」
――――――。
「――うん」
背中に感じる憂の体温と、耳元で感じる息遣い。
憂を背負って立ち上がると、トイレに向けて歩き始めた。
はっきり言えば、憂は歩ける。片麻痺の人と同じように装具を着用してるのと変わりないんだからね。でも心配なのはギプスを嵌めているせいで生じる、左右の足の高さの違い。それを忘れて歩き始めたら転ぶよね。
だから、3週間はこのまま。学園ではね。亀裂骨折って設定があるから仕方がない。
家では捻挫が治ったらギプスを外して生活させてあげる予定。邪魔だもんね。こんなの。
しばらくはカーテン全部引いての生活かな? これも仕方がない事。
……また嘘ついちゃったよね。嘘つき家族に嘘つき先生。どんどんと積み重なる嘘。もう千穂ちゃんたち3人には教えてあげてもいいんじゃないかな? 世間には絶対に秘密なんだけどね。
……引いちゃうかな? 引いちゃうよね……。引くだけだったらマシかもね。
最悪なら……。
まぁいいや。その辺りの判断は島井先生にお任せ。そしたらきっと良い方向に向いていくから。
はーい。終点、お手洗いー。お手洗いに到着しましたー。
トイレの中まで一緒に入って、憂を降ろす。憂がしっかり立ったのを確認して、パジャマごとパンツを下げてあげる。
……すぐに座って、すぐに……。
私は慌てて、トイレを脱出。ごめん。限界ぎりぎりだったんだね。
それからすぐに「お姉ちゃん――おわった――」って。トイレを流す音に混じって。
今度は逆再生みたいな行動。
トイレに入って、パンツ、ズボンと上げてあげて。
そう言えば恥ずかしがらないね。
「憂? 見られるの……慣れたの?」
聞いちゃった。憂は不満そうに唇を突き出した。
えい。
突き出た唇を人差し指で押し戻して、そのままにしてたら今度は頬を膨らませた。
「あはは! 可愛い!」
あ。怒った? ごめんごめん。ホントに可愛かったんだよ。
指を離すとその唇を開いた。
「――なれない――でも」
……でも?
「――あきらめた」
んん? 何をかな?
「あきらめた?」
困った時のオウム返し。憂は小首を傾げる。
――。
「お姉ちゃん――こわい――から」
…………。
……そんなに怖い? ちょっとショックだよ。
「――しんぱい――だよね――ありがと――」
すぐにそう言って、小さく微笑んだ。
…………。
人の事、下げておいて上げるなんて……。
キュンって、きちゃったじゃないの!
憂の部屋に戻ると、憂をベッドの奥へ。窓のある壁側。
私はその手前に横になる。落ちちゃいそうで怖いけどね。
昨日から、私と憂は一緒に寝てる。同じ過ちを繰り返す訳にはいかないから。
……次は頭から落ちないとも限らないから。
この子が階段から落ちた時、滑り台を滑るように落ちたと推測されてる。ひと目見て、痣が見付からないのは、お尻に集中してるから。蒙古斑みたいとか言ったら絶対、怒るだろうけど、そんな感じ。
あとは背中にも少しだけ。足首の捻挫はたぶん、踏み外した時。ま、詳しい事は分かんないんだけどね。
スンスン。
こらこら。
……まぁ、いいや。
憂の布団っていい匂い。小さな子どもの匂いとシャンプーとかの匂い。
ん。眠くなってきた。
さ、寝ましょうね。
それから時計は半周ほど回り、愛の軽での送りの後。
千穂は困惑していた。長く空席だったはずの右隣の席に、苦手な男が座っているからだ。
その男は、しきりに隣を……千穂と憂の方を見ている。左隣を見ては口を開こうとし、また噤む。
幾度となく同じその動作を繰り返している。
拓真と康平は、その男の動向に注視している。
健太は男を睨み付け、敵意を剥き出しにしている。
朝礼ぎりぎりの時間に勇太と佳穂千晶が「おはよ」と到着すると、3人が3人共に、その男を二度見した。
そんな空気の中、時計は8時50分を示した。利子が時間ぴったりに「おはようございます!」と現れると朝礼が開始された。
「えーっと。今日は5組への初の転室者の受け入れがありました! 加瀬澤 凌平くんです! 皆さん、仲良くしましょうね!」
利子の紹介にクラスがざわめく。
「……申請解禁から1ヵ月経ってないよな?」
「うん……。6月8日のはずだよ?」
「……って事は……都落ちか」
「はーい! 静かにー!! 凌平くん。自己紹介できるかな?」
「はい!!」
千穂の隣の席に座った男。加瀬澤 凌平は素早く立ち上がり、機敏なメリハリのある動作で教壇の前に移動した。
そこで、腰を折り曲げ、深く一礼すると自己紹介を始める。
「ご紹介に預かりました加瀬澤 凌平です! ある日を境に勉学に集中出来なくなり、特進から『都落ち』しました。集中出来なくなった理由はここにあると思い、5組に転室を希望しました。原因を見極め、勉学に励む環境を取り戻し、また特進へ戻る所存です。しばらくの間、よろしくお願いします!!」
―――通称、『都落ち』。
何度も語っているが、転室は通常、GW明けから申請を受付け、1ヶ月間の待機期間の経過後、晴れて転室となる。しかし、それにはいくつかの例外がある。その1つが特進クラスからの出入りだ。
特進クラスは、その特性上、待機期間を要さない。高度な授業に付いていけなくなった場合、無意味……とまではいかないが、何のためにそこに居るのか分からないような状況となる事がある。そんな状況で1ヶ月間の待機は大きなダメージを残す危険がある。そのダメージを軽減する為に特例として、待機期間を要さない転室を認めているのである。
特進への挑戦も同様だ。そのやる気……チャレンジ精神を汲み上げ、早々に転室する事が出来る。
但し、その特例を悪用した素早い転室は不可能だ。
特進からの出入りは早々に可能だが、入った時も出た時も異動後に1ヶ月間の待機期間が設けられているのである。
そして、この特進クラスからの脱落は、エリートコースからの脱落を意味する。
その為、『都落ち』と呼ばれているのである―――
この加瀬澤 凌平の挨拶は以前、見せていた彼の雰囲気と一線を画していた。かつてキザ男と呼ばれていた面影は無い。
都落ちであると自ら宣言した。都落ちとは則ち、蔑称だ。
彼なりに思い悩み、転室を申し出たものと思われる。
しかし、拍手は無かった。微妙な空気が流れている。
彼が席に付くと、利子は朝礼を締め、急いで教室を出ていった。1時間目から授業を受け持っているのであろう。
「「「…………」」」
少しの沈黙の後、佳穂が凌平に話し掛けた。みんな仲良くがモットーの彼女らしい。
「凌平くん。おはよー」
「お、おはよう……。いきなり下の名前なのか。驚いた」
「佳穂だよ。よろしく」
「あ……うむ……。よろしく頼む。あの……名字は?」
「必要ないよ? 5組は名前呼びしかダメだから」
流石に嘘だ。名字呼び禁止などされていない……が、似たようなものだろう。5組では今や全員が下の名前で呼び合っている。5組に馴染もうと思えば、下の名前で呼び合うべきだろう。その辺りは佳穂なりの気遣いなのかも知れない。
「あらためまして……よろしく。凌平くん?」
「よろしく……かほ……さん」
「よろしい!」
グループメンバーだけに限らず、クラス中が2人に注目している。皆、憂の転入初日に怒鳴り込んできた事を憶えているのである。
「自己紹介で言ってた『ある日を境に』って、前に5組に来た時?」
「……そう。その日だ」
「……じゃあさ。ひと目惚れ?」
「何を言っている?」
凌平の返答に佳穂は首を傾げる。
「今まで……勉強以外に興味持った事は?」
「無いな。必要が無い」
「そっかぁ……。それで……。えっと……ベンキョに集中出来なくなった原因、判明しちゃったね」
「な……に……?」
「勉強してたら憂ちゃんの姿が浮かんでくるんでしょ?」
「何故わかる!? 中間テストは最悪だった! その子の顔が浮かんで集中できない! 特進の授業にも付いていけなくなった! だからひと言、物申さなければならない!」
凌平は興奮している。その興奮状態で立ち上がり、憂を指差していた。すぐに拓真たち男子組が立ち上がる。千穂もまた立ち上がり、その指差しを体で塞ぎつつ、口を開いた。
「あの……さ。朝礼前、ちらちら見てたのって文句言うタイミングを図ってたのかな……?」
「あ……あぁ。通学中からその気だった。だが、いざ到着してみれば怪我を……。可哀想に思い、タイミングを逸してしまった。一体、どうしたと云うんだ!? その怪我は!?」
凌平が手を降ろした為、千穂は座ると小さく吐息を漏らした。
「あぁ……めんどくさ……」
凌平は千晶の呟きを聞き咎めた。
「君は何だ!? 何が面倒と言うんだ!?」
「佳穂があれだけ言ってあげたのに気付かないとか面倒だよね? もう言っちゃうよ?」
「頼む」
「良いんじゃない?」
「憂……大変だね」
「よりによってこんなヤツかー」
「憂さん、大丈夫かいな?」
凌平も多少のスルースキルは持ち合わせているらしい。黙っていた。
グループメンバーの了承を得ると千晶は鋭く切り込む。
「キザ男さん。貴方は憂ちゃんに恋をしています。一方的に、ですが。だから文句を言おうなんて、お門違いも甚だしいです。やめてあげて下さい」
「な……なんだと……」
それからキザ男さん……。ダメだよね。この呼び方は。
凌平さんはすっごく静かになっちゃった。
授業もほとんど聞いてなかったみたい。ますます成績下がるよ?
……って言うか……。やっぱりひと目惚れだったんだね。憂はまだ理解してないみたいだけど……。
まぁ、もし告白されたとしても付き合うワケ無いよね。彼は嫌だなぁ……。
……んー? それじゃ拓真くんや勇太くんと付き合ったら?
………………。
嫌ですね。
未練なのかな?
……勝手だなぁ。私って。自分は憂の気持ちに応えてないのにね。
きーんこーんかーんこーん。
……3時間目、終わっちゃった。
私も集中してないよね。頑張って授業受けてる憂に申し訳ない気分。
あれ? 憂、どこに?
「憂……?」
いち早く声を掛けたのは勇太くん。後ろの席だからね。
「――ん?」
「ん? ……じゃねーだろ? どこ、行くんだ?」
――――。
「ちょっと――ね?」
憂がなんとか机から車椅子ごと抜け出して、キコキコ漕ぎ始める。
がん。
……まっすぐ進めなくて窓際の壁にぶつかった。左右の腕の力が違うからね。
「――うぅ――かべ――じゃま――」
……壁さんは……ね。動きませんよ?
さて……行きましょうか。
「……千穂? どこ行くの?」
「ちょっと……ね」
「憂ちゃんと同じ事言ってるし」
だって……憂が可哀想でしょ? トイレの中にまで付き添いだよ? 少しでも内緒にしてあげたい。
私は車椅子の後ろから、一向に進めない憂に話し掛ける。
「……行こっか」
「――うん」
顔は見なかった。見なくても分かるから。恥ずかしそうに赤くなってるよね。耳が赤いし。
C棟唯一の多目的トイレに到着。
……なんで2階に作っちゃったかな? すっごく不便。
使う側に立たないと気付かないけどね。やっぱり1階にあるべきだと思うよ?
ここに来る途中で昨日、ゴミ拾いをしていた人とすれ違った。たぶん、あの人は例の部活動の最中。ありがたいような迷惑なような……。
ぽーん。
遠くで聞こえる私たちが乗ってきたC棟唯一のエレベータが到着した音。感じる梢枝さんの気配。きっと康平くんもどこかに居るはず。
……いけない。トイレ。入らないとね。
ドアを開いて、車椅子ごとトイレ内へ。
「――千穂――?」
「なに?」
「――おねがい――」
「お願い?」
憂は前を向いたまま小さく頷く。
「ひとりで――」
……1人でしたいよね。恥ずかしいもんね。
「お姉ちゃん――ないしょ――」
えっと……どうしたらいいのかな? 憂が心配な愛さんの気持ちもすっごく分かるし……。
「――おねがい――」
振り返って……。
上目遣いで……。
こっちを見て……。
涙目で……。
今にも泣きそうで……。
せつなそうで……。
悲しそうで……。
儚くて……。
可哀想で……。
可愛くて……。
「……うん。わかった」
……私は憂を1人残してトイレを出た。
「千穂――おわった――!」
その元気な声を聞いて、ドアを開く。
「千穂――ありがと――!」
いい笑顔。カワイイ。
愛さん……。
お姉ちゃん、ごめんなさい。
内緒で……憂と2人、ちょっとだけ反抗しちゃいますね?




