50.0話 魚偏と円周率
ついに50話ですね。
プロローグにも追い付いてないです。
ここまで遅いのは想定外です。頑張ります。ごめんなさい。
―――5月26日(金)
――帰宅後――
「憂? 今日は……外食……するよ」
愛は帰宅するなり、愛する妹にそう告げた。
愛らしい少女の顔立ちが、姉の言葉を理解すると同時に花開く。
憂の母は料理上手だ。毎日の食生活に不満がある訳ではない。
しかし、外食と云うものはどこか魅力的なのである。
「何が……食べたい?」
いくつかの候補を挙げ、その中から選ぶ形にすれば、よっぽど憂には効率が良いだろう。しかし、憂が悩む事を分かっていながら、敢えてその質問をしてみたのである。
愛の思惑通りに憂は小首を傾げ、固まってしまった。
わざわざ悩む事が判っていながら、そのような問い掛けをしたのは、昨日の健康診断の迎えの際、『時折、しっかりと考え込ませてあげて下さい』と、島井に指示された為だ。
考え、悩む事により、記憶の扉を叩く……。道理的と云えなくもない。
またその際、普段からのバッシュ着用について問い掛けた。ハイカットのバッシュを履くと動きがスムーズになると、千穂との例のアプリでの遣り取りで聞いたのである。
その問いに対する島井の回答は『否』。
まだ回復途上である憂に、足首を固定する装具の役目を引き受けたハイカットバッシュは、転倒等のリスクこそ下げるものの、筋力向上の妨げになるとの解説であった。
しかし、体育の授業等、運動の際には積極的に使用すればいいと、憂を優しく見詰めつつ語ったのが印象に残っている。
「……締りの無い顔してんね」
剛の指摘はもっともだ。海の幸に山の幸。スパイシーな料理にジューシーな料理……。様々な料理を想像しているのであろう。今にも涎が垂れそうになっている。
……垂れた……。
サッと手が出される。
「おぉぅ……」
咄嗟にソレを受け止めてしまった剛が呻く。
「剛! ナイスキャッチ! ご褒美に舐めてもいいよ?」と、ティッシュ箱に向かう姉。
「なっ! 何言ってんだっ!!」
愛はティッシュを3枚ほど渡しつつ、指摘する。煽り、と言い換えても良い。
「なんで赤くなってんのよ? いい加減に慣れたら? それとも可愛い妹が気になって仕方ないですーって?」
剛は姉の手からティッシュを引っ手繰ると慌てて拭った。
「「………………」」
奇妙な沈黙が訪れた……が、すぐに母が打ち破る。
「ちょっと。近親婚はダメよ? お母さんは許しません!」
「「………………」」
「あの……あの……? 冗談ですよ?」
「……冗談に聞こえねー」
「うん。わかる。冗談に思えない。お母さんの場合はね。第一、兄妹で結婚なんて無理だから」
幸は、おとがいに指を当て、考え始める。すぐに頭の上で白熱球が点灯した。
「スウェーデンで兄妹婚の実例あるわよ? どう? 蓼園さんにお願いすれば、簡単に国籍取れちゃうんじゃない?」
「……そんなの奨めないの。蓼園さんの権力を悪用、濫用しない。さっき『お母さんは許しません!』って言ったばっかりじゃないの……」
「権力はダメ……ねぇ? ……それじゃあ、私たちと憂の養子縁組を解消したら、法的には他人だから大丈夫じゃないかしら?」
「「………………」」
再びリビングを静寂が支配する。姉は呆れ顔で母を見詰め、弟は真剣に考え込んでいる。
「……ちょっと! 剛!?」
「あ! え!? 何!?」
「…………あんた……まさか……本気なの?」
「そんなワケねぇ! ふざけんなよ!」
……剛の将来が不安になってきたのだが気にしても仕方がない。
「あらあら。剛ちゃん、本気にしたらダメよ? 冗談で言ったんだからね?」
「――あの――えっと――」
おかえり。憂がようやく自分だけの世界から帰ってきたようだ。
だが、何やら目を泳がせ言い淀んでいる。
そんな憂に、母も姉も優しく声を掛けなかった。じっと剛に厳しい目線をぶつける。
2人の熱烈なアピールを受け、兄が代表して口を開く。
「……言って……みな?」
剛の声は硬かった。姉のお節介により、剛と憂の距離は格段に近づいたものの、未だにどこか硬さを残している。憂を優として……いや、優を憂としてであろうか? そう認識する事には成功したものの、余りの美少女ぶりに慣れない……と云ったところか。無理も無い……のかも知れない。
「――まわらない――えっと――」
そしてまた言葉を詰まらせる。剛は、そんな憂の頭頂部にそっとその手を載せた。
「行けるよな! 母さん!」
憂は、その手を払おうとしなかった。意外な気もするが理由は簡単だろう。憂は剛との関係修復を心から願っているのだ。
「もちろん!」
幸の力強い返事に、笑顔が弾けた。その類稀な美貌を輝かせて。
「回らないヤツかぁ! 俺も小さい頃に1度行っただけだぞ」
「私も!」
「ごめんなさいねぇ。ウチって……ほら。みんな蓼学でしょ? ……高くてねぇ。前は剛が就職したら行こうね……って、お父さんと話してたのよ」
幸の言い分はこうだ。
蓼学の入学金は高い。愛の時は様々な補助を受けたものの、それが3名。それぞれ初、中、高、大。優が物心付く頃には、回る寿司しか行けなくなっていた。
その厳しい財政事情は一変した。憂の入学金と学費は総帥持ち。更には父の大出世により、随分と余力が生まれているのである。
それは姉が、家にお金を入れる必要が無くなった……と云う件からも推測できる通りだ。
しばらく談笑を交えると父が帰宅した。迅は帰宅するなり愛する家族全員に向け、尋ねた。
「夕飯は決まったかい?」
「お寿司! 回らないとこで!」
嬉しそうに言葉を返す愛に相反し、父の表情は冴えない。それどころか、「……寿司? またか……」と、おまけとばかりに余計な事を口走ってしまった。
「……え? 親父……『また』って……?」
「最近、接待でね。よく連れて行かれるんだ。昼間っから……」
さもうんざり……と、ぼやく父親に、冷たい視線が集まる。
「へぇ……いいわねぇ……。お父さん?」
幸は、どことなく冷たい声を発した。穏やかに微笑んではいるのだが……。
「か、母さん!? これでも夕飯時の接待は全部断ってるんだよ!?」
迅の言う事は間違いない。彼は遅い時でも19時には帰宅している。憂の顔を見たい一心……かどうかは判らない。だが、家族を気にしてる事は間違いないようだ。
「あー。はいはい。それなら色んなお店、知ってるんでしょ? 一番いいとこに連れてってね」
「――お父さん――ありがと――」
照れ臭そうに小さく微笑みながら突如として、憂が口を開いた。
その瞬間、若干、険悪であった雰囲気は霧散した。皆、優しい笑みを湛えていたのである。
「いらっしゃい!!」
威勢の良い声が小奇麗な店内に響く。
父の知る『一番いいとこ』は、かなりお高そうな店であった。
金曜の夜。そこそこの客入りだったが待つ事は無かった。高いからであろう。
迅は向かい合ったカウンターの年配の男性の正面に腰掛ける。家族もそれに倣い、座り始めると、迅、幸、憂、愛、剛の並びが自然に出来上がる。これはソファーの指定席と同じ配置だ。染み込んだ習慣なのであろう。
大将は無口で無愛想な男だった。だが、味の分からん餓鬼に……と云うような男では無かった。
「いらっしゃい」
他の寿司職人の威勢の良い挨拶とは違い、そう小さく呟いた。他の職人たちは弟子たちであろうか。二回りは年齢が離れている。
「立花さんか。久しぶりだね。子どもたちかい?」
「あはは! 『一番いいとこ』と言われましてね。ココしか思い付きませんでしたよ」
「おだてても何も出ねぇよ」
口では、そう言ったもののまんざらでも無さそうである。さほど職人気質の頑固親父と云う訳でも無いようだ。そんな大将の手は淀みない。迅と会話を交えつつ、カウンター越しに皿やガリを用意していく。
そんな中、壁に掛かるお品書きを見ながら父は呻いた。
……値段は書かれていない。全て時価なのだろう。
「あぁ……ほとんど……漢字だった……。すまん」
憂への言葉だったのだろうが、当の本人は聞いていない様子だ。
落ち着きが無い。周囲を見回しては瞳を輝かせ、ネタケースを見詰めては『――おぉ』と、感嘆の声を漏らす。
「……可愛いお嬢ちゃんじゃないか。作法なんか気にせず、好きなもん言ってくれ」
大将のその言葉は憂以外の者に安心感を与えた。愛も剛もどうすれば良いのか分からなかったのである。幸もかも知れない。
大将の折角の優しい言葉だったが、憂は小首を傾げてしまった。
「……どうした?」
訝しげな大将の問い掛けに迅が応える。
「この子は障がいを持ってましてね。ゆっくり話し掛けないと理解が難しいんですよ。それに漢字もほとんど……」
大将は、さも申し訳無さそうに渋面を浮かべると、壁に掛かる漢字の群れに顔を向ける。トロは流石に片仮名だが、鰤、槍烏賊、蛸、鮑……等、ものの見事に漢字が並んでいた。
「俺の妙なこだわりのせいで……すまねぇな……」
大将は湯呑みを1つ手にすると、そこに印字された難読漢字の群れを睨む。
「大将のせいじゃありませんよ。ここのお品書きを忘れてた私の「いーや、俺のせいだ。お任せでいいかい? 飛びきりのヤツを並べてやるよ」
にぃ……と不敵に笑う大将。その手の中の湯呑みを憂は凝視する。口元を綻ばせて。
「嬢ちゃん……どうした?」
「それ――見せて――?」
憂の手元の湯呑みは高級そうではあるが、シンプルな物だ。それに対して、今、大将が持っている湯呑みの外側には魚偏の漢字が並んでいる。
「これか? こんな物、どうするんだ?」
憂は嬉しそうに差し出された湯呑みを受け取ると、その漢字を順番に読み上げ始めた。
「――鮃」
「――鮒」
「――鰤」
「――鯔」
「――鮪」
「――鱒」
家族全員、驚愕の表情をしている。無理もない。一方、大将は「ほぅ……」と感心した様子を見せる。
「――鯰――鰊――鰰――鱧――んぅ?」
「ん? どれだい?」
憂はその文字を大将に向け、指差す。
「そりゃあ、『鮠』だ」
「――はや?」
「そうだ。はや」
「――ありがとう――」
「あ、あぁ……お安い御用だ」
憂のにっこり笑顔に大将は照れ笑いで答えた。とんだ、おじ様キラーぶりを見せる憂の姿に家族は思い出す。優は魚偏の漢字が好きだった。何故か嵌まり、一生懸命に憶えていたのは中学生に成り立ての頃だったか。
「――はや――はや」
繰り返し呪文のように唱える憂に、兄が問い掛ける。
「憂? 円周率は?」
剛の問い掛けに妹は首を傾げてしまった。
「――さん――てん――いちよん?」
「正解だ……じゃなくて……」
剛はもどかしそうだ。彼は、もう1つ、優が頑張って記憶していたものを憶えていた。それが円周率。世界記録がとんでもない桁までいっている円周率記憶だが、優の場合は百ほどだったか?
「続きは?」
愛が引き継ぎ、促す。彼女もまた優が円周率にご執心だった事を思い出したのだろう。
「――んん?」
兄妹の期待を余所に、憂は小首を傾げて困り顔になってしまった。
「――しらない――よ?」
……忘れてしまったようだ。魚偏の漢字は憶えていても円周率は忘れてしまっていた。全く以て基準が判らない。現在、数学は得意で国語は苦手なはずなのだが、こちらは理論的な解説が可能だ。
……それはともかく。
実にシンプルだが、実に豪勢な晩餐が始まった。
大将の握る鮨は、総帥も絶賛していると云う。父が大将のこの店を知った経緯も、以前、出世祝いとして総帥直々、連れて来られたからである。
そんな大将の寿司は、やはり絶品だったようだ。
お任せで出される寿司は数多かったが、全員が全て満足そうに胃袋に収めていった。
一貫目。ひと口では口に入らなかった憂を見ると、大将はネタ、シャリ共にやや小ぶり寿司を握った。寿司の命はネタとシャリのバランスだと断言する者も居る。大将は、そのバランスをそのままに、憂に合わせたサイズの寿司を握ってみせたのだ。これには弟子たちも大いに驚き、教えを乞うた。大将は今まで、そんな技術を見せなかった。子どもが来てもあくまで、いつもの寿司を握り続けた。それは職人としてのプライドであったのかも知れない。
しかし、大将は憂をいたく気に入ってしまった。湯呑みの漢字を読み上げる憂が、知らない漢字に詰まると、すぐに教えた。我が子の勉強を見る父親のように。
憂も喜び、その知識を吸収した。それにより、折角、頑張って憶えた漢字の一部が消えてしまった事は言うまでも無いだろう。
閑話休題。
憂も大満足で出された寿司の全てを平らげたのである。
緊張感漂う会計の際、予想外の金額に迅も幸も目を丸くするシーンがあったが、それは関係無い話である。おそらくは大将の心意気だったのだろう。
この日、産まれて初めての回らないお寿司屋さんで、はしゃいでいた為か、憂は帰りの車中で眠ってしまった。
昼寝とは違う深い眠りであった為、入浴もせぬまま自室に寝かされた。早めに起こし、翌朝に入浴させる予定だった。
因みに憂は、剛のお姫様抱っこで自室まで連れていかれた。本人が知れば怒るかも知れない……と、家族内で内緒の話となった。そう笑い合い、解散した。
……家族は1つ失念していた。
毎晩、憂は入浴前に排尿を済ませていた事を……。
「――んん」
憂は目覚めてしまった。
「――しっこ――」
ギィ……。
そっとドアが開かれる。
家族が寝静まった深夜、憂は尿意を感じ、目覚めた。
寝呆けた眼をグシグシと擦りながら、1階のトイレへと向かった。
魚偏の漢字、いくつ読めましたか?
敢えてルビは振りませんでした。
憂ちゃんが読めた漢字は私が読めたものを基準にしてみました。
鮠って何ですか? 魚ですか?
――ググり中――
先生に聞いてみたら漢字と雰囲気が違って驚きました。
刺々しい魚をイメージしてたんですよ。