40.0話 あの場所で
「あの……? この道って……」
「……うん。必ず、憂が行かないといけない場所……」
「でも……」
千穂ちゃんの言いたい事……。よく分かるよ。
そんなに慌てて訪れる必要も無いのかもね。でも……いつか、行かないといけないなら、少しでも早くって……。
憂の脳は、ちょっとずつだけど再生してる……。今はまだ、ぼんやりしてて、何を考えてるか分からない事も多いけど……。いつか、思考も記憶も正常になるかも知れない。
正常になってからだと、余計にきついんじゃないかな……?
「いつか傷付かなきゃいけないなら、早く傷付いて……早く回復して欲しいんだ。心の深い傷ってね。時間だけが癒やしてくれると思うんだよね……」
…………………………。
「……憂」
「――なに? ――千穂――」
「あ……ごめん……。なんでもないよ……」
……思わず名前を呟いちゃったのかな?
歩道橋に行って……。
……何が起きるかな?
……まさか飛び降りようとなんてしないよね?
『あのころ――より――』
『まとも――だよ――』
信じてるからね! 憂!
「千穂――?」
「ん? ……なに?」
「――わらって――?」
「……え?」
……深刻な顔してるだろうね。
私のせいだよ。ごめんね。
「千穂――わらってて――ほしい――」
「憂……」
「――ずっと」
……なんだか、聞いてるこっちがくすぐったくなる事、言ってるね。やっぱり大好きなんだ。千穂ちゃんの事。
「ひゃああ――」
ん? なに? 情けない声出して……。
ルームミラーの向きを変える必要は無かった。私の車のルームミラーは憂の様子が見える位置に調整済だから。
千穂ちゃん、憂を抱き締めてくれたんだね。
「だめ――! 千穂――!」
あはは。慌ててるね。
千穂ちゃんは憂を解放する。でも、不満そう。
「学園では大人しく、ぎゅーさせてくれるのに……。お姉さんと一緒だからですかね?」
「うーん……どうかなぁ……?」
……学園で、ぎゅーって、どんな状況?
気になって仕方ない……けど。
それより……。
えっと……。学園では……ハグOKで、今はダメ……。だとすると……。
「それもあると思うけど……」
「それも……ですか?」
「……白、かな?」
「……白……ですか?」
千穂ちゃん聞き上手だね。言葉をそのまま返すって、しっかり聞いてますよ。こんな意思表示になるんだよ? 無意識かな? これも才能なのかもだね。
「うん。白……。白衣……ナース服……VIPルームの白い天井……憂にとっては、白って落ち着く色なのかも知れないね」
「あ……制服……」
「そ。純正制服。白いでしょ? ……まぁ、あくまで私の勘だから当てにしないでね」
本当の事は判んないけどねー。憂に聞いても、首を傾げて悩んじゃうだろうしね。青が好きな人に『なんで?』って聞いても、やっぱり一瞬は言葉に詰まるよね? 憂の場合は、それの酷いバージョンで相当、悩むと思うんだ。だから聞けないし、聞かない。
……さて……と。
着いちゃった……か。
蓼園モール西館の3階4階の立体駐車場をグルグル上がって、屋上駐車場に駐車する。
……なんで、わざわざ上まで上がったんだろうね。私の決断に、気持ちが反発してるって感じ……かも? ここなら……あの歩道橋が遠いから。
運転席を降りて、後部座席のドアを開く。
千穂ちゃん、緊張してるね……。
ごめんね。
でも千穂ちゃんの存在が欲しいんだ。憂と一緒に居てあげて欲しいんだ。千穂ちゃんと一緒なら、おかしな事は……しないと思うから……。
……保険だよね。連れてきたのって……。千穂ちゃんの優しさに付け込んで……。
あー。自己嫌悪。終わったら、いっぱい謝るからね。
「――お姉ちゃん――?」
首を傾げて見上げる、あどけない顔。ここがどこかも憶えてないんだね……。
「お姉さん、行きましょう」
そのしっかりとした、余りにも意外な声に驚いて彼女を見ると、真っ直ぐ私を見据える覚悟を決めた凛々しい顔。
……綺麗な子。可愛いのに……、なんだか格好いいね。
エレベーターで1階まで降りる。
あの歩道橋は特殊な構造。2階で東館と西館を繋ぐ連絡通路なんだけど、途中に階段が付いてて、1階からでも使えるんだ。
だから、あの場所には2階からの方が近い。だけど転落時の目撃情報によると、1階から階段を駆け上がっていったみたいだから。
「あ……憂?」
千穂ちゃんの声を受けて憂を見ると、自分から歩き始めてた。
……珍しいね。
憂は、ウロウロしては立ち止まり、しきりに周囲を見回す。どこかで見た事あるんだけど……って感じかな?
……憂は、たっくんと勇太くん。いつも、この3人で学園から帰ってた。部活帰り、よく帰りにココに立ち寄ってたみたい。
3人は解散する時、勇太くんは西館から、憂とたっくんは東館から出て帰宅。
家の方角の都合でね。
しばらく好きに歩かせてみる。千穂ちゃんがぴったりと付き添ってくれてるから安心だね。あはは……。本当に姉妹みたい。
それにしても……凄い人目だね。通り掛かる人、みんなが1度は振り返る。
……千穂ちゃん堂々としてるし。大物だね。
「あ――!」
憂の瞳が見開かれた。
「――佳穂――千晶――」
「…………え?」
佳穂ちゃんに千晶ちゃん?
憂の新しい友だち……だよね? ノートに書いてあった。私のまだ見たことの無い、新しく『知った』仲間たち。
キョロキョロしてる千穂ちゃんを見てたら、目が合って。そしたら首を横に振って教えてくれた。佳穂ちゃんも千晶ちゃんも居ない……か。
……幻覚でも見てるの?
「ここ――ここ――はぁぅ――う――」
憂の呼吸が乱れ始めた……。
……どうする? やめるべき?
「このまま様子を見ましょう」
……驚いた……。島井先生……。
歩道橋で待ち合わせのはずなのに……。
「西館に停めるって聞いてたから、探してしまいました。入れ違ったらどうしよう……とは、思っていたんですけどね」
隣にはビデオカメラを回す女性。
……梢枝さん……。なんでここに……?
「あぁ……彼女は、たまたま私を訪ねて来てましてね。いざと言う時、なるべく人手があったほうがいいと思い、同行して頂きました」
「そう……ですか……」
榊さんはビデオカメラを顔から離し、私に「こんにちは」と挨拶。私は会釈を返して、すぐに憂たちに視線を戻す。ごめんね。今は憂が心配……。
憂は千穂ちゃんに手を握られ、背中を撫でられてた。
……良かった。呼吸も落ち着いたみたい。
「榊さん、こんにちは。お久しぶりです」
余裕が少し出来たから、あらためて挨拶。やっぱり礼儀は疎かにしたら駄目だよね。
「梢枝と呼んで下さい。学園では、皆さんそう呼びはるから、苗字呼びだと違和感あります」
「……梢枝さん」
なんか……気が抜けちゃった……。こんな時に呼び方の話なんて……。
「愛さんも落ち着いたみたいですね。そう。そのほうがいいです」
……先生。
あれ? もしかして、梢枝さん、わざと……?
なんだかな……。
……そうなんだろうね。
凄い子なんだ……。
「――そっか――佳穂――千晶――」
憂は、そう呟いて再び歩き始める。
今度はウロウロじゃなくって、真っ直ぐ。ちょっとフラフラふわふわしてるけどね。
歩き始めた憂と千穂ちゃんの後ろに、私たちは付いていく。
ん……? 柱の陰から憂の事を見てる人が……。サングラス掛けた、かなり怪しい人……。
「あの人は仲間です。心配いりません。あないな髪型で、あないなもの掛けてたらチンピラみたいですわぁ……」
そう言って、怪しい人に近づいて声を掛ける梢枝さん。大丈夫そうね。
あれ? あの子って、憂を学園に送ってた時に、いつも見守ってくれてた子?
………………。
……支えられてるんだ。色んな人たちに……。
あの子が鬼龍院 康平くんだね。あと、憂のノートで顔を知らないのは、佳穂ちゃんと千晶ちゃんかな?
…………あれ?
「……梢枝さん? 佳穂さんと千晶さんの苗字って……?」
「大守 佳穂と山城 千晶です……」
「そう……。ありがとう……」
そっか。
大守さんと山城さん……。憂のノートを開いた時、なんで気付かなかったんだろう。
読み飛ばしちゃったからかな?
……事故の3日後だったね。彼女たちが訪ねてきたのは……。
面会はさせて貰えなかったけど、病院に入り浸ったり、親戚に連絡入れたり……。忙しなく動いてて、留守にしてる事が多かったからだと思う。3日後だったのは。それまでも何度か訪ねてきてくれてたと思ってる。
3日後って断言出来るほど、大守さんと山城さんの事は印象に残ってる。
ウチを訪ねてきて……『ごめんなさい』って泣いてた、あの時の2人が大守さんと山城さんなんだ……。
……佳穂ちゃんと……千晶ちゃん。
……あの事故は、あの子たちがナンパされているところから始まった。
やっと当時の優の行動に納得できた。ヘタレの優が助けようとした理由。
……千穂ちゃんの友達を放っておけなかったんだろうね。優は、彼女たちをナンパ男たちから助けた。
彼女たちを逃がした後、優も逃げ出した。その途中……歩道橋で挟み撃ちにあって……転落した。
これは、目撃者が多かったから間違いない。
その2人と、今は友達なんだね。秘密も共有してくれてる。不思議な縁。今度、またあの2人にも合わないといけないのかな?
わだかまりなんか1つも無いって、教えてあげなきゃね。
……あそこで2人の名前を呼んだって事は……、事故への流れを思い出したのかも……?
呼吸が乱れたのは……きっと、その瞬間を思い出したから。
前に過呼吸を起こした後、どんな夢を見たか島井先生が尋ねたみたい。
その時、優は『黒い車』とだけ教えてくれたって。その前の事は『忘れた』ってさ。
……隠してるんじゃなくて、本当に忘れてたみたいだね。今の様子を見てるとそう思える。
……憂は迷わず進んでいく。
歩道橋の方角に。
千穂ちゃんの後ろ姿に緊張感が漂う。
……千穂ちゃんだけじゃないよね。私も島井先生も身辺警護の2人も。
西館を出ると、歩道橋の階段が目の前に……。鬼龍院……ううん。康平くんは先回りして、歩道橋の上。いざとなったらフォローしてくれる体制……だね。
人は……結構、多いね。日曜にして正解……。
階段下に到着。
憂は速度を緩めることなく、階段を、あっ! あぶな……。躓いた。一段目に……。
千穂ちゃん、支えてくれてありがとね……。
……憂は「ありがと」ってひと言。そして、歩道橋への階段をゆっくりと上がってく。
千穂ちゃんが手を繋ぎ、私はぴったりと憂の背後に付いていく。
……階段は、やっぱり怖いね。
階段を上がり切ると、沢山の花が見えてきた。いつ来ても慣れないよ。ここは。
……ううん。1年と、ちょっと前は何も思わず使ってたね。この歩道橋。
憂は……。いつも通り、ぼんやりしてる。呼吸も乱れてない。ゆっくりと、あの場所に近づいていく。
……何事も無く、この場所に着いた。
憂に変化が見られた。少しだけ俯いて動かない。
そのまま、1分……2分……と時が刻まれる。
私たちは……ただ、じっと待つだけ。
「憂……ダメ……」
千穂ちゃんが憂の口元に手を触れる。
「――千穂――?」
「唇……噛んだら……ダメ」
「――え――?」
千穂ちゃんを見る憂。その顔に手を伸ばす千穂ちゃん。私が見えるのは、憂の小さな頭と心配そうな千穂ちゃんの顔。
千穂ちゃんはパーカーのポケットからハンカチを取り出して、憂の顔を拭う。
……血!?
大丈夫!?
私は、千穂ちゃんの隣に回り込み、覗き込む。憂の下唇から少しの出血。
……加減無く、唇を噛んじゃってたんだね。
すぐに島井先生が診て下さる。
「大丈夫。浅いよ」
…………良かった。
……怖いね。痛みが無いって。
小柄な千穂ちゃんだから、俯いてる憂の危険を察知出来た。千穂ちゃんが居なかったら、噛み切ってた可能性だって……。
「千穂――ありがと――ごめん――」
憂は、そう言って柵に近づいていく。
「憂!?」
私の大声に一瞬、憂の体が竦む。
……ごめん。なんか……遺言に聞こえて……。
憂は、すぐに私に笑顔を見せてくれた。
「――だいじょうぶ」
「――まとも――だよ?」
憂は再び歩みを進める。千穂ちゃんがそっと付き添う。
そして……バスケットボールの手前で止まり、それに触れる。
誰がしたのか分からない、針金で編まれ、吊り下げられたバスケットボール。
憂は、それをクルリと回す。現れたのは、いつか見た寄せ書き。
少ししたら、憂の肩が震え始めた。
……泣いてるんだよね……。
それからしばらく、憂は静かに泣いた。千穂ちゃんも泣きそうになりながら、じっとその様子を見ててくれた。
……きっと、抱き締めたかったんだと思う。
でも、我慢してくれた。憂の為に。
憂はバスケットボールから手を離して、カーディガンの袖でグイッと顔を拭うと、振り向いた。
「――いこ?」
そう笑顔で言って、千穂ちゃんの手を取って歩き始めた。
……感情のコントロールが出来てる?
……それとも吹っ切れただけ?
島井先生を横目で見ると、難しい顔で考え込んでおられた。
結局、何の為に連れてきたか分からないよね……。
ここに連れてくる事で、憂の中で何かが変わると思ってたんだけど……。
……目に見えないだけで変わったの?
憂を追いかけて傍に近づき、聞いてみる。
「思い出した……の?」
憂は立ち止まり、小首を傾げて考える。
「――うん」
すぐに頭の位置が戻った。
「いろいろ――おもい――だした――」
「……色々? ……色々って……?」
「――ありがと――」
……憂が歩き始める。
なんか、色々って言葉で、色々と誤魔化された?
色々の中に、過呼吸の前兆の……。おそらく事故当時の夢も含まれるの? やっぱり、それを思い出してたの?
……それとも違う色々?
わからない。
……でも……事故の記憶を思い出したとして、冷静で居られたなら……一歩前進……なのかな?