38.5話 From千晶&佳穂
40話読了後に読まれる方がいいかも知れません。
問題無いような気もしてますけど……。
一応、隙間を空けておきます。
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下記より本文です。
「憂は?」
「勉強、始めたよ……」
「そう……。頑張るわねぇ……」
「……うん。頑張ってるね」
入浴後のひと時。憂が1人で過ごす事を許された限られた時間。
その限られた時間の中、今日も憂は勉強を始めた。
愛は憂の部屋を後にし、母の居るダイニングで過ごしている、その表情は何とも言えない複雑なものであった。
「頑張りすぎてて……なんだか、せつないよ」
「……どうして?」
幸は小首を傾げる。彼女は、愛する末娘の癖がすっかりと伝染ってしまったようである。
……言い方が悪かったかも知れない。当然だが、愛も母に愛されている。いや、最近は当然とも言えないご時世なのかも知れない。
「……夢が潰えて……それでも足掻いてるみたいで……」
「あら? いい事じゃない?」
「……そうなのかな?」
「何を言ってるの! お姉ちゃん! しっかりしなさい! 憂のほうがよっぽど前向きじゃない! 夢なんか1つ無くなっても、次の夢を作っちゃえばいいんだから!」
叱責するような口調であったが、その母の表情は穏やかそのものである。
「……うん。分かってる」
「ふぅ」……と、元気の無い愛の姿を前に、幸は浅く溜息を付いた。
憂を部屋に置き、1人にすると、この長女はいつも元気が無くなる。
まるで恋する乙女だね……と幸は思う。
憂と一緒に居るとテンションが乱高下し、ひと度、離れたらこの調子である。仕事中もこんな感じなのであろうか……と内心、心配している。
「……しっかりしなさいよ……」
呟くように漏らした母の言葉は、愛の耳には届かず、虚しく溶けて消えていった。
一方、憂は歴史の教科書と小学漢字辞典なるものを開き、漢字の勉強中である。
小学漢字辞典には、タイトルの通り小学校……いや、初等部で習う漢字が並んでいる。
まずは教科書が読めない漢字で溢れている現状を、何とかしたいようだ。
その遣り方は正解だろう。
しかし、憶えた先から消えていく漢字の群れに、苦戦している様子である。
それでも、少しずつではあるが、読み書きできる漢字は増加している。憶えたと言うよりは思い出した……と言う方が正確かも知れない。その思い出した漢字は、まあまあの確率で再記憶出来ているようである。逆に覚え直した漢字こそ、消えていっているのだ。
――第一じ――世――。
第一次世界大戦。歴史の教科書は適当なページを開いているようであり、今回はたまたまこのページだった。
次次次次――。
憂は指先で机の上のエアノートに記入していく。
うぅ――おぼえ――れない――。
かかない――と――だめ――?
憂はノートに手を伸ばす。
……が、傍らに置いていた、小さな赤い巾着が目に入ってしまったようだ。その小さな巾着を左手の指先で摘み上げ、大切そうに右の掌に乗せると、鼻先に寄せる。
――いいにおい。
憂が蕩ける。全身で蕩けている。左腕を枕に右を向き、右の掌の中の匂い袋の香りを堪能し始める。
――これ――なんだろ――?
――――――。
――そうだ!
憂は体を起こすとタブレットを手に取り、ググル先生の音声入力を起動する。
「おーけーぐぐる」
憂の可愛らしい声を認識し検索画面に突入した。
えっと――あれ――?
まぁ――いいや。
いってみよ――せんせい――がんばって――。
「きんちゃく――におい――」
憂の声に正確に反応したググル先生は、大量の検索結果を示した。
その検索結果の1番最初に目的の物が表示される。
でた――! さすが――先生――。
――匂い――におい?
ふくろ――えっと――袋――。
匂い袋――。
――匂い袋――か。
――ボクの――におい――おいわい――。
うれしい――。
勇太――。
佳穂――千晶――。
佳穂――千晶――?
あっ――!
何かを思い出したようだ。
憂は勉強机の引き出しを開ける。
……そこに仕舞い込まれていたのは5通の封筒である。憂は封筒の表、裏と確認していく。
――あった。
可愛いクマさんがイラストされた封筒の裏側に【From千晶&佳穂】の文字を見付けると、嬉しそうに頬を緩める。
その封筒は未開封である。
……どうやら仕舞い込んだのはいいが、忘れてしまっていたらしい。
憂は封筒の封印に苦労する事無く、開封する事に成功した。マスキングテープの角を折った状態で、簡単に封印されていた為だ。憂に配慮した細やかな気配りを感じられる。おそらく千晶の仕業であろう。
たった一枚の便箋を取り出し、不器用に開く。
憂ちゃんへ
憂ちゃん、ごめんなさい。
ありがとう。
……たぶん なんのこと か わからない と おもう。
わたしたち2人。かほ と ちあき を 『はじめて』見た とき、憂ちゃん は なにも 言わなかったから。
わからない なら、そのとき の こと、くわしく は いえない。
ごめんね。わけ わからないよね。
でもね。本当に かんしゃ しています。
いつか そのことを、ふつう に はなせる ときが くると うれしいな。
あなた が そうして くれた ように。
わたしたち も ぜんりょく で あなた を まもる と ちかいます。
千晶&佳穂より
ほとんど平仮名の……しかも空白が上手く使われ区切られた、憂にとってはこれ以上は無いほど読み易い手紙であった。
そんな心の篭った手紙を読み終わると、憂は小首を傾げた。
本当に何の事か、解っていないようである。
「――よかった」
「こくはく――ちがった――」
憂が1人呟く。
もしも2人からのラブレターであった場合、千穂と、その親友2人の間に亀裂が入るとでも思ったのであろうか?
連名の手紙がラブレターと云う事はあるのだろうか?
誰かにツッコんで欲しいが、生憎、現在は1人きり。そうもいかないのが残念だ。
憂は再び、引き出しにそっと手紙を忍び込ませた。
……因みに、他の4通は読まれていないままである。読む気すら無い気配を感じる。
おそらく憂には恋愛対象として、千穂しか見えていない。
憂は続いて、その引き出しの奥から、一冊のノートを取り出した。
それは姉さえも知らない秘密のノート。
どうやら姉は、机の中を漁るなどと云う無粋な行為には及んでいないようである。
真っさらなページを何枚もめくり、憂は自身が書いたページを探す。
10ページほどめくると、その部分を見付けた。
【男→女になって変わった事】
まさかの漢字である。ついでに勉強しているのであろうか。
頑張り屋さんだ。これを見付けた場合、姉は妹の健気さに泣いてしまうだろう。
……その中身は連々と長々と書かれている。メモのようなものなのだろうか?
違和感が激しい。ちからが弱くなった。手が小さくなった。体全体が小さくなった。体がすべすべで柔らかくなった。毛が無くなった。体が軽くなった。すぐ泣くようになった。可愛いと言われる。食べる量が減った。千穂の事が今も大好き。拓真と勇太が余計に大きく見える。守られる側になった。他の人が強そう。歩幅が狭くなった。友だちの事を忘れてるみたい。下着の肌触りがいい。ぴったりフィット。体を触っても何も思わない。感じない。触られるのは嫌。千穂ならいい。小さいけどおっぱいがある。小さい。人を見上げないといけない。みんな大きい。見下される視線。下を向くと髪の毛が邪魔。じろじろ見られようになった。色々と恥ずかしくなった。トイレも風呂もめんどくさくなった。靴が小さい。服の肌触りもいい。セーラー服は不思議な構造だった。スカートは頼りないと思う。頭の生え際の謎の毛が不思議。取り囲まれるようになった。女子の視線が怖い時がある。触ってくるのはいつも女子。体が柔らかくなった。体がすべすべで気持ちいい。Tシャツの首回りが広くなった。靴底が柔らかくなった。人が怖い時がある。優しい人が増えた。色々と気にかけてくれる。困ってたら助けてくれるようになった。恥ずかしい。バスケがやりにくい。
『バスケがやりにくい』の後に続けて、タブレットで漢字を調べつつ1つだけ書き加えた。
親友が増えた。
憂はノートを閉じると元通りの奥にしまい込み、引き出しを閉めた。
憂は左手で自身の二の腕に触れる。
――やわらかい――。
立ち上がりパジャマのズボンを下ろすと、また座る。
露わになった大腿に触れる。
――すべすべ――。
――やわらか――すべすべ――。
――てざわり――いい――。
きもちいい――かんしょく――。
あ――。
今度は慌てて立ち上がりズボンを履き直す。
――ごめんなさい。
――うぅ――。
――べんきょう――するんだ。
――――えっと――。
千穂も――すべすべ――?
――ふれて――みたい――な――。
――おこられ――る――よね?
――――だめだ――!
頭をプンプンと振り回す。
――しゅうちゅう――。
――――――――千穂。
――しゅうちゅう。
――――――――――うぅ――。
しゅうちゅう。
――――――――千穂。
――――――――。
――だめだ――。
――きぶんてんかん――。
憂は立ち上がるとベッドに移動し、その小さな躰を横たえる。
――できる――かな?
両手を頭の後ろで組む。両膝を立てる。
――せーの――いち!
背中が浮き、躰が丸まる。
「う――うぅ――」
憂は両手を組んだまま、躰を起こそうとお腹に力を込め続ける。所謂、腹筋運動だ。
――いち――。
「うぅ――」
顔がみるみるうちに赤く染まる。
……躰を起こせそうな気配は感じ取れない。
「はぁぁ――――」
――できない――なんて――。
――いっかい――も――。
その後もしばらく奮闘したが、一度も躰を起こせる事はなかった。足を挙げ、下ろした反動を利用したインチキ腹筋には成功していたが、それは1回に勘定する訳にはいかない。
やがて少女は、そのままの姿勢で眠りに就いたのであった。
……翌日より、憂の日課に筋トレが追加された。
忘れていなかったと言う事は、よほどショックだったと推測される。