35.0話 懐かしい香り
エレベーターの隠しコマンドを入力する。静かに閉じる扉。
1……2……3……。
現在の階数を表示したデジタルの、移ろい変わる数字をじっと見詰める。
この前と同じ、島井先生からの突然の電話だった。
正直、慌てたよ。また脳震盪でも起こしたかと思った。
電話の向こうで島井先生がおっしゃった言葉。
『今日は悪い知らせでは無く『良い知らせ』みたいですよ』
私は、残っていた仕事を急いで片付け、早退を願い出た。小太りの嫌味だった上司は何も言わず、受理した。内心は苦虫を噛み潰す思いなんだと思う。私の背後には総帥の……蓼園さんの影が見え隠れしている。だから何も言われない。
ポーン……と、エレベーターが蓼園総合病院最上階への到着を告げる。
はやる気持ちを抑え、無人の廊下を進む。
VIPルームに併設されているNSの扉が開くのが遠目に見えた。
扉から姿を見せたのは、常に慈愛の表情を湛える鈴木看護部長。
看護部長さんは私を見付けると、扉を開けたまま待って下さった。
私は速度を速め、看護部長の下に到着する。
「お姉さん、こんにちは」
にこやかに挨拶される看護部長に「こんにちは!」と元気な挨拶をお返し。
「さぁ……憂さんに会ってあげて下さい」
「はい。ありがとうございます」
看護部長の手により開かれたままの扉を抜け、NSに入室する。助かります。この分厚い扉はカードキーと暗証番号、網膜認証が必要みたい。インターフォンを鳴らせばいいだけ……だけど、それだと中のナースさんの手を煩わせてしまうからね。
「わたくしはこれから会議なんですよ。ごめんなさいね。失礼します」
看護部長は私と入れ替わり、NS……最上階を後にされた。
『良い知らせ』を早く聞きたい。
私は簡素なNSに似付かわしくない、VIPルームへ続く重厚な扉をノックし、入室する。
目に飛び込んできたのは、いつ来ても慣れない広い部屋。
比較的近くの右手、窓側のテーブルを挟んだ2脚のソファーには島井先生と渡辺先生、たっくん……拓真くんと初めて見る女性。島井先生は立ってる。あの先生は余り座らない。痔でも持ってるのかな?
「こんにちは」
私は、近くのその4名に挨拶。みんな立ち上がって口々に挨拶を返してくれた。
部屋の奥、ベッドの傍には、憂と千穂ちゃん、それと専属ナースの皆さん。
千穂ちゃんが耳打ちして、憂が私に気付く。
あっ!
私は憂に向かって、慌てて駆け出す。憂が走りだしたから。ここの絨毯はふかふかだけど、転んだら大変。
千穂ちゃんと伊藤さんが憂の両サイドでフォローの体勢に入ったのを見て、私は速度を落とし……立ち止まる。
憂は駆けてきた勢いをそのままに、私に突っ込んできた。駆けてきたって言っても速くない。その上、軽い。とにかく軽い。簡単に受け止められたよ。
でも……こんなに甘えてくるなんて珍しい……事も無いかな?
家に戻ってきてから、何だかんだ言って……結構、甘えてきてるよね。
私がその方向に持っていってる自覚はあるけどさ。
でも、ちょっとごめんね。私は『良い知らせ』を聞かなきゃいけないんだよ。
私のスーツに顔を埋めてる憂の肩を掴んで体を離す。
すると、今度は背伸びをして、私の髪を結んでるゴムを引き抜いてきた。
……何なの? 何してんの。この子は。
また結ばないといけないじゃない。
「お姉さん、しゃがんであげて下さい」
千穂ちゃんの声。何だろう?
私は言われた通り、その場にしゃがみ込む。
憂が私の肩に手を乗せて顔を寄せる。
……ちょっと……近いって。
…………嬉しいけどさ。恥ずかしいじゃない。みんな見てるよ。
……なんか、スンスン聞こえる。
「――なつかしい――におい――」
……におい?
……?
え……!? それじゃ、良い知らせって!!
また憂の肩を掴んで少し離し、その顔を見据える。
憂は少しだけ目を合わせて、すぐに逸らす。嬉しそうで恥ずかしそうな、はにかんだ笑顔。
「……私たちの時と違うんだ」
「そうですね。懐かしい……か」
千穂ちゃんと恵さんの会話が聞こえる。
懐かしい……か……。
そう言えば、昔……初等部の低学年の頃まで……だったかな?
怖いTV番組を見ては『いっしょに、ねていい?』って、私の部屋に来てたな。
年の離れた弟が可愛くって、『仕方ないね。優は……』なんて言って、ベッドに招き入れてたんだよね。
……憂をそっと抱き締める。
ちっちゃな頃の優と、今の憂がかぶっちゃって。
私は……はっきり言ってブラコンだった。今でもそう……かな? あれ? シスコン? どっちだろう?
まぁ……いいや。
優もシスコンだったと思う。私が可愛がりすぎてたから。目に入れても痛くない……って、あんな感じなんだと思う。
ちっちゃい頃は優の手を引いて遊びに付き合って、お菓子やジュースを内緒で買ってあげて。毎日のようにお風呂に入れてあげて。
高学年になっても仲良くその日の出来事を話しして……。その頃に始めたバスケの話をしてる時なんてキラキラしててね。可愛かったよ。
でも、そんなやり取りは急に終わった。
優が成長して、私との触れ合いを恥ずかしがり始めて……。
だんだんと距離が開いていって……。
落ち込んでたら『成長したのよ。喜んであげなさい』って、お母さんに言われたっけ。
「――姉ちゃん――はずかしい――」
…………。
……あ。いけない。皆さんが見てるの忘れてた。
「私も……恥ずかしい……」
本当に。
憂を開放したら赤くなってた。ごめん。
あ……。
確認取らないと……。『良い知らせ』のね。
「憂の嗅覚……戻ったん……ですよね?」
「はい……!」
伊藤さんも恵さんも佑香さんも……千穂ちゃんも、しっかりと頷いてくれた。
それから千穂ちゃんと専属の皆さんに挨拶を済ませた。遅くなっちゃったけどね。
そして、先生たちの居るソファーに向かう。
何故か憂も付いてきた。千穂ちゃんは分かるんだけどね。
先生たちの所に到着すると、たっくんがソファーを譲ってくれた。手の平で示して「お久しぶりです。どうぞ……」だって。紳士になったね。
「たっくん、ありがと」って言ったら、照れ臭そうに「いえ……」だってさ。
……ちょっと寂しいかな?
拓真くん、見るたびに思うけど……本当、でっかくなった。前は優と変わらなかったのに。
……あの頃は優と一緒によく遊んであげてたんだけどなー。
今は2人を見ると笑っちゃう。たっくんはでっかくなったし。憂は逆に縮んだし。
「愛さん……はじめまして。榊 梢枝と申します。直接、お会いするのは初めてですねぇ」
丁寧にお辞儀してくれた黒髪ロング、前髪ぱっつんの女の子。この子が例のメールの梢枝ちゃんか。綺麗な子。千穂ちゃんとは毛色の違うタイプの美少女だね。大人っぽい。
「はじめまして。姉の愛です。その節はありがとうございます」
……あれ? なんで敬語なんだろう? 彼女の独特の雰囲気のせいかな?
先生たちとも、あらためて挨拶。渡辺先生はやっぱり軽い。ちゃん付けはやめて欲しいかな? そんな年齢でも無くなってきたし。
これでソファーには向かいの左に渡辺先生。右に島井先生。
私たちは右に榊さん、真ん中に私。左に千穂ちゃん。詰めれば余裕で座れるけど、憂はたっくんと一緒に後ろに回っちゃった。一番、座っておいて欲しいのは……憂。あんたなんだけどね。
それにしても、このソファー。やっぱり柔らかすぎるよ。私には合わない。ちょっと苦手。高級品なんだろうね。
「愛ちゃん。今さっき、拓真くんにも聞いてたんだけど……優くんは傷の治りが早かったって事は無いかな?」
わざわざ『くん』って事は、変わる前の話……だよね?
「傷の治り……ですか?」
……どうだったかな?
「傷の治りって人それぞれ、まちまちなんだよね。ほら、よくTVなんかで全治2,3ヵ月とか言ってるでしょ? あれって、治りの早い人なら2ヵ月。遅い人なら3ヵ月……なんだよ。ちゃんと取材してる場合は……だけどね。僕らって手術する側じゃない? 僕らが同じ手術してもね。やっぱり完治までの期間って違うんだ。だから……どうかな? 早くなかった?」
やっぱり良く喋る先生……。気さくでいいんだけどね。
……じゃなくて、治りの早さかぁ……?
うーん。
「そんなに目に見えて早いって事は無かったと思います……」
はっきり覚えて無くてすいません……。
……って、前にも聞かれた気がする。あの時は渡辺先生はおられなかったかな?
「そっかぁ……残念」
本当に残念そうですね。「うーん……」って考え込んでしまわれた。
脳の再生と傷の治りの関係性……かな?
今の……憂は早いんだけどね。傷の治り。島井先生がおっしゃるには、傷の治りの早い人の3倍以上。手首の傷が綺麗に治らなかったのも、それが悪い方向に出ちゃったんだって。手首……あの窓際辺りだったかな? そう。あそこに総帥の差し入れのフルーツバスケットがあって……その傍に置いてあった果物ナイフで……。
……ん?
何……?
ちょっとだけ髪の毛を引っ張られる感触。
「あ――」
振り向くと右の手首にゴムを通した憂の姿。結ぼうとしてくれたのかな? 解いたのは憂なんだけどね?
ま、結んで貰いましょうかね? 嬉しいし。ちょっとだけだけどね。
「憂? よろしく」
正面に向き直ると、島井先生は立っておられた。ちょっと離れて私たちのほうを向いて。やっぱり座るのは嫌いみたい。千穂ちゃんも立った。
「ちょっとすいません」
断りを入れて歩いてく。お手洗いかな?
未だに渡辺先生は考え込んでおられた。髪の毛をくいくい引っ張られる。憂が触れてくれている感触。今はそれを楽しみたいから無言の時間は大歓迎。
「うーん。それじゃ、事故後に体質が変わったのかなぁ? 体質……って言っちゃっていいのかな? どうお考えです? 島井先生?」
渡辺先生が話し始めたのは、それから1分後くらい。
千穂ちゃんも戻ってきた。ブラシを片手に。
「――できた!」
島井先生が口を開こうとされたタイミングで憂のひと言。
……感覚で分かる。緩いよ。これ。
島井先生はタイミングを外されて苦笑い。
「憂……よく見てて……」
私の背後で千穂ちゃんの声。
緩いゴムを外して、私の髪をブラッシング。
ブラッシングが終わると、髪を優しく上手にひとまとめに。
「お姉さんの髪、キレイですね……。私、跳ねちゃうからここでブラシ通さないといけないんですよ」
「そう? ありがとう」
千穂ちゃんは私の髪を褒めてくれながら、ゴムをしっかり結んでくれる。さすが生まれながらの女の子。上手だね。
「おぉ――」
憂の感心したような声。憂もその内、自分の髪を結ばないといけないんだよ?
そんな事を思ってたら、千穂ちゃんが隣に戻ってきた。
「……憂は?」
「手を引いたら抵抗されちゃいました。立ってたいみたいですよ?」
千穂ちゃん、苦笑い。可愛い子。
スンスン。真後ろから聞こえる例の音。
千穂ちゃんは振り向いて、もっと苦笑い。私は、そのまま正面を向いて固まってあげた。今日くらいは思うままに嗅がせてあげたくて。
「お姉さん相手だと遠慮が無いですね」
「そうだね。僕も嗅いで貰いたいよ」
「……? 男性の匂いは嗅がないの?」
思わず飛び出した疑問。でも……まぁ、男の子だしね。
「俺と勇太は嗅がれたんですよ。それともう1人。康平って人の。その人の嗅いは微妙だったみたいです」
「微妙?」
「その人、ポマード使ってるみたいなんで……」
「あー……」
なるほど。独特の匂いだよね。あれ。
そんな会話の中でもスンスン聞こえてる。
…………。
「憂? 帰って……からね」
いい加減、恥ずかしい。頭洗ってから嗅がせてあげるよ。
……今日だけね。
何かいい香りの物ないかな?
今度、探しに行こう……。
「あの……私からも質問……いいですか?」
お。千穂ちゃんから質問?
「何かな?」と応える渡辺先生。
千穂ちゃんってしっかりしてるよね。高等部入りたてで、この先生2人になかなか質問出来ないと思う。
「憂って……体、すっごく柔らかいですよね……。なんでですか?」
あ……そう言われてみれば柔らかいね。優も男の子にしては柔らかかったけど……。
ただ……ちょっと嫌な質問かな?
先生……なんて言って切り抜けるんだろう?
「それは……ちょっと言いにくいよ……。そりゃ……女の子だからね……。うん。女の子の体は柔らかいよ。それは千穂ちゃんも……でしょ? ……はぁ。僕は高校生相手に何を言ってるんだ……。それよりも……君は、なんて質問をするんだ……。照れるじゃないか」
………………。
…………。
「「そうじゃなくて!」」
あ。
かぶった。
思わず千穂ちゃんと顔を見合わせる。
「……そうじゃない? あぁ……なんだ。関節の事か。驚かさないでよ。肌とかの事かと思ったじゃない」
渡辺先生は苦笑い。変な勘違いしないで下さい。驚いたのは私たちもですよ。
それに、肌とかって、一体どこの事ですか。
「それこそ女の子になったからじゃないかな? 優くんの頃はどうだった?」
「……男の子にしては関節は柔らかかったと思います」
「そうですね。僕らの中でも関節は柔らかかったですよ」
たっくんがフォローを入れてくれた。バスケ部内での話だよね。
私には『俺』で先生には『僕』って、ちょっと嬉しいかも。それにしてもしっかりしたね。たっくんも。
「そんな関節関節って、強調しなくても……」
頭をぽりぽり掻く渡辺先生。島井先生を横目で見ると、小さく頷かれた。
うん。たしかに上手く切り抜けたよね。
……渡辺先生、最初のって計算して話を逸らしたのかな? だとしたら……凄い。でも……案外、素だったりして。
横目で見た時、視界に入った梢枝さんは何か考え込んでる風だった。
それからは憂の嗅覚について、私が質問。
回復したばかりだからね。刺激のある匂いとか心配じゃない?
あ。この辺りで専属の皆さんが合流。それまでは3人で何か話してた。
島井先生の回答は『問題なし』だった。
どんどんと色んな匂いを嗅がせてあげればいいって。
……今日の晩ご飯を食べた時の顔が楽しみ。
そうだ。家族みんなに内緒にして驚かせよ。
……私もされたし。
お暇したのは、この前より遅い時間だった。
私がクラスメイト全員を送るつもりだったけど『タクシーで帰ります。経費で落ちますから……』って、榊さんは自分で帰ってしまった。
私の車って、軽だから4人乗り。正直言うとね。ありがたかった。
もしかして、私の車が軽って事を知ってたのかな? なんか、総帥が派遣した憂の身辺警護って話だし。
車に乗る時、憂を運転席後ろに座らせたら、自然に助手席にたっくんって形になった。なんか窮屈そうで申し訳なかったよ。次は普通車にしようと思う。
それで……私の車で先に送ったのは千穂ちゃん。たっくんは3軒隣に住んでるから。
千穂ちゃんを送る最中、彼らに憂の来週からの帰宅方法の相談をした。私とお父さんは仕事。剛は帰る時間がまちまち。お母さんが憂を迎えに行ってもいいけど……それじゃ、憂が恥ずかしいだろうから。
そしたら、たっくんが『俺が送り迎えしますよ』って。事故前も一緒に登下校してたしね。お言葉に甘えちゃった。
話題はもう1つあった。明日の午後、憂と遊びに行きたいんだって。嬉しい事だから二つ返事した。
千穂ちゃんの家に着いたら驚いた。結構、大きな家だったから。
何でも千穂ちゃんの家族は、蓼園商会の本社が移転してくる前から、この土地に住んでるんだって。
蓼園商会本社の移転に合わせてひと旗揚げるって、移り住んだウチのお父さん。
お父さんが家を建てた時には地価が上がってて、今の我が家で限界だったみたいだから。その事を説明すると『漆原家は運がいいんですね』って笑いしながら話してくれた。謙虚な子。
たっくんを送って……って言っても、家のすぐ傍なんだけどね。
彼を送って私たちも帰宅すると、一瞬で私の嗅覚サプライズ計画は、おじゃんになった。
晩ご飯がまさかのカレー。匂いが充満しててね。
「カレーだ――!」って憂が嬉しそうに、すぐに言っちゃったから。カレーも憂の数多い好物の1つだからね。
そして晩ご飯。憂の食べるペースが上がってて驚いた。スプーンって事に加えて、味覚だけで味わう必要が無くなったからだろうね。咀嚼の回数が減ってた。
なんかね。すぐにお腹いっぱいになっちゃったみたい。寂しそうだったよ。
でも、食べ始めた時は心底、幸せって感じで食べてたよ。