最 終 話 壮大な計画のごく一部
開けっ放しのままの豪華な一室と廊下を隔てる境界線を越えると、梢枝は振り返ることなく、歩き続けた。
2人に気付いた佳穂と千晶が2人して、涙を拭いつつ部屋に戻っていったが、声も掛けなかった。
「おい、どこまで行くんや?」
廊下の突き当たり、エレベーターの付近まで進んでいた梢枝は、従兄の声でようやく立ち止まった。
「なんや、案外、声に張りがありますねぇ……。兄さんのことやから死んだようになってるかと思うとったわ」
「どういう意味や?」
「……そのまんまやわ。これから少しの間、変な言葉遣いなしで話しますよ?」
「あぁ……。わかった」
康平の態度に想像が確信めいていく。
きっと『大人たち』は、コネクティングルーム内でその時を待っている。
この康平は挑発してみせた自分に受けて立つ構えを見せたのだ。
それは何よりも榊 梢枝を警戒しているからだろう。
だからこそ、不要な口を開かなかった。自ら率先して話すような愚を犯さなかった。従妹を警戒しているから。
だからこそ、この責任感の塊のような『兄さん』はここに留まっている。事件が真実ならば、誰よりも外を駆け巡っているだろう康平が。
「私、勘違いしていたんです」
「……何を、だ? お前は頭良すぎて会話が噛み合わん」
IQに差があれば、その会話は成り立たなくなってくると誰かが言っていた。
だが、それは相手に合わせれば簡単に解決する。なので梢枝は噛み砕いていく。
「兄さんが何か隠している事には気付いていました。貴方はすぐに態度に出てしまいますので……」
「…………」
「愛さんにしてやられた……って事ですよね? 隠し事は元々、2つあった」
「…………」
兄さんはだんまりを決め込む。
従妹に勝てる訳がない……と、理解している。中学校を出るまでの間、それは嫌と言うほど味わっている。
「巧いタイミングで切り出したものですよね。愛さんと兄さんは本当にお付き合いを始めています。だからその情報に私は踊らされてしまった。もう1つの重大な事案に気付く事もなく」
「…………」
「今回、私を除け者にしたのは、『再構築』を兄さんに教えなかった意趣返しですか?」
康平の表情が歪んだ。
その部分だけは違うとでも言いたげだ。
「本当に隠したかったモノは、交際を始めた程度のモノじゃなかった」
従兄の様子に気付いたのか気付いていないのか解らない。梢枝は饒舌に話を続ける。
全ての答え合わせをするように。
「この事件、裏で手を引いているのは総帥……ですね?」
追求する梢枝の目が潤んだ。
願望だ。そうであって欲しい。理解の深い従兄の態度から99%正解だろうとまで数値は跳ね上がったが、これに1%を加えたい。
ほぼ間違いなくは、可能性が高いだけの可能性に過ぎない。
千穂の無事を確信に変えたい。だからこそ追及の手を緩めない。
「康平さんは計画を示唆され、これに乗った。憂さんのご家族もご存じですよね!? 千穂さんのお父さんも知っ「しっ! 声がでかい!!」
ヒートアップし、声を荒げ始めた梢枝の口を康平が塞いだ。これも梢枝の策謀なのかもしれない。
梢枝の推測が真実でなければ、その溢れ出る言葉を止める必要などなかっただろう。
「……もうすぐ判る。まったくお前は……。どんな脳みそしてんだ……」
康平がよく喋るその口から手を離すと、ふいに一条の水滴が頬を通った。
「よく見てて良かった。今まで羨ましかった。あの子たちの繋がりが……。よく見てるから気付いた佳穂さんも千晶さんも……。気付いて受け入れていった圭祐さんも京之介さんも……」
意地か何かか、梢枝はグイッと制服の袖で光る物を拭った。今も祈りを捧げているであろう少女がそうするように。
「私にも居たんだって……。そんな人が……」
そして、勝ち気、強気の印象ばかりの従妹にしては珍しく、恥じらうような微笑みを見せた。
そんな可愛い従妹の両肩に手を伸ばし、抱き寄せようとでもした瞬間だった。
「千穂さん、元気じゃなかったら許しませんえ……?」
そんな恥じらう少女は一転し、悪魔のようにニヤリと口を三日月にした。
『兄さん』は恐怖を感じた事だろう。
その直後だった。
「みんな! 集まって!!」
弾んだ声がVIPルームから顔を覗かせた誠人から発せられた。
「……隠しとけや?」
「……解ってますわぁ」
到底、聞こえるような距離ではなかったが、なんとなく声を潜ませ、短い確認を済ませた梢枝と康平は「何か分かったんですか!?」「もしかして無事ですか!?」と駆け出した。
千穂の父の明るい表情を見て、張りのある声を聞いて、そう思わない者は居ないだろう。
「憂! 憂!?」
2人がVIPルームに飛び込んだのは、祈り続け、反応しない憂を見て、愛が片膝をキングサイズベッドに乗せ、ゆさゆさと肩を揺らしている最中だった。
……ぼよんぼよんとベッドのスプリングが軋んでおり、これに合わせてゆらゆら揺れているが、それでも憂は動かない。
壊れてしまいそうな心を何とか保とうとする行動にも思えた。
そんな憂にふぅと鼻を広げるほど、強く息を吐いた愛は、方針を変更した。
スマホのボタンを1回だけ、プッシュしたのである。
……すると聞こえた。
現時点でVIPルームに集まっている面々にも。
『……憂?』
聞いた瞬間に佳穂の涙腺が破壊された。いや、勇太もだ。滂沱たる涙を流している。瞬間的によくぞそこまで泣けるものだと感心するほどだ。
「……良かったぁ。千穂せんぱいのこえだぁ……」
……美優もだった。
しかし、重苦しかった空気が排除され、安堵のため息に包まれたのも瞬刻だけだった。
「ほら! 泣かないの! 言ってたでしょ! 全力で喜ぶんだって!」
「ふぇぇ……。これ、嬉し泣きだからいいのぉぉ……」
『あはは……。佳穂と千晶かな? ごめんね、また心配掛けちゃった』
「許すぅ……。ひぐっ……。もう何でもいいよぅ……。ゆるすからはやぐがおみぜてぇ……」
「……そうだね。まだ手とか足とかきちんと付いてるかどうかも分からないから」
『んっと……。それは明日になっちゃうかな? 手も足も付いてるけどね』
「どう言う事だ?」
『あ。拓真くん? 無事だよー。今、なんかね。太平洋の真ん中なんだって……』
「あ!?」
『出た! なんか生きてるんだって実感!』
「詳しく……」
『うん、そうだね。説明しないと……だけど、ちょっとその前に……』
途端に静かになった。
電話越しの千穂は時間でも計っていたのか、それとも憂に関する体内時計でも仕込まれているのか……。
自分の最初の一声が憂の耳に届いていない事に気付いてしまったらしい。しかもこの部屋の全員、千穂が何をしたいのかを理解してしまったらしい。
『……憂?』
……何も聞こえていない。
『おーい。憂ぅ?』
未だに彼女の両目は閉じられたまま、よく見れば、ごく小さく口元がぷにゅぷにゅと動いている。
……きっと、念仏でも唱えているのだろう。
パシッ。
『ゆぅぅぅうぅぅぅ!!!』
千穂の大声よりも一瞬だけ姉の手が早かった。
軽く叩かれた弾みで髪の毛がサラリと流れてる最中の絶叫だった。
これにより、憂の極限まで高められた集中が途切れた。つまり、耳にしたのだ。
「――え?」
目がまん丸である。
目を丸め、そのまま再び、固まった。膠着状態となり、何も状況が動かない。これは今に始まった事ではなく、何度も何度も繰り返されている。
『憂?』
今度こそ。
落ち着いて掛けられた声は電話越しでも感じられるほどの、千穂本来の涼やかな声音だった。
「ち――ほ――?」
『うん……。千穂だよ……』
「ほんと――に?」
『私……。憂を騙した事……ないよ?』
「千穂――だ! 千穂だ!!」
もはや聞いてなんぞいない。
憂の中、千穂が生きていたと云う事実だけが支配しているのだろう。
「感動「千穂――! 千穂――!」うし訳ないっす。速報来ました。あ、良かったっす。生きてて……。マジ「千穂――!」……」
憂の声がうるさいが横から割って入ったのは、伊藤だ。
彼がわざわざ邪魔をした理由はすぐに明らかになった。
……各自のスマホが一斉に鳴動を始めたのである。
ニュース速報で流れた【行方不明の漆原 千穂さん(16)、太平洋上にて無事、保護】。
このニュースを皮切りに、蓼園市はお祭りモードに移行する事になるのだった。
『私……。もしかして、また有名人……?』
こんな呟きに反応出来た者は勤務中の専属看護師くらいで、その他各員は電話対応に追われていた。
総帥・蓼園 肇は、いち早く千穂保護の情報をキャッチしていた。
例のアプリで【 CONGRATULATION!! 】との短いメッセージを受け取ったのだ。
かのチャットアプリの暗号化の有用性は先方も実証済みらしい。言い換えれば、それだけの準備期間を経て、成功したのが此度の作戦だ。
感極まったのか、思わず、秘書が外線電話を受ける前に「やったぞ!」と叫んでしまったほどだ。
文乃は聞きたい事だらけだ。
しかし、それは鳴り止まない電話が許してくれない。
記者会見も先方との表面上の折衝も控えている。
……日中はそんな仕事に忙殺されてしまった。
この処理が終わったのは、夜も更けてからだった。
「あの。聞きたい事があります……。と言うか、聞きたい事だらけです」
文乃はちょぴっと怒っていた。怒っていたからこそ、こんな口がきけたのだろう。冷静そのものだったとすれば、もっとオブラートに包み、優しく不満を表現していた筈だ。
「うむ。良かろう。君の彼女らへの想いは存分に聞かせて貰った。話してやれ」
「ご自分で話されないのですね。面倒事を押し付けるだけが特技ですか?」
「適材適所だ!」
「早く聞かせて下さい!!」
強気だ。まだ入社1ヶ月ほどの新米が、あろう事かグループ事実上のCEOに噛み付いた。
遥が大将をリスペクトせず、煽った事が多分に影響したのだろう。
「仕方がありません。それでは私が」
文乃の剣幕を確認すると、これで良いと言わんばかりに頷いてみせた第一秘書は、淡々と語り始めた。
「全ては先方との折衝の結果、生まれた自作自演です。
誘拐犯は全てあちらの手駒。鬼龍院さんは協力者です。心配の余りどうにかなってしまいそうな憂さまのご家族及び、千穂さまの父君には、全容をお話し、予め了承を得ております。
それは肇さまの夢を引き寄せ、同時に憂さまと千穂さまの仲を取り持ってしまおうと云う、大胆な策謀でした。
事件の全貌は先方の中、非公開となります。その内、関連する文書も秘密裏に焼却処分でもされる事でしょう。
それだけ危ない橋を渡りました。
攫われた千穂さまは警察の検問が整わぬ内に蓼園市を脱出し、基地内へ。どれだけ探しても見付からなかったのは、そんな理由です。そこは鬼龍院 康平が上手く時間を稼いでくれました。
無論、全貌を知る者は少ないに限りますので、先方も相当な注意を払ってくれた事でしょう。
そんな限られた人数で監視。物音も何も消えた時を見計らい、基地から輸送。
本日、何食わぬ顔で太平洋を航行していた犯人グループの船舶を発見、拿捕。無事に保護と相成りました。
これは千穂さまへの最終テストを兼ねておりました。
これまで十分に資質を示して下さっていたにも関わらず、心配性な我が主のせいで、千穂さまはお可哀想に、ターゲットになってしまったのです。どれだけ怖い思いをされたかと思うと心が激しく痛みます。
この一件。本来ならば何も知らない千穂さまでなくとも宜しかったのです。
それこそ憂さまの身内であれば、ここまで大騒動にすることなく、例えば『あれ? お兄さまの姿が見えませんね』からの『保護しました。実は誘拐されていました』で良かったのです。
……お陰で、市長も動き易くなった訳ですが、そこは長くなりますので、良しとしましょう。
対象者の決定後、問題となったのは、如何に千穂さまに知られず事を運ぶのか。
如何に憂さまと共に歩む覚悟を示して頂くか。
そこで、かつてお渡ししたお薬を再利用する手立てを講じました。
千穂さまたちご学友にお薬を提供した頃には、純粋に覚悟を求めただけの事でした。その脅しに屈するようであれば、この先、憂さまのお側には必要無き人物だと……。
アレは少々、作用の強い睡眠薬です。まさか子どもたちに危険な薬をお渡しする訳には参りません。
単なる、それだけの物です。
ですが、千穂さまを始め、ご学友の皆さまは物の見事に危険なお薬だと認識して下さっていました。そのように思って頂けなければ無意味ですので、当然ですね。
何度も申し上げますが、悪趣味なサド気質の肇さまは、千穂さまを追い込み、アレを飲むか否かでお試しになられたのです。
……本当に憂さまのお側で人生を共にするべき人物であるのか……と」
ここまで話し、ようやくひと息。
これを合図に文乃は遥からメタボリックな御方に目線をシフトした。ジト目で。
一方、夜になった蓼園総合病院最上階、VIPルームでは……。
「あんたが……今回の事件……」
憂が言い聞かされていた。
昨晩、一睡もしていなかった面々は帰宅なり、睡眠なり、思い思いに過ごしている。
今、外に出ればマスコミに追っかけ回されるであろう、立花家と誠人は最上階残留組だ。
何を隠そう、千穂の声を聞いて安心した憂は、通話を終えると10分ほどで眠りに就いている。まだまだ各員の電話が鳴り止まぬ中での出来事だった。
「どう考えるか……あんた次第……」
わざわざ解りやすく、じっくりと……。紙に平仮名満載の文章が書かれた紙まで添えて言い聞かせられている。
「千穂ちゃんを……離して……安全か……」
憂は、じっと語り掛ける愛の瞳を捉えている。
ひと言も聞き逃さないようにしているのだろう。
「千穂ちゃんと……一緒で……守るか……」
返事はないが、何度も何度も。愛の言葉が途切れる度に首を縦に振っている。
因みに愛の言い聞かせの内容を意訳すると『千穂を以前のように。いや、完全に別れを伝えて安全圏に押し出す』か、むしろ『千穂とべったりくっついて、憂の護衛を憂と千穂の護衛にし、安全圏に引き込め』。この2つから選べと言っている。
「ひと晩……悩みなさい」
この時、愛も忘れていた訳ではないだろう。仕方なかったのだ。
「分かった?」
「――うん」
本日、夜更かし2日目だと云う事を。
「――かんがえる――。いっぱい――」
この日以降、しばらくの間、立花家は憂の昼夜逆転に悩まされる事になるのだった。
―――5月9日(水)
音声をミュートされたモニターのみ。
『そんな余計なものなど不要!』とリポーターの喧しい声を消してしまった。
そんな蓼園商会会長室のモニターには、10機を超える軍用のヘリが映し出されている。空撮だ。距離を置いた1機のヘリから撮影されているものらしい。
前日、第一秘書が頻りに『先方』と呼称していた相手の圧力は強く、日本政府が折れた形だ。
そんな過保護な千穂の送りは演出だ。
結局、事件の最後まで自衛隊に出動命令を下せなかった政府を蓼園市長は猛烈に非難しており、蓼園市の独立にまで言及している。全ては住人の手に委ねると。
これも計画の一部である。
事件を契機に、蓼園商会のみに留まらず、蓼園市全体を大きく動かす気なのだ。この総帥と呼ばれる男は。
その為に今年に入ってからは大きな損失を顧みず、憂を支持出来ない者には出ていって貰った。人口流動の激しかった3月は、独立の可否を決める投票の日の為にある。
全ては神に愛された子・立花 憂を頂点に抱いた神国を創設する為に。
ちょっかいを出されぬよう、それだけの経済連合体を構築した。
市長の庇護と云う、政治的な立場も得た。
1つだけ足りなかったものは軍事力。
これから連合の反発があるだろう。
『先方』へ、これから得る利益を流す形となるからだ。
男はそれすら自信を漲らせ、愛すべき第2秘書へ朗々と語った。
『もはや倫理などと何人も申さなくなるわ! 独立すれば政府の介入は免れん! そこで先方が仲介すればどうなる!? 自治区として! 倫理研究特区として! 先方が支持すれば、世界中が掌を翻すだろうよ!』
同時に世界最大の軍事力に護られる事になる。
怖れるべき敵を完全に封じ込め、憂に関する研究を一気に加速させる。
―――それは絵空事か、それとも男の妄想か。
「見えたぞ! 病院だ! 憂くん……も居るな! さぁ! 感動のワンシーンだ! しかと見届けろ!」
どこまでも続くかのような澄んだ群青の空を真っ直ぐ。ただひたすらに突き進んでくるのは、先方のヘリコプターの一団。
これに付随する小さなヘリは、独占放送を許されたテレビ局の物だ。
ヘリの編隊飛行は気流を乱す。
先方の精鋭部隊なのだろう。その菱形の編隊は一糸乱れない。
1分……。
2分……。
それらが大きくなってくると同時に、音が。
3分。
その音はやがて爆音と化していく。
少女は大きな音が苦手な筈だった。
ところがこの日、この時だけは、愛らしい顔を顰めるだけで、見上げている。
乗っているのだ。
―――最愛の少女が。
ヘリポートから離れた、屋上出入り口付近に人影がある。
院長の川谷、憂の主治医である島井、憂のキーパーソンである立花 愛と、その左には妹・憂。
更には駆け付けたのであろう、今、世間を大いに騒がせる鈴木市長。それに付随する人々。
要するに結構な人数だ。
当然だが、千穂の父・誠人の姿も見える。
(あんな大きなヘリ……。どうやって降りるんだろう……?)
風圧に顔を背けつつあるが、それでも腕を風除けに、目を細め、千穂の姿を確認しようとする愛の疑問は解る。
ちっぽけなヘリポートに対し、大型の軍用ヘリ。とても着陸出来そうにない。
(……嘘だよね?)
何の想像をしたのだろうか?
下ろされた縄梯子を千穂が降りてこられる訳がなく、落下傘もあり得ない。
(あ! あれだ!)
何故、気付かなかったのか。
菱形の編隊飛行の中心に、小型の迷彩塗装されたヘリが隠れていたではないか。
それを確認すると同時に、編隊を保っていた大型のヘリが散開していく。
下向きの気流に流された小型ヘリを墜落させる訳にはいかない。
……そもそも、今日、この軍事力に対して、正面切って喧嘩を売れる存在など何処にも居ない。編隊を飛ばした理由は政治的なショーである。
散開したヘリの中央、小型のヘリが徐々に高度を落としていくと、風圧はますます強まった。
何とか薄目を開け、千穂の姿を確認するが何処にも見えない。
(ドア閉まってる……。そりゃそうか)
高度は下がり続ける。
同時に正面を向いていた小型ヘリが屋上に待機していた者たちに右側面を向けた。操縦席を右にして。
これも演出なのか、それとも儀礼的な何かなのか、それすらも判らない。
……残り5メートル。
……3メートル。
1メートル。
接地すると、やがて飛ばされそうなほどの風圧が去った。
あっ……と思った愛は、左の憂の姿を確認してみた。
文字通り、飛ばされているかも、とでも感じたのだろう。
その憂は、いつの間にか、己の左で誠人と島井に挟まれていた。
飛ばされなかったのは、彼らのお陰なのかもしれない。
(パンツ、大丈夫だったかな……?)
相当な風だった。
千穂に意識が向いていたとすれば、憂は無防備だった筈だ。もしかしたら全国放送の中、全開だった……なんて事になっていたかも。
そんな事を思ってみた。後で確認しないと……と。
プロペラが完全に停止すると、2枚見える内の前方の扉が開いた。
その男性の降りる姿だけで階級の高い軍人なのだろうと感じた筈だ。だが、真相など判らない。
その迷彩服の操縦士に院長と誠人が寄っていくと、操縦をしていたであろう隊員は、ヘルメットを外し、小脇に抱え……。
固く。固く握手を交わした。
それを見て市長の重責を思い出したのか、鈴木さんが走り出した。
―――その時だった。
後部の扉が開くと、迷彩服と同様のヘルメットを被った人物が。
どうやら女性らしい。ブロンドヘアの美しい、鍛えられた女性だった。反対側から降りたであろう、もう1名も女性隊員だ。そこまで配慮してくれているのか……と、感心した時だった。
見えた。その奥から出てこようとしている千穂の姿が。
向日葵のような満面の笑顔で、その女性隊員に手を借り、降りた千穂は……。
しっかりと女性に頭を下げ、それを勢いにヘルメットを被ったままセーラー服のスカートを翻し、駆け出した。
(あ……!)
チラリと左の憂を盗み見た。
操縦席が右手の為か、はっきりと見えた。
その泣きそうな、寂しそうな顔が。
(そりゃそうだ。そこは許してあげなさい。千穂ちゃんにとって、唯一の家族なんだから)
千穂の駆け出した先は、父だったのである。
「ぅ――あ――」
ウズウズしているのだろう。
駆け出したいのだろう。
しかし、父と娘の抱擁の邪魔をする訳にはいかない。
葛藤しているのだ。この妹は。
しばらく待つと、千穂は父との抱擁を解いた。
そして、父と操縦士に背中を押されると……。
走ってきた。全力疾走だった。再度、スカートを翻して、真っ直ぐ。
「ひゃう――!」
そのままの勢いで抱き付いた。
小さな千穂が更に小さな憂に。
小さな憂の肩の上から。
……応えるように、千穂の腰に手が回った。
(身長的にそうなるよね……。いつか指摘して怒らせてみよ……)
憂の願望としては、小さな千穂を抱き締めたいのだろう。
しかし、現実は違った。どう見ても千穂が憂を抱き締めている。
(おめでとう……でいいの?)
強く。
持ちうる限りの力で精一杯に抱き締めているようにも見えた。
(もしかして、憂……? あんた悪い風に結論出してない? 千穂ちゃん、鋭い子だから心配……)
それにしても長い。
そして百合百合しい。白いセーラー服同士の長く熱い抱擁。
その手の趣味の者は生放送中の映像を目に焼き付けている事だろう。
(……いつまで抱き合ったままなのよ?)
3分は経過しただろうと思う。
(言うべきことあるでしょ!)
「憂……?」
(あ……。千穂ちゃんから離れようと……)
「……憂?」
千穂は離そうとしたが、憂が腰に手を回したままの為、また肩に手を回した。今度はふんわりと優しく。
「千穂――!」
顔は上げない。
顔を見せたくないのか、千穂の顎の下に頭を滑り込ませた。
「ごめん――!」
驚きの表情に切り替わった。
姉も……。千穂も。
(必要だったんだよ……。自分で決断させる必要があったんだ……)
僕のせいで千穂はこんな目に遭った。だからもう、さようなら……。
こう思わせるには充分だった。
お別れの言葉と受け取れた。
……が。
「もう――はなさない――!」
何とも紛らわしい。
「ずっと――いっしょ――!」
『もう離さない。今までごめんね』
この順番であれば、驚く必要などなかった。
「だから――ボクと――はなれないで――」
愛の頬が緩んだ。
彼女の胸には万感の想いが木霊している事だろう。
これこそ、千穂が望んだ『憂からの告白』に他ならない。
「……うん。わかった」
そう言った千穂は何かを隠すようにそっと瞳を覆い隠し、抱いたままの少女の髪にそっと頬を押し付けた。
再び、蓼園商会会長室。
再会を心より喜び、抱擁を交わした2人の映像。終始、無言だった。
全てが終わった。そう言わんばかりの総帥&第一秘書と、食い入るように凝視していた第二秘書、誰も中継が終了するまで言葉を発さなかった。
「……羨ましい」
中継が終わった感想が文乃の口から零れた。
Lだとか、そんな話ではないだろう。心底、愛し合う2人が……の筈だ。文乃の交際など、在学中には一切、聞かれなかったので真相は不明だが。
「本当に」
女声による思わぬ同意に文乃の端正な顔立ちに驚きが生じた。
遥が自身の思いを吐露するなど、文乃にとっては初めてだったのだ。
「未来永劫、共に歩まれる事になれば私にとって僥倖です」
……文乃を見やりつつ続いた台詞で、聡い第二秘書は察した。
今のが文乃にではなく、違う人物に向けられたものであると云うこと。
それは勿論、この部屋の主にも届いた。いや、届いてしまった……と、言うべきであろうか。
「ふむぅ……。役所の証明如きが必要か?」
女性秘書の両名が主に向き直ると、そこにはしょぼくれたオジサンが居た。威厳も何もない、困り果てたおっさんだった。
……が、それは瞬く間に消失。代わりに不敵に嗤う男が出現した。
「お前と同じ時を歩み、何年が経過した?」
「……14年で御座います」
何を言ってるんだ。この人は。
そんな様子をまるで見せず、無表情に答えた遥にとって、次のひと言は衝撃だった事だろう。ところが主の前では、それすら全く顔には出さなかった……と、先に明記しておこう。
「食事もスケジュールも君任せ。14年間、ずっとだ」
嗤う。何を今更と謂わんばかりに。
「それは最早、内縁と呼べるものでは無いのかね?」
「……お戯れを。私は今後の対応に移ります」
言うなり振り向いた瞬間、僅かに綻んだ口元。それを文乃は、しかと見届けた。




