287.0話 祈る少女
―――5月8日(火)
一睡もしなかった。
あの憂が、だ。
一晩中、いじり回された千穂のヘアゴムは早朝、遂に切れてしまった。中のゴムが……だ。辛うじて輪の形態は保っており、今は、ただひたすらにそのゴムを握り締めている。
『祈りましょう……。一緒に……』
憂が土下座までし、教えを乞うた千穂を救う方法を。
憂が問うた『何が出来るか』に、梢枝は残念ながら回答を持ち合わせていなかった。記者会見でも開き、千穂の解放を訴えたところで交渉の可能性を抱かせるだけだ。日本中への情報拡散も既に行われており、憂の出来ることなど何もない。
……憂は今も梢枝に教わった通り、祈り続けているのだろう。
そう考えると、胸が痛んだ。
千穂を想うと心が揺れた。
梢枝は広いVIPルームを見回す。
千穂の無事を祈る者、憂たちを心配し、訪れた者たちが思い思いの場で落ち着きなく過ごしている。
その中心地はキングサイズのベッドの周囲だ。誰かしらが常に憂の傍におり、大丈夫だよ、心配いらないよ、と気休めの言葉を投げ掛けている。
憂、拓真、勇太、圭祐、佳穂、千晶、美優。更には康平、梢枝。
以上が、このVIPルームに集まった学生たちだ。
ここに居ても何ら不思議のない京之介と凌平は、生徒会の面々や健太たちと共に、一日経過した今も捜索を呼びかけ、呼応した生徒たちを率いて蓼園市中を駆け回っている。
今も蓼園市のどこかに潜伏している可能性を信じて。
千穂の誘拐事件は蓼園市はもちろん、日本中が蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。
早々に開始されたSNSでの情報拡散が、事態を大きなものとした。具体的には近県はもちろん、日本中で無償の捜索隊が結成されているようだ。
梢枝は旧・『学園内の騒動を未然に防止する部』のメンバーに請われ、1つの可能性に触れたのみだ。それしか出来なかった。
北か南か。おそらく南だろう……と。可能性があるのは近県の港だと。
彼らは行った筈だ。その可能性に賭けて。
警察の動きは激しく、威信を賭けて捜索に当たっているようだ。
検問は今や相当な範囲に広がっている。
もちろん梢枝が考える通り、空港や港などは放っておいていないだろう。
蓼園市長、鈴木 慈子に至っては、あらゆる大使館及び、宗教施設、更には米軍基地にも自衛隊を突入させ、調査するべきと息巻いている。
それでも、発見には至っていない。
ここに集まった蓼学生たちは、最悪の事態を予感し、『その後』を支えるべく集まった者たち、或いは引っ張ってこられた者たちだろうと思う。
Dr.島井こそ、ここを離れ、前日に無事手術を終えた少女の下に向かってそのまま戻ってきていないが、専属看護師たちは揃い踏みだ。
伊藤、高山の男2人はテレビで、或いはスマホで情報を掻き集めている。
裕香と恵の2人は精神面のケアも看護師の仕事と謂わんばかりに動いている。
残す大人たちは立花家、本居家と漆原 誠人。
本居家は、こんな状況でも食べないと……と、食欲のわかない面々に食事を振る舞っている。
前日の夜、今朝、昼と、何度もここを出入りしている。
……榊 梢枝は観察を続ける。
「……………………」
ベッドの隅に腰掛け、黙したまま憂を心配そうに見詰めるのは康平だ。
その康平の背中を従妹が鋭い目付きで捉えている。
梢枝の観察の相手は、半日以上経過し、絞られている。
ここに揃っている憂を除く立花一家、漆原 誠人、更には鬼龍院 康平。
違和感がそうさせている。当初は自身も取り乱していたのか、見渡す視野がなかったが、ここにきて何かを感じ取っている。
何故、誠人はごく一瞬でも眠れたのか。確かに今朝方、ごく数秒だけ落ちてしまった瞬間を目撃した。精神的疲労は理解できるが、どこか不満が残る。
何故、愛は取り乱していないのか。千穂を本当の妹と思っているであろう姉は、これまで1度たりとも泣き崩れていない。彼女は憂の秘密が暴露した時、確かに憔悴していたが今回は、それだけだ。
何故、剛は大学に赴き、友人たちを動かさないのか。彼には、かつてバスケコートを探す為に友人たちを駆り出したほどの人望がある。
何故、幸は明らかに憔悴しているのか。このあっけらかんとした母は強く、揺るぎのない信念を持っていた。今日よりも良い明日を信じていた。
そして……。
何故、康平は今も憂の傍を離れないのか。
従兄の性格を思えば、じっとしてなどいない筈だ。目的地さえ得なくとも、僅かな可能性に縋り、外で動いているだろう。彼の仕事は憂の警護ではなく、千穂の警護に移って久しい。そんな職務放棄にも思える行動に理解は出来るが納得出来ない。
梢枝の目線が、ソファーに座り込んだままの誠人に動く。
口数は明らかに減少し、笑みの1つも見せない。
……憂やその家族と同じ部屋で過ごしていれば気丈な態度の1つくらい見せないだろうか?
彼の漆原家を盛大に巻き込み、今回の事件に至った立花家の気持ちを考えられる人だと思う。
ならば何故?
待つのみだ。
ここまでは、あくまで推測の域を出ていない。
確信は得られそうにない。
梢枝は唯々、待つ。
それが正しかった瞬間を信じて。
蓼園商会会長室は、不気味なほどの静寂に包まれている。
前日の会議室で見せた激昂した姿は何だったのだろうか……と、文乃は思う。
あの後、会議室は様相を変えた。
捜査本部の看板を出しても何1つ嘘偽りのないような環境だった。
蓼園商会の幹部連が揃ったそこは、正しく司令部だった。
取締役各々が、各関連企業に指令を出し、蓼園グループの総力を挙げて千穂の捜索に当たった。
蓼園商会の人間として歴の浅い、秘書見習いの自分には解らない事だらけだった。
それでも一企業として出来うる限りの采配を揮っていたと思う。
現在、会長席に座る総帥は、肘を突き、組んだ両手に眉間を預けたままピクリとも動かない。
先輩秘書は秘書席で背筋を伸ばしたままだ。時折入る内外線をワンコールの余裕与えず、応対を続けている。
そんな中、自分は遥の隣りで佇むのみだ。
あの慕ってくれた千穂を助けるだけの術も案も持ち合わせず。
前日……。
事件発生当日の夜も泊まり込んだが、会長も先輩も眠れと簡易的に作られた仮眠室へ放り込まれた。
しかし眠れる筈がなかった。
生徒会長時代、時には困らせ、時には心躍らせてくれた後輩たち。
そんな後輩たちの心情を察するだけで、泣きたくなった。
現生徒会長・東宮 桜子にも連絡を取ってみた。すると彼女は生徒会を率い、出来うる事を見付け動いていた。己の無力を感じたのみだった。
ひと晩に渡って考え抜き、出てきたものは1つだけだ。
提言。可能な事と言えばその程度だ。
だが、それは誰でも考え得る単純で愚かな案である事も理解している。
犯人グループに対し、声明を発表し、要求を伺う。
だが昨日から、総帥も病院も学園もこれだけは行っていない。
……するべきではない事も理解している。
蓼園総帥の傍、進言出来る立場にありながら何も出来ず指を咥えているしかない。
出来うる事など何もないのだ。あれば、それは先輩秘書が既にやっているだろうと思う。
「……何か」
それでも文乃は発した。
非力な言葉を。
「はい」
そんな文乃の小さな声には即座に反応があった。頼りになりすぎる先輩秘書から。
「何か、私にも出来る事はありませんか?」
「ありません。全て実行中であり、吉報を待つのみです」
「……そうですか」
やはり、そうだった。
他愛もなく、問い掛けた瞬間に終わった。
しかし、振り絞った勇気は石像のようだった男を動かした。
「聞かせてくれまいか? 君が見たあの子たちを」
それが何の役に立つのか解らない。
単なる暇潰しなのかもしれない。
……最悪の覚悟を決める儀式めいたものなのかもしれない。それでも文乃は総帥の依頼通り、口を開いてみせた。
「……はい。昨年の今日、5月8日の出来事でした」
口にして気が付いた。まだ一年しか経っていないのか……と。
そう思うと不謹慎にも微かな笑みが漏れ、慌てて消し去った。
「そうか。儂が初めてあの子に関わったのもゴールデンウィークだったわ」
「不思議ですね。事故は連休中。復学が連休明けで……」
「この事件も連休明け……か」
一年ごとに何かが起きる。ほとほと縁深い日なのだろう。
来年には何が起きるのか……。そこまで考え、頭を振った。愛すべき少女たちに来年などないかもしれない。
「……来年には何が起きるのだろうな」
文乃は目を瞠った。
驚いたのだ。これだけの捜索を続け、見付かっていない現状でも尚、蓼園 肇は自信を浮かべている。
その証拠に口元がぐにゃりと笑みを象っていた。
そこには、必ず無事に千穂を発見し、解決に導く。そんな強い気概を見て取れたのだ。
「どうし「続けてはくれまいか?」
言葉を被せられた。その自信は何処からだろう。この絶望的状況を前に、どうして平然としていられるのだろう。
「はい……」
だったらその自信に賭けてみようと思った。
「蓼学内のみでしたので、今より規模こそ随分と小さいものでしたが、C棟の中はそれはもう、蜂の巣を突いたような騒ぎでした。その転入生の噂はその日の内に3年生の教室まで轟いたのです」
この時、文乃は試されているように思えただろう。
憂と千穂への想いを……。
だから心を籠めて、思い出を語った。
ありったけの感情を。身振り手振りを交えて。
憂以外の立花家と誠人の姿が消えた。
コネクティングルーム内へ消えて、既に30分以上が経過した。
……それは何も不自然ではない行動だ。
誠人が誘い、立花家が応じた形である。
『はい。向こうで話しましょう』と返答したのは、強き母だった。
今頃、何を語り合っているのか。少しだけ想像力を働かせば理解出来てしまう。
誠人は遂に最悪の事態を想定し、立花家に罪はない。贖罪の必要などない。全ては憂との距離を最後まで保った千穂の……。娘の自己責任なのだ。
……こう語っているのだろう。
梢枝の願いに……。希望的観測に翳りが生じ、気弱が表情に溢れ出た。
憂の傍では気丈に振る舞っていた佳穂が、今しがた廊下に飛び出し、千晶が追い掛けていった。
その時に見えた佳穂は、歯を食いしばり、顔を赤く染めていた。
今頃、千晶に叱責されつつ、慰められているだろう。
時間の経過が被害者家族と友人たちの心の傷を広げていく。
不自然にも見えた特定の『大人たち』の振る舞いが正常になってきてしまった。大人たちは千穂の無事を未だ信じていたのか。最悪の想定が自分1人だけ早かったのか。何も解らなくなってきた。
ここに在るのは、自分も端に斜め座りするベッド上、憂が今も右手を握り締め、正座したまま祈り続ける姿と、これに耐えられなくなってきた友人たちの姿だ。
美優は少し離れた向かい合わせのソファー上、こちらに背を向け座っている。隣りには裕香が腰掛け、肩を引き寄せている様が見て取れる。
このベッドの足元側の角、もう1人の専属の女性、葛城 恵の小綺麗にされていたはずの纏め髪はいつしか乱れ、修正されないままだ。余力を失ってきたのか、慰める側に立てなくなってしまった。今はただ一歩離れて立ちすくみ、何か知らん存在に祈りを捧げ続ける憂を涙目で凝視している。
伊藤と高山は出て来ない情報に苛立ちを隠せていない。
検索ワード:【漆原千穂 保護】
時折、更新されない情報に舌打ちが聞こえるほどだ。
本居家の両親は気丈だ。立花家と同様、母が強く、今も買い出しに出掛けている。
こんな時だからこそ、英気を養うべき……と。
「…………」
「…………」
「…………」
憂から離れた位置で直接、床に座り込むのはVIPルームに居るバスケ部3名だ。
彼らもまた疲れ切った顔をしている。昼食ごろまでは憂に声を掛けていた筈なのに。
違和感が薄くなってしまった『大人たち』と、当たり前の姿を見せる子どもたち。
……その中で、未だに違和感を禁じ得ないのは、深く良く知る従兄だ。
このVIPルームに到着するなり、少女に頭を下げた康平。
何も言わず。何も語らず。一切の言い訳をせず。憂に責められたその後も無言だ。無言を貫いている。
千穂への警護を依頼したクライアントである憂への贖罪か。
午前中、病院を訪れた警察の聴取に応じ、別室で調書を取ったらしい。その時は話しているだろう。ありのままを。何が起きて千穂を攫われたのか。攫われた後の自身の行動も。
説明が下手な康平らしく、時間が掛かっていた。
何の齟齬もない。それがいつもの従兄の姿だ。
何故、話さない。
梢枝がいない場では話し、そうでない場面では話さない。
(……何故?)
思考の渦に嵌まり込んでいく。
千穂の心配をするべきだと頭では理解しているのに。
何か出来る事を探すべきだと解っているのに。
たった1つだけになってしまった小さな小さな棘が、深く刺さって抜けなくなった。
(だったら……)
梢枝は立ち上がった。
目標の人物は同じベッドの反対側に腰掛けているものの、キングサイズ故に微妙な距離感を保つ康平だ。
「……康平さん?」
「なんや……?」
半身の小声で声を掛けると、案外早く反応があった。
……拍子抜けと同時に理解してしまった。
ここまで1度も話し掛けていなかった事に。
当事者として最も傷付いている1人だろうと、そっとしておいた事に。
……何よりも、憂の姉・愛と付き合いを始めたと聞いた時から距離を取ってしまっていた事に。
「話がありますわぁ……」
「……わかった」
VIPルームの人数は更に減ることになるが、そもそも居ても何も変わらない。
在るのは祈り続ける憂と、疲れ切った者たちだけだ。




