2.0話 White Sailor
―――5月8日(月)
「憂? 少し……急いで……」
愛がゆっくりと朝食を摂る憂に、たまらず声を掛けた。
いや、ゆっくりと食べている訳ではない。軽く残った麻痺のせいだ。愛が眼前のこの少女と出会った頃は、箸も碌に掴めないほど、右腕の力が無かったのだ。
それから5ヵ月間。右手で箸を使って食事が可能になるまでに回復した。これは一重に憂の努力の成果と云って問題無いだろう。ただ、それでも箸の扱いには苦労している。お陰で時計が気になる時間に突入してしまった。30分後には主治医の先生が到着する予定となっている。学園に憂の症状を説明する為である。
(明日からパンにしたら……)
食パンやロールパンなら手で掴んで食べられる。さほど苦労しないのではと考え、その思考を排除した。主治医の先生から、しっかりと右手を使うよう指示が出されている。立花家は長年、朝は洋のメニューだった。本日の箸が必要となる和テイストな朝食はその一環だ。
姉の言葉を受け、理解に及んだ美少女は、もきゅもきゅと咀嚼のペースを速める。そんな憂の横顔を見て愛は目を細めた。
「……急かしてごめんね。味わえないよね」
朝食後も急かされた。食べ終えるとすぐに歯磨き、洗顔。それらが済むと制服への着替え。全て、姉の愛がくっ付いていた。侍女のようだとも謂える。退院直後からずっとこの調子である。他の家族3名は、半ば呆れながらも愛の思うままに任せている。この姉は何だかんだ言っても、弟たちの面倒をよく見る。彼女は生粋の世話焼きなのだ。
着替え終えた憂の柔らかな髪を優しく梳き、階段をフォローしながら降り、リビングに連れていった。
愛に手を引かれた憂がリビングドアをくぐると、リビング内の時間が一瞬、止まった。前日の制服お披露目の時と同じ反応である。
「憂ちゃんはやっぱり可愛いわねぇ」
幸が愛娘をまじまじと鑑賞する。
憂の学園の制服はセーラー服である。私立蓼園学園女子制服。マニア垂涎の逸品であるその制服は、際立つ白が特長である。本体部分は夏冬合服いずれも白。
白襟のラインは初等部が3本。中等部が2本。高等部が1本と減少していく。ラインは袖の先端付近にもあり、セーラーカラーのラインに合わせて減少していく。
タイも変化する。初等部が大きな蝶結びのスカーフ。中等部は細いリボンタイ。高等部は自身で結ぶタイプの三角タイである。
セーラーカラーのラインもタイも、いずれも薄いグレー。
プリーツスカートはセーラー服上衣と同色の白だ。つまり制服全体が驚きの白さなのである。
白とライトグレーの他、もう一色だけ、小さく使われている。セーラーカラーの中間、タイの上部にある胸当ての中心に刺繍されたワンポイントだ。そこには、鈴蘭のようなピンクの花が可愛らしくあしらわれている。その花の名は蓼。蓼園の蓼から取った校章である。
その純白の制服は気品を感じさせ、尚且つ、可愛らしい。
つまり……このセーラー服は、かなり着る者を選んだ。
私立蓼園学園は、『自由と自立』を全面に出している。服装も自由だ。私服であっても問題ない。制服を着崩しても問題ない。セーラー服本体はそのままにタイやスカートを紺や黒に代え、着てくる者も多い。強者になるとアイドルグループのようにチェックのスカートを合わせる者も存在する。
その為、純正の私立蓼園学園の制服を着る者は少ない。購入する者自体が少ない。少なければ出回らない。出回らなければ価格は上がる。生徒数が非常に多い私立蓼園学園高等部だが、純正品はマニアにとって至高の品となっていた。
憂は、その着る者を選ぶ純正制服を、ものの見事に着こなしていた。
時期的に合服である。白の本体部分に白襟。長袖のセーラー服は成長を見越してか、親指の付け根辺りまで袖が届いている。小さな体に大きめサイズが可愛らしい。
……そう見えるが本当の理由は違う。右手首の傷痕を隠す為である。スカートは膝下まであり、白のハイソックスで足は隠れてしまっている。制服と同色の幅の広いチョーカーが、白く細いしなやかな首を一周している。これは長い袖と同様の理由だ。
セーラーのタイ……スカーフはネクタイのように結ばれ、一本に纏められている。如何にも上品な着こなしだ。もちろん、姉である愛の仕事だ。
母の幸や、迅、剛の観察するような視線を受けて、憂はもじもじと体を揺らしている。恥ずかしいのであろう。動物園の動物の気分なのかも知れない。揺れていた体は次第に固まり、顔を赤くし、俯いてしまった。
憂の顔色はすぐに変化する。色素が薄く、新雪の如く、真っ白な為だ。その白い肌が純正制服を見事に着こなす要因の1つのようである。
固まってしまった憂を見て、愛は苦笑しながら切り出す。
「さ、憂の準備も終わったよ。後はお願いね」
愛は、引いていた憂の右手を母に委ねた。姉には仕事がある。憂の転入が気にはなるが、休む訳にも行かない。ついでに言えば学校までは付いていけても、教室まで付いていけない。付いていける訳がない。想像してみて欲しい。高校に付いていき、教室で見守る家族。恥ずかしいはずだ。お互いに。
それに転入当日の本日だけは、主治医が憂の症状の説明の為に、迎えに来てくれる手筈となっている。
「姉貴、行ってらー」
剛の言葉に、愛は怪訝な顔を向けた。
憂の転入する私立蓼園学園は初等部、中等部、高等部が広大な敷地に納まっている。その向かいには剛の通う蓼園大学が、これまた広大な敷地を有している。ちなみに幼稚舎は大学の敷地内に設立されている……が、今は関係のない話だ。
「あんた便乗でもするつもり? 今日は先生の車で行くんでしょ? ご迷惑よ。私が送ったげるから、あんたも来なさい」
「おー! マジで!? ラッキー!」
まったくもう……と、ごちりながら、玄関に向かう姉の後ろ姿を嬉々とした剛が慌てて追う。
ワンテンポ遅れて憂が母の手を引き、玄関に歩いていく。
あら? ……と首を傾げながら幸は、手を引かれ付いていく。
ふとした弾みで転びかねない憂の為に、その手を引き継いだはずなのに、逆に手を引かれているのが不思議なようだ。
……憂の歩みは遅い。
憂が姉兄の傍に着いた時、彼女らは既に靴を履き終えていた。
「――いってらっしゃい」
少しだけ微笑み、小さく手を振る。姉は、そんな妹にぽかんとした表情を浮かべた後、笑顔を見せる。満面の笑みだった。
「……偉いね。ちゃんと……女の子だね。……可愛かったよ」
剛は……と言うと、照れ笑いを浮かべ、それを誤魔化すように頬を掻いている。憂を見る度に調子が狂っている様子である。
可愛いと言われ、恥ずかしそうに顔を伏せている愛しい妹を、ひとしきり眺めてから愛が言う。
「行ってきます!」
気を付けて。行ってきまー。迅もリビングから「安全運転を……」などと声を掛ける。そんな定番の遣り取りの後、玄関の鍵を開け、扉を開け放つと現在進行形でたたらを踏み、驚きを全身全霊で表現中の主治医がそこに居た。
愛の知る姿とは若干、印象が違った。憂の退院時、適当にブラシを通しただけの耳に掛かっていた髪が短く刈られている。いつもの白衣は当然ながら着ていない。グレーのスーツに身を包んでいる。年の頃45歳くらいだろうか。目尻に皺が多く、優しそうな、素敵なおじ様である。
インターフォンを鳴らそうとした時に、鍵が開いた音が聴こえドアから慌てて距離を取ったのだろう。
「あ! 島井先生、おはようございます!」
憂の学園復帰を祝うかのような晴れ渡った空の下、愛は玄関のドアを支えつつ、難しそうにお辞儀をする。玄関の中からは、剛も幸も挨拶している。憂もペコリをお辞儀をしていた。父・迅だけは慌ててリビングから飛び出してきている最中だ。
「あぁ。おはようございます。お姉さん……愛さんは今から出勤ですか?」
「そうなんです。気になって仕方ないんですけどね」
愛は、そう言いつつ、チラリと憂の姿を見た。本当に学校なんて大丈夫なのだろうか……と心配顔だ。
そんな愛に島井は柔和な笑みを見せた。
「あはは。解りますよ。私も心配ですから。ですが、一歩踏み出さなければ、何も始まりません。今日の為の準備はしっかりと重ねてきましたので、きっと大丈夫です」
島井は穏やかそのものだ。病院内では『丸くなった』と囁かれているらしい。
「そうですよね……。でも心配で……」
「それにしても……憂さんの制服姿、お似合いですね」
愛の台詞が聴こえなかったように、島井は強引に話の流れを捻じ曲げてみせた。姉は聡い。その意図に気付き話に乗る。
「ですよね! 私も私立蓼園学園出身なんですけど、こんな純正制服の似合う子なんて初めてなんですよ!」
愛は努めた笑顔を見せる。憂の転入の……復学の、この日に暗い顔は似合わない。不安が伝染しかねない。憂は感情の起伏が激しい上に繊細なのだ。
「純正制服?」
「あ。それはですね。蓼学の制服って、可愛すぎて似合わない子って多いんですよね。制服が浮いちゃうって言うか……。それで、スカートを変えたりしてアレンジしちゃ「姉貴! 時間、大丈夫か?」
話が長くなると直感したのか、経験則か? 剛が横槍を入れた。弟の声に左腕を振り上げ、腕時計を見ると様子を一変させた。
「いっけない! 先生! ごめんなさい! お話はまた今度! 失礼します!」
それから剛を急かし、2人で自身の愛車(軽)に乗り込み、慌てて出発していったのだった。何とも慌ただしい出発である。
島井が姉の車を優しい目で軽く手を振り見送ると、立花家の両親も憂も玄関から踏み出していた。
「それでは我々も参りましょうか」
背を向け、小さな門扉の外に路上駐車されている自身の車に向けて歩き始めた。
「憂……? 行くよ?」
「――うん」
憂の綺麗で愛らしい顔立ちに緊張感が漂った。意識を無くしていた期間を含めると、実に1年ぶりの学園だ。女の子に変貌を遂げてからは初の学園生活……。緊張するのは当然かも知れない。
少女は右足を小さく引きずり、島井の背中を追う……と、母が寄り添った。初めて足を通したローファー。転んでしまわないか不安なのだろう。
島井は実に紳士的だ。自身の白いセダンの後部座席のドアを開き、その傍に佇む。
母に促され、セダンに乗り込もうとした瞬間、ゴンと鈍い音が聴こえた。ついでに「――ぅ」という小さな声も。
「……憂さんは、気を付ける事も憶えないといけませんね……」
……丸一年。長く少女を診た主治医は、声は発したものの平気な顔の憂を、呆れた様子で見やったのだった。
その後、憂と父母は島井のセダンで私立蓼園学園の駐車場に降り立った。
その途上、島井から注意点が話された。憂の症状、事情の説明に関しては先方から十分に、その時間を貰っている事。その説明は島井1人で行なう事。その為、憂は2時間目からクラスに合流する事……など。
島井が話している間、憂は車窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。
憂は理解している。自分と目を合わさず、途切れ途切れにゆっくりと話していない時は、自分に話が向いていないと言う事を。
お疲れ様です。
説明回は終了ですよ。
次話から展開していきます。