273.0話 危険水域
「巫山戯るなっ!!」
蓼園商会会長室。
豪奢な一室で何の変哲も無い男が吠えた。
総帥と呼ばれる男が怒声をぶつける相手は、秘書のスマートフォンだ。
生憎、今回の通信の相手は、不穏なオーラを隠さない男の電話番号を知らない。
耳にも当てられておらず、ただ眼前に置かれている。その音声はダダ漏れしているが、防音が行き届いており、問題ないだろう。
『しかし総帥っ……! 今、彼女の血があれば、多くの患者を救う事が出来るんですっ!』
「憂くんをこの暴雨の中、移動させるなど有り得ん! 将来、救える筈の万人を切り捨てる事に成りかねんわっ!」
『だからこそ、貴方に支援を求めているのです! 天候に問題が無ければ、勝手に憂さんに依頼し、迎えを寄こしています!』
「同じ事を言わせるなっ! 憂くんの安全確保こそ至上命題だっ!」
『細心の注意をはら』
男の太く、短い指が伸ばされると、音声が途切れた。通話を強制的に終了させたのである。
「忌々しい!」
よほど腹に据えかねたらしく、通話が終われど愚痴を零した。
返す刀で、身を翻す。会長席に座ったまま、クルリと回ったのだ。
開け放たれたカーテンの向こうは視界が遮られている。
容赦のない大粒の雨が窓を叩くと同時に、降り注いでおり、数メートル先の風景も見えない。真っ白に染められている。
眼下に見えた筈の桜の花びらは盛大に散ってしまっているように思えた。
「宜しいのですか?」
怒りを隠さない主に対し、怯えの1つも見せない秘書が語り掛ける。主語は敢えて外したのだろう。
「憂くんが最優先だ……。例え、どれだけの被害をこの蓼園市が受け、どれだけの人が死んでも……な」
蓼園 肇にとって、この街は我が子だ。
何か出来ることは……と思ってみたところで無理がある。もう始まったのだ。
「人が自然災害に抗う術は未だありません」
その通りだ。将来的に見れば人類はそれさえも克服するかも知れない。しかし、あと何十年掛かる事か。そもそも被害を受けているのは、未来ではなく現在なのだ。
「解っておる……」
蓼園市の盟主として、可能な限りの備えはした。
土嚢の搬入と設置。
食料や飲料。生活必需品はもちろん、毛布、紙おむつ、粉ミルクなど各避難所に配布……。
想定よりも被害が下回れば、愚かな行為と後ろ指を指されるほどの支援を始めた。
備えあれば憂いなし。
総帥は先人の遺した智の遺産を大切にしており、大雨をもたらす可能性を耳にした時から行動を開始した。
「……この時期、この災害。天運とも思えますが?」
秘書に椅子の背を向けたまま、肇は瞑目した。
葛藤だ。これをチャンスと思える自分が存在している事を承知している。だからこそ、島井の進言に苛立った。
自らの中、天使から女神へと昇華した少女。これを一般人にも浸透させる良い機会だ……と。こう考えた己に怒っていたのだ。
「土砂災害は南部は元より、北部でも起き始めました。死者行方不明者は増加の一途です」
秘書の報告に、ギリと奥歯を噛み締める。
避難を怠った非はあるものの、運が悪かった。何らかの理由で避難出来なかった者も居るだろう。
それだけの理由で命の灯火を消す我が子たち。
理不尽な天命に込み上げる感情は怒りだ。
「蓼園商会と謂えども、全てを把握している訳ではありません。これでもごく一部でしょう。河川は健在ですが水位も上昇の一途であり、決壊の恐れもあります。決壊してしまっては、身動きもままなりません」
手摺りの上の拳が握り締められた。
迷う。惑う。
「今ならば可能です。危険度は決して低くありませんが、一時期の身の危険に比べれば低いモノと言えるでしょう。成功した時、蓼園市は1つになります」
秘書の『説得』を受け、男はゆっくりと両眼を開いた。
その瞳は1つの決意を宿しているように思えた。
「ここまで言っても動きませんか? 耄碌されたものですね」
「五月蠅いわっ!」
「島井先生! 行くって本当ですか!? 憂ちゃんは!?」
オフィスチェアにデスク。デスクの上にはPC。
ハンガーラックには、背広とその下衣。トレードマークの白衣。
そんな物しか目に付かない質素な小部屋。
そこで大声を以て詰め寄ったのは、若手のホープと呼び声高い脳外科医である渡辺だ。
今後を想像すると、彼の属する病院にとって彼の不在は痛手となりかねない。
「蓼園総合病院の設備を使いたいが、肝心な患者はここまで搬送されない。だったら行ったほうが良いです」
既に憂と共に市の南外れの病院に訪れるという島井の計画は、総帥によって断たれた。だが、島井には腕がある。
市の中核病院、救急救命室前任リーダー。
現リーダーは、これから運ばれてくるだろう急患を待つ責務がある。
求められた応援に対応するには、自分を置いて他にないと自負している。
「でも、それじゃ出来る事なんてたかが知れてますよぉ……。もしかしたら、ここだって急患で溢れ返るかも知れません。そんな時に空のオペ室があったら後あと、何て言われるか……」
「当院はそんなにヤワじゃあないよ。渡辺君もフォローに入ってくれるはずだし?」
口調がガラリと変わった。ですます調は排除し、茶目っ気たっぷりに話してみせたのだ。
医師・島井から1人の島井 裕司に変わった瞬間だったのかもしれない。
「それは……。はい。僕も医者の端くれですから……」
「だったら問題ない。そうそう。伊藤君と山崎君を連れていくよ。私が病院を離れて10分ほどで院長に事後報告しておいてくれるかな?」
「島井せんせーい! 僕、その院長先生の教え子なんですけどぉ!」
「はははっ! それじゃ行ってくるよ!」
「はーい……。死なないで下さいよ。安全運転で……」
このやり取りから10分後。
そろそろ院長に報告を……と思っていた矢先に島井が自室へと返り咲いた。
伊藤と佑香の両名……。更には院長・川谷を伴って。
「……島井先生? ……って言うか、院長先生まで……。何やってんですのん?」
「これより蓼学に向かいます」
「え? 総帥さんに拒否られたんじゃ?」
渡辺の口調が緩いままだが、島井に話し掛けている為だ。
ところが口を開いたのは院長の川谷。自らの師である。
「その総帥からの指示です。立花 憂さんを連れ、南部の桜井病院に迎え……と。そこには当病院に応援依頼があった通り、土砂災害の被害者が搬入されている。これからどんどんと患者も増えていくだろう……と」
「……何か変心する要素でも見付かったんですかねぇ?」
渡辺の問いに爬虫類を思わせる顔がぐにゃりと歪んだ。笑ったらしい。
「君の得意分野ではないかね?」
「あー……」
得意分野と言われ、渡辺の眼鏡の奥の目が細まり、黒眼を瞼が覆い隠した。薄ら笑いと共に繰り出すと非常に感じが悪い……と、思う人もいるはずの顔付きだ。
「……なーるほどぉ。一気に行く作戦に切り替えたってことですね。人は苦難に立ち向かうとかそんなのに弱いので」
「そうです。ですが、有り難い心変わりです。これで救えぬはずの人の命を助けられる可能性が生まれました。蓼学へは閣下自らも訪れ、ご家族の説得に当たって下さるそうです」
「へぇ……。総帥直々の推参ですか。避難所が大騒動になりますねぇ……。じゃあ、僕が蓼学へ後押しに向かいますよぉ。島井先生はひと足先に桜井病院へどーぞー?」
ヘラヘラと惚けているように見えるが、外は『100年に1度』やら『観測史上最大』やら表現され始めたほどの大雨だ。いつ風が強まっても不思議ではなく、危険な道中にも成り得る。
何だかんだ言って渡辺にも、医者の血が根付いている。
「……渡辺君が?」
「そぉですよぉ? 本居 美優ちゃんでしたよね?」
「えぇ……。渓 圭祐君にも可能ならば力を貸して頂く方向で」
「かしこまりぃ! じゃあ、駐車場までご一緒ですねぇ!」
「宜しく頼む。ここは任せろ。必要があれば私もメスを持つ」
更に、その数十分後。
病院としての使命感に意気上がる医者や看護師の事など露知らず。
チカチカと時折、照明が点滅する私立蓼園学園C棟体育館内に憂の姿が……見えない。
ほんの数分前より轟き始めた雷鳴が憂の姿を打ち消した。
……とは言っても、何も木端微塵にされた訳ではない。そもそも雷に打たれたとしても人の姿形は破壊されない。
ドカーン! 違う。
ピシャーン!! これも違う。
とにかく表現出来ないほどの轟音が響いている。
憂は音に弱い。
おそらく事故時の影響だろうと島井は推測している。
歩道橋から転落し、自身の頭部をアスファルトに打ち付けた音。
その後のリムジンの衝突。更に地面へ……。
いずれかが記憶の片隅に残っており、大音響に恐れを成してしまうのだろうと見解を立てている……が、いつまで経っても答えは判明しない。
その時の事は、早々聞くことが出来ないのだ。
「……憂? だいじょうぶだよ?」
「そだよー? 千穂ちゃんの……言う通り。ちゃんと……避雷針……付いてるから……」
避雷針という単語を理解できるかも不明だ。
だが、言葉の意味など今は必要性を感じていない。
傍に居る誰しもが……だ。今は声さえ聞かせられれば良い。そんな気持ちで声を掛けているのだろう。
憂の立花家も千穂の漆原家も拓真と美優の本居家も、このC棟体育館で一夜を明かす。
生徒会長からの応接室の貸し出しの提案。そんな敵方の提案を梢枝がプッシュする妙な展開を経て、提案された本人が『とくべつ――いや――』と拒否してからそれなりの時間が経過している。
家族一同揃ったかのように語ったが、現時刻は17時。午後5時である。
早退したであろう漆原父の姿はあるが、他の顔ぶれは仕事に専業主婦と記載する者たちだ。
要するに、まだ揃っちゃいない。
時期が悪すぎたのだ。
4月の頭。新入社員たちが入社したばかりの企業も多く、そう簡単に解散! など出来なかったのである。
「だいじょうぶ……。だいじょうぶ……」
「だぞー? 憂ちゃん、顔出せー? 千穂も、お姉さんも……居るぞー?」
「怖れになっちゃって……。困った子だよ。ホントに」
「仕方ないで「ひゃああ――!!」「きゃっ!!」「うひゃ!?」
体育館の窓を白く染め上げる閃光と、耳を殺すほどの大爆音。
落ちた雷に声を上げたのは、グループでは千晶と佳穂の2名だ。
千穂は何気に人の心配中は強い。相手の為ならば何でも出来る子だ。
姉は声こそ上げなかったものの、固まった。
どう考えても近かった。もしかしたら敷地内に落ちたのかもしれない。
体育館の中には、家族にしがみ付く幼い子。幼稚舎や初等部の子の姿が散見される。
悲鳴も無数聞かれ、阿鼻叫喚の様相が見受けられる。
兄の太い腕にちょんと触れた美優の姿も。
「だいじょうぶ……。だいじょうぶだよ……?」
千穂が何度も何度もあやすように丸まった毛布に話し掛ける。こうすることで憂の恐怖心を少しでも和らげてあげようと。
背中と思われる箇所を撫でる手が2本3本……4本と復活していく。
その手には、毛布に姿を完全に覆い尽くした憂の震えが伝わっている事だろう。
「あらあら……。いいわねぇ。憂ちゃん、お手々いっぱいよ?」
呑気な母があっけらかんと言い放った……が、別にモテているのではない。
同級生3名はともかく、1人は血を分けた姉だ。
「――おわった――?」
毛布がくぐもった声を発した。
震えていれど、篭っていれど、その声は澄んで聞こえた。
「まだだと……思う……ケド……」
実に正直者だ。
千穂の言う通り、空はゴロゴロと不穏な音を奏でている。
「はやく――おわって――?」
それは無理な注文だ。蓼園市上空は分厚い雲に覆われており、夕方であれども暗いほどだ。
一向に顔を見せてくれない憂に、心優しきまま強くなった少女は、毛布を一部めくると左手をそのまま滑り込ませた。
その手が探るように蠢く。
やがて目標物に達すると、小さく柔らかな右手を壊してしまわぬよう、優しく繋いだ。
「――千穂?」
「……どうかな? 違うかも?」
少々、場にそぐわぬいたずらっぽい笑みを浮かべた。
佳穂と千晶は憂の背中を擦りつつ、じっとその様子を見守っている。
否。彼女たちは雷鳴に声を挙げぬよう、グッと歯を噛み合わせている。自分たちが甲高い声を出してしまっては、殻に閉じこもってしまいそうな少女の不安を増長させてしまう。
「――千穂だ」
「……うん。千穂だよ」
手の感触を頼りに断定した憂に、ふわりと笑って本当を伝えた。
愛も不安を隠し切れていない表情ながらも、口元が綻んだ。
見れば、拓真も、雷への恐怖心から兄に肩を寄せる美優も。
不埒な輩の出没に警戒する康平も、少々離れた位置取りで過ごす桜子を監視下に置く梢枝も凌平も……。
ただ単にC棟体育館に避難した時、たまたま近くになった家族さえ……。
周囲の人間を巻き込み、みんなまとめて癒してしまった。
「ほら」
左手を侵入させる為、少しだけ捲られた毛布の一部。背中を擦っていた右手を離すと毛布をペロリと捲ってしまった。
亀のように丸くなった憂の姿が閲覧禁止を解かれた。
それが合図だったかのように、憂が緩慢な動作で体を起こす。
憂の右手と千穂の左手は繋がれたまま……。
―――その直後だった。
再び近隣への落雷とその爆音。
周囲は一瞬、驚くほど明るくなり、そして暗転した。
至る所で悲鳴が轟く。
耳を劈く。
遂に本格的な停電か……と思いきや、数秒後には照明が復活した。
少しの長めの瞬間停電だったのか、非常電源でも起動したのか。
「まあ……。憂ったら大胆」
この母の言葉が全てだ。
雷鳴に驚いた憂にとっては誰でも良かったのかもしれない。
嬉しい誤算だったのかもしれない。
憂は千穂にしがみ付き、千穂はトントンと優しく憂の背中を落ち着かせようと叩いていたのだった。
「真っ暗じゃなかったからハグに行く瞬間まで全部見えてたんだけどさー」
「バカ佳穂。風情のない事言わないの」




