268.0話 可愛くしてたいの?
―――3月11日(日)
この朝、憂の生活に異変が生じた。
「憂ちゃん、まだ寝てるのねぇ……」
「……疲れたのかな? 今までこんな事なかったのに」
リビングでの母と姉の会話の時刻は午前8時。
点いているだけのニュース番組の右上に表示されている。最近は憂に関するニュースも全国版では減ってきた印象だ。
「心配なら島井先生の耳に入れておけばいいんじゃないか? あの先生はいつだって病院におられるからね」
呑気に語ったように見える父だが、その視線はリビングソファーのL字の角。憂の指定席前に置かれた、ラップが掛けられた出汁巻玉子に注がれている。
憂の起床時刻。
午前5:50~5:56の間。
どんなに疲れて眠ってもこの時刻には起床していた。
疲れの取れやすい体はひと晩経てば、回復してしまう。もはや疲労回復に効果があると実証されたと言っても過言ではない。
それが今日に限って、2時間オーバー。
心配になってしまうのも仕方のない事だろう。
「愛ちゃん? 今日の予定は?」
「10時に蓼園商会で面会。12時に病院行って、例の子の両親と会談。ご飯と昼寝してからバスケ」
簡単に語った愛だが、確かに多忙だ。だが、元々は愛の預かり知らぬところで始まった憂の外遊。
学園に通常出席するようになり、土日に移行してしまっただけだ。
マネージャー的な立場の姉としても、そう簡単に緩和出来るものではない。この姉も憂への同行とコンビニでのアルバイト。更にはバスケ会。本当に多忙なのである。これはある意味、憂の自業自得とも謂えるし、愛は巻き込まれたとも言える。
「……忙しいわねぇ。今日はゆっくり休ませてあげてもいいんじゃない?」
「……そだね。また先方に謝らなきゃ……。連絡してくる」
こうして雪が降った日以降、初めての全休日となったのだった。
そんな隣室の心配と苦悩など露知らず。
10分後。憂はベッド上、ころころ転がっていた。
つい先程、目を覚ましたばかりだ。普段は目を覚ますなり、ベッドからモゾモゾと這い出てくる。
横になったまま右に左に体位を変換しているのは、やはり気だるさでも残っているのだろうか。
シルク製の布団カバーの感触を楽しんでいるわけではない筈だ。同じくサテン地だが、しっかりとパジャマを着ており、大層なスベスベ大好きでも言うほど楽しめない。たぶん。
そんな時、スゥ……と静かにリビングと憂の部屋を仕切る襖が開かれた。様子を見に来た愛の手によって。
「起きてるし!」
「――んぅ?」
掛け布団から顔だけ覗け、そこそこ元気そうな妹と姉の視線が交錯する。
「……大丈夫?」
「おなかすいた――」
「……そ?」
「――うん」
どうやら『お腹空いた』は、憂の中で定型文化してしまったらしい。実にスムーズな発声だった。
朝食の際、本日の全休を言い渡された食事ペースの遅い子は、「なんで――?」と困惑の後、「でも――らっき――」
満面の笑みで喜んだ。本当に疲れているのか疑問に思ったであろう家族たちだったが、既に主治医・島井には連絡済み。
島井から総帥秘書や、憂の血液を用いたオペを待つ子の両親へも連絡される手筈となっている。オペもしばらく先であり、問題ない……と。
『憂さんの休日がない事を心配しておりました。良い機会です。しっかりと休ませてあげてください』
それどころか、『この際、日曜日くらいはお休みにしてしまっては如何ですか? 疲労が取れている。これはあくまで仮説ですので』とまで提案されてしまっているのだ。
なので、憂は自室に引き篭もり、のんびりと過ごすと決めたようだった。
朝食から歯磨き、洗顔を済ませるとすぐに部屋に姿を消してしまったのである。
いや、厳密に言うと憂の部屋に戻ったわけではない。
自室の奥。以前は優の仏間だった一室。そこは、憂の大量となった衣装部屋の様相を呈している。入りきらない夏物など、彩率いる蓼園IM社内に置かれているほどだ。
そして、多くの衣類だけではなく、化粧台やら全身鏡まで用意された。
母と姉の意見の一致によって。もしも、女の子を受け入れようとしているのなら手助けになる……と。
そんなどこか女の子の香り漂う空間で、憂は徐にパジャマを脱ぎ捨てた。
なんてことはない単なる着替え……と思われたが、全身鏡の前に立ち尽くした。
じっと見詰める。
1分……。
2分……。
3分……。
見詰めたまま、静止している。造りが良いだけに、まるでマネキンや人形を彷彿とさせた。
しかし、残念ながら身に着けている下着は至ってシンプルなものだ。
無駄を一切省いたかのようなクリーム色の上下セットは、ブランドYUUがこれから展開するユニセックスな商品だ。
……男性用まで生産が開始されているらしい。
もちろん、男性用だ。クロッチ部分の構造も違えば、前面にゆとりを持たせている。ここは強調しておきたい。
上はよく分からない。極めて少数だが、生産されているらしい。
その着心地、着け心地は憂曰く、『かんぺき』との事。
憂の場合、漢字で書こうとするならば、完璧ではなく完壁と書いてしまうだろう。
単なる偏見であり、そもそもその漢字の形すら思い出せるか不明だ。
『その心地良さを男性にも。』
これがキャッチフレーズだが、何気に使い古されている感は否めない。
今日日、メンズのショーツも各メーカー、こだわりの一品を投入している。だが、ある一定層が下着に拘りを持っているというのが、実状である。
これに元男子の女子が心地の違いを声高に訴えた時、世間はどう出るのか。
下着メーカー各社はブランドYUUに注目しており、この商品の販売に合わせ、大きく動く……と、蓼園IMは情報をキャッチしている。
さて、憂に目を戻してみよう。
「――――――」
未だに動きはない。見惚れているのならば、肌に朱でも差しそうなものだが、それも……あった。瞬間的に赤みが差した。
直立不動の姿勢から両の手が動き始める。
腕を交差させ、狭い肩に。
そこから徐々に腕の肌に触れつつ、降ろしていく。二の腕へ。更には腰へ。
きっとすべすべぷにぷにだった事だろう。
そこまで手を降ろすと、まただらりと腕の力を抜いた。続いて、また腰に。今度は右手だけをくびれた腰の右側に。
モデルのように立ってみた……。そんな感じだ。
かと思えば振り向いた。
腰に手を当てたまま、振り向く。もちろん、視線は鏡から離れていない。
要するにモデルが反転してみせたように。
どうやら意味深に見えた行動は、真似っこだったようだ。
どこかで目にした……ではない。数日前、ブランドYUUが催した小さなステージイベントで同じようにお姉さんがやっていた。
「――――!」
やってみて急に恥ずかしくなったのか、腰の手を焦りを見せつつ降ろしてしまった。
鏡の前からも移動する。
「――――えっと――」
歩んだ先には、タンスとその横にトップスがたくさんハンガーにかけられた服やら、その横にはスカートやパンツがぶら下がるラックやら。
「――これ」
選んだトップスは意外にも白いセーター。ハンガーごと抜き取ったかと思えば、ハンガーを外し、ぽいと落とした。
性格だ。憂は決して片づけられない子ではない。だが、とりあえずなのか、不要なものはその辺に投げ出す癖がある。
姉やら千穂やら世話焼きが多いからこうなった訳ではない。筈だ。
白いハイネックのセーターを頭から被り、遅れて左、右……と、両手が生えてくる。
袖が余っているのは敢えての仕様だろう。所謂、萌え袖と呼ばれる長さだ。彩やら、その部下やらの仕業だろう。
裾はぎりぎり。摺り切りいっぱいのラインでショーツが隠れた白セーター美少女が生誕した。
「かゆ――」
直にセーターを着れば、多少なりとも痒いのは考えれば解りそうなものだが、そこは今、憂にとって関係ない。
「いいけど――」
次に手に取ったアイテムは、黒のショートパンツ。一部丈の、ひと昔前ならホットパンツと呼ばれただろう代物だ。
留め具付きのハンガーの様なものを投げ捨てると、キョロキョロと見回す。
そして、化粧台へ移動。その椅子を引き、「よっ――」と座った。
彼女は基本的に、可能な環境であれば、パンツを履くにもソックスを履くにも座って履く。
バランスが悪いので、染み付いてしまった習慣だ。
右足……。左足……と、千穂がもうちょっとお肉が付けば100点と思っているまま、未完成の細い脚を通す。
そのまま大腿部辺りまで引き上げると立ち上がった。履くのだ。立たねばならない。
ぽっこりお尻が抵抗したが、気にせず引っ張り上げる。臍の下で大きめのボタンを留め、ファスナーは一度、手を滑らせたのみでジィと引き上げる事に成功した。
再び、鏡の前へ。
折角、履いたショートパンツは存在感が希薄だ。下、1cmほど見えるだけで白いセーターに大半が隠れてしまっている。
そんな自身の姿を小首を傾げ、見詰めると……「ちがう――?」
タンスに向け、歩き出した。
更に10分後。
「うん――。かわいい――よね?」
誰かに問いかけた訳ではない。
先ほどの黒ショーパン&白セーターにデニール低めの黒ストッキングを合わせ、コーディネイトを完成させた後の独り言である。
細い、思春期前の少女のような脚。
そんな喜ぶ者はとことん喜ぶ脚は、黒のストッキングから地肌が薄く透けており、何故だか艶めかしい。
ちゃんと履いているよ!
その主張なのか、白セーターの裾は内側に1つ折り返してある。
だが、全体の印象は憂の言った『かわいい』ではなく、少しセクシー。
憂の基準が少々、人とずれているのだろう。
「すとっきんぐ――」
少し嫌そうにその薄いゾッキの生地を引っ張り……離した。
「もう――いいよね――?」
少し自嘲めいた笑みの後、鏡を見ると……微笑んだ。
微笑んだまま肩口で切り揃えられた、ほぼストレートな髪をひと撫で。
憂の髪は、半年後には見事なサラサラの髪質へと変貌するのだろう。
千穂、佳穂の羨む姿が目に浮かぶ。
「こう――かな――?」
右手で髪の半分ほどを掴み、左手で掴めなかった残りを右手の中に集めていく。
右の手首にはヘアゴム。千穂から借りパク状態のゴムではない。姉が用意し、化粧台の引き出しに収めていたものだ。
他にも、ヘアバンドやらシュシュやらカチューシャやら……。色々なおめかしアイテムが取り揃えられている。
右手にひと纏めとなった髪を左手で括っていく。
1つ結びならば、憂も可能になった。バスケ会で括る必要があり、千晶に教えを乞い、何故だか千穂に教えられたのである。
それでも場所によって跳ねてしまう部分が出来てしまうのは、経験値の低さと右手の不器用さ故だ。
「ちがう――?」
意に沿わなかったらしい。
化粧台に戻るとゴムを抜き取り、カチューシャを手に取った。上品な少女を創る白単色のものを。
「――いいかも?」
大輪の百合の花も勝てぬと恥じ、隠れてしまうであろう笑顔を見せた。
実は愛が調理中など、独りで過ごす時、たまにこんな行動を起こしている。
それは憂を受け入れ、自身を女の子と認識している。それとも、男子として可愛い少女が見たい願望か。
二者択一だが、最早、前者だと言い切っても良いのかもしれない。
より可愛く。
より美しく。
ところが人前では、ごく稀に姉に見せる……と言うか、見られるくらいのものだ。
残っている元男子としてのプライドが邪魔をしているのか、若しくは、たまに発散出来れば満足なのか。
この点については以降も観察の必要があるのだろう。
「かゆ――!」
急に立ち上がると白セーターを捲り上げ、爪を立て掻き毟り始めた。
結局、ブラのみの素肌に着たままだったようだ。
「かゆい!」
遂にはセーターを脱ぎ捨てた。
「あぁ――」
バリバリと掻き上げる。肩を腰を背中を。
柔らかいだけにどこまででも手が届く。
……白い柔肌に赤い筋がどんどん刻まれていく。
お構いなしに掻きまくる。どうせすぐに治るからと言わんばかりに。
もしも、痛覚が無いままであったとしたら……。いや、恐ろしい想像はやめておこう。
「おふろ――いこ――」
カチューシャを外すと定物定位などせず、化粧台の上に適当に置き、黒く短いパンツもストッキングも脱ぎ散らかし、準備を進めていく。
元のパジャマを着込んだのは、もしも父や兄に遭遇したら大変。そんな乙女心からか。
元仏間から自室へ。
自室からリビングへの襖を少し開け、顔を覗けて「おふろ――いくね――」……。
そんな行動もなく、姉に伝えぬまま玄関側の襖をそっと開き、お風呂場へと向かう。
憂は1人で入浴するようになり、随分と日も経った。
「……憂?」
見付かった。
彼女がコソコソと目を盗んで風呂場に行こうとした元凶に。
リビングで気配を感じ取ったのだろう。
「どしたの?」
「うぅ――おふろに――」
消え入るような声だったが、正直に話した。
1人で入るようになった。そこまではいい。
問題はその先にある。
……5分刻みくらいのハイペースで覗きにくるのだ。
この愛が。
それが鬱陶しくて難儀しているのである。
「お風呂? 珍しいね。洗って……くるよ?」
「――うん」
シャワーで良かったはずだ。だからこそこっそり行動した。
しかし見付かってしまった。覗き魔に。
そんな厄介な覗き魔に正直に話した理由―――。
なんだかんだ言っても優しい姉だ。
憂からお風呂に……と、聞いた瞬間には浴槽を洗いに行ってくれた。
嫌な顔の1つも見せず。
覗いてしまう原因。
これも優しいからだ。
滑って転んではいないか?
何か困っていることはないか?
そんな心配から覗きを繰り返しているのだ。
そんな姉を理解しているからこそ、正直に話したのだ。
……因みに、もう姉に見られるのは慣れてしまったらしい。
これも
『女同士だからいいや』
なのかもしれない。
尚。余談ではあるが、白のセーターやらストッキングやら脱ぎ散らかされた物たちは、入浴している最中、姉がブツブツ文句言いつつ片付けてしまった。
もう少し忍耐が必要なのは、間違いなく姉・愛のほうだ。
あとがきです。
2年前の今日、私の処女作である、この半脳少女の投稿を開始致しました。
時の流れは実に早いものですね。
なんだか、今回の更新で170万字を超えるみたいです。
よく書いてますね。
200万字の突破は無さそうです。
間違いなく280~290話で完結します。
8月中に完結させられるかな? ……などと思っていたんですけど、見積もりがいつものように甘かったようで、年内完結……とさせて頂きますね。
半脳の執筆もいよいよ佳境。
さぁ、書いてきます!
追伸。
活動報告しました。