232.0話 拓真の家で:泣かされた
安全に過ごして欲しいから……と、千穂からの2度目の告白を断った事。
『待っていて』とは、どうしても伝えられない事。
自分もこれからは千穂との約束の通り、男子との可能性を否定せず、千穂以外との恋愛を探してみる事。
拓真は再びベッドに腰掛け、憂を隣に置き、長く同じ時間を共有し、想いを引き出していった。
牛乳を飲み多少の不機嫌は逃げ、拓真とじっくり話すことで機嫌の直った憂だったが、話していく内に暗く沈んでいった。
―――これは未練の証明、だ。
「……寄り……戻せ……」
だが、憂は大きな矛盾を孕む事におそらく気付いていない。
隣の拓真は「千穂ちゃんじゃ……なくなったら……よ」と、矛盾に勘付いている素振りを見せた。
「なくなったら――?」
しかし、これがまた伝わらない。理解能力は上がっているが、抽象的な言い回しに弱いのは相変わらずだ。
「もし他に……大好きな……人が……出来たらよ」
「できたら――?」
今度の鸚鵡返しは続きを促す為のもの。おそらく拓真は、この差異を理解している。
「また……離すんか?」
「――え?」
拓真はその矛盾に切り込んだ。思い付きのような行動では気付かないその部分に。
「ったく……」
やっぱりな……と、顔が口以上に物を言っている。憂の考えは浅い、と感じているのだ。
「好きな……千穂ちゃんを……離した」
「――うん」
頷いた憂は悲しげに目を伏せる。憂とすれば、離したくて離した訳ではなく、千穂に再告白されたが為にこうなってしまった。何とも悲しいすれ違い、だ。
「例えば……千穂ちゃんより……な?」
「――うん」
「好きになったの……出来たら……な?」
「――わからない――」
「例えば……の、話だ」
「たとえ――」
「例えは……わかんな?」
「――うん」
「好きなん出来たら……やっぱり……離すんじゃねーの?」
男性、女性を問わず、千穂より好きな人がもしも出来た時。
その人が大事であればあるほど、今のやり方の場合、憂はやはり危険から遠ざける為、離れる道を選ぶしか選択肢が無い。
なのに、憂は新しい恋の可能性を探ると言う。これが最大の矛盾であり、拓真は今、正にこれを指摘してみせたのだ。
「ぁ――」
多少、半脳な少女にとっては長く感じた話し始めの一文だったが、問題なく理解に至ったようだ。拓真はよく憂を観察し、理解しているらしい。もしかしたら千穂以上に見ているのかもしれない。
「じゃあ――ボク――」
「そうだ。誰でも……一緒、だ」
「千穂ちゃん……でもな……」
拓真の核心を突いた言葉に、一瞬だけ希望が見えたかのように、光輝いた表情だったが、またすぐに翳ってしまった。
その理由は「でも――千穂は――」である。続く言葉は、夢や母の願いと云った類のものだろう。
「んなもん、関係ねぇだろ……」
「そんなこと――ない!」
……ここでも意見の相違。
夢を追えなくなった憂と、夢を捨てた拓真。事故から進んだ異なる道が2人の夢に対する考え方を変えてしまっている。
憂は、是が非でも夢を追うべき。
拓真は、それを捻じ曲げてでも、大切なものを守るべき。
立場の違いから生じた差なのだろう。
「俺には……な? あの子は……憂に傾いた……じゃねぇ。むずいな」
コミュニケーションの苦労。千穂はよく噛み砕き説明するものだ、と今更ながら感心しているのだろう。右手で両目を隠すように覆ってしまった。
「だめだ――。ふたりぶんの――ゆめだから――」
言葉を思案中の拓真を妨げるように、言葉を被せてきたが、拓真には都合が良かったようだ。右手の退けると、自分の肩より低い憂の目を覗き込む。
「夢と……憂と……どっちか……聞いたのか?」
これにはしばらく時間を置き、「きいてない――」と答えた。あの時のやり取りを思い出す時間が必要だったのだろう。こう考えれば、憂は人とのやり取りをイメージとして憶えているのかもしれない。
「とにかく――千穂は――だめ――」
「じゃあよ。他の女子なら……いいんか……?」
巧みだ。巧みに憂の弱い部分を突き、千穂に戻そうと追い立てていく。拓真の千穂への想いも並々ならぬ物がある。
「お前とだと……子どもは……出来ねぇ……」
「うぅ――じょしとは――きめて――」
憂の顔に焦りが生じている。感情のコントロールは以前に比べ、比較にならないほど制御できるようになっているようだ。しかし劣勢の今回は、目に落ち着きがなく、あっちを見たりこっちを見たりとせわしない。
「ない――から――」
「マジか? そりゃ、マジで言ってんのか……?」
どこか朗らかに見えた拓真の顔付きが豹変した。普段、見せている鋭い目付きよりも更に鋭い。それはこの日、話し終わったバスケ引退話の際に見せた顔だ。
「――まじ――」
泳いでいるままの目になど、無視だ。無視をし、拓真は憂をベッドに押し倒した。
「たっ――拓真!?」
力の差は歴然だ。倒れた憂の抵抗をさして気にせず、大柄な男が小柄すぎる少女にのし掛かる。
「拓真っ――! やめっ!!」
両手を用い、ポカポカと頭を小突き抵抗していたが、鬱陶しくなったのか、大きな右手が細い左の手首を掴み、ベッドに縫い付ける。
「やぁぁぁ――!! やめろ――!!」
甲高い悲鳴が響くが、この家には2人の他に誰も居ない。
「んん――うぐぅ――!」
しかし、その全身全霊を籠めた声も拓真の力強く大きな左手が封じた。その手を引き剥がそうと自由に右手が動くが、その手は不自由だ。少女が故に弱い左よりも更に劣る。
……それだけでは終わらない。ベッドに上がり、ジタバタと暴れる両足に跨り、体重を用い、その抵抗さえ封じてしまった。
「んー! んっ!」
「うるせぇ。黙れ」
頻りに拓真の指の隙間からか、くぐもった声が漏れるが、最初のひと声以外は家の外には漏れていないだろう。
「ん゛っ! あ゛ぅぁ!」
拓真ともう1度、呼んだのかもしれないが、固有名詞として音が出ない。彼は顔を近づけ「黙れ!」と、凄んで見せた。少女特有の甘い香りが鼻腔をくすぐっているのだろうが、意に返さない。気付いてもいないのかもしれない。
「ヴぅ!」
断崖絶壁に立たされ、それでも抵抗の意志を示す背水の美少女に苛立ったのか、口を塞ぐ左手の力の方向を上に変えた。少女の顎が上がり、後頭部がベッドにめり込んだ。細く白い首が曝け出される。太めのチョーカーがずれ、かなり薄くなった傷痕が半分ほど姿を覗かせた。パッと見では気付かない程度に色素の沈着は薄まっているようだ。
「だ・ま・れ」
拓真は自らの行為とは裏腹に冷静だ。冷徹とも言い換えられるだろう。
「黙った……か?」
不幸な美少女の両目からは、とめどなく涙があふれ、耳の方へと伝わっていく。頷こうにも拓真の左手がそれを阻んでいる。
「ぁ――ん゛――え――」
何か悲鳴以外の声に聞こえた。きっと手の平には唇が蠢く感触もあるだろう。
「あ……?」
「ぁぅぇ――ぁぅ――ぇ――」
大きな手がそっと形の良い顎から離れていく。もはや大声を出そうとさえしていない。
「なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――なんで――」
……心、ここにあらず。安定を見せていたと思われた憂の精神状態だったが、性的な危機を前にその脆さを露呈……。障がいを抱える少女をそんな状態にしてしまった拓真には、後悔がはっきりと見て取れた。
……やりすぎた。
「……悪い」
のそりと大きな体を起こし、解放するとその弾みで「なんで――――――なんで――――?」と、篭もった殻から引き戻されたようだった。
「――なんで?」
ベッドに縫い付けられたそこから一切、動くこともなく、濡れた瞳のみで悲しそうに信頼していた幼馴染みを捉えた。
「……男と、ってよ」
思わず視線を外しながらだったが、今回の意図について語り始めた。
「……こう言う……事だぞ」
「――――――」
憂は確かに男の力に恐怖心を抱いた。
だが、ここで言い負けるわけにはいかない。彼女からして見れば、幼馴染みの行動は理解出来ても、理不尽そのものだった。
その為、憂はなかなか長い言葉探しの旅を決行したのだった。
憂の表情はコロコロ変わり、そんな憂を横目で見、ただただ待つだけ。
そんな不思議な時間は10分近くに及んだ。
少女の最初の悲鳴は外にまで漏れたように思われたが、何の音沙汰もなかった。
「拓真――だったから――」
真っ直ぐに見上げ、言い放った。
好きな奴じゃなかったから、抵抗したんだ……と。
好き……いや、恋愛感情の対象としていない拓真だったから抵抗したのだ、と。
裏を返せば、好きになれた男が出来たとすれば、無駄な足掻きなどせず、体を渡そう……と。
そんな意思の籠もったひと言は、正確無比に捉えられた。
「お前が? 無理だろ?」
男との恋愛など、お前には無理だ。『まだ』が付いているかは判別出来ない。
一見、会話が繋がっていないように見えるが、彼らの間では通じた。略す憂と略す拓真。これは佳穂と千晶のソレと同じだ。
「――できる!」
……そして、また言い争い勃発だ。彼ら2人は、昔からこうやって切磋琢磨していったのかもしれない。
「無理だ」
視線と視線がぶつかり合う。火花が散っている。今しがた両名の間で出来た筈の男女の壁は脆くも崩れ去ったらしい。幼馴染同士、2人の結びつきは強い。
「ひとのこと――ばっかり――!!」
唇が突き出されていないが、口が真一文字になった。凜々しい様を想像させそうだが、実はそうでもない。興奮からか、少し鼻の穴が拡がり、どこか滑稽だ。
「……あ?」
拓真もどこか素っ頓狂な『あ』だった。堂々巡りを覚悟していたが、予想外の切り口を見せたからだ。
「拓真は――どうなの?」
「いないの――?」
「すきな――ひと」
人の事に首を突っ込んでくる。
自分が決めた事に真っ向から反対し、あれやこれやと手を変え、妨害してくる。
どうあっても千穂と寄りを戻させようとしてくる。
そんな拓真に対し、疑問をぶつけた。誰1人、悟っていない拓真の本心を。
「居るぞ……」
「――――」
少女の目が少し丸くなった。驚いたらしい。
「お前……だ。憂……」
更にその黒目がちの両目を見開いた。その後は百面相。
「へ――?」
「えっと……」
キョロキョロとし始めた。もう1度、囁いてくれる相手でも探したのだろう。
だが、その場には2人だけだ。千穂も母も梢枝もいない。言葉をもう1度伝えてくれる者は、予想の斜め上な発言をした男のみだ。
「嘘、だけどな」
「ぇ? う!? うぅぅ!!」
みるみる内にその白い露出部を赤に染め、「あぁ――!!」と拓真に襲いかかった。人間が意思疎通を図るツールである言語が消失するほど、怒りに身を任せた行動だ。
拓真はベッドに身を預ける。その大男にちっさな子がのし掛かる。さっきと逆の構図が完成した瞬間だった。
はっきりと違う部分は、ポカポカと交互に振り下ろされる両の拳だ。
「いて……痛て……」
流石にノーダメージとはいかない。全く抵抗せず思い通りにさせながら「ったく……痛て……。きょうちゃんよぉ……。痛てぇ……。俺の可能性なんぞねぇじゃねぇか……」などと、バスケに於いて憂の後継として大きく踏み出した男に恨み言を呟いていたのだった。
拓真は確かに見た。嘘告をした瞬間、驚きに目を見開いた。これは理解に至った証明だ。
問題はその後だ。今まで見た男子からの告白シーンと同じ顔をした。翳りのあるどこか迷惑そうな……そんな表情を確かに浮かべた。
女子の中心に放り込まれた時に見せる顔とは異なるものだった。
幼馴染みへの暴行は、2分ほどで終了した。沸騰した脳の温度が多少、下がった……以上に、「はぁ――はぁ――」と疲れてしまっている。
「あー痛てぇ……。気ぃ済んだ……か?」
「はぁ――ふぅ――なに――?」
「聞いとけよ……」
「――え?」
ボソリと呟いたが、憂の耳には入らなかった。無遠慮な早口だったからだろう。勿論、憂にとっては……だ。
きっと、押し倒した事に対する贖罪……だった。
抵抗の出来ない憂に恐怖心を与えた。解っていてやった事だが、それでも罪悪感を持ってしまった。そんな欺瞞を改めて伝え、いい男を見せるには、少々気恥ずかしかった。
「俺が……な?」
「ぅ――うん」
「ほら……どけろ」
「ぁ――ごめん――」
馬乗りになっていた事に今、気付いたと言わんばかりにそそくさと元の位置に戻っていった。そして、俯く。
「気にすんな。俺が……悪ぃ……」
「でも――「いい! ……っつってんだ」
ポカポカ殴ってしまった憂は、反省の気持ちでいっぱいなのだろう。張り上げた声に体を竦ませたが文句を言わず、大人しくなった。ベッドから降ろした足に行儀よく両手を置いて、俯いてしまった。
「俺は……な?」
「――うん」
「千穂ちゃん……だ」
その名前に跳ね上がるかのように小さな輪郭を向けた。
「……好意……持ってる」
「こうい――?」
「……またかよ……。いいか……?」
「俺は……お前もだが……千穂ちゃんも……大事にしてぇ……」
「……好き……なんだよ!」
「――なんで――?」
……拓真は泣きそうになった大切な親友に、千穂への思いを吐露した。
優と千穂が付き合う前に見せた、部の見学に足繁く通い、優を見詰める優しい瞳。
告白が実って以降、何度も見た優と同じ時間を共有している時の笑顔。
――そして、優の事故――
窶れていく千穂を優の代わりに支えようと思った。
優の生存を知って以降は、その純真な心に惹かれた。
どこまでも憂を想い、どこまでも憂に優しく接する姿。
そんな千穂の夢と葛藤……。
目の前に座る千穂が定めた、小さな背中に背負い込む悲痛な覚悟。
いつしか、拓真の想いは募っていった。
だが、それを押し殺してきた。
―――憂の為に―――
―――何よりも憂を大切に想う千穂の為に―――
「お前は……踏みにじるんか……?」
「あの娘の……気持ちを……」
「だったら……俺は……」
「お前が……捨てんなら……」
「俺が……奪うぞ……」