224.0話 おじさま2人の出会いの話
―――12月2日(土)
「憂の姉さん、母小物って……。これは2階っすか?」
「そだねー。それ、お母さんの小物だから階段上がって右の部屋ね」
拓真と美優を含む、本居家の皆さまは引っ越しの手伝い中である。
普段は黒服を着用しているであろう遥の手の者4名も、引っ越し屋さんと化し、立花家の為に働いている。人数的に少ない気がしないでもないが、自己判断の必要な単独行動ともなれば、遥が絶対の信頼を置いている部下となり、そこまでの人数を出せないのであろう。
それでも男手の追加。大助かりである。
絶対の信頼が必要な理由は、荷物に紛れる憂のDNAに関わる皮脂や髪の毛などの流出防止を図る為であろう。学園内で抜け落ちた毛に関しては、どうにもならないが、はっきりと憂のモノと証明出来る、憂の家や荷物からの流出にはしっかりと気を遣われているのだ。
「いやー。助かるねー」
脱ぎ履きし易いツッカケな拓真の父・譲二と拓真は、しきりに玄関とどこから持ち出されたか不明なトラックの間を往復している。段ボール運搬担当の3名だ。
もう1人は康平くん。力持ちには勿体ない配置だが、いざと言う時になって冷蔵庫や箪笥など、重い物を抱えるメンバーに入っていたら動けないと、こっちに回った。
「ホント、助かるわ。やっぱり本居さんちは素敵ねぇ……」
顎に人差し指を当て、眼球が見えなくなるほどの微笑みを浮かべた憂の母・幸は、愛の咎めるようなジト目を受けると、「千穂ちゃんも可愛くて素直でどんどん教えた事、憶えてくれて嬉しかったんだけど。心残りだわ。もっといっぱい教えてあげるつもりだったのに……」と、眉の下がった困り顔に変化した。
とって付けたような言い草だが、本心からの言葉だろう。
前日夜のお別れ会に近い、晩餐の最後。幸は千穂を抱き寄せ、『また教えてあげられるといいわね。待ってるわ』と、目尻を拭った。
愛も目を疑うようなワンシーンだったようだ。
優の事故直後にも、気丈に家族を励まし続け、主人の前以外では涙を決して見せなかった強き母が、愛たち3人姉弟の前で見せた初めての姿だったのである。
『本当の娘だと思っているわ。これからも……ね?』
この言葉は千穂を泣かせた。こっちについては自分だけ泣くなんてずるい……と、狙い澄まし放たれた言の葉の矢だと愛は認識している。正解か不正解かの判断は付かない。
「……お母さん? 荷物の置き場の指定係は?」
「お父さんにお任せしちゃったわ。お陰で少し退屈……」
引っ越し時の台詞では無い。
大きな荷物の運搬を買って出てくれた、現在、作業着の黒服さんたちには聞かせたくない台詞である。
「憂くんのお姉ちゃん。これは? 箱に何も書いてなくてね」
「……えっと。憂の荷物には何も書いてないので、憂のだと……。1階の和室にお願いします」
「了解」
譲二が開け放たれた玄関に入ると、「あ、それ貰いますわ。どこでっか?」と、康平の声。
言葉に甘えるように軽い段ボール箱を手渡し、「和室だよ。憂くんの下着が入ってるって」と嘘が聞こえた。愛はそんな事はひと言も言っていない。
「マジっすか……」
その段ボールに少し動揺の見える目線を向けると「嘘だけどね」とか聞こえた。
「ちょ……勘弁して下さいよ……」
2階にベッドを運び入れ、両者の間を通る作業着サングラス4名も外の3名からも笑声が沸き起こった。
……立花家は何気に平和である。
因みに梢枝は、トラックの荷台でダンボールを降ろしやすいように、端に寄せる係をしている。
大荷物のサングラスさんたちは荷台に乗り込み、乾燥機さんを降ろしにかかった。梢枝の役割は小荷物担当らしい。何気に見張り担当でも兼ねているのだろう。
「ところで憂はまだ拗ねてんの? 手伝えって言っても邪魔になるだけだからいいんだけどさ」
何気に酷い物言いだが、家族ならではの事だ。確かにこれほど引っ越しの荷入れ、荷出しに向いていない子もそうは居ないだろう。荷物を抱えるには力がなく、どこに運べばいいか聞いても小首を傾げてしまうだろう。良くて応援係にしかならない。
「康平くん? 部屋に憂、居た?」
戻ってきた康平に幸が問うと、肉体担当は曖昧に笑ってみせた。顔だけで返事したようなものである。
「ずっと、部屋の隅で背中を向けてますわ」
「……いつまで拗ねてんだか」
「そうねぇ。本居さんに申し訳ないわねぇ。思い通りにいかないと拗ねちゃうんだから……」
その憂は荷物が運び込まれていく1階の自室。
膝を抱えて、本当に部屋の隅とにらめっこしている。ちょくちょく現れる子ども返りのような現象だ。
怒っている理由は……。
本居さんに引っ越しを手伝って貰っている件について。
憂は憂で一生懸命、『公』と『私』を切り離そうと奮闘中だ。これが友だちを守る事に繋がると本気で思っている。
それに対する家族の理解がない。家族だけではなく、本居さんちもそうだ。
……特にたっくん。拓真が……だ。
憂は学園内ではともかく、学園外では友だちと離れたい。
千穂の告白を蹴り、私生活に於いて距離を取ったのはその為なのだが、拓真から近付いてきてはどうにもならない。
だからこそ、怒っちゃっているぞアピールしているのである。
拓真は拓真で今回は自分から手伝いを買って出た訳ではなく、立花家との親交の深い本居の父母が『拓真も手伝え』と連れ出したから……だが、拓真は拓真で現在の憂の動きを良く思っていないので、何ら気にしていない。
なので、そんな憂の背中を横目で見る度、『こいつは阿呆か』と云った表情で通り過ぎるのみである。
まぁ、そんなこんなで立花家は引っ越し中である。
それは勿論、立花家のお隣さんだった漆原家もそうだ。
「……ちらり」
ここでは珍しい事態が起きていた。
立花家とは異なり、未だ、マンション内である。
これは千穂が支度を怠っていた為だ。千穂にとって、この引っ越しはやはり本意ではないのだろう。その為、荷物をほとんど纏めていなかったのである。
そんな千穂は、教科書の類を整頓、収納中である。
チラリとわざわざ声に出したのは佳穂だ。千晶も居る。いずれも引っ越し手伝い中なのだ。
「やっぱ、スベスベのパンツ増えてるー! 縞々1枚だけじゃないかー!」
「スベスベ大好き憂ちゃんが縞々綿パン好きだと本当に思った佳穂が悪い。わたしもあの頃は「佳穂ぉー! やめて!!」
タンスを開け、物色していた佳穂にようやく気付いたらしい。
『増えてる』と言う事は、過去にも同様の犯行を行なっているのだろう。
「千晶のバカ。でも、下着ちゃんたちもダンボールに移すんだろー?」
「移さない! タンスの引き出し出して、見えないようにするだけ!」
「ほー。そうなのかー。引っ越ししたことないからなー」
「なんでわたしはバカ言われたの……?」
……騒がしい室内である。
この部屋の外では、遥が手配した業者さんが往復している。
元々、総帥の依頼で決まった引っ越しだ。戻るとなれば、きちんと手伝う責任がある。その上、本居さんちが立花家の荷物搬入完了後、駆け付ける予定だ。何気にお世話大好きご両親なのである。
……拓真くんがその引き出しを運び、千穂ちゃんが赤面しつつ、怒りに身を任せない事を祈る。
そんな平和な立花家、漆原家とは裏腹に、策謀を巡らせようとする者が居た。
「これを発表すると言うのですか……?」
紙媒体を手にする島井の眉間には、深い皺が刻まれている。
ここは蓼園総合病院内、院長室。
華美な装飾の施されたような物はなく、どこか質素にも思える一室だ。過去、何度もこの部屋で話し合いが行われてきた。時にはあの男を含めて。
「そうですよぉ。小心者の僕の代わりに愛ちゃんが総帥閣下に聞いてくれたんですよぉ。考察とか論文とか、そんなものを発表していいのかって」
渡辺の言葉通り、その論文は完成形ではない。まだ下書きのような設計図のような状態だ。
「全く君は……。直接、打診しにくければ私にでも、ひと言問えば良いだろうに……」
立ったままの島井に対し、川谷・渡辺の脳外科師弟コンビは、そこだけ高そうなソファーに腰掛けている。これは客人への配慮なのだろう。川谷は着飾らない気質の持ち主らしい。
これはちょっとした矛盾だ。自己顕示欲が無ければ、高名な医師になどなれないだろう。何やら裏がありそうな話である。
「そうは言われましても……。怖いじゃないですかぁ。あの蓼園さんって人は……」
「君は今でもそうなのか……。もしかして島井君もか?」
「いえ、私は慣れました。しかし、どうにも腹の底では何を考えておられるか解らない方ではあると思っています」
男3人。何ともむさ苦しい部屋だ。華がない。
それでもここの医師3名は、『再構築』の発露以降、いずれも有名となってしまったドクターたちである。島井に至っては、世界的な知名度が川谷をも上回ってしまっているレベルだ。
「まぁ、なんにしても脳再生の大発表! やっちゃいますよ! ……って言ってもチラ見せですけどねぇ。島井先生がすぐに気付いたのは、知っているからですよぉ。知らない人が読んでも経過と考察くらいにしか思えないでしょう?」
「しかし、これを隅から隅まで、それこそ重箱の隅を突けば気付く者も。何しろ世界中の研究者が注目しているからね」
島井の皺が消えない。
彼の危惧は憂の危険度が高まる事、だ。脳再生と体の再生。これがセットになってしまえば、人類の夢に限りなく近付いてしまう事になる。
それは娘のように想っているかも知れない島井にとって、避けたい事態なのである。
「……ご家族の了承は?」
「え? 総帥のお墨付きだけではダメですか? 普通に読んだだけじゃ分からないから大丈夫でしょ? 第一、彼って憂ちゃんの後見人なんですしおすし」
渡辺は逆だ。彼には師匠のように名を馳せたい気持ちがあるのだろう。そんな気持ちを抑える事なく発現させている。川谷を師と仰ぎ、その名に恥じたくない彼特有の想いもあるかもしれない。
「おすし? ……ともかく、総帥の真意を確かめたいですね。院長先生は総帥の電話番号を知っておられる、と?」
「そんな事を言ったか?」
「先程、『ひと言問えば』と」
何やら剣呑な空気だが、院長と島井が一緒にいるとよくこうなる。島井は未だに疑いの目を川谷に向けている。優の事故3日後に施した頭部のオペに関してだ。
この話はあれ以降、出てきてはいないが、両名の間にはわだかまりとして残ってしまっている。
「……そうだな。あの秘書殿を介せば話が大きくなる。自由が無くなるのだよ。法的に厳しい方だからな。詳しいからこそ、黒ギリギリを突いた策謀を巡らせられる。時には黒を白に変えてしまう。総帥の為ならば前科さえ喜んで受け入れる」
「だったらいいんじゃないですかぁ? 憂ちゃんの変化の神髄を知って貰えれば、益々憂ちゃんは守られないといけなくなるんですから」
「自由と引き換えにね」
ビシッと指摘された渡辺は肩を竦めた。ヘラヘラと笑みを浮かべつつ、だが。
島井は牽制を入れると院長に向き直った。無論、立ったままである。
「1つお聞きしたい事があります」
「何かね?」
「総帥とは、どのように繋がりました? 聞けば、彼への直通電話を知る者は、居ないと聞きます。これが尾ヒレが付いている噂なのは理解しています。あの秘書殿が知らないはずはないので」
これは危惧だ。総帥には黒い噂が付いて回っていた。
もしも、この院長と総帥に黒い繋がりがあり、それが表立ったとなれば、少なからず悪影響を及ぼしてしまうだろう。
憂には関係のない事の筈だが、今、蓼園総合病院にゴシップが生じれば、憂へも黒い煙が立ち込めかねない。
「総帥との繋がりか。聞いてどうなる……と、言いたいところだが、君の主張も解らない事はない。君はあの少女に入れ込んでいるからね」
思わず、だろうか? 島井は川谷の視線から逃れた。確かに入れ込んではいるが、その対象にするには憂が幼く、果てしない美貌の持ち主だからだろう。趣向的な意味合いと勘違いされると島井にはきつい。
「……彼との出会いは25年ほど前になる」
ここからは独白だ。天才脳外科医と謳われた院長・川谷と蓼園グループ総帥の深い繋がりが明らかになっていった。
―――彼は巷では家族愛など皆無の漢だと言われている。
彼は二十歳すぎに父と祖父を蓼園商会から退陣させている影響が強い。
……だが、それは断じて違うと言っておく。彼は愛に満ちた男だよ。
むしろ、退陣させざるを得なかったのだろう。
原因は凡庸な父にあったのだろうね。このままでは多くの社員が路頭に迷うと感じたからこそ、傷が深く達する前にクーデターに踏み切ったのだ……と、推測する。
彼は、なかなか身の上話をしない男でね。単なる私の予測で申し訳ない。
……彼を賛美するかのような推測に至った理由は、私と彼との出会いが全てだ。
彼は、脳腫瘍を患った父の為に奔走した。当時でも大企業だった蓼園商会会長、その父の脳腫瘍。それは奥深くに達していた。多くの医師が尻込みしたそうだよ。失敗した場合、何をされるか判らん、とね。
困り果てた総帥は、地方都市の総合病院まで尋ねる始末だった。ついにまだ無名だった私の元に辿り着くほどにね。
手術成功率30%弱。
このままでは死を待つのみの父君を純粋に救いたいと、そう提示した私に彼は言った。
『待っていれば1ヶ月も持たん。頼む。どうか父を救ってくれ』
その手術は半分成功した。父君は半身に麻痺を残してしまった。私の技術が高ければ、或いは後遺症すら無かったかもしれない。
半分は失敗……。そう謝る私に彼は言ったよ。
『ありがとう!』と。
それからだ。
……彼は人の迷惑を顧みず、恩賞を与える節がある。それ以降、仕事が激増した。日本各地を飛び回った。多忙を極めた。それからだ。私が持て囃され始めたのは―――
「ふわぁ……。初めて聞きましたよ! 院長先生の出世の裏側! そこからミスしない『ゴッドハンド』が降臨したんですね!」
「ミスをしない? そんな訳がないだろう? 私は神ではなく、人だ」
「え? でも、記録に依ると……」
「私もミスをしている。その時、手を回したのが彼だ。無論、金を渡してね。『君はまだまだ多くの者を救える。多少のミスで枯れてしまえば日本にとって大きな損失なのだよ』とね。『救ってやれ! 振り向かず進め! 俺には出来ん事だ! 誇れ!』 そんな調子で励まされたよ」
「……それ憂ちゃんの事でよく聞きますねぇ」
川谷のトカゲのような顔が鋭さを増した。笑ったのだろう。
「熱い方だ。勘違いされる事が多い方だが、本気で沢山の人間を救いたい。そう思っているのかも知れんよ? 少なくとも私には、そう思える」
そこで終わりかと思っていた島井と渡辺は「はっはははは!」と、突然の笑い声に驚かされた。
「だが、彼は何も言わず事を進める! こちらが良かれと動いている裏で、正反対の行動を起こす! 何度も何度もケンカしているよ!」
尚も「ははは……」と笑うと、「あの方の嗅覚は鋭い。私が名声を得る裏で、蓼園の宣伝。利益を得るほどに、な。今さっき言った事をひっくり返すように聞こえるかもしれんが、私も単に利用されただけかもしれんよ」と表情を引き締めた。




