217.0話 かいしゃほうもん
―――11月27日(月)
「お預かり……致します……」
「――さむっ!」
「少しの……我慢を……」
正面玄関を通る事に意義があるのですから……。
「――はい」
申し訳ありません。コートを着たまま、入る訳には参りませんので。
先週の金曜日にお休みされたばかりですが、憂さまは本日もお休みです。
昨日の夜、突然の電話がありました。
『遥さん、こんばんは。突然、申し訳ありません……』
『こんばんは。憂さまが何か言い出されましたか?』
『え? ……そうなんです。実は……』
愛さんの言いたい事は判ります。なんで判るのか、でしょう?
答えは簡単です。今まで、憂さま以外の事で愛さんが電話してこられた事はありません。
その要件を聞き遂げた私は、即座に肇さまに報告と相談。
『そうか! 良い事だ! 明日だ! 明日には実現させよう!』
……余り簡単に決定しないで頂きたいものです。
しかしながら、肇さまのお言葉は絶対。本日、早速、憂さまのお礼参りです。
「――でっかい」
「いい表情! もっと! 頂戴!」
でかいと言われましても……。敷地面積は明らかに蓼学の方が上なのですが。
私共、蓼園グループの総本山。蓼園商会本社ビル。移転当時は土地の価格も安く、上に伸ばすよりも横に広げる方が安価だったのです。その頃、私はまだ……。いえ、産まれてはいます、か。
「――――――」
いつまで見詰めておられるのでしょうか? 格好のチャンスとばかりに彩さんに撮られておりますよ?
「さぁ……参りますよ?」
「まいり――?」
……そうでした。難しい表現は控えねば。
「行きますよ?」
「――はい」
…………。
表情がガラリと変わりましたね。これが憂さまの大きな魅力の1つ。まずは元気に過ごして頂かねばなりません。
「私の……後に……」
「――はい」
梢枝さんの仰る通りですね。彼女も同級生に指摘されてしまったとか。加瀬澤 凌平。本当に良い人材です。憂さまには思うがままに動いて頂き、様々な表情を見せ付けて頂く。理に適っています。
憂さまの歩みに合わせ、ゆっくりと進む。
きっと、私とは違う時間生息域。憂さまはこれでいい。周りの全ては私共が引き受ける。
……そのつもりでしたが、当の憂さまにはその気がなかったようです。やはりあの御方の慧眼には敵いませんね。
2枚目の自動ドアの向こうに見える人、人、人。壮観とはこの事。
さすがにこれだけ居並ぶと気後れしてしまいますね。
その自動ドアがゆっくりと開く。
「「「おはようございます!!」」」
軽く会釈をし振り返ると、そこには前だけを向き、歩みを進める憂さまのお姿。
バースデーパーティーの時と一緒ですね。緊張なさってます。そんな憂さまを彩さんがエスコート。やはり、愛さまにもご同行頂くべきでした。『コンビニ』の業務など二の次に……。
……いえ、それは違いますね。各業務に当たる者。それら全てが合わさり組織は動く。休んでも問題ない仕事など存在しません。
「「「おはようございます!!」」」
「おはよう! 憂くん! 待っておったぞ!!」
整列する取締役と、何とか駆け付けられた取引先の重役たちを背に、肇さまが迅さまを伴われ、お出迎えです。これが憂さまの立ち位置。
「――みなさん――おはよう――ございます――」
……小さく震えておられますね。身も声も。
無理もありません。憂さまは16歳の子どもに過ぎません。
頑張って……と、思った私も毒されてしまったのでしょうか?
あ……。肇さま、どさくさに紛れてお手を……。
「なんと冷たい手だ! これはいかん! 遥くん! コートはどうした? 手袋はどうした!?」
「これだけの出迎えの中、上着に手袋など礼儀に反します」
「礼儀など無用だ! 風邪でも引いてしまったらどうする!?」
「申し訳ありません」
……肇さま。それでも礼儀は必要です。
「憂くんの場合は、な」
そう仰い、ニヤリと唇を歪められた。
「皆! 遂に憂くんがこの蓼園商会を訪ねてくれたぞ! 改めて紹介しよう! この子こそ、蓼園グループを躍進させ、人類に光を与える立花 憂くん。史上最大のクライアントであり、カスタマーであり、パートナーだ!」
津波のような拍手の中、紹介された事を理解した憂さまは深くお辞儀……。その隣には父の迅さまがそっと寄り添われております。
この方の心労は当分、続きそうですね。ですが、ただ流されている訳ではありません。現状を理解した上で肇さまに追従しておられます。
我が子を守る親とは強いものだと、この方を通し、初めて知りました。
「記念すべき日だ! 喜べ! 今、この瞬間! 蓼園の未来は保証された!」
また始まりましたね。肇さまお得意のはったりです。実の処、まだまだ不安定です。憂さまの身の危険をほぼ完全に排除せねばなりません。個人の動向を全て排除する事は不可能ですが、組織からはお護りする事は可能
「さぁ! 皆は仕事に戻れ! 儂はこの憂くんと大切な商談を行わねばならん!」
迅さまは笑顔が張り付いておいでです。気付かれたのでしょうね。肇さまは保護者として交わした契約を、ご本人との契約に切り替えるおつもりです。了承して下さると良いのですが。
「さぁ……。憂くん、行こうか」
「――はい」
「……なんだ。君と……儂の……仲だろう。『うん』で……良い」
小首を傾げ、見上げ……「うん」と言い直されました。いけませんね。彼の手が憂さまの背に回そうとされた瞬間、その手の妨害。
「憂さま? 行きましょう?」
「――うん。あ――。はい」
思わず、クスリと笑声が零れてしまいました。これは駄目ですね。
「私も……『うん』で……」
「うん――」
見上げ、微笑まれた憂さまは非常に愛らしく、肇さまのお気持ちが少し理解出来ました。
「遥くん……」
貴方は年齢的な問題で許しません。
「うぅむ……」
……まだ大勢、見守っておいでですよ? 威厳を保って下さいませ。
蓼園商会応接室。
懐かしい場所です。私と肇さまが初めて顔を合わせた舞台……。
何度、訪れても懐かしく思えます。
「ボク――。友だち――あぶなく――」
困り顔。言葉が見付からないのですね。
「相分かった」
そうですね。言い直し、お伝えするにも難しい。それが良いでしょう。全てを理解している……と。
しかし……。
「あい――?」
予想通りです。憂さまは聞き慣れない言葉に弱いと報告を受けておられるはずですが。
……人の事を言えませんね。私も先程、やらかしたばかりです。
「肇さま?」
「憂? 解ってる……と」
迅さまのお言葉。憂さまのフォローには慣れておられないと聞き及んでおります。
何と言えば良いのでしょうか? 愛さま、千穂さま、梢枝さんならば、巧くお伝え出来るのでしょうか? そう考えると彼女たちは優れておりますね。
「千穂くんが……心配か?」
なるほど。流石は肇さま。憂さまの行動が活発になった理由。これは千穂さまを始めとするご学友たちにも真に危険が及ぶと理解されたからです。
「――うん」
「遥くん。メモ用紙を」
「はい」
紙は便利ですね。この紙と云う物はどれだけデジタル化が進んでも廃れる事はないでしょう。
「憂くん。千穂くんたちを……守る……その為には……」
「――そのために――けんきゅう――」
その通りです。それが最も必要な事です。研究し尽し、成果を上げれば憂さまの価値は比例して下がります。危機を遠ざけるには研究に手をお貸し頂く事です。
「そうだ。だが……時間が……掛かる」
問題はそこです。既に研究に必要な血液などの媒体は研究所に。しかも日本中に分散させております。秘密裏に。
絡む者が多ければ多いほど、流出の危険度が上がる事は承知の上。しかし、襲撃を受けた場合の被害は1つの媒体のみで済みます。
そして、研究の速度も向上します……が、元来、研究とは時間の掛かるもの。成果を上げるまでは憂さまの危険度は下がりません。それどころか、『再構築』の研究が本格化した現在は、敵に焦りを呼んでいる事でしょう。
「――じゃあ――やっぱり――」
……やっぱり?
「やっぱり……? 聞かせて……くれ」
「――うん」
瞳が潤んでしまいました……。追い込まれていらっしゃるのですね。
「はなれないと――。けっか――でるまで――」
驚きました。状況をご理解されております。肇さまも驚いておられますね。珍しいものを見てしまいました。
「『公』と『私』だ」
……肇さま。やはり憂さまに弱いですね。
公私など考えず、研究成果を上げるまで鳥籠に入れておしまいになれば、簡単に済むでしょう……。
激しく時間を消耗しました。
肇さまは、『公』と『私』について憂さまに説かれました。
学生であらせられる憂さまにとって、学園は『公』。蓼園商会を媒介とする研究に関しても『公』。それ以外の生活全般を『私』とし、分けて考えるべき……と。
『公』の範囲で関わる人間は、生きていく上で欠かせないモノ。
そうでないモノは極端な話、切り離しておいても問題ない……と。
肇さまはそうやって生きてこられました。
『私』の大半を捨て打ち、『公』に生きてこられた。
けれど、それは寂しい人生。
……気付かれたと思っていたのですけど……。
目の前の憂さまを介し、彼は『私』を手にしたとばかり……。
それとも解っていながら憂さまの周囲を可能な限り安全圏に押し出す為に……?
憂さまにそれが出来るでしょうか?
私には甚だ疑問、と言わざるを得ません。
その公私の分離に当たって、今の生活を変えるべきと肇さまは仰った。
はっきりとは仰せられなかったけれど、それは千穂さまとの生活を捨てる事に。
このお2人は、やはり引き離されてしまうのでしょうか?
お2人の恋愛についての話が病院での会議で挙がった際、Dr.渡辺は1つの可能性を語った。
その可能性とは『二母性』。
雌同士で子は作れる。マウスを使った実験では実際に成功しているとの事。
ヒトへの応用が成されていない理由は倫理的問題。
ですが、二母性の倫理など、憂さまがもしかすると既に成し遂げているかも知れない、不老と若返りに比べれば小さな事に過ぎない気がしないでもない……。
この可能性……。憂さま、千穂さま、当人。ご家族にお伝えするべきでしょうか?
この方のお考えは?
……読めないお方で困ります。
憂さまは? 憂さまは本当に公私を切り離す事が出来るのでしょうか?
切り離す事で一定の距離が空き、遠ざける事が出来ます。ですが、それが最良の手段でしょうか? 敵は本当に憂さまだけを狙うでしょうか?
甚だ疑問。もっと良い他の方法があるように思えて仕方ありません。
……今度ばかりは肇さまのお心に添えないかも。
私も憂さまと千穂さまの……。この幼いお2人の恋心を応援してあげたい。
……何はともあれ、これまで3時間も使ってしまいましたが、まだ憂さまの訪問予定がありますね。それと本題である契約の更新……。
お食事が終わりましたら、すぐにでも契約について説明しなければ……。憂さまの事を思うと遅くなってしまいます。
蓼園綜合警備に赴き、日頃の警備体勢の感謝。
彩さんのところにも行きたいと。こちらでは少しクレームがありそうです。
きっとHPの色使いがガーリッシュで気に入らないのでしょう。
「どうした? 食わんのか?」
……!
見透かされていた? いえ、あの目は一瞬でした。
私に行動を起こさせようとしておられる? それは深読み? 私への単なる牽制?
あぁ……。もう解りません。
時間を要しますね。また夜にでもこれからについて浅慮する事と致しましょう……。
……?
「――おいし。ここの――しょくどう?」
視線を感じ、目を向けると憂さまが私に質問してこられました。
私にも慣れてきて下さったのでしょうか? だとすれば、喜ばしい事です。
「まさか! 出前だ!」
「でまえ? ――まぁ――いいや――」
特上天丼。憂さまには大きすぎる気がしないでもありませんね。
大きな海老に大きな口をお開けになり、頬張る。
……口、いっぱいではないですか……。
幸せそうな表情……。
梢枝さんの報告に依ると、嗅覚が回復された時には『やっぱり違う』と。
この子は、食事を精一杯楽しんで見せる事で周囲に心配を掛けさすまいとしておられた……?
いえ、当時の憂さまはそこまで周囲に気を配れなかったはずですね。
彼女はきっと、純粋に舌全体を使い、食事を楽しんでおいでだったのでしょう。
「儂まで嬉しくなる食事風景だ。遥くん? 千穂くんは……楽しく食せていると思うか?」
くすっ……。千穂さまの名前に反応されましたね。海老のせいで喋ることが出来ませんが。
「本日、京之介さまと勇太さまが5組を訪問。千穂さまと共に屋上に行かれ、無事、お許しになられたとの事です。きっと憂さまが隣に居ないことを寂しく思いつつも、佳穂さま、千晶さまの優しさに包まれておられる筈です」
「う、むぅ……。君は相変わらずだ。責めているのかね? 千穂くんの『私』と切り離すべきと言った事を。どう思う? 立花くん?」
鋭いですね。少し、突っ付いてみたのですが、跳ね返ってきてしまいました。
「私は憂の思い通りにすればいいと思っていますよ。恋愛にも友人関係にも親がわざわざ介入する必要はありません」
「希望としては?」
……困らせるのですか。意気地の悪い事をなさいます。
迅さまは、側頭部を掻いた後、「……千穂ちゃんは良い子ですからね」と仰いました。私もそう思います。あの子には幸せになって欲しい。
こんな感傷、何年ぶりでしょうか?
「そうだな。千穂くんは出来た子だ。ところで遥くん……。早く食べんか? 憂くんに負けるつもりか?」
……どれだけゆっくりでもそれは無いと断言出来ます。
あ……。この契約の更新……。
憂さまの意思を明確にするだけではなく、この迅さまに向けられる白い目の軽減を図る意味合いもあるんですね。親が強要しているだけ、ではなくなりますので。
もう少し、説明して頂けると嬉しいのですが……。
……肇さまはいつもこうです。




