212.0話 憂の変化
―――11月22日(水)
「みんな――はなしが――ある――」
(きのう――なにが――あったか――)
(しってる――)
(しらべた――から)
(ぐぐる――先生――、やっぱり――しってた――)
俗に言う、エゴサーチと呼ばれる検索だ。
自身の事や、自身に関連するもののが話題に挙がっていないか、調べる方法である。
千穂が憂の公式HP初訪問した際、タブレットに【立花 憂】と入力し、検索した事を憂は記憶していた。
何があったか教えてくれない姉を含めた家族、千穂を筆頭とした友人たち。
憂を傷付けるであろう、憂への襲撃。この周囲が隠してあげたい情報を自身で調べ、把握してしまった。
ボウガンについても調べ、思い出した。この殺傷能力が高い飛び道具の事も。
朝礼終了後。クラスメイト全員に向けてのメッセージだ。利子もまだ教室内である。
利子は前日の事件について、触れなかった。既に憂の家族の手が回っていたのだ。つまり、憂が知った事を家族は知らない。
憂は姉を含めた家族全員を出し抜いた。一緒に部屋で過ごした千穂が帰宅し、家族会議の最中、ググル先生をフル活用したのである。
判らない漢字をメモし、ググル先生と辞書を活用し途中まで調べ上げた。そんな行動は朝になり、姉が起き出すと再開され、努力の結果、情報を得たのである。
「ボク――みんな――まきこみたく――ない」
はっきりと宣言した。これは、近寄りすぎないほうが良いと言ったも同然だ。
「憂……」
「……憂ちゃん」
「憂さん」
「でも……」
一様に同様の反応を示した。
以前から知っていた者も、後から知った者も。
この教室に集う者は多少なりとも覚悟を決め、残留、或いは転室してきた者たちなのだ。
「んな事言っても、俺は……離れねぇ」
誰よりも早く、意思を示してみせたのは、この中で最も付き合いの長い男だった。
拓真の声を皮切りに続々と言葉のシャワーが降り注ぐ。温かみに溢れた……、そんなシャワーだ。
(拓真――)
(拓真は――なんで――?)
「……憂ちゃんが……嫌って……言っても……」
「あたしたちが……したいんだ」
佳穂も千晶も。
「私……居たら……ダメ……?」
もちろん千穂も。
「俺、言ってないっけ? 守って……やるって」
「彼と同じだ。惚れた弱み……そう捉えても……構わん」
圭祐も凌平も。
……護衛2名を除く全員が、重いはずの憂の言葉を撥ね除けた。
実際には、ボウガンでの襲撃を受けた憂から距離を取りたい者も居るかもしれない。しかし、この場の雰囲気がそれを許さなかった。
やがて、チャイムが鳴っても、利子も誰も彼もが留まっている。
木曜の1,2時間目は移動教室。美術の授業だが、離れる者は居ない。憂の目は、言葉とは裏腹に不安に揺れている。
「じゃあ――ボク――がくえん――「辞める! ……必要、ありませんえ?」
続く言葉を遮ろうとした梢枝の『辞める!』に小さな躰が跳ねた。憂の声は、恐る恐る紡ごうとした消え入りそうな声だった。誰か……特に拓真や圭祐辺りに叱られる確信でもあったのだろう。
「でも――「でもや……ありません」
憂の発言は最後までさせて貰えない。梢枝の言葉には、穏やかながらも強く有無を言わせぬ迫力があった。
「貴女が……辞めれば……ウチも……辞めます」
「きっと……。他にも……おられますえ?」
それは真実だろう。少なくとも康平には、この学園に存在する意味合いは引き下げられる。
憂の直接の護衛としては、如何に千穂たち秘密を共有していた面子が大切だろうとも、憂の傍を優先するに違いない。何よりも憂さえ退学してしまえば、級友たちの危険の大半は去る。
憂はそんな梢枝を「――どうしたら――? 梢枝――おしえて――」と、縋るように見上げたのだった。
その後、美術教師が1-5を訪ねてきた。
美術室に誰も来なくては授業にならない。利子が謝り、教え子たちに移動を促すと、渋々移動していった。千穂は佳穂と千晶に片手ずつ引かれ、連行されていった。
残されたのは、憂と梢枝。更には憂を守ろうと男子生徒の中から康平、拓真の2名。
他の者たちも残りたがっていたが、「それでは憂さんも相談し辛くなります……」と追い払われた。
男子2名も教室の外で待機中である。
「どこでも……一緒……です」
梢枝の言葉は何者かに指示されたものなのかも知れない。
「家に居れば……家族が……危険に……」
憂の護衛としてのアイデンティティ。これもあるだろう。
「貴女が……行くところ……付き纏います……」
この日まで憂は流されるままに流されてきた。
状況を完全には把握出来ていなかったのだろう。
ボウガンによる襲撃が自身の立ち位置を把握する切っ掛けとなった。
「――なんで?」
(なんで――そんなに――?)
その理由も包み隠さない。
梢枝は真実を告げる事が誠意であると信奉している。
「可能性……。貴女の……体の……」
和風の女性は、少し困ったように眉を下げると、「タブレットを……貸して下さい……」と、憂に依頼。
憂は愛用のリュックから、タブレットを取り出し、はいと手渡した。
ここからの説明は時間が掛かった。省略させて頂く事とする。
その内容はタブレットに保存された。全てが梢枝の文章だ。憂に分かりやすいよう、平仮名満載の常人には読み辛い文章となった。
……憂の言葉の遣り取りの能力は間違いなく向上している。
千穂の違和感は正解だ。先程の『貸して下さい』など、以前では聞き取れなかったはずであり、梢枝はその能力向上を受け止めている。
千穂も拓真もその微妙な感覚を何となく捉えているのだろう。学生の中では千穂、拓真、護衛の2名だけが、憂に話す一文章の長さを伸ばしている。些細な差だが、脳再生を実証している事例と云えるのかもしれない。
―――この脳再生について、天才脳外科医の愛弟子・渡辺は1つの仮説を立てた。
脳神経の接続、更には切り離しだ。
渡辺は回路として、憂の脳を理解した。
例えば、回復した嗅覚もこの回路の1つ。
この線が断線している状態だったと彼は言う。その導線にも似た、ラインの本数が憂の脳は少なくなっている。だからこそ、機能障害を起こしているのだ……と。
つまり、憂の脳はどのラインを繋げるべきか指令を出している。
嗅覚の回復と引き換えに、一時的に向上していたはずの情報処理能力が再び、下がった理由は、そこにある。
更に、このラインの本数も障害のある機能も回復途上にあり、話をややこしくしているらしい。
バスケをしたい憂が一番回復して欲しいと願うはずの右麻痺だが、これに関しては機能そのものが回復していない。よって、ラインを繋ぎ変える事が出来ないのであろうと。
右麻痺は左脳の壊滅から生じた障害だ。言語の障害も同じくである。右脳の能力を引き上げ、代役を果たす事例は相当数の報告がある。これに近いことを憂の脳もしているが、これに対し、脳が出す機能回復の指令とラインの接続判断。これらが皮肉な事に負荷となり、完全回復を果たせていないと言う。
これで大半の辻褄が合った訳だが、これはあくまで渡辺の推論である―――
梢枝は交通事故を事例に挙げた。
憂の体の持つ可能性について……だ。
もしも最愛の人。
誰でもいい。配偶者、親、子、恋人……。
そんな人が交通事故に遭い、生死の境を彷徨っている時、もしも憂の果たした『再構築』の謎が解き明かされ、コントロールが可能となっていたとすれば……。
そこまで行かないまでも、憂の唾液の通常では考え難い止血効果。これには憂に自覚が無かった事からタブレットに詳細を記入するに留まったが、そんな唾液や血液の成分。その中に新たな成分やら酵素やら何やらが発見されれば、効果絶大な新薬として、多くの人を救う事になるだろう……と。
……これらを説明し終えた時には、1時間目はほぼ終わりの時間となっていた。
「じゃあ――ボクは――?」
「そうです……。研究に……」
この梢枝との時間を掛けた対話は憂の道標となった。
そんな頃、チャイムが鳴ると、闖入者があった。
思いっ切り、スライドドアを開くと「あれー? 2人だけー? チャンスかな!?」と迷わず、窓際後方の席に大股で歩いてきた。
(だれ――だった――?)
外では、苦笑いの康平とどこか不機嫌そうな拓真の姿が見えた。
その女性は男性ぽさのあるベリーショートの先輩だ。ミスコン開催に奔走する生徒会長に自ら声を掛け、立候補したC棟3年7組のちゃこ。相変わらずのジャージ姿である。NIKKEのジャージだ。案外、高い。服装に無頓着と言う訳では無さそうである。
(女バスの――。えっと――)
「告白するけど、2人切りはダメなんだよね?」
早口だった。ちゃこも接触の機会こそ少ないものの、憂を理解している内の1人なのだろう。
(なまえ――なまえ――)
「そうですねぇ……。今は、彼らに離れて頂く訳にも行きません。すみませんねぇ……」
「仕方ないからいいよ。あのさ、憂ちゃん?」
(――ぅ)
じっとその女性を小首を傾げ凝視していた憂だが、梢枝との会話が終わり、ちゃこが目を合わせると、ふいとそっぽを向いた。
「憂さん? ちゃこさん、です」
(そうだ――! ちゃこさん――!)
梢枝は、おそらく気付いているのだろう。
(梢枝――ありがと――)
憂がじっと誰かを見詰め、回想している時はその人物の事を思い出そうとしている時だ。人物の場合のみ、発動する例外である。そっぽを向いてしまうのは、忘れてしまっている申し訳なさが目を逸らさせてしまうのだろう。
他の回想シーンでは伊藤が気付いた通り、焦点が消えてなくなる。
「ちゃこ――先ぱい――」
梢枝に言われ、思い出したようだ。しっかりと先輩付けだった。
「聞いて?」
(この――ふんいき――)
梢枝が傍に。康平と拓真が開かれたままのドアから見据える、愛の告白としては異常空間の中で、ちゃこの表情が引き締まっている。
(また――?)
これは憂に想いを伝える上での試練だ。もはや生徒会長の言葉は関係ないのだろう。多くの者が憂には護衛が必要だと認知している。
「昨日の……」
憂が前日の一件を理解していなければ、ここで日本人形のような……、本来ならば最上級生であるちゃこよりも先輩の女性が話に割り込み止めていただろう。
「――はい」
言い淀んだ言葉だったが、憂の返事に背中を押された。
ボウガン男を民間の警備会社が現行犯逮捕した事件は、全国ニュースで報道された。狙われた少女が、噂の子だった事も間違いなく影響している。
そんなニュースを目の当たりにした女バスの元エースでキャプテンは、いてもたってもいられなくなった。
憂が消えていなくなる瞬間を想像させられ、至った結論。
「私は……君を……守れる」
それが湧き上がる庇護欲に突き動かされるまま……。母性か恋かもはっきりせぬまま、ここに来た。
対する憂は……。
何のことか解らない……事も無さそうだ。憂はきっと再構築発覚後に1度や2度は夢を見ている。以前は夢の内容から過呼吸を発していた機能回復のサインとなる、あの夢だ。
ちゃこに言われた意味を理解すると、その小顔が複雑さを醸し出した。女性に守られる。ここに憂の葛藤の1つがある。
「一緒に……バスケ……しよ? 日の丸付けるから……応援して?」
「日本代表に……だそうです」
注釈が入ったが、これは仕方の無い事だ。憂との意思疎通は障がいを負って以降、一緒に過ごした時間に比例している。
「これから……ずっと……」
ここで締めた。告白は終わったと言わんばかりに、ほんのりと頬を染め、ちゃこは右手を差し出した。
(ずっと――?)
その手をじっと見詰め、小首を傾げ思案を開始する。
この告白は比喩的な告白だった。婉曲したような、比喩を使った物言いに憂は弱い。
(なんて――言えば――きずつけない――?)
だが、ちゃこの緊張の面持ち……態度で、憂は理解している。
(だれか――)
取って欲しいはずの右手から目を逸らすと、救いを求めるべく廊下へと視線を巡らせた。
「――千穂!」
成り行きを見守る拓真と康平の背後には、いつの間にか大勢のクラスメイトの姿があった。
……クラスメイト、だけではない。
とりあえず、様子を見に……と、1時間目と2時間目の間の小休憩に戻ってきた1年5組の生徒たち……。それにプラスでトイレにでも行こうとしていたらしき、他クラスの生徒……。
「……あ、あの……ね? みんなどこから見てたん……だい?」
ちゃこの口調がおかしい。今、彼女の動揺は半端ない。
「これからずっとっすよー!」
健太が居る。彼は圭祐の恋心らしきものをごく最近、言い触らした前科がある。しかも横の繋がりが広い。
……すぐにC棟中の生徒が知る事となってしまうのだろう。
憂の今までと違う部分は大きく2点。
これは参加した2時間目の美術の時間より後に発露した。
……2時間目の開始前、多くの後輩たちに告白現場を現認されたちゃこは、憂からの返事を貰わぬまま、猛烈な勢いで逃げ去った。
多くの生徒たちが陣取る5組の出入り口ではなく、窓を開けて。
ちゃこの事はそこで終了だ。
その後、ちゃこの告白を聞きつけたのか、それ以外にも『守りたい』人が出現した。
この日の昼休みに入った直後、さぁ、お昼ごはん! ……な、5組に乱入を果たしたのだ。
その彼は、過去、憂に恋文のような宣言文のような手紙を送ったらしい。
お隣、C棟1年4組。特進の生徒だ。かつて、凌平と同クラスだった者である。
その少年は、特進クラスに在籍するまま、筋トレと空手に励んでいたと言う。弱々しい憂にひと目惚れしたお隣さん。完全に誰かと被っている。特進の生徒たちにとって、特別な何かを感じるのだろうか? 全くの偶然かも知れないが、真相は謎だ。
『もっと鍛えてからと思っておりましたが、良からぬ事態が発生……。そうも行かないみたいです。
実は……、僕は1度は貴女を恨んでしまいました。けれど、貴女の立ち位置に私自身を入れ替えた時、それは我が暴慢だったと理解しました。
僕は、古の君を知らない。
……しかしながら、そんな事は些末な事なのです。転入後から僕が密かに想いを寄せた君。
ついに秘宝を発見した冒険者のようだったと、あの時の高揚感を今も鮮明に思い出せます。
流れ過ぎ去った時より、これから揺蕩う永遠を。共に歩ませて頂きたいと存じ上げております』
……思えば、あの時の手紙もこんな感じだった。
何かと難解な言い回しをする少年だ。
ぶっちゃけると、憂だけではなく、ほとんどの同級生が理解に苦する。
その上、告白に関しては千穂は憂に囁かない。
梢枝は『頑張って相応しい男になるから付き合うて言われてますえ?』と相当数、端折って伝えたのだった。
この情熱的な告白への憂の返答は……。
『いまは――だれとも――つきあえない』だった。
これが恋愛観に関する変化だ。
この翌日。蓼園総合病院、VIPルームに於いて、もう1つの変化が証明された。
……もう1つの変化は、行動の変化だ。
「島井先生――?」
「ボク――だれかの――やくにたてる――なら――」
「やりたい――」
「――どうしたら――いいですか――?」