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198.0話 瀬里奈

 


 ―――11月14日(火)



 火曜日の3,4時間目と云えば、連結の保健体育の時間である。

 この日の授業直前……。直前となってしまったのは、憂の着替えが遅いからに他ならない。


 元男子の憂が女子更衣室内にまで受け入れられた事実は喜ばしいものだ。通常ならば、早々は受けられまい。様々な要因が重なった結果の賜物なのである。

 だからこそ、以前にグループ女子隊と5,6組の間で行なっていたような、ゲーム感覚での着替え場所の変更は現在、中止している。それは受け入れてくれた少女たちの心意気を踏みにじる行為となる。

 つまり、憂は大勢の着替え女子の中に放り込まれる結果となった。憂の以前の姿が知れ渡ってからは、スカートガードしつつ着替える女子が相当数、増加したものの、それはガードが堅くなっただけのやっぱり着替えシーンなのである。


『憂ちゃん、見ていいよー?』などと、羞恥心の欠片も無いような台詞を吐く、佳穂のような子も居るが、少数派だ。彼女の場合は誘惑などと云う、何とも浅ましい感情で動いているのであろうが、当の本人にしてみれば迷惑千万でしかない。


 バレてからは憂の行動は顕著である。真上を眺めたり、キュッと目を瞑ったり……と、苦労しつつ、少女たちの肌色から目を背けている。

 そんな憂の姿に、女子の更衣速度は上昇した……が、それでも大半の女子が更衣室を抜けてからの更衣開始となってしまい、憂は遅刻寸前となってしまっているのだった。


 憂自身の着替え速度自体は上昇している。しているのだが、ギリギリとなり、その儚さを醸し出す姿をグラウンドに見せると、2人の6組女子がいきなり謝った。


「あの……! 憂ちゃん、ごめんなさい!」

「ごめん……ね?」


 何のことやらさっぱりの憂はポカーン。呆けてしまった。

 憂だけではない。千穂と千晶も何のことやら……と、首を捻った。


「――なんで?」


 天然の困り眉で理由を問う……と、応えたのは別方向からの梢枝の声だった。


「先々週のこの時間の事ですわぁ……。憶えておりませんえ? 昨日、転室していきはった女子と、当時6組だった凛さんが口論しはっていたでしょう? その時、連れ添って行きはったお2人ですえ?」


「「あ!」」


 千穂、千晶は同時に声を上げた。濃密過ぎる発覚後3週間。その中の些細な出来事として、記憶から吹き飛んでしまっていたらしい。


「あたしは憶えてたぞ?」


 えっへんと胸を張る……訳でもなく、佳穂は淡々とした口ぶりで言った。表情も無表情……どころか、少し機嫌が悪そうである。




「……ね? その時に……一緒に居た……」


 とっくにチャイムは鳴り終わった。だが、授業は始まっていない。ハーフパンツでは肌寒いグラウンドで、千穂の説明は続いている。この女性体育教師は、謝る機会を潰すほど、愚かな教師ではないのだろう。


「んぅ――?」


 時間は刻々とその時を刻んでいく。

 ……憂はその出来事を思い出せない。


「だから……! 4人だった……よね!? その時の……あーもう! 説明長くなるし!」


 千穂に焦りが浮かぶ。浮かぶと言うより、普通に焦っている。授業の開始時間の遅れと、じっと成り行きを祈るように見詰める謝った2名が、千穂にとってのプレッシャーとなる。可哀想だが、千穂のいつもの役回りなのである。


「ふふっ……」


 その吹き出したような笑声に、千穂の目が妖しく変化する。キレる兆候……に見えたが、相手が梢枝だと判るとすぐに軟化した。頼りになる姉御の助けが入る事を理解したのだろう。


「世界中から注目されている憂さんにとっては、忘れてしまうほど些細な出来事だった……と、言う事ですねぇ……。問題ありませんえ? 憂さん?」


「うぅ――」


 思い出せない憂は泣きそうな顔を梢枝に向ける。6組女子2名は、どこかホッとしたような安堵を見せる。本当に安心したのだろう。憂の怒りが向けば、彼女たちは立ち所に転室を余儀なくされてしまい、その先でも無視や嫌がらせに晒される。


「お2人は……謝られました……。許して……ええですか?」


「――え? ――う?」


 再度、緊張感を取り戻した2名は縋るように憂を見詰める。それを見た憂は「――うん。ごめん――ね?」と何故だか謝った。きっと、思い出せなくてごめんなさい……なのだろう。


「ありがとう……」

「うん。本当に……」


 今度こそ、胸を撫で下ろした両名は、その場にへたり込みそうなほどの安心を得、他の6組女子たちに「良かったね」と祝福を受けたのであった。胸を……撫で下ろすほども無い千穂だが、彼女も梢枝に「ありがと」と、複雑な笑みを送ったのだった。


 ……何でもない一件に見えるが、これは私立蓼園学園内で憂の権力が再び絶大なものとなった証明……と、云えるエピソードである。



 一方、その頃、男子隊は……。


 南管理棟内で授業中である。

 この蓼園学園、実は武道場が無い。空手や柔道、剣道と云った武術系部活動は存在していない。出来た事はあるが、同好会止まりなのである。

 元々、裕福層を当てにし、創立されたと噂される学園であり、事実、そうなのであろう。そして創立当初は、そのボンボンたちに武道は必要が無い……とでも、考えていたのだろう。

 見積もりが甘かったと思われるが、武道場の建設は未だに行われていない。

 球技や陸上に於いて、勇名を馳せる蓼学の影響からか、他の学校は東部の藤校を除き、武道と水泳に力を入れているところが多いのだが、単なる裏話である。


 この南管理棟の一室は選択必須科目となった武道に対応する為、改造された一室だ。

 壁をぶち抜き畳を敷き詰めた、元はどこぞの部室である。


 ここで、康平に汗をほとばしらせ、積極果敢に挑む者が居た。


「組み手や! それで決まるで!」


 その長く逞しい腕をいなし、奥襟を取ると、懐に潜り込み、華麗に背負い投げた。


「そんな事やと、女子の皆さん護れまへんで!」


 その言葉を耳にすると、拓真はギラつく目で康平を睨み付け、無言で乱取りに復帰した。


 ……ガチである。何名かの周囲の生徒はドン引きしている。

 そのドン引き勢の中、真面目に授業に参加するでも無く、駄弁っている者たちが居る。


「もうお前、5組に転室届け出しちゃえよ」

「いや……でも……。無理ですよぅ……」


 健太くんと活動ままならない『学園内の騒動を未然に防止する部』の部長さんである。


「なんでだよ。状況、変わったし、行けるんじゃねーの?」


 健太くんの広い交友関係は、この部長にまで及んでいるのである。この部長殿は現在、6組に在籍中だ。憂の為に、コの字型校舎、5組の向かいに当たる12組に転室、部員たちに指示を飛ばしていたが、部員激減後は自らも動けるよう、6組に転室してきたのだ。


 彼は学園生活の全てを憂に捧げようとしているのかもしれない。


「そうじゃなくて……。憂さんの傍に居て、冷静でいられる自信がないんですよぉ」


「むしろ、なんでそんなに緊張するんだよー?」


 その原動力は不明だ。単なるひと目惚れから始まったものか、別の何かか。

 部は人数を減らした今も存続しており、それが部を立ち上げた責任感から起因するのか、それとも、元男子と知り、それでも惚れたままなのか、よく判らない。


「むしろ、なんで緊張しないんですぅ?」


 何やら別人のようにも思えるが、こちらが部長の素の姿である。

 元々、目立たない少年だった。無理をし、部長と云う立場に立ち、必死に自らを誤魔化していたのだ。


「そりゃお前……。なんでだ?」


 ……性格の差だ。原因はくっきりはっきりしている。


「どうでもいいけどよー。5組に来て、憂に告るんなら、俺の敵よ? そこんとこよろしくなー」


 乱入したのは圭祐くんである。彼はこれまでガチ勢の凌平に捕まり、乱取りに無理矢理参加させられていた。爽やかな良い汗を掻いている。


「え? 圭祐、お前……」

「あ……。しくった……」


 徐々に鬼の首を取ったとばかりに喜びを浮かべていく健太さんと、逆に黙りこくってしまった部長くんなのでした。




 また女子を覗いて……。いや、視点を向けてみよう。


「はぁ――はぁ――」


 憂は、バッシュのお陰でいつもより少し安定感のある右足と、左足を苦しげに進めている。体育の時間で最も……と、言って問題ないほど嫌われる持久走の最中である。この日のメニューは基礎体力の向上……なのだろう。


 現在、千穂と千晶が憂のフォローをするように併走している。

 佳穂、梢枝は先行し、規定の1500メートルを済ませ、2千と入れ替わる作戦である。もちろん梢枝の提案だ。運動能力に自信のある佳穂と梢枝に対し、2千はバスケ会の影響により、体力向上著しい……が、それは先に行った2人も同じだ。


 ……思えば、梢枝も真面目になったものだ。出会った当初の彼女ならば、『ウチは体力なんて要りませんわぁ……』のひと言で参加さえしていなかったのかもしれない。


「憂ちゃん! 頑張って!」


 先頭をひた走る結衣に交わされた。彼女は、残り1周半。実に900メートル地点で500メートルしか走っていない最下位集団を追い抜いたのである……が、憂も随分と速くなってきている。以前は1000メートル走で8分を超え、打ち切られた。

 今回は行ける可能性を感じる……が、ペースダウンすればオーバーするペースだ。


「憂ちゃん! 頑張ろ! あの子、速いわ……」


 2位の6組女子に抜かれた。陸上部にでも所属しているのだろうか? 結衣と同様、十分な余力を感じさせると、先頭に追いつくべく、速度を上げていった。


「憂……さん、ファイト、ですえ!」

「憂、ちゃん、すぐに! 合流! するぞー!?」

「はぁ……はぁ……。ファイ……。きっつ! 何なの!? この2人!?」


 今度は3位集団、梢枝、佳穂、さくらが抜いていった。

 さくらの愚痴は解る。部活動を行なっていない2人が自分より楽そうに走っていれば、そうも言いたくなるだろう。バスケ会の事は、一部しか知らない。


「――んっく――あと――いっ、しゅう――」


 遅い。遅いが彼女なりに頑張っている。


「「………………」」


 千穂と千晶が黙ってしまった。憂の遅いペースに合わせている為、随分と余力あり。

 そんな2人が口を閉ざしてしまった理由は……。


 ―――あと2周あるからである。


 陸上部が使用するスペースを使った持久走……。通称・千五(せんご)を400メートルトラックにて、行なっている。

 3周と4分の3周する必要があり、超えたゴールラインは2度目……。単純な計算ミスか、願望の表れだろう。


 次の半周では5名の6組女子に抜かれた。5組女子の運動部所属者は数少ない……が、6組にはそこそこ居るらしい。

 残り、1周半……。憂が……なんと、ペースを上げた。これ以上は転倒する。そんなペースで駆ける。


「憂? ……ちょっと、待って?」

「憂ちゃん、まだ! だよ!?」


 残り300メートル。注:憂の中では。


 このラインこそ、優の頃、ラストスパートを掛けていたラインなのだろう。憂は歯を食いしばり、足を交互に進める。2千の言葉なんぞ、聞いちゃいない。憂は打ち切られまいと必死なのだ。

 それでも、ここまで頑張ってきた分の代償か、50メートルほどで勢いが落ちた。300メートルのスパートは憂には無理だ。

 ガクンとペースを落とす。それでも、諦めず走り続ける憂の姿は感動に値する……が、残り1周は悲劇となるだろう。


「憂ちゃん! 間違って、るよ!」

「わっ――!」


 止めた女子が出現した。その女子は憂を見つつ、走っていたのだろう。憂のスパートに気付くと追いつくべく、全力疾走してきたのだ。


「はぁ――はぁ――」


 足の止まった憂は崩れ落ちかけた。その体を抱き留めたのは、憂を制止した女子だ。


「瀬里奈ちゃん……?」


 この瀬里奈も部活動に参加していない。ポテンシャルの高めな少女なのだろう。半分以上、グレたような状態だったが、タバコにも手を出していなかった。


 それはともかく……。


 憂の小さな体を抱き留めたまま、彼女の視線はきつく千穂を捉えていた。


「はぁ――はぁ――。なんで――!?」


 あと200メートルほどで、ゴールなのに! ……これは憂が思っている事、なのだろうが実際には、残り600メートルもある。


「はぁはぁ……。んっ……!」


 瀬里奈は呼吸を必死に鎮める。先生が声を張り上げつつ、駆けてくるがその前に瀬里奈が声を発した。


「なんで、すぐに止めてあげないの!?」


「え? 憂が頑張ってた、から……」

「いざとなれば、止めてあげればいいんだから」


 千穂も千晶も解っていた。1500メートルは憂にはまだ無理だ。1000メートル、8分ペースを根性で維持していた……が、そのペースを最後までは保つ事が出来ない事を。だとすれば、勘違いからのスパートの直後、1度は止めてみたものの、それを言い訳にしてあげられる……と、思った。


「んっ……はぁ……。決めた……」


 1キロほどを駆け、更に100メートル以上を全力で走った瀬里奈は、息も絶え絶えだ。

 憂が……。()が心配で堪らず……。無我夢中で追い掛けた。


 この瀬里奈が道を外してしまった理由は……。優の意識不明であり、優の()だった。優に想いを寄せていた瀬里奈は、その喪失感から自暴自棄となったのだった。


「千穂ちゃん、の……ね。憂ちゃんを、見守る……姿勢も、ありだと、はぁ……思うよ?」


 両腕の中の憂を強く引き寄せた。優への密かな想いは、憂へと継がれた。


「――せりな!?」


 憂の荒かった呼吸は既に収まってきている。回復は早い。早いが蓄積はされていく。眠れば、その蓄積疲労まで簡単に取れてしまうのは憂クオリティだ。


「あたしは、違う! 見守るだけじゃなくて、あたしは! あたしが「そこまで!!」


「先生……」


 瀬里奈の独白は、止められた……が、確かに彼女の意思は既に駆け付けている梢枝と佳穂を含めた純正女子メンバーに伝わった事だろう。


 それは初めて、千穂への真っ向勝負を挑む者が出現した瞬間だったのかもしれない。




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