148.0話 脆い足元
「……状況はどうですかな?」
学園長は和風の女性に問い掛けた。
彼は、学園長室に戻ってきたばかりだ。梢枝の『仕事』ぶりが気になるとは言え、立場上、この部屋に篭ってはいられない。
「確信する者はおりません。証拠が無い以上は疑惑のままですえ?」
梢枝はノートPCの画面を凝視したままだ。執事のような学園長に目をやること無く、返答したのだ。そんな梢枝の態度を前に、楕円の眼鏡の奥の瞳は何1つ変わらなかった。
「ふむ……。後は不用意な発言を控えていれば、今回も暴露は防がれるのですね」
「……そうなりますねぇ」
梢枝がモニターを見詰めていた目を、ようやく学園長に向けた。その弾みで艶やかな黒髪がサラリと自身の肩を撫でた。
「暴露は防ぎきれません。いつまで貴女は戦い続けるのですか? 戦線を下げ、次の戦いに移行するその時では無いですかな?」
「………………」
「引き伸ばせばその分、反動は大きくなるリスクを抱えております。それでも「分かってます!!」
彼女は目上の男性に声を荒げた。焦りだ。焦りが梢枝の冷静さを失わせている。
「……すみません。分かっているんです。学園内の情報をいくら誤魔化しても、今まで総帥秘書が動かした人間が調べるかも知れない。ウチの社の者だって、裏サイトの管理会社だって、病院の関係者だって、憂さんが何者か……、疑問を持っています……。全部、分かってます……。いつかどこかで破綻する事は間違いありません……。それでもウチは暴露から端を発する事態を……。憂さんが狙われる危険性を排除したい……! あの子たちの笑顔を見ていたい……」
「……狙われる? 貴女はどこまで……」
梢枝は学園長の私物であるノートPCに向き直ると、マウスを手にした。
「……学園長先生。貴方も全て……ですよね?」
「榊さん……。知っていたのですか……。鬼龍院さんは……?」
「言うてません……。言おう言おうとは思うていますが、機会がありません……」
「そうですか……。貴女がた、お2人の亀裂は今後の業務の支障となりますよ?」
「ご忠告痛み入ります。なるべく、早う伝えますわぁ……」
閲覧履歴の削除など手早く行うと、豪奢なソファーから腰を上げた。立ち上がると、凝り固まった体をぐっと伸ばした。そして、次に口を開いた人物は、またしても梢枝だった。
「……憂さんは障がいに守られています。ここまで直接的な敵意を見せ付けられたのは数回のみ。それは障がい者としてのある意味、強い立場が、敵意を持つ者の矛を抑えつけているだけです。憂さんへの庇護欲を持つ、味方に為り得る人たちに怯えているんです。ウチは、この均衡を崩したくない。憂さんと仲間たちが敵意に晒され、悲しむ姿は要りません」
言葉の途中で伏せられた顔を上げた。強い意思を宿した瞳だった。
梢枝はこれまで、何人もの悪意を排除してきた。憂たちには何1つ伝えず、時にはクラスメイトの樹にしたように、憂の背後の人物の存在をチラつかせ、蹴散らしてきた。
「足掻きます。足掻いて、藻掻いて、この戦線を護ります。ウチが敗れた時、憂さんたちが望むのならば大人たちの力をお借りします」
学園長の持ち出した比喩を引用し、最後まで『秘密の保持』に拘る意思を示してみせた。
「総帥と病院は……」
学園長は言いかけ、口を噤んだ。梢枝の気迫に気圧され、思わず零してしまったのだろう。その証拠か、眼鏡のレンズ中央の竿を押し、口元には自嘲と思しき、笑みが浮かんでいた。
「それも承知しておりますえ……?」
初老の痩せた背の高い男の動きが、眼鏡に触れたままピタリと止まった。驚きに目を見開いている。
「………………」
少しの沈黙を挟み、眼鏡から手を離すと、佇まいを整えた。いつもの執事然とした様相を取り戻す。
「……どちらを支持しているのですかな?」
「どちらの言い分も理解出来ます。ウチは『憂さんの護衛』ですので……」
「言い換えてはどうですかな? 護衛の任で出会ったと言えども……。今は、それが無くとも貴女は守りたいのでしょう?」
「……それは分かりません。ウチは無償の奉仕など、理解出来ない側の人間です」
梢枝の言葉に、学園長はフッと小さく笑った。素直になれない梢枝が可愛く思えたのかも知れない。
「時に学園長先生?」
「何でしょうか?」
梢枝の目が嗤っている。自身より幾分、高い学園長を見上げている。
「学園はどうされます?」
嗤いが伝染したのか、学園長・西水流 靖一も不敵に嗤ってみせた。
「悪さをしていない子ども1人守れなくて何が学園でしょうか? 何が学園長でしょうか?」
何故、そこまで……? ……と、梢枝が疑問を挟もうとした瞬間だった。
「……個人的な思い入れの部分もありますがね」
立ち去ろうと席を立ったはずの梢枝は再び、腰を落ち着ける事となった。
学園長の優に対する思い入れの話を聞かされたのである。
「……無償の『守る』よりも、よほど信用出来ますわぁ……」
結局、午前中全てを裏サイトの沈静化と、学園長の話に使ってしまった梢枝なのであった。
スリッパを丁寧に棚に戻し、ローファーに履き替えつつ、スマホを操る。
梢枝【……なんとかなりそうですわぁ】
【お疲れさん。こっちは……まぁ、問題ない。けど、間違いなく憂さんを変な目で見てるヤツらは増えてる。例の部の中とかヤバそうだ。親衛隊は元気だけどな】康平
梢枝【そうですか……。疑惑は拭いきれませんね。小グループのSNSはどうにもなりません】
【せやな。まぁ、しゃーないやろ。合流するんか?】康平
梢枝【はい。そうします。今はどこに?】
【A棟の近くや。お前がお昼先にーとかコメントしたから、露店回ってる】康平
梢枝【すぐに行きます!】
【勇太はんもおるし、ええ目印になるやろ】康平
梢枝は中央管理棟を飛び出すと大グラウンドに向けて、走り出した。スマホは握ったままだ。憂成分を補給する為に黒髪を靡かせ疾走する。
「梢枝先輩だぁ!」
「せんぱーい!」
気まぐれにお祭りの喧騒の中、前方の自身に気付いた中等部の少女に手を振ってみた。
「きゃああ!!」
「梢枝せんぱぁい!」
「うれしぃぃ!!」
……黄色い声を上げた人数は、声を掛けてくれた少女たちの人数を上回っていた。
ふと、速度を落とし、歩き始めた。声を掛けてくれた細いリボンタイ……。中学生女子に近付いていく。
(ウチは女の子に人気みたい……。複雑な気分やわ……)
「こんにちわぁ……。楽しんでますえ?」
「はい! 文化祭最高です!」
「向こうに憂先輩たち居ましたよ!」
「そう? ありがとう……」
中等部の子は早速とばかりに教えてくれた。もはや完全に憂の護衛として認識されている。良い傾向だ。自分の存在は総帥の存在をチラつかせている。
「あの! 頑張ってください!」
「応援してます!」
珍しくにっこりと笑ってみせ、後輩が差し示してくれた方角へと歩みを進めた。
背後では少女たちが興奮した様子で、梢枝との短い遣り取りについて語っている。
視界に鋭い視線を感じた。高等部の少女の視線だ。距離があり、何年生かは判別出来ない。だが、存分に悪意の視線をぶつけてきている。
そんな目を平然と受け流した。
(そんな目で見てもらって……。ありがたい事です……)
その目は本来ならば、憂に向けられていたはずだ。康平と2人……、或いは拓真や勇太、凌平たちも引き受けているはずの目だ。
愛憎。
欲望。
嫉妬。
侮蔑。
軽蔑。
憂の後遺症は自殺に依る物と認識されている。それなのに、多くの生徒の優しい感情に守られ、高みへと上がった。
そんな憂への負の感情。
それらを纏めて引き受ける。
多数の庇護欲。これも憂に対し、優しく接する事により、自身を高める事が出来ると云う錯覚かも知れない。優越感に浸り、自己に酔いしれる。そんな自己陶酔の塊のようなモノで憂は守られている。
脆弱だ。
(まだ早い……。憂さんは、もっと多くの人に会い、もっとその想いを知って貰わないと……)
B棟の校舎を横目に歩みを進めると、A棟の傍の大きな大きな集団が目に入った。
(分かり易いですねぇ……。勇太さんの目印も要りませんわぁ……)
先程から鼻孔をくすぐる肉の焼ける香りが漂っている。キュル……と、空腹が自己主張した。
集団に尚も近付いていく……と、頭1つ抜けた勇太が手を振ってきた。すると……集団の一角が割れた。割れた箇所から、小柄な……高校生にしては小さすぎる少女が右足を引き、駆け寄ってきた。隣には、ふんわりとした少女が。2人に遅れて、いつもの面々が後を追いかけてきた。その面々を追いかけるように集団がゆっくりと移動を始めた。
「――梢枝!」
憂は、無邪気な笑顔を見せ付けてきた。左手には長細い何かが握られている。
……かと思えば、足元はグラウンドの土にも関わらず、つんのめった。梢枝は咄嗟に駆け出した。
「憂!」
千穂がカバーし、事無きを得た……が、そのまま少女の傍まで駆け寄った。
「千穂――ありがと――」
「――よかった――おとさ――なくて――」
「梢枝――これ――すき――だよね?」
憂が左手の串を『――はい』と云わんばかりに梢枝に差し出した。鼻孔をくすぐる原因の店で購入した物だろう。根本から見て、肉、玉ねぎ、ピーマン、肉……。夏休みの終盤のキャンプで食したバーベキューに近い物だった。
「憂さん……。ありがとう……」
露店で自分の為に買ってくれたであろう串を受け取りつつ、あの時の串を思い出す。
立花、漆原、本居の三家のバーベキューを離れて見ていた。実は少し寂しかった。愛に騙され合流したその後のバーベキューは、良き思い出だ。寂しかったからこそ、反動は大きく、本当に美味しかった。
憂は見てくれていたらしい。何も考えていないように見えて、護衛対象は自身を見てくれている。
憂の期待に満ちた目を向けられ、ひと口、先端の肉に齧りついた。
(……噛み切れません……)
良い肉では無いのだろう。仕方なく、そのまま肉の塊をはしたなく頬張った。
もぐもぐ……。
むぐむぐ……。
……時間が掛かった。時間を掛け、その肉をごくりと嚥下すると、「美味しいですねぇ!」と笑ってみせた。
憂は……少し眉を下げ、笑みを作った。硬く、しわい肉だった事をしっかりと理解してしまっていたらしい。何となく微妙な空気を醸し出された時、相棒が口を開いた。
「梢枝、残念だったなぁ……。憂さんの和装、桜色で可愛かったんやぞ?」
「……康平さんは意地悪ですねぇ……。悔しいわぁ……」
憂は茶道部に誘われたお茶会に参加した。その時の事だ。
午前中には済んでしまった。因みに茶道部の出し物への参加は、この日だけの予定だ。もう機会はない。あるとすれば、それは来年以降の話だ。
「愛さんがスマホで撮ってたわ。見たけりゃ送信して貰え。憂さんは何気に姿勢ええから綺麗やったぞ?」
「愛さん……? あぁ……お休みでしたねぇ……。お会いするやろうから、そん時、お願いしてみますわぁ……」
「あのさ……。なんか仲良しのところ申し訳ないんだけどねー」
2人に割り込んだ人物はもちろん佳穂だ。彼女は周囲をキョロキョロと見回してみせた。グループメンバーもその他大勢も2人を眺めていた。
「あたしらもお腹すいてんだー! なんか……食べよ? ね?」
「――うん。おなか――すいた――」
(皆さん、待ってくれてたんですか……)
憂も同意し、露店巡りは再開されたのであった。
―――1時間ほど後。
「愛さん。すみません……。手伝って貰っちゃって……」
千穂は卵黄と白身を別にするべく、黄身を右から左へ、左から右へと移している。
「いいよー。昨日で文化祭の最中は『コンビニ』が暇なのは分かったからねー。応援の必要も無さそうよー。明日、メイド喫茶にお邪魔するからね。交代で文化祭を満喫するんだー」
木曜日曜が休みの愛は、ローテーションでサイドメニュー作りに入った千穂たちの手伝いの最中である。『憂が戦力にならないから代わりに』との事だ。本人は手伝う予定だったらしいが、ぶっちゃけ邪魔となる。諭され、今は家庭科室の片隅で眠っている。
「……いいんですか?」
「……いいんじゃないかな? 先輩たちがそうしてるんだし……」
……どうやら緩い職場のようだ。
「土日は外部からお客さんが増えるだろうから、そうも言ってられない。だから明日しか無いんだ。本当は今日、お邪魔する予定だったんだけどね」
「……重ね重ねすみません……」
「人気過ぎて閉めちゃってるんだから仕方ないでしょ。来年は、もっと上手くやらないといけないけどね」
……可愛い寝顔を見せる憂の傍では、梢枝が愛のスマホをいじくりまわし、姉だからこそ撮れた画像や動画を眺めニヤニヤしていたのだった……。