147.0話 黒い乗用車
―――10月19日(木)
文化祭2日目。前日に続き、千穂の居ない通学だ。千穂は、いち早く学園へと赴き、お菓子作りに精を出している事だろう。
同行しているのは、拓真と美優の兄妹に佳穂&千晶の幼馴染、康平と梢枝の従兄妹護衛組と、その他、大勢である。
佳穂と千晶は、千穂の同行を申し出た……が、本人に断られた。前日の話だ。『邪魔だからいつも通りに憂と一緒に行ってね』と酷い言い様だった。
邪魔……については、半分が本音で、もう半分は『私の事より憂を守ってあげて』と言ったところか?
他にも優子や陽向など、調理に自信のある者が集まっているらしい。
……話は変わる。この日は隔週となった定期検診の日に当たっていたのだが、憂は文化祭の開催期間中、学園を離れたくないらしく、先週の木曜に定期検診を行なっている。また来週には通う予定だった。
「……平和やねぇ」
「あぁ……平和だ」
憂の少し後ろを歩く康平と拓真が眠そうに語り合っている。
周囲には、いつも通りに人垣がある。憂を守ろうと同じ高等部の生徒、後輩である中等部と初等部の子たち。更には一般人……。大拡散の直後より、人数は随分と減らしたものの、今でも憂の姿はチラチラと伺える程度だ。盗撮など簡単には出来る状態では無い。
緊張感が薄れてしまう。この状況では致し方ないのかも知れない。
道路の向こうでは梢枝が目を光らせている。集団を離れて見る事で危険な人間が近づかないか確認しているのである。その梢枝は最後の信号で合流する事だろう。
……猫殺しは、保護観察処分となった。だが、顔写真さえ流出した彼と、その家族は遠く離れた土地へと引っ越しを余儀なくされた。今でも彼の行動は、遥の手の者に監視されている。
釈放後の接触で、元々の本命は千穂では無く、憂だったと判明している。だが、彼は憂の情報を精査していくに連れ『反応が薄そうで面白みに欠ける』と標的を変更し、千穂に白羽の矢を立てたらしい。
あの脅迫状を提出していれば、その情報は警察が持つ事になっていたのだ。憂の秘密の堅持と云う観点から考えると、未提出で正解だったのである。
怪しい男はまだ存在する。
憂の通学路の途中に住んでいる、通販でいかがわしいグッズを買い込み、拐うチャンスを窺う変態は、今なお健在だ。
その男は憂が1人切り……若しくは千穂や美優と2人の時。そんな機会を作らなければ実行には移さないと護衛2人は結論付けている。そして、犯罪行為を犯すその時を押さえるべく、じっと待っている状態だ。
……つまらない話はこの程度にしておく。
「憂先輩! 今日は……あたしも……一緒いいですか?」
「いいね! 今日は、あの恥ずかしい制服着なくていいし、満喫するぞー!」
「……七海ちゃんも誘ってあげたら?」
「七海は……いい子なんですけど、うるさいし、気遣い出来ないから憂先輩には無理です……」
「あはは!! ぶっちゃけちゃったねー!」
親友の評価は渋いらしい。七海と言えば親衛隊だ。親衛隊は昨日の初日、密かに良い動きをしてくれていたらしい。
群衆の中に大勢を送り込み、【撮影NG】にも関わらず、スマホを取り出す者やカメラを構えた者たちを排除していったらしい。
……それは親衛隊長と例の部の長が、邂逅した結果の賜物だった。発足前には相反する存在となると目されていた両者だったが、目的は同じ。互いに歩み寄り、協力体制を構築したのである。
「――いいよ? いっしょ――まわろ――?」
「やった! ……それで……憂先輩?」
この日の歩みは遅い。ゆったりとした憂のペースだ。集団が肥大化していくが、もはや気にしているのは千穂くらいのものだ。その千穂が居なければ、こうなる事は必然だろう。
「――なに?」
早いペースの時は思考を放棄し、一心不乱に引っ張られる憂だが、ゆったりペースの時は滅多に足は止まらない。突然の話題転換や難解な言い回しで無ければ、話しながら歩みを進められる。
「今日……憂先輩の……家に……」
……遊びに行ってもいいですか? この部分は省略したらしい。略しすぎれば混乱するが、この程度ならば補足してくれる……事が多い。美優も会話に慣れてきたようだ。
憂の同級生たちは美優の言葉に、怪訝な様子を見せた。拓真以外は、何をするつもりだ……と。
拓真だけは、あれだけ言ったのに……と。
―――前日の夜の事だ。
美優は兄に問うた。
『憂先輩と千穂先輩は付き合ってないの?』
『あ?』
『男女の……は、違う……。恋愛感情での……』
『……付き合っては……無ぇ』
『本当に!?』
『……あぁ』
『あたし……憂先輩の事……』
『やめとけ。無理だ』
『付き合ってねぇ。けど惹かれ合ってる』
『……意味分かんない』
『餓鬼だからな』
『1つしか違わないよ!』
『そうじゃねぇ』
『あたし! ずっと好きだったんだもん!』
『……内に秘めとけ』
『そんなの! ……もう嫌だ……』
『傷付くだけだ。お前も憂も千穂ちゃんも……他のヤツも』
『…………………………』
最後には顔を伏せ、兄の部屋を立ち去った。これが前夜の会話だ―――
「――いいよ?」
「ありがとうございますっ!!」
……なんとなく当事者2人と周辺の大多数を除き、複雑な空気を醸し出した。
「憂ちゃん、手ー挙げて!」
そんな空気を打ち払うべく、動いたのはいつも通りの佳穂だ。差し掛かった最後の信号は丁度、青だった。
以前のように憂は手を挙げ、渡り始めた瞬間、前方の青が点滅し始めた。
「憂ちゃん! 戻るよ!」
「憂ちゃん、次にしよ!」
佳穂と千晶の判断は正しい。憂の足は遅い……が、少々、赤信号に掛かったところで、轢かれる事も無いだろう。
だが、後ろにも横にも初等部の子が混じっている。無理をして渡れば、子どもたちの教育に良くない。
「ひゃあ――!」
……変な悲鳴で笑いながら戻っていくと、周囲の子たちは渡りきる者と戻った者に分かれた。少し先を歩いていた美優も渡ってしまったらしい。
「あー! 美優ちゃん! いっけないんだー!!」
「佳穂先輩! 言わないで下さい!!」
「美優ちゃん――めっ!!」
道路を挟んだ、遣り取りに縞々の両端で笑顔が溢れた。高校生も中学生も小学生も拓真も康平も。反対側では梢枝と美優が笑っている。
「せんぱーい!!」
美優がぶんぶんと長い手を振り回す。
「せんぱーい!! いつまでも!! 待ってまーす!!」
……いつまでも待つ必要は無い。車道の信号が黄色に変わり……赤となり、横断歩道の信号が青に変わった。
憂は笑顔で手を振り返しながら、駆け出した……瞬間だった。
黒の車体が憂に向けて、速度を落とさず突進してきた。よそ見をしていたのかも知れない。赤信号が目に入らなかったのかも知れない。
少女に凶悪な黒鉄の塊が近づく。
誰もが轢かれると感じた刹那、憂の存在に気付いたと思しき黒いセダンはキィィィィ!! ……と、耳を劈くブレーキ音を発した。
「憂!?」「憂ちゃん!」「憂さん!」「憂先輩!」
いくつもの声と共に康平と千晶、あと1人、小学生が駆け出した。反対側では、いち早く梢枝が駆け出した……が、間に合わない。
憂は……動けなかった。
……硬直した。
「――ぁぁああ!!」
鋭いブレーキ音。
タイヤが焦げ付く煙。
無数の悲鳴……。
黒く巨大な凶器は―――
―――憂の直前、数十センチ手前で急停止した。
「「「ふぅ……」」」
横断歩道を挟んだ両陣営で大きな大きな……憂の耳にも届くであろう、ひと呼吸が溢れた。
悪夢を夢と気付いたような安心感で天を仰ぎ、呆然とする康平。
心臓を押さえ、荒い呼吸を繰り返す梢枝。
何1つ行動出来なかった自分を責めるかのように、自身の髪を強く強く掴んだ拓真。
腰が抜けたかのように、へたり込んだ美優。
時が止まったままのように微動だにしない佳穂……。
そんな『知る』者たちを尻目に、ポニーテールの少女が憂の傍に寄った。
「ぁ――はぁっ――はっ――――」
憂の異変に気が付いたのは、その千晶だった。
「はっ――! はふぅっ――ひゃ――ふっ――」
喉元に右手を、胸の中央付近に左手を添え、陸に上がった魚のように、口をパクパクとさせ……ゆっくりと、コマ送りのように躰が崩れていった。
―――フラッシュバックだ。
「憂ちゃん!!」
膝がアスファルトに触れる直前、千晶はその小さく儚い躰を抱き留めた。抱き留めると、その場にそっと座らせた。
「過呼吸だ!」
康平が叫び、憂との2mに満たない距離を一気に詰めた。ようやく異変を察知した集団がざわめき始める。
「憂さん。ゆっくり……。ゆっくりだ……。浅く……吸って……深く……吐く……。すぅ……はぁぁ……すぅ……はぁぁ……」
康平が背中をさすり、いつかの……生徒集会の裏で起きたあの時と同じように、優しく訴えかけた。
「ひゅっ――はぁっっ――ぁぁ――」
……難しいらしい。苦しげに美貌を歪める。涙や鼻汁、唾液が小ぶりの整った顔を穢していく。
「千穂を呼んで!!!」
千晶の絶叫に佳穂が全速で動き、梢枝が既に取り出していたスマホを操作し、耳に当てた。
東門からは、インカムを付けた少年たちと、中等部、初等部の憂を愛する後輩たちが続々と駆け寄ってくる。
やがて、歩行者用信号機は赤となり、車両用信号機が青になれども、車は動かない。動けない。横断歩道を封鎖するように、憂の周囲には、いつもの集団と騒ぎを聞き付けた……、或いは事故寸前の一瞬を目撃した蓼学生たちで、ごった返してきている。
そんな中、千晶に支えられ、康平に背中を擦られていた憂を大きな体の男が攫った。
「拓真!? 何を!?」
拓真は、荒い呼吸を繰り返す小さく柔らかい躰を正面から抱え上げると、そのまま駆け出した。左腕で憂の右脇を下から、右腕で憂の膝裏を上手で……。体を密着させ、斜めに抱え、拓真は走る。
「お兄ちゃんこっち! みんなどいて!!」
「みんな道を開いて!!」
信号を渡り切ったまま、一歩も動けなかった美優が東門へと兄の道を切り拓くべく行動を開始した。それはすぐに『学園内の騒動を未然に防止する部』と『立花 憂・親衛隊』に波及した。
美優が先導すると、道が割れていった。その昔、とある男が海を割ったように。
拓真は静かに駆ける。憂の脳を揺らさぬよう、可能な限りの注意を払って。大切な親友が一番、安心できる人のところへ。目的地は千穂がお菓子を焼いているであろう家庭科室だ。
東門を越え、蓼学の敷地を疾走する。C棟正面玄関に少しでも早く……と、慎重に突き進む。
「ぁはっ――ぅ――たく――」
憂は苦しみに苛まれながら、拓真に縋った。少しでも拓真の負担を減らそうとでも思ったのか、いつの間にか短い両手を、拓真の背中に回している。
「千穂先輩!!」
「憂!!」
C棟正面玄関に突入すると、目的の人物と鉢合わせた。千穂の背後では、ローファーのままの佳穂が荒い呼吸を繰り返している。
「拓真!! 教室だ!!」
猛然と追い付いた康平の指示で、外履きのまま玄関を越え、廊下を抜け、普段とは違う文化祭仕様の1年5組へと入室したのだった。
……それから10と数分。憂は愛する少女の膝の上、はしたなく足を開き、ちょんと乗っている。メイド喫茶の少し硬い椅子に千穂は座っている。向かい合わせで抱き合っている。憂が顔を乗せる千穂のセーラーカラーは、あの時と同じように汚れてしまった。
「……憂? 大丈夫だよ。すぅ……はぁぁ……すぅ……はぁぁ……」
「――すぅ――はぁぁ――。すぅ――はぁぁぁ――」
「そう。上手だね。もう1回……すぅ……はぁぁ……すぅ……はぁぁ…………」
「すぅ――はぁぁ――。――ふぅぅぅ」
大きく息を吐くと、顔を上げた。背中を優しく撫でていた佳穂と美優の手が止まった。千晶が用意していたウエットティッシュで憂の顔を清め始めた。
「すぅはぁ――すぅはぁ――」
荒い呼吸だ。下がった血中酸素の回復を始めたらしい。憂はゆっくりと、その小さな躰を起こした。
千穂が憂に微笑みかけると、憂も千穂に笑顔のお返しをして魅せた。誤字に非ず。千晶によって、鼻汁も涎も清められたが、髪は汗で貼り付き、黒目の強い瞳は未だ、潤んでいた。そんな中で見せた儚く美しい笑顔は文字通り、この場の全てを魅了したのだ。
「――ありがと――みんな――」
「憂ちゃん……」
「……憂ちゃん」
「先輩……」
いくつもの声が重なった。成り行きを息を顰め、見守っていたクラスメイトたちからも安堵の表情が見て取れた。
「ひさしぶり――きつかった――」
文化祭突入に合わせ、クラス一斉に変更した冬服の袖でグイと涙を拭った。
「……もう、離れない……」
クラスメイト周知の中、千穂は憂をもう1度、今度は強く抱き締めた。
…………。
梢枝は、中央管理棟の一室。学園長室内に居た。
(まずい! まずい!!)
―――千穂との合流を見届けた梢枝は、即座に裏サイトに接続した。
113:憂ちゃんが発作!! 苦しそうで可哀想で……。
114:詳しく
115:なんだって!?
116:発作って?
117:状況見えん! 詳しく書け!!
118:苦しそうって?
119:わかんない! 変な呼吸してた! すぐに拓真くんが抱えていったよ!!
120:俺も見た……。青になった瞬間に走り出したら車が突っ込んできて、それで発作……。
……ここまで見て、梢枝は駆け出した。仲間である学園長にPCを借りる為に―――
265:黒い車でフラッシュバック!? 後遺症の原因は事故って事になるぞ!!
266:変な呼吸は情報から推測するに過呼吸
267:黒い車……。事故……。それってやっぱり……。
【ありえんだろ? その同一人物説は何度も否定されてる】
高速のブラインドタッチで速やかに入力し、祈りを込め、ENTERキーを弾いた。
270:ありえんだろ? その同一人物説は何度も否定されてる
279:鬼龍院が過呼吸って叫んだって>266
280:それだよなー。常識で考えて有り得んわ>270
281:憂ちゃんって、本当に可哀想な子だよな……。それでも前向きで……。すげーよ……。
282:性別は何とかなったとしても優くん当時160ほど。憂ちゃん140弱。こればっかりは説明出来ん
283:その黒い車の運転手はちゃんと死んだ?
284:『お前』出てこいや! 情報晒せ!!
292:呼ばれて飛び出て! 5組のお前参上!>284
(樹さん……。頼みます!! 同調されては困りますよ!?)
310:『お前』でっす! また浮上してんのかw 憂ちゃん優くん同一人物説。何言ってんの? 顔も姿形も違うだろwww 誰だよ言い出したヤツwww
(樹さん! よー言うてくれはった!!)
……梢枝は椅子に背を預けると、大きく息を吐き出した。
「……なんとかなりそうですかな?」
「まだまだ油断できません。このまま、このお部屋に籠もらせて頂いてええですか?」
「いくらでも」
……梢枝は、憂たちと楽しく文化祭の出し物を巡る予定だった。
そんな予定は狂った。
憂の笑みを脳内から引き出し、(リアルには勝てませんねぇ……)と、嘆息したのであった。