140.0話 専属増員
―――10月5日(木)
この日の午後、憂は病院のVIPルーム内に居た。何1つ、そのピンク色に染まった素肌を隠す物は無く、全てが取り払われている。
裕香が憂の細い躰に、巻き尺を巻き付け、詳細なデータを蓄積していく。読み上げられた数字を記録しているのは、姉の愛だ。彼女は木曜、日曜が休暇となっている。病院への送迎の為にそうしたらしい。
珍しい組み合わせだ。この日……と言うか、今週いっぱいは新婚旅行だそうだ。何でもヨーロッパを旅しているらしい。
『羨ましいぃぃ!』とそれを伝えつつ、騒いだのは三十路前の裕香だった。その裕香は相も変わらず、丁寧に髪を束ねていない。仕事となると丁寧なのに自身にはズボラ……。不思議な物である。
……ついでに言えば、ヨーロッパへの旅行を恵は全体へのチャットで告知しており、愛が知り得ている情報だった。単に騒ぎたいだけで言ってみたのだろう。どこか佳穂と通ずるところがある。
スリーサイズやアンダーバスト、頭周りに首周りに肩幅など……。果ては手の平のサイズに手首の太さまでもが、数値化されていった。
続いて、裕香は裸の憂の正面にしゃがみ込む。早々に前を両手で隠してしまった。もう一段階、肌が赤く染まる。
「やっぱり生えないですねー」
……何処の事だ? 愛も眉を下げつつ笑っている。
要らない事を口走ってはいるが手は動く。大腿周囲、股下、膝周り、足首、足のサイズまで読み上げ、愛がそれを記載していく。
恵が不在の時は看護部長のフォローが入っていたはずだが、この日、鈴木は病欠で勤務に穴が空いた病棟に詰めているらしい。
『憂ちゃん最優先のはずなんですけどねー。まっ、仕方ないんですよねー』と愛に協力を要請した時、裕香は語っていたのだった。
「はい! ありがと! 下着いいよ!」
「やっと――おわった――」
心底、安心したようにそそくさと畳んであるセーラー服の下に早歩きし、その下からピンクの布切れを手に取った。彼女にとっての瞬速でショーツに足を通すと、急いで引き上げた。何とも慌ただしい。
姉のフォロー付きだったが、安定した動作だったように思える。以前からバランスを崩すのは突然だった。何も変わっていない。麻痺は脳からの指令のエラーに依るものがほとんどだ。それが上手く行かない為に起こっている。筋力は確かな向上を見せたが、それだけでは回復しないのだ。
……艶のあるピンクのショーツが、小さく、それでも丸いお尻を包んでいる。憂は未だに自分の下着を選べない。ランジェリーショップに連れて行くと硬直するのは相変わらずだ。その為、姉チョイスのセットのままなのである。自分で選べない憂は、当然ながら愛の選んだ下着に文句を言う事が出来ないのだ。
床頭台に置かれたブラを掴むと前面で苦労し、ホックを止めクルリと回す。肩紐を掛け、周囲の僅かな脂肪を懸命に集め、カップの中を整えた。1人で出来た。出来るようになり、随分と時は経った。
『自分で出来ないなら、私の居ない時、千穂ちゃんにお願いしないとね』
真剣味の足りなかった憂に言った台詞だ。この言葉の効力は絶大で、このスキルを必死にマスターしたのだった。
「出来た?」
「ひぃやぁぁぁ――!!」
可愛い悲鳴の原因は裕香だ。声掛けと同時に背中にツツーと指先を滑らせたのである。憂は首だけで振り返り、抗議の眼差しだ。少し涙目なのが更なる悪戯心を呼び起こしたようだったが、流石に自重したらしい。このだだっ広い空間には姉の目がある。
「ちょっと……ごめんね……」
裕香の手が淡い栗色から濃くなってきた柔らかな髪の毛を弄り、クイッと引っ張った。1本引き抜いたのだ。
憂の小さな手がその部分に伸び、「――かゆ」とぽりぽり掻いた。これも検査の1つだ。
「おっけい。最後……身長ね」
憂の中で一番嫌いな検査かも知れない。やや躊躇いつつ、その台座に上がり、背中をピタリと合わせた。すると早速とばかりに横規がそっと優しく頭頂部に降ろされた。
「137……てん、いっ……センチ……」
……またもや1ミリも伸びていないようだ。耳を澄まして聞いていた検査対象は、むぅとカモノハシのように唇を尖らせた。不思議と脳は身長が欲しいと言う、憂の切なる想いには応えてくれない。
「はーい。ありがとっ!」
これで全ての検査が終わった。憂は姉からセーラー服を受け取るとせっせと着始めた。
検査の項目には血液、唾液、尿の採取もあり、最初の内に済んでいる。時折、尿の採取に失敗してしまうのはご愛嬌だ。今回は成功している。
血液採取の跡……。そこには脱脂綿など見られない。注射ほどの浅く小さな傷ならば、ほんの数秒、軽く抑えるだけで止血完了してしまうのが憂クオリティである。
「お姉さんもお手伝いありがとうございましたっ!」
憂が制服を整えると、愛にきちんとお辞儀し、裕香は駆けていった。歩くと2人を待たせてしまう。とにかく広大で豪奢な一室なのだ。
「――こちらこそ」
「遅いってば」
裕香の背中に頭を下げる妹が再び頭を上げた時を狙い、ペペンと片手ずつツッコミが入ったのだった。
裕香はすぐに戻ってきた。男性を4名も引き連れて。
内、医師2名はソファー付近に留まり、姉妹を手招きした。
残る看護師2名は検査に使った機器や器具たちを抱え、コネクションルームに消えていった。
憂の検査は女性看護師任せだ。もちろん、16歳の少女である憂への配慮であり、当然の事と言える。だからこそ、伊藤は率先し、後片付けを買って出る。裏方のような仕事を引き受ける。
彼が引き連れていたもう1名の男性看護師は、1年ぶりの勤務だ。かつて『専属』の座に限りなく近づきながら、辞めていった高山 信吾。自身で核心に迫り、僅かな期間であったが、最後に『秘密を共有する』メンバーとなった男である。
―――これが真相を知り得た高山への回答だった。
彼は1年と少しの時を経て、『専属』へと返り咲いた。知ってしまった彼を引き入れる事で相互監視の世界に連れ込んだのだ。
学園を早退し、最上階のNSに入室した直後の憂と姉への挨拶も、彼が本来持つ実直なものだった。
『はじめまして……。高山 信吾です。彼にもう1度、こうして出会えた奇跡を関わった者として誇りに思い、再び繋がった縁に感謝致します』
こちらが愛向けの挨拶だ。高山と愛に面識は無かった。家族は長い期間、面会謝絶の看板に跳ね返され、優の姿を見る事さえ叶わなかった。
愛たち一家が全てを知った……いや、全てを聞かされ、見せられたのは優が憂へと姿を変えた後だった。
愛には彼が一度、挫折した過去を咎めるつもりは無い。むしろ、感謝しているほどだ。すぐに愛は『はじめまして……。これから、またよろしくお願いします』と右手を差し出し、高山に握手を求め、高山は薄く涙の膜を張り、両手を以てこれに応じた。
「優さんにも……『はじめまして』……が、いいですね」
高山は過去の優を診た1人だ。当然、彼は優を知っている。対する優には意識が無かった。憂は彼を知らない。
少女は小首を傾げ、じっと見上げ見詰めた。
目を逸らさぬまま、傾げた首をそのままに『あたらしい――かんごし――さん?』と問い掛けた。
『そうです。高山くん……です。仲良く……して下さいね』と紹介したのは島井だった。彼の詳しい紹介は控えられた。憂の中に潜むであろう猜疑心を悪戯に刺激し兼ねないとの判断だった。
憂の美貌に呆けていたのか、別の考え事か。ただただ小首を傾げたままの美少女を眺めていた高山は、取り繕うように不器用な笑顔を見せた。
『たかやま――さん。よろしく――おねがいします――』
言って麻痺の残る小さな右手を差し出し、屈託無く笑った。まるで白い服を着るものに悪人は存在しないと言わんばかりの警戒心の薄さだった―――
憂もここでは珍しくソファーに腰を降ろした。憂は普段、この広々とした部屋では、囚われた猫科の猛獣のように、せわしなく彷徨く場合が多い。文字通り、囚われた……、この部屋に軟禁状態だった記憶がそうさせるのかも知れない。
この日の場合は看護師の男女比……だろうか? ちょこんと行儀よく両手を膝に、しゃんと背筋を伸ばし座っていた。その立ち……? 座り振舞いは可愛らしくも美しかった。
「ふむぅ……。余り変化は見られないですね……」
「相変わらず、髪伸びるの早いですねぇ。憂ちゃんの新陳代謝の激しさを物語ってますよねぇ……」
医師2名。島井と渡辺の手元の検査結果を診た感想だ。当然、血液検査などの結果はまだ分からない。夜の内にこっそりと検査にかけるのは島井の仕事だ。
その島井は真顔で。渡辺は軽薄そうにも見える張り付いた笑みで、座ったまま憂を診下ろしている。
「新陳代謝が激しい事による問題は……?」
姉の問い掛けに「特に無いかなぁ? 敢えて上げればあるけど……」と横目で主治医を窺う。島井は「愛さんはどんな事があると思われますか?」と逆に問うた。この温和な医師は、考えれば判るだろう問い掛けには、こう言った対応を見せる時がある。
「癌が発症した場合、進行が速い。老化が早い……ですか?」
「そうですね。通常であれば我々もそう考えます。ですが、憂さんの場合は該当しない可能性があります。未だメカニズムが解明されておりませんが、末期癌の患者の癌が綺麗さっぱり消失する例があります。これはその人の想いによって、癌細胞を駆逐した……と、今では思う事もあります」
「あー。そう思う気持ち、すっごく分かりますよぉ。憂ちゃんが実践しちゃってるから」
そこに撤収作業を済ませた専属たちが戻ってきた。「あー! 先生! 憂ちゃんが寂しそうじゃないですかー!」と責めた上で連れ去ってしまい、真面目に顔を突き合わせていた3人は、それぞれ反省の弁を口にし、大事な対談に戻った。
裕香と伊藤は憂と共に移動し、高山はこの場に留まる。高山の勤務は再就職後2日目だ。昨日、付きっきりで伊藤から憂の現状や設定を聞かされたが、まだまだ聞きたい事は多いのだろう。
「もう1点、老化については……、現在の代謝を永久に持続出来るか……ですね。憂さんの怪我の治癒速度が頗る速いのは、この活発な代謝に起因すると推測しております。実際、データも取れていますので、そろそろ推測と云う言葉を外しても良いくらいですね」
「血中からも唾液からも他の人とは明らかに違う結果が出てるんですよぉ。あれ? 前にも言ったかな?」
「はい。聞いてます」と姉が応じると「あらら。憶えが無いや」と悪びれもせず、いつもの笑みを見せた。
「それで……?」
愛は続きを促す。しっかりと先生方の話を理解している様子だ。島井は出来の良い教え子を見るように続けた。
「今はまだ急性期と謂えるのかも知れません。憂さんの脳は……。うぅむ……ややこしいですね」
「島井先生しっかり」と渡辺が笑うとチラリと一瞥した。
「我々は憂さんの脳と意思を切り離して考えるようになりました。脳は絶えず、その回復を指令しているのでしょう。その脳に憂さんの意思……想いが干渉し、脳は反応を示す……と、云った具合ですね」
「つまり2つの命令系統を持ってるように仮定しているんだよね。もちろん、それは有り得ないよ。想いを溜め込むのも脳が行なっているんだからね。解りやすいように区別してるだけ」
愛の眉の形に変化が見られた。解りやすいようにと渡辺は言ったが、どうにも解りにくい。
「大丈夫ですよ。ややこしく思うのは我々もです」
「さっきあの島井大先生が詰まったくらいですからね!」
「……この別系統とも謂える指令が永遠に続くとは考え難い。それは脳の酷使に繋がる事ですので。ですから脳の指令で成分を変えた血液や唾液が永久の物とは思えません。憂さんの想いも『普通に』ですので……。よって、それらが落ち着いた時、我々の勝利となります」
力強いひと言に愛の顔に明るさが戻った……が、次の言葉で元に戻った。
「それがいつの事やら皆目見当が付かないんですけどねぇ」
「……君はいつも余計なひと言を……」
遂に渡辺の相手をしてしまった。それでも卓越したスルースキルを見せた島井に拍手を贈りたい。
愛は島井と渡辺の説明を頭を抱え、整理する。
島井と渡辺は2人で微妙な空気を作った。
ガラステーブルを挟んだソファー上、珍妙な無言が形成された。
気を取り直し、学園内での勤めの話……。つまり雑談に興じていた時だった。ピンポンと電子音が響き、伊藤が猛ダッシュでNSへ突入していった。
誰だろうと何人かが首を捻った時だった。開いたままだった重厚な扉を通り、姿を見せたのは人懐こさと人を寄り付かせないオーラ、相反する2つを隠しもしない蓼園 肇だった。もちろん、秘書が傍に控えている。
「憂くん! 久しいな!」
恵の結婚式後以来だ。そう期間は空いていない。彼にとっては……だろう。
「――そうすい!」
憂はこの男に懐いている。猫可愛がりの影響なのかも知れない。ひょこひょこと早足の憂を迎え入れようと、両手を広げた……瞬間、秘書の大きな咳払いに阻まれた。
「憂さまに触れること、罷りなりません。それでも触れたければ、私が要らぬ噂を拡げて見せましょう」
「う……うむ……」
ある意味、不憫な男である。これでは益々、想いを募らせるかも知れない。いや、これは決して恋心では無い。信奉だ。強調しておきたい。
憂は箱を開くと「おぉ――」と、感嘆の声を上げた。
今回、総帥は1つ、お土産を持参した。珍しい事では無い。高級感剥き出しにパッケージされたチョコレートだった。パッケージに書かれていた文字は英語だ。海外に飛んでいたのだろう。隠居の身だが、彼の顔は今なお広い。
「――うま!」
「……美味しい……が、宜しいかと」
蕩ける憂の口から飛び出したのは男の子時代の物だった。今回、訂正したのは遥だ。愛はソファーで威圧感を可能な限り消し去ろうと努力する総帥と並んで座っている。
そちらに目を向けよう。
「高山くん! よく戻ってきてくれた! これで予期せぬ事態への対応が更に容易くなった! ありがとう!」
「い、いえ……。とんでもありません」
可哀想に。高山は萎縮してしまっている。消しても消しきれないのが『総帥』と云う看板だ。蓼園 肇に死ぬまで付き纏っていく呪いのようなモノだ。未来永劫、消し去る事は出来ない。
「だが……解っているな……?」
男の鋭い視線が高山を射抜いた。突然の豹変だ。立ったままの男は総毛立った事だろう。
「憂くんは儂の庇護下にある。良からぬ事は考えるな。考えるだけでグループ全てが牙を剥くだろうよ……」
「……重々承知しております。そもそも裏切る理由がありません。彼女をひと目見た、その瞬間に「はっはっは!!!」
言葉は声量の大きな笑声に掻き消された。
「そうか! 君ももう虜か!! 済まんかった!! 良い関係を築けそうだな!!!」
総帥は座ったまま右手を差し出し、高山はその右手を取った。
「ん……すっごい……美味しい……」
「――ね? 島井――先生も――」
「おっと……これは失礼……」
憂の小さな手は島井の口元だった。そのまま口で受け取る。温和な島井の顔がだらしなくなった。天然中年キラーの襲来とでも表現しておこう。
「美味しい……ですね……」
島井の言葉に満足したのかトテトテ足を動かし、渡辺にも同じように差し出した。
総帥は食い入るように見ている。高山もだ。
「こりゃ美味い! 可愛い子の『あーん』で食べるチョコ! 最高だねぇ!」
可愛いのフレーズに少しだけ表情が変わったが、『美味しい』の方が強かったらしい。「おいしい――よかった――!」と、高山の前に移動した。同じように四角いチョコを取り出し、高山に手を伸ばした。
「………………」
総帥の目が見開かれている。言葉も無く、ただただその透き通るような白くちっちゃな指先をガン見している。
高山も口で受け取った。相当、躊躇ってからの行動だった。チョコを口に含んだまましゃがみ、目線を合わせる。
「ありがとう。美味しい……」と涙さえ溜めていたのだった。
憂はにっこり笑うと、ついに総帥の隣に辿りついた。
小さな手がチョコの箱に伸ばされる。細くしなやかな指先が四角いソレを摘んだ。
「そうすい――も――」
ゆっくりと口元に近づく手を前に……。彼は、躊躇った。眼球が右に左に動いた。咎める者の存在を確認したのかも知れない。
男は震えながらそのチョコを口で受け取った。震えは緊張からか、歓喜からか判らない。どちらもかも知れない。
「美味い! 美味いな! 憂くん!!」
遥は咎める事が出来なかった。
……自分が、いの一番に『あーん』をして貰ったからである。
「見たまえ諸君! この憂くんの優しさを!」
……憂はお裾分けしただけだ。しかも自分が贈ったものだ。
「憂くんは天使そのものだ!!」
この場の全員が変な笑みを浮かべている。
「神は確かに存在した! 神は憂くんに奇蹟を起こした!」
……こうなると止まらない。放課後に突入する時間を見計らい、姉妹が辞するまで延々と賛美の声は続いたのだった。
憂は放課後の学園へと戻った。
文化祭の準備は少しずつ進行している。憂に舞い込む文化部からの依頼も多い。全てを引き受ける事は出来ないが、憂は可能な限り応えるつもりだ。
お願いされると断れない性格と、無いようで強い責任感。そして、自分にも出来ることがある。これが嬉しくて堪らないのだろう。
「……宜しかったのですか?」
遥はハンドルを握りつつ、肇に問い掛けた。病院に行く時には秘書の運転で移動している。リムジンは処分こそしていないが、今は使われていない。
「君の報告通りの男だ。彼の口から漏れる事は有り得んな」
言葉少なかった秘書に正確な返答をした。
「貴方の目的は全ての暴露では無かったのですか?」
「単なるパフォーマンスだ」
「……理解致しました。久々の病院への訪問。島井先生の部屋への入室記録の件をお伝えするものと愚考しておりました。目的は変わっていなかったのですね」
「ふはは! 見当違いだったな! ……僅かだが、可能性は残っている。その可能性は起死回生の一手となる。儂は全てから解き放ってやりたい」
病院最上階側と、この2人の最終目的地には相違があるらしい。
きな臭い会話が2人に似合わぬ跳ね馬エンブレムの車中で行われている事を、憂の家族さえも知り得なかった。