129.0話 身体測定
―――9月15日(金)
憂の白い肌がピンク色に染まっている。そのピンク色の肌に無機質な器具が押し当てられた。ブラを外した憂の胸は相変わらずだ。不憫なほどに小さい。ブラの能力とはこれほどなのか……と、感心されられるほどである。
胸に器具を押し当てられ、ピクリと小さく躰が跳ねた。その無機質な金属の冷たさ故か。
その器具が左胸上部、右胸、その下……と這っていった。
「うん。綺麗な音。今度は後ろね?」
なんて事は無い、心音と肺雑音の有無を聴診器で確認しているだけである。
セットで内科検診を受けている千穂は、憂をクルリと回した。丸椅子に座った憂の足は届いていない。説明するより、回したほうが早い。しかし、憂は驚きに目を丸め、サッと両手で両胸を隠した。下着姿の千穂は思わず、曖昧な笑みを浮かべた。相変わらず、見るより見られる方が恥ずかしいらしい。1人の少女として、その気持ちは複雑なものだろう。
憂の前に終わった体操着を着終えた梢枝がそそくさと、この空間から出ていった。憂に対しては未だに奥手になってしまう梢枝なのである。
「ひゃ――」と声が漏れた。両胸を必死に隠そうと丸まった背中に聴診器が当てられたのだ。そのまま、何箇所か移動させた。
「問題なし。はい、戻ってー」
再び千穂によって、クルリと回された憂は女医さんと、ばっちり目が合い、ぱちくりとさせている。
「続いて、両手を挙げてくれるかな?」
「憂? ばんざーい」
「――ばんざーい」
そんな千穂と憂のいつもの遣り取りに女医さんは笑顔を見せると、その胸囲やウエストの数字を取っていった。傍らの女性看護師が女医の読んだ数字を記入していく。
千穂はあっさりと胸ガードを外した事に驚いた。千穂は憂に刷り込まれた『白衣の人には従う』と云う本能めいたものの存在を知らない。
「細いね……。驚いた……」
時期外れの身体測定も兼ねている。
蓼学は、その生徒数から身体測定結果と運動能力テストの基準校に定められている。平均値を取るには分母の大きさが大切なポイントなのである。
「はい。立ってー?」
女医さんの差し出した手に一瞬、躊躇いを見せたが従順に従った。
……キャスター付きの丸椅子に足ぶらんの状態で座っているのだ。手を取らねば転びそうだと思ったのかも知れない。
憂が立ち上がると、巻き尺を小さなお尻に回していった。女医が読み上げ、その助手が記入する。スムーズな流れだった。
「はい。ありがとう。もう少し食べようね」
「――はい」
……反応が早かった。きちんと理解し、返事したものだと信じたい。
続いて千穂の番だ。憂が助手から記入表を受け取り、椅子から退けると、いつの間にかブラを外した子が「漆原 千穂です。お願いします」と背中を向けた。
―――現在、C棟体育館内である。C棟の女子全員が入れ替わり立ち替わり、検診と測定、更には脊柱湾曲の検査を受けているのである。他の体育館でも同様に行われている事だろう。
因みに男子は大体育館へと移動していった。各棟の全員が集う事になるが、身体測定時の男女格差は致し方ない……のか?
金曜の午後、HRの2時間で数千人の検診を済ませてしまおうと言うのだ。多少の無理は仕方が無い……のかも知れない―――
「気になること……無し……と」
問診が済んだようだ。どうやら千穂は優しそうな女医に対し、嘘を付いてしまったようである。彼女の生理は止まったままなのだ。
愛に指摘された千穂の父・誠人は千穂に受診を勧めた……が、千穂は心配する父に、あろう事か半分、キレた。どうしても検査は受けたくないらしい。恥ずかしいのだろう。
一方、憂はすぐに脱いだ体操服の元に辿り着いた。こちらも恥ずかしいのだろう。急いでいる。千穂の次には佳穂が控えている。悠長にはしていられない。
それでも上半身裸の愛する彼女の背中にチラチラと目線を送ってしまうのは、元男としての悲しい性か。そんな元少年は先ずはハーフパンツをその手に取った。千穂の物と間違えるような愚は犯していない。何よりである。
「うん。貴女も綺麗な音ね。はい。後ろ向いて?」
「はい」と返事すると、千穂は自身の足でクルリと回った。
クルリと回ると2人の目線がぶつかった。
それは生憎、ハーフパンツに片足を通したタイミングだった。千穂からサッと目を逸らした憂がバランスを大きく崩した。そして、藁にも縋る思いだったのかも知れない。
「わぁ――!」と叫ぶと共に医療用の衝立、パーティションを掴むと、それと一緒に転倒した。
仕切りに使っていた衝立の金属部分と体育館の床が衝突し、けたたましい音を響かせた。連動するかのように倒れたパーティションは2つ……。順番待ちしていた面々が唖然としている。
「きゃあああああ!!」
慌てて、胸を隠し叫んだのは千穂だった。不幸な巻沿いを受けてしまったのだ。憂はショーツに包まれたお尻を丸出しで身動きしない。ナイロンのカーテンに乗っかったままである。
「憂さん!?」
今回、先に復活したのは千晶でなく、梢枝だった。隠すものがそれしか無かった為か、この身体測定やら検診やらで記入していく用紙を使い、憂の可愛い丸い部分を覆うと、今一度「憂さん……?」と声を掛けた。
「――うぅ――千穂――ごめん――」
…………無事で何よりである。梢枝は憂を半ば引きずるように、先程までパーティションの区画内であった所まで、憂を移動させると次に並んでいた佳穂と千晶が、無言でそのカーテンを役割に復帰させていったのだった。
斯くして、全員の内科検診やらが終わった。一番、恥ずかしい思いをするものを先に終了させる作戦だったようだ。身長やら体重やら色々と残っている。
「もう! 憂のバカ!」
千穂が怒っている。千穂が怒りを露わにすると「まぁまぁ。幸い、女子ばっかりだったんだし……ね」と宥められた。だが、今回ばかりは憂に非があるのは間違いない。宥める佳穂も歯切れが悪い。
そんな時に千晶の口から暴論が飛び出した。
「見られて恥ずかしいほど小さい千穂が悪い」
「「「………………」」」
梢枝さえも何も言えない、とんでもないひと言だった。
「ち、ちあきさん?」
背後に黒炎を幻視させるほどの、千穂の不穏な空気に佳穂の動揺が一気に増大した。
「あ。ごめん。つい思った事が……」
千穂の口元がヒクヒクと引き攣りだした。さもありなん。彼女は今、千穂のコンプレックスな部分を必要以上にいじくり回しているのだ。
「千晶!!」
次に佳穂の口を付いたのは、短い叱責だった。佳穂まで不穏な空気を出し始めた。実に険悪なムードである。
「ごめんなさい」
かと思えば、一転。手の平を返し、頭を下げた。
千穂は己に背負う黒炎が萎んでいくのを感じ取ったはずだ。
「……意図に気付いちゃったよ? 悔しいけど……」
ゆっくりと顔を上げた千晶は笑顔だった。千穂も釣られたように微笑んだ。
「……んんー?」
佳穂の頭上には疑問符が並んでいる。その姿に笑みを見せると梢枝はチラリと憂を見やった。
……憂は絶望の表情である。彼女にとっては、千穂の怒りがこの世で一番、怖いものなのかも知れない。いや、姉と双璧なのか?
「憂? ……もういいよ? 許して……あげる」
「ホントに――ごめんね――?」
「うん。気を……付けてね?」
「――うん」
佳穂が左の掌を上に向け、右手をグーにし、ポンと乗せた。理解したらしい。
……理解したらしい……が、リアクションが五月蝿い。
「佳穂、動きがうるさい」
「なんだとー!?」
いつも通りの遣り取りは放って置いて、解説しよう。
千穂の憂への怒りが本物であると判断すると、千晶はその矛先を煽ることにより、引き受けた。引き受けるとすぐに許しを乞うた。一瞬でも「は?」と思わせ、怒りを反らせれば事足りた。
「大した人が多いですわぁ……」
「……だね。嫌になっちゃう……」と相槌を打ちながら、千晶に近づいたのは千穂である。怒りは抜け切ったのか、悟りを開いたように穏やかな面持ちだった。
「千晶……。ありがと」と微笑み掛ける……と、千晶のダイエットの反動からか、少し萎んだ胸をブラの上の体操服の上から鷲掴みにした。
「……ち、ちほ?」
「そんなワケないでしょー! 佳穂、手を貸して! これ、ちぎって私よりサイズダウンさせるから!」
「あいあいさー!!」
「ぎゃあああ!! ごめんなさいぃぃ!!」
そんな過激なスキンシップを直視する事は出来ず、そっと背中を向けた憂なのであった。
「ひゃくななじゅう……いってん…………に?」
「流石に伸びませんねぇ……。誤差の範囲です」
次に向かったのは身長の測定である。ヤケに落ち着かない子がいる。身長計の嫌いな子だ。
「170……いいなぁ……」
呟いてから「ね?」と憂に同意を求めた。もちろん千穂である。彼女もなかなかの小柄だ。もう少し、身長が欲しいらしい。
「次はあたしだっ!」
佳穂が体育館シューズを脱ぎ、柱に背を当て、ピンと背筋を伸ばした。梢枝により、横規が降ろされる……と、千晶が「165……てん、3」と数字を読んだ。
「おー! まだ伸びてるー!」
「珍しいですねぇ。女子は15歳までに身長は止まる事が多いんですえ?」
「そ! そんなの嘘!!」
「千穂……。もう無理だって……」
千晶がやれやれと靴を脱ぎ、身長計に乗った。佳穂と同じように背筋を伸ばす。
「ひゃくごじゅうはってん…………よん?」
「疑問形をやめて? 自信を持って?」
「だってさー」
「それで……伸びたの?」
「うん。2ミリだけ。あはは」と笑いながら誤差の範囲だよねと、注釈を付けていたのが何とも彼女らしい。
……いつの間にやら背の順になってしまったようである。当然とばかりに千穂に視線が集まった。「ぅ……」と小さく呻き、シューズを脱ぐと、恐る恐る身長計に乗った。「ふう……」と息を吐くと背筋をピンと伸ばした。
「ひゃくごじゅう……にーてん……に?」
「そんなワケないっ! ちゃんと測って!」
「はいはい。なんか千穂がこえーぞ?」
凄い剣幕でクレームを付けられた佳穂が横規を一度離し、またソッと千穂の頭に乗せた。
「ひゃくごじゅう……にーてん……に」
疑問形を排除した。偉い。
「嘘……」
千穂は呆然としている。「身長縮んだの?」と問い掛けられ、小さく頷いた。
「1ミリ……下がった……」
「誤差の範囲だってば」
千晶の言葉を聞いているのかいないのか、ぶつぶつ何かを呟きながら身長計から降り、シューズを履きながら待機を始め、残す1人に目を向けた。
残す1人はここに辿り着いて以降、一切、口を開いていない。上空の敵を見るかのように、そびえ立つ身長計を睨んでいる。
「はい。憂ちゃん。どうぞ」
佳穂に促され、憂は覚悟を決めたようだ。凛々しい。姫騎士のようにも思えた……が、単に身長を測るだけの事である。
憂は、ゆっくりと身長計に上がった。
「ていっ!」っと、佳穂の超手加減チョップを受け「あぅ」と声を発した。
「靴」と指さされ「うぅ――」と呻いた。悔しそうだ。彼女なりに大作戦を決行していたのだろう。野望は佳穂により、打ち砕かれたのである。
改めてシューズを脱ぎ、測定である。憂は柱に背を当てると、背筋を頑張って伸ばした。佳穂の手により、そっと横規が降ろされ……なかった。少し、乱暴に降ろされたソレが『がん』と小さな音を発した。
「かほぉ――!?」
一気に涙目である。足がプルプルと震え始めた。
―――そう。
―――憂は
―――背伸びをしていたのである。
「めっ!」っと、佳穂に叱られると、渋々踵を降ろした。そして、今度こそ優しく横規が降ろされた。
「ひゃくさんじゅう……んー? ろく……てん、きゅう」
「ろく――てん――きゅう?」
見る見る内に紅潮してしまった。
「そんな――わけ――ない――!」
この台詞。2人目である。
「もう――いっかい――!」
怒っている。彼女は今、本当に全力で怒っている。
「は、はい……」と、ビクつきながら、もう1度、横規を上げた。また下げようとして、その手を遮る手があった。梢枝だ。
梢枝により、再び憂の頭頂に優しく横規が当てられた。
「137……てん、いち……ですねぇ……」
「あっ。ホントだ。憂ちゃん、ごめん」
「――よかった――へってない――」
憂は佳穂にジト目を向けた。可哀想に。佳穂は身長測定と云う大事な使命をミスった加害者となった。単なる冤罪被害者であるにも関わらず。
「どうやら2ミリほど、低く出てしもうているみたいですわぁ……。ウチの身長はもう変わりません」
後半のトーンを下げたのは、自らの年齢問題に繋がる為だろう。この場でも彼女たちは注目を浴びているのだ。
「ウチも2ミリほど、低く出てます。これで千穂さんの身長も説明が付きますねぇ……」
嘘か真かは分からない。しかし、この言葉に千穂も大いに納得したのだった。
万事、解決である。丸く収まった。
身長が終われば、体重である。これは流石に公表を控えたいと思う。彼女たちは年頃の女の子だ。ご理解頂きたい。
順番は身長で流れが出来たのか同じ順番だった。
梢枝、佳穂、千晶、千穂……と、それぞれが体重計に乗り、数字が読まれると、周囲の女子たちから歓声やら怨嗟やら、色々な声が聞かれた。
憂の時は……ご想像にお任せしよう。
視力、聴力、色覚などの検査を終えると、結局、彼女たちは男子たちを待たせる結果となった。何をさせても憂が遅かったのである。
男女が合流すると測定結果の話となった。
「こいつ……192……」
「まだ伸びてんの!?」
「10センチ……ちょうだい? お願いします!」
「えっ!? え? 千穂ちゃん!?」
「――さんじゅう――ちょうだい――?」
「憂……」
「――おねがい――さんじゅう――」
「あのさ……」
「うぅ――」
……今日も平和である。
……。
1つ、補足しておこうと思う。
実は……、憂はこの日の身体測定を免除されていた。病院での定期検診は周知の事実だからだ。
……にも関わらず、みんなと一緒に受けた。それは教室に1人、置いておけない。連れていっても、見学しているだけでは寂しがりそう。そんな意見が出たからだ。
―――何より、佳穂が五月蝿かったからに他ならない。
ちょいと、箸休め的な1話です。
一切のシリアス要素を排除してみました。