127.0話 雌狐2人
―――9月10日(日)
『はい。一ノ瀬です』
「ようやく捕まりました。苦労しましたえ?」
『ご用件は憂さんの映像の件でしょうか?』
「そうです」
『この拡散速度では如何ともし難いです。以前のものとは比べ物になりません』
「わかっております。その対策として、総帥の権力をお借りしたいのですわぁ……」
『何か対応策が?』
「はい。まず早急に、裏サイトの『総帥』の文字の入るコメントを削除していって頂きたいのですわぁ……。特に、定期的に流れる『まとめ』を……」
『この時間ですので、早急な対応は厳しいかと』
梢枝は、チラリとPCの時計を見やった。【0:31】と表示されている。確認すると自嘲した。随分と考え込んでしまったものだ……と。
「出来ますえ? 『お買い物』の時、あれだけ迅速な行動を取られた本気の貴女ならば」
『……善処致します』
電話の向こう側。明快に切り返していた遥の返答が一瞬だが鈍った。本気でやろうと思えば出来るのだろう。そう確信した梢枝の口が三日月を成した。
「総帥は憂慮しておられる事でしょうねぇ。総帥との繋がりは憂さんの秘密への強みであり、ウィークポイントです。今のところは下げる必要がありますえ? 貴女ならお解りでしょう?」
『重々承知しております』
「それでは、貴女のお仕事の邪魔になりますので、切りますえ? 以降、権力が必要な時はチャットで依頼致します……」
『畏まりました。全力で支援致します。貴女に敬意を』
そこで通話は途切れた。危険な電話だったが、盗聴はされていない。定期的に盗聴器のチェックは成されている。
―――盗聴器と云えば、立花家がキャンプに出掛けた時には、窓からの集音式盗聴器が仕掛けられていた。その1度きりである。
帰宅の直後に電波をチェックすると、その存在に気付いたのだった。それは、キャンプ以前には存在していなかった物だ。つまり、盗聴は未然に防ぐことが出来ている。
因みに家の中には入ることは難しい。総帥の指示の下、夜間など厳重なセキュリティが構築されているのだ―――
(憂さんに陶酔する、あの総帥がここまで強硬な方法を執るとは思えない……。とんだ雌狐だったって事……。しっかりと騙されてたわぁ……)
「今すぐ作業を開始して下さい。無理を言っているのは承知の上です。蓼園の支援を約束しましょう」
梢枝との遣り取り後、総帥秘書は即座に行動を開始した。『知らない』としらばっくれた以上、動かない訳には行かなかったのである。ついでに言えば、肯定など出来るはずは無かった。肯定をすれば立花家からの信頼は損なわれる。それだけは絶対に防がねばならなかった。
「はい。即座にお願いします。はい。それでは」
(……失敗しましたね。選択した動画がまずかった? ですが、憂さんの動画は梢枝から送られてくる物のみ……。あれは、何度も何度も撮られているシーンの1つだった。それこそ、何十も撮られているシーン……。携帯での盗撮に思わせるような加工さえした。梢枝の記憶力を侮っていた……)
スマホをデスクとは呼び難い、豪奢で重厚な机にそっと置いた。未だ、蓼園 肇の自室に隣接する執務室内だ。
ふいに嗤う梢枝の顔が脳裏に浮かび、上下の歯を強く噛み締めた。
(あの雌狐っ!!)
苛立ちに任せ、どかりと黒革張りの椅子に腰を落とした。どこぞの大臣でも座りそうな椅子は、彼女の体重を柔らかく受け止め、ゆっくりと沈めていった。
(あの子、どこまで知っているの!? ……一体、誰から……?)
両の手すりに両の腕を預けると瞑目した。苛立ちは大きな敵だ。冷静さを呼び戻す。あの時、敬愛する男がそうしたように。
(1人ずつ当たる訳にはいかない……。今回の件で私たちを疑う者は多い。でも単なる疑惑の範疇。そんなモノはどうにでも扱える)
冷静さを取り戻した遥が先刻の梢枝のように、思考の渦に身を投じる番だった。
(確信したのは……あの子だけ……。これであの子に主導権が? 一時は解雇を恐れたあの子に? ……凄いね)
そっと瞳を開いた。強い意志を宿した瞳だ。
(でも、賽は投げられた。精々、足掻いてみなさい)
……雌狐同士の化かし合い……と、表現できるのかも知れない。
【拡散希望】
この子の友人としてお願いがあります。この子をそっとしてあげて下さい。この子は学園のアイドルになりたくてなっている訳ではありません。
この子は障がいを負っているのです。それでも頑張るその姿がご覧の通りの容姿と相まって、アイドルに祭り上げられているだけなのです。
この子は平穏を望んでいます。晒し者にしてあげないで下さい。どうかよろしくお願いします。
この呟きは瞬く間に拡散されていった。
夜の内に康平は、生徒会長や健太など、顔の広く、間違いなく味方になってくれるだろう人たちに上記の呟きの拡散を依頼した。
この呟きは健太により5組のクラスメイトへ。クラスメイトから他クラスへ波及していった。
会長やちゃこたちも、その広い人脈を使い、同様に横に拡げていった。
そして、夜が明けると味方となった蓼学生たちは、一斉にこの呟きを拡散させていった。
この呟きの効果は絶大だった。画像を拡散させた者たちの多くは、この呟きを目にすると画像を添えた呟きを削除していった。
『障がい』、『晒し者』……。こう言った言葉を使うことで良心に訴えかけたのだ。
そして、憂の顔を含む画像を尚も掲示し続ける者のアカウントは炎上を始めた。蓼学生の中にも炎上を助けた者は居るだろう。しかし、それ以上に良心を刺激された、それまで憂の存在を知らなかった者たちが可哀想な少女の為に……と、次々に炎上させていったのである。
「……はい。立花です」
電話を応対する愛の表情は冴えない。今現在、頼りになる総帥秘書も身辺警護も流れ出た画像と、それにより起こり得る出来事の可能性を摘むべく、全力で動いてくれている。
しかし、不安は拭いきれない。どこで調べたものか……、夕方となった今も、こうやって取材の申し込みの電話が時折、掛かってきているのである。
「申し訳ありません。憂は障がいを負っていますので……」
この言葉で、ほとんどが引き下がった。それでも食い下がるしつこい依頼には、梢枝から授けられた決め台詞だ。
「……余りにしつこいとそちらの社名を明かしますよ」
こう言われては引き下がらざるを得ない。憂の持つ障がいを盾にした、断固としたお断りである。
今の時代、SNSは絶大な力を持つ。画像を取り下げないアカウントの炎上は取材を申し込む側も重々承知している。それでも依頼が絶えないのは、リストバンドと巾着を持つ者が多い事実から推測されるカリスマ性に合わせて、僅かな時間、片隅に映った片足を軽く引きずる後ろ姿と、その後に流出した顔付きの画像のインパクトの強さによるものだ。
愛が家の電話の受話器を置くと、「大変だねぇ……」と声を掛けられた。
母方の祖母である。祖父も居た。
あの初盆の邂逅の後、父方の祖父は、憂の家にそこそこ近い母方に『やっと憂に会えました。めんこい子ですね。愛、剛と変わらず、可愛がってやってください』と電話してしまったのだった。
……それ以降、母方からの攻勢が強まり、この日、初顔合わせの運びとなった。
「憂ちゃんは……こんなに……可愛いからね……」
祖母は目に入れても痛くない……。そんな気配を漂わせ、憂に話し掛けた。
「――おばあちゃん――。そんなこと――」
「あるぞ」
話に飛び込んだのは祖父だ。彼らは憂を抵抗感無く受け入れた。娘夫婦の家庭に笑顔を呼び戻した存在として、恩を感じているらしい。
「――ない――」
……めげなかった。実は、憂はこの母方の祖父母の事を憶えていた。思い出したのではなく、憶えていたのだ。
しかし、家長である迅は優である事実を伝えていない。同じ祖父母の間で差を付けたくないのだ。
「可愛い……。かわいい……」
祖母は憂の頭を撫で回す。「本当に可愛いなぁ……」と、祖父も祖母の言葉を借りる。2人とも、この少女が可愛くて仕方がないらしい。
「うぅ――そんなこと――」
「あるぞ!」
昼食後に訪れた2人は優に線香をあげて以降、延々と飽きもせずこれを繰り返しているのである。無論、昼寝の間は除いて……だ。
…………。
この祖父母は憂を溺愛している。憂さえポカをしなければバレる事は無いだろう。
この際、母方の両名の話は置いておく事とする。正直、それどころでは無い。
全力で動く梢枝は、憂と総帥の繋がりの拡散の阻止を第一とした。
彼は恨みを買いすぎている。特に遥が台頭を始めてからだ。敵対的M&A、引き抜き行為等は、あの男の仕業ではないと推測している。正解だ。
問題は総帥の買う恨みの数々だ。彼を失墜させようとする者は憂への執着を見てどう思うか。ゴシップどころか、犯罪行為の尻尾を掴む願ってもない機会と捉えるだろう。
そうなると当然、憂は嗅ぎ回られる。危険だ。
(誕生会の頃からこれが目的だった?)
梢枝は、かつて撮った映像の数々を視聴している。
新しいモノから飛ばし飛ばしに再生し、ようやく佳穂の告白シーンだ。
しかし、その自身も頬を濡らしたシーンは頭に入ってこない。総帥秘書との戦争状態がそれを許さない。
『見事な演説だった。儂は憂くんにいつも感動させられる。儂はこの子を敬愛しておる。尊敬と謂っても良い。この少女の為ならば儂は全てを犠牲に出来る。憂くんの為ならば監獄にでも入ってやろう。儂のこの言葉を知人、友人に伝えるがいい。それはこの子を護る事に繋がるだろう』
(そうとは思えへん。おそらくあの頃は純粋に後ろ盾として憂さんを護ろうと……)
彼女は白い手を両のこめかみに当て、グリグリとこねくり回した。一睡もしていない上に今となっては文字通り、頭が痛い一件だ。昼を過ぎた頃から頭痛が激しくなってきている。
憂の画像の拡散は、憂の本当の一部を真摯に伝える事により、収束へと向かっている。だが、憂の写真を目にした者は多いだろう。今なお、その存在を知り得ている者も居るだろう。
(興味本位の接触は康平さんらが排除しますわぁ……)
ふと涙に暮れる3人の映像が目に飛び込んできた。液晶の中で憂、千穂、佳穂の3名が寄り添っている。
(これ以上の涙は流させない!)
痛む頭を振り、意識の覚醒を試みた。
(総帥との繋がりの情報は昨夜の内に消去された……。でも、人の口は防ぎようが無い……。このタイミングで情報が消された裏サイトの方々の動向にも注視しないと……)
ふと、島井が憂の転入前、千穂たち最初の3名に言ったと云う言葉が脳裏をよぎった。
(……遅らせる事は出来ても露見は止められない……!)
眠気が吹き飛んだ。
(だからこうやって……! そう……。あの秘書さんも……)
充電中のスマホを手に取った。
(手段は違えど、目的は同じと言う事……。腹を割って話をする決心が出来ましたわぁ……)
手際よく惑いなく、躊躇する事もなくスマホを操り【一ノ瀬 遥】をタップした。
プルルル……。プルルル……。
コール音は至ってシンプルなモノだ。何ともこの人らしい。自分そっくりだと自嘲う。
『……はい。一ノ瀬です……』
「眠っておられましたか……。すみません……」
『……お気になさらず。番組構成の変更情報を得られなかった私に責任がありますので……』
笑みが嗤いに変化する。あくまでシラを切るらしい。それは立花家の意向を最重要視していると暗に告げている。
「どこまででしょうか?」
『はい?』
「全てを……ですかえ……?」
『全てを……?』
「他にも目的がありますね……?」
無音の時間が流れた。向こうではキツネが頭に血流を集めている事だろう。きつい顔付きの日本人形を思わせる美女が嘲笑う。
『……貴女はどこまで?』
「全てです。この全貌を知っておりますえ?」
『あっさりと仰るとは思いもしませんでした。木曜の午後、直接2人で話しましょう』
「悠長にしてられへんのですけどねぇ……」
『貴女も私も消耗しています。本日は自粛すべきです。そして明日以降、憂さんは学園です。任務を放棄する気は無いでしょう? ですから検診のある木曜を指定したのですが?』
「……そうですねぇ。わかりました。では木曜に……」
『場所はこちらの指定で構いませんか?』
「はい。お任せします」
『良い話が出来るものと確信しております』
「奇遇ですねぇ! ウチもですわぁ!」
続けて、「ははははっ!!」と会心の笑いを見せたのだった。