126.0話 後ろ姿からの大拡散
―――9月9日(土)
まだまだ秋は始まらないよ! ……と、宣言しているかのようなギラギラとした太陽が、容赦なく少女たちを照らし付ける。
「――あつい」
「うん。暑いね……」
姉の戦線放棄により、紫外線から無防備となった憂は、脱皮を繰り返しつつ、ほんの少しだけ日に焼けた。真っ白だった頃より、幾分か健康的な印象を与えるようになった。周囲からも好印象である。姉は最初からこうすれば良かった……と、後悔している事だろう。
現在、憂の左手にはハンカチが握られている。不器用なままの右手で、ポケットから四苦八苦し、取り出した物だ。左側には残念ながらポケットが無い。あるのは、ホックとファスナーのみだ。サウスポーの人や、右手が不器用な憂にとっては不便だが、大多数には便利だ。よって右にポケットが存在している。
「今年は当分の間、暑いらしいでっせ」
「まだまだ……暑いって……」
本日の下校は拓真不在だ。彼はバスケ部の練習に駆り出された。きょうちゃんが懇願したのである。練習を続けるPGとしての能力を『見せて』と顧問に言われたとの事だ。
「それ――いや――」
物凄く嫌そうに呟くと、ハンカチを左のほっぺに当てた。因みに大した汗は掻いていない。憂は汗を掻きにくい体質のようなのである。
では何故わざわざハンカチを出し、汗を拭こうとしたのか?
単に隣の千穂がそうしているからだろう。さっきまで千穂は左手で汗を拭っていた。薄っすらとだが、化粧をしている千穂はトントンと抑えるように浮き出た水分を染み込ませる。そして憂もまた、化粧をしていないにも関わらず、トントンと……。つまり……そう言う事だ。
……真似をしたい気分なのだろうか?
「嫌……言われても……こればっかりは……」
拓真が居ないと云う事で、康平が憂のやや斜め後ろ……。普段の拓真のポジションに陣取っている。拓真は、憂の前や隣を歩く事がほとんどない。拓真の幼馴染は身長にコンプレックスを抱いている。実は、優の頃から……。それが顕著になった為、配慮している……のか? 拓真の内心は入り組んでおり、どれも断言出来ないのが実情である。
「そうだよね。冬に……強い、のかな?」
「あー。それっぽい。あり得る」
千穂は右手にハンカチを持ち替え、トントンと軽く抑える。
―――そう。暑苦しい時期、帰宅の際には基本的に手を繋いでいないのである。
朝は違う。憂に合わせると、歩みが非常に遅く、集団が異様に膨大な姿と化すのだ―――
千穂がハンカチを持ち替える様子をしっかりじっくりと観察した憂は、自身もハンカチを持ち替えようとした。持ち替えようとして、失敗した。
ハラリとハンカチが……なんて綺麗な事はない。折り畳んだままの布の固まりは、ポテリとアスファルトに落ちた。
「あらら……」
千穂が屈んで、ハンカチを拾おうとした時だった。
「――康平? ――かんさい――あれ?」
「……え?」
「憂さん……?」
「くちょう――ちがう――」
千穂はとりあえず……と、ハンカチを拾い上げるとポンポンと叩いた。丁寧に折り返し、憂に「はい」と返却する。
憂は受け取らなかった。固まり、表情は変化している。悲しそうに、不安そうに、ふと寂しく笑い、瞳を潤ませた。
「絶対、勘違いしてる」
「……せやね」
康平は千穂と話す時のみ、関西弁は消え失せる。転入後、しばらくしての過呼吸以来、そうなっている。おそらく他のメンバーは全員が気付いている。
「そろそろワイの年とか……」
「うん。付いてこれてない部分、教えてあげよ……」
千穂が憂の手を引き、歩き始めると憂は思考から強制的に引っ張り出されたのだった。
「いい――こと――」
そう呟いた憂は、何とも絶望に包まれた表情を見せていたのだった。
彼女たちが帰宅する間に、2学期が始まってからの空白の期間の出来事を語っておく。
―――実に激しい1週間だった。先週土曜の凌平の告白を機に、中等部の少年少女の集団告白、裏サイトの少年の千穂への恋文からの失恋。
秘密裏に終了した千穂の件は置いておくとし、学園は空前の告白ブームとなった。至る所で初々しいカップルが誕生した。
グループメンバーたちは幾人かの告白を受けた。
先ずは憂。憂は3名の男子生徒からの告白を受けた。毎回、傍に千穂と康平が控える中での余計に勇気要る告白だったはずだ。
しかし、憂の回答は、やはり『NO』だった。憂の事情は複雑なのだ。
拓真も告白された。別の棟の少しキツめの少女だった。2年生。先輩だった。だが、拓真もこれを蹴った。千晶との腹を割った話以降、彼の事情も複雑なものとなっている。
ハイスペックな和風美女は3名からの告白を受ける人気ぶりだ。内、2名は女性だったのは内緒だ。彼女は彼女らしく『興味ありませんわぁ……』と、にべもなかった。
更に康平もだ。
『……目が離せないんです。貴方の挙動に……。貴方に大切な人がいる事は理解しています。それでも伝えなければ自分を許せません。ご迷惑な事も解っています』
そんな情熱的な愛の宣言だった……が、『お前……ワイ、ホモの気ないで……』と断ってしまったのだった。
千穂に歪んだ形で恋愛感情を示してしまった樹くんは、梢枝の説得が効いたのか、元のように大人しく、窓際後方のグループを眺めては溜息を漏らしていた。
凌平は1人の告白をあっさりと断ったのは、ご存知の通りだ。それ以降、彼に動きはない。憂への再度の告白はまだ実行されていない―――
「え――そんな――」
自宅のリビング。ソファーに座る憂の背筋がピンと伸びた。どうやら衝撃を受けたらしい。目がまんまるになっている。
「ウチは……康平さんの……1つ下です……」
梢枝の言葉を咀嚼し終えると、上半身は全くブレず、顔だけ動いた。妙な動きだ。顔立ちが整いすぎているだけにちょっとしたホラーだった。
梢枝から千穂に……と、顔を向けるとちょっとだけ涙目だった。
「ちほぉ――」
言いたい事は解る。どう頑張って見ても中学生。しかも1年生。そんな外見になった憂の誇りはグループ内で1番、早く生まれた……。そんなくだらない事が支えだった。プライドだった。それは砂の城のように脆くも崩れ去った。
可哀想……でもない。
誕生日が早かろうと遅かろうとそれは同級生だ。
千穂の隣に座る愛が口元を隠し、クスクス笑うと、それを見てしまった憂の唇が突き出た。誰も押し戻さない。たしかに最年長者になったと思っていた時の憂は感じが悪かった。
以降も憂は沢山のグループ内の常識を教えられた。
例えば凌平が性転換の事実を知った事。
康平が千穂のみに標準語で話すようになった経緯。
本人は否定したが、梢枝がとんでもなく優秀な頭脳の持ち主であると言う事実。
立花家に入る直前に合流した梢枝を含めた3名は、昼食をお呼ばれした。幸の作った親子丼を食す最中、延々と憂は知らなかった事を知り、メンバーに追い付いていったのだった。忘れない事を祈る。
話を聞き終わると襲来した睡魔と戦い始めた為、忘れる事項が多いかも知れない。
―――その夜。
「そう怒鳴るな。落ち着いて欲しい。儂も知らんかった。本当だ」
総帥・蓼園 肇は自身のスマホを耳に当てている。この電話番号を知っている男は1人だけだ。
「些細な事だ。多少の非人道的な行為も命を救う為と言えば、非難から逃れられるだろうよ」
総帥はどっかりとソファーに身を埋め、ブランデーをひと口煽る。
「心配するな。儂に付いてこい」
リモコンを操作し、ラストシーンを再生する。先程、放送を終えたばかりの私立蓼園学園の特集だ。
そこには、この男にも知らなかったシーンがあった。
「放送されたものは仕方ないだろう? 違うかね?」
番組の後半からTVは、この多数の異名を持つ男さえ、予期していなかった展開が待ち受けていた。この放送の1週間前、最終確認したものとは、まるで違った。
「川谷さん。しっかりしてくれたまえ。切り札は儂らが握っている」
後半。リポーターとなった人気タレントは、巾着とリストバンドに注目した。蓼学さんはヤケにそれが多いね……と。
秘書を通じ、カットしろと指示さえ出した部分だった。
「そうだ。堂々と構えたまえ」
生徒の1人が『この学園のアイドルのシンボルだから流行ってるんです!』と語った事から、そのアイドルの捜索が始まった。
「うむ。それではな」
そのアイドルは夏休みと云えども出席率が高い少女だったが、この日は運悪く休みだった。
そこで捜索は打ち切られた。
だが、ラストシーン。
蓼学生の下校風景の映像だった。
教室を飛び出していく少年、少女の後ろ姿。
部活動のアップを始める陸上部の遠目からの姿。
門を潜っていく生徒たち。
……そして……。
スマホで撮影されたような映像だった。
廊下を歩く、白いセーラー服に身を包んだ2人の少女の姿。
右足を軽く引きずりながら歩く小さな小さな少女の右手を、小柄な少女が引いて歩く後ろ姿が映像の端に映った。偶然、最後に映っていたのは、そんな2人の少女だったのだ。
彼は忌々しげにスマホを放り投げた。それが壁に当たる様子さえ見届ける事無く、オフィスへのドアを睨んだ。
「遥くん!!」
2度のノックの後、音もなく扉が開き「失礼します」と、秘書が姿を現し丁寧にお辞儀をして見せた。扉が開いた際、2種類ほどのコール音が聞こえていた。どちらもTV放送を見た『知る』者からの電話だろう。
「……どういう事だ?」
「どういう事とは……?」
「君しかおらんだろう!!」
秘書の困惑の表情に苛立ちが生じたらしい。明らかな怒りの声音だった。
「全て、肇さまのお心に沿い指示致しました」
「……貴様」
射抜くような厳しい視線を受けた遥は動じない。
「何を躊躇っておられます。機は熟しております。いつものようにギャンブルを仕掛けたまでです。それとも……そんなにあの子が心配ですか?」
じっと長く、あの視線が捉え続ける。通常の人間ならば平伏するであろうそれを毅然と受け止め、続けた。
「時間は有限です。貴方が立ち止まるのであれば、私はそっと背中を押すまでです」
しばらく互いに無言の時間が流れた。
男は数秒の間、目を閉じ、再び開いた。
「……そうだな。慎重になりすぎていたかも知れん」
「ご理解頂き、感謝致します」
射抜く底冷えのする眼差しは消え失せ、男は不敵に唇を歪めた。
【どう言う事ですか!?】Dr.島井
【私が確認した時、あのようなシーンはありませんでした】学園長・西水流
【あれじゃ憂が……】千穂
【どうなるの……?】美優
【一気に拡散するぞ!】康平
【もう盛大に拡がってますよ】Ns.伊藤
【落ち着きましょう】看護部長・鈴木
【総帥と遥さんは!?】剛
梢枝は凄い勢いで流れる緊急チャットを横目に、PCでSNSの情報拡散の様を呆然と眺めている。『蓼学のアイドル』の特定は迅速だった。
息を潜めていたネットの深部から一気に画像が浮上した。
デスクの傍らのもう1台のスマートフォンは、延々とコール音を発している。総帥のオフィスへの直通の電話は通じない。
【止められないの?】千晶
【何故、こんな事になった!?】総帥
PCを操る手を止め、ついに現れた【総帥】のふた文字を睨んだ。
【これじゃ憂の知名度が】京之介
【今、憂ちゃんは?】佳穂
【総帥さん!】Ns.伊藤
【大丈夫です。落ち着いて。秘密が拡がってしまった訳ではありません】拓真の母
【そのまま高みに上り詰めてしまうって方法も】Dr.渡辺
【総帥、何故こんな事に】Dr.島井
【憂は、よく解っていないみたいです】憂の父
【蓼園さん!】愛
【判りません。情報収集中です】秘書
(白々しい! 貴方らしか有り得ない!!)
続々とログは流れ続ける。
(あの映像……。あれはウチが沢山撮り、貴方がたに送ったものの1つに違いない……。加工はしてあるけど、スマホでの盗撮なんかじゃない……)
苛立ちに身を任せマウスを跳ね除けると、右手を握り締めた。爪が柔らかな皮膚に深く食い込む。
(一体、何の目的があってこんな事を!)
梢枝は深い深い思考に沈み込んでいく。
(……それは後……。どう対処すればええ? 憂さんに近づく者を多少受け入れれば或いは……)
その間にも憂の画像は爆発的に拡散されていったのだった。
(そうね……。シラを切るならそれを利用しない手は……)
梢枝の和風の素顔に冷酷にも思える笑みが張り付いた。