122.0話 かつてのラブレター
―――凌平告白の夜。
「幸い、裏サイトにも憂さんが言おうとされた言葉の推測はありません。何かを話そうとされた事の情報自体が上がっていません。教室の外で聞いていたのがクラスメイトばかりだった。これが良かったんだと思います」
『そうですか……。ありがとうございます』
電話越しの愛の言葉に、梢枝は困ったように笑いを浮かべた。愛の敬語が気になって仕方が無い。あのキャンプの日からどうにも畏まった態度に切り替わってしまったのである。
(何歳だと思っておられるんですかね……)
『憂には、しっかりと言い聞かせておきます……』
「もう、十分だと思います……」
『え……?』
「もうこれ以上は叱ってあげないで欲しいです。憂さんの言い分もウチには良く理解できますので……」
『……分かりました』
あの時、憂が言わんとした言葉は『ボク、男だったから』だった。本人があの後、C棟応接室でそう言った。
―――拓真が強く肩を掴み、声を抑えつつも感情を剥き出しにした後、康平と一触即発となった。
「……一体、何が……?」
凌平の疑問は当然だ。憂の言葉を千穂と梢枝が遮り、遮られた憂は大きな男に突如、詰め寄られた。そして、身辺警護と睨み合ったのだ。
「凌平はん。ホンマに申し訳ない。今日の所は何も聞かず、誰にも話さず、帰宅してくれへんか?」
「それは憂さんの為か?」
凌平も気の強い男だ。かつてはこの1年5組に怒鳴り込んだ事もある。あの康平を至近距離で真っ向から見据えていた。
「せや。彼女の為や」
「「……………………」」
2人とも一切、目を逸らさず20秒ほど経過した後、「わかった」と凌平は荷物を纏め、教室を後にした。
「憂。お前……ふざけんな……」
C棟応接室に場所を移した第一声が拓真のこの言葉だった。何もせずとも鋭い目が更に鋭くなっていた。
凌平の前であれ以上、憂を問い詰めることは不可能だった。それは重大なミスの引き金となる恐れがあった。抑えることが出来たのは、彼が多少なりとも冷静さを残していたからであろう。
「拓真。気持ちは解るがちょっと待て」
「あ?」
拓真を止めたのは、かつてのインサイドの相棒、勇太だった。京之介、圭佑を含めたバスケ部員3名も同席していた。事態の深刻さが部活への足を遠ざけたのだろう。
「お前はなぁ……。その『あ』をやめろって……」
思わず目を逸しつつ、今度は憂に目を向けた。憂は肩を掴み上げた拓真に怯えなかった。幼馴染としての長い付き合いが、恐怖対象としての男性……と云うよりも、1人の『拓真』として認識させているのかも知れない。
「憂? お前……なに、言おうと……した?」
憂は思い出す必要も無かったようだ。勇太の声を飲み込むとすぐに俯き加減で返答した。
「ボク――おとこ――だったから――って――」
チッ……と舌打ちが聞こえた直後、拓真が憂のスカーフ付近のセーラーカラーを掴み上げ、更にその手を康平が捉えた。
「拓真。それはあかんで……?」
拓真の右手首をギリ……と、潰さんばかりに強く握り締めている割には、優しい口調だった。康平も拓真の遣る瀬無い気持ちが解らないほど鈍感では無い。
「康平さん。今回の……俺もさすがに納得できねー」と、拓真の感情に任せた行動を擁護したのは圭佑だった。
「落ち着いて話し合いましょうや……」
康平は全てを悟った仙人のように、ただ宥め続けるのみだった。
もう1人の護衛である梢枝は、この応接室で過ごす時間のいつものスタイルだ。唯一の出入り口であるドアを背に腕を組んでいた。聞き耳を立てる者が居ないか背中で気配を感じ取っているのかも知れない。
他の女子3名は複雑な胸中を垣間見せていた。彼女たちも、もちろん秘密を共有する身の上だ。この場の全員を代表する形で、千穂が胸中を語った。
「憂?」
「――ぅ」
あの拓真には、ほとんど怯まなかった憂の表情に怯えが走った。小さな躰を更に小さく縮こませてしまった。
「どう言う……事……かな?」
千穂にしては珍しい切り出し方だった。それだけに今回の件による波紋は大きかったと云う事だろう。
「ごめん――ボク――」
それだけ言うと、俯き、動かなくなった。
全員が協力し、必死になり、隠し通そうとする秘密をバラそうとした事は理解していたようだ。それだけに始末が悪い。
「ごめん……じゃなくて……」
「千穂ちゃん……」
「康平さん? ちょっと静かにしてて貰えるかな?」
「あ。はい」
「拓真くん……。なんで……怒ったの……?」
憂に向けられた言葉だ。拓真に向けられたものではない。
「――――――――――――」
憂は返事をしなかった。出来なかったのかも知れない。
「みんな……頑張って……るんだよ?」
「――――――」
千穂は待った。理解が及ぶのをじっと待った。普段と変わりない光景だが、言葉には怒気が含まれているように聞こえた。
「……聞いてる? わかったら……返事して……」
返事を促され、申し訳なさそうにチラリと上目遣いに見上げた。
「――うん――」
「憂の為に……隠してる……騙してる……」
千穂は捲し立てない。いつものようにゆっくりと……。じっくりと意思疎通を図っていった。
「――ごめん――。ボク――ごめん――」
「憂が……裏切ったら……ダメだよ……」
そして、また俯いてしまった。
「千穂……」
佳穂がその厳しい言葉に思わず名を呼んだが、佳穂もまた止めなかった。止めたのは別の女子だった。
「……千穂さん? 言いすぎているかも知れませんよ? この前、ウチも憂さんに小言言うてしもうたんです。それをしっかり考えて下さった結果が今回の事に繋がったんだと思います」
「どう言う事……?」
「以前に話しましたえ? 千穂さんの誕生日の日の事です」
「あ。千穂に『やりたい事やってね』って言った……」
ピンと来なかった千穂をフォローするように千晶が呟いた。その呟きを拾うと千穂も何の事か合点がいったようだった。
「答え……出ましたか……?」
梢枝に問われた憂は顔を上げた。深く沈んだ顔のままだった。
「ボクと――いっしょに――だと――おもう――」
「――だったら――いいな――って――」
それで正解だ。間違いないだろう。後半の台詞は謂わば照れ隠しだ。
「――でも」
……言葉は続いていたようだ。憂なりに考え、憂なりに出した答えを紡いでいった。
「それじゃ――ダメ――だから――」
「ずっとは――ダメ――だから――」
「……憂」
千穂は憂に手を伸ばしかけ、その手を降ろした。もう怒りは消え去ってしまったように見えた。庇護欲に押し潰されてしまったようだ。それでもその手を押し留めたのは彼女なりの意地か何かだろう。
「……だから?」
梢枝が続きを促した。今回、自らバラそうとした一件とそれは別の話に聞こえるからだろう。
「だから――うけいれて――くれるなら――」
ここでついに涙が溢れた。随分と我慢できるようになったものだ。以前ならば拓真が詰め寄った時点で泣いていたかも知れない。千穂に責められた時点では間違いなく泣いていただろう。
「――つきあって――みても――いいって――」
「それで……言わないと……。そう思った?」
「――――うん」
そこまで聞き遂げると梢枝は憂の手を取り、ポンポンともう片方の手で優しく叩いた。それは『よく話せたね』と言葉無く語っていた。
そして梢枝は憂から目線を外し、全員を見回した。
「……どうやら凌平さんへの誠意を見せようとされたみたいですねぇ。全員が気付いていたでしょう? 憂さんは隠したままで、男子とお付き合いされる事は有り得ません。この通り、誠実な方です。だからこそ、バラそうとしはったんです。皆さんのお気持ちも重々承知しております。ですが、今回の一件は許してあげて欲しいです……。これからは相談なく、今回のような事はされません。ウチが責任持って説明します」
重量など存在するはずも無いのに重い。そんな沈黙が薄靄のように辺りに立ち込めた。
「……男子の皆さん?」
それでいいのか……? そんな雰囲気になった時に千晶が口を開いた。
「みんな真剣に考えてくれたのかな? 憂ちゃんはしっかりと悩んで……。いっぱいいっぱい考えて……。それで今回、こんな事になっちゃったみたいです。わたしも正直、憂ちゃんそれは無いよ……とか思ったけど、ちゃんとした理由があった。男子の皆さんはどうですか? あれからきちんと考えてくれましたか? もしも、考えてないのなら、その人に憂ちゃんを責める資格はありません。憂ちゃんは本当は男子と付き合いたくないんです。それでも千穂の為にって考えたんです。苦渋の選択なんです。それは泣き始めちゃったタイミングが証明しています」
……重い一撃だった。男子諸君は顔を背け、或いは俯いた。彼らの中には、ほぼ全員に『憂と付き合えば、他に奴らに何を思われるか分かったもんじゃない』と云う考えが、呪いのように横たわっている。憂だけを見て無理と判断している訳ではない。
「康平さん。貴方もですえ?」
「あ。はい」
「……悪かった。……けどな。相談無しには……許さねぇ……」
一番、強硬だった拓真が先ずは真っ先に矛を収めた。
それはすぐに全体へと波及した。
想いを発露した憂は赦された―――
ただし、みんなの想いを蔑ろにし、バラそうとした事は事実。
……もちろん、その後に千穂に拓真、梢枝に康平。佳穂にまで今回の言動について、お小言を頂いたのだった。
『凌平くん。彼には……』
「……ウチに任せて貰って構いませんか? 彼としっかり話し、彼が信用に値する人物だと断言出来れば、伝えてしまおうと思います。彼も疑心暗鬼に陥っておられるでしょうから……。探られてしまうよりは……。そう思っています」
『……梢枝さんにお任せします』
「慎重かつ迅速に動きます。事は火急を要しますので……」
不安は否めない。『知らない』クラスメイトたちが、どこまで聞いたか判断が付かない。凌平以外にも懸念は転がっている。何が何でも隠し通したい梢枝を嘲笑っている。
『ふふっ……』
「……お姉さん?」
聞こえてしまった現状に相応しくない笑声に反応してしまった。思わず……と、云った具合だった。
『憂が……。あの子がそこまで考えられるようになってるなんて……。そろそろいいのかな……?』
「何が……です?」
……聞いて欲しいのかも。そう判断し、問い掛けた。憂を叱った事で憂のキーマン。キーパーソンと謂える姉からの信頼を勝ち取ってしまったらしい。
そう思うと敬語はリスペクトかも知れない。その自惚れを慌てて脳内から消し去った。
『千穂ちゃんの告白の時の手紙……。憂の最後の公式戦のDVD……。いつか見せてあげないと……って思いながら見せてあげられてなかったんです。今、少しでも前を向けてるのなら……。梢枝さんはどう思いますか?』
「……大丈夫だと思います」
『……ありがとうございます。それじゃあ、見せてみますね』
「はい。また明日も連絡差し上げます」
『お待ちしています。それではおやすみなさい……』
……梢枝は余韻に浸るかのように、しばらくスマホを耳に当てていた。
梢枝は見た。千晶が男子隊を諌めたその時、勇太の視線が佳穂へと移ろった瞬間を。
凌平の告白。そして失敗。
この情報は裏サイトに漏れている。【キザ男玉砕!】と速報されたのだ。
凌平のハイスペックな能力は多くの者が知り得ている。彼もまた目立つ人間だ。鬱陶しい髪型と語り口調で人目を集めていた。それがイメージチェンジにより、一気に好感度を跳ね上げた。現在では個別スレッドも立つほどだ。その住人は女子だらけである。
憂への好意は周知の事実だった。その想いが敗れた。彼を取り巻く環境はガラリと変わるかも知れない。
更に生徒会長の言葉から3ヶ月半。ついに、あの少女に告白した者が出現した。それは憂への想いの発露が解禁された事に他ならない。
これから巻き起こるであろう嵐の予感に梢枝はギリと奥歯を噛み締め、誓った。
(護り通して見せます。何があっても……)
憂は刺繍の練習中である。部活探しを諦めた時に言った出来そうな事……とは、この刺繍であった。
心を籠め、一針ひと針、針の穴を通すかのようにゆっくりと針を通していく。
その表情は乱れる事は無かった。一心不乱に……、ありったけの想いを込めるかのように、丁寧に丁寧に同じ動作を繰り返していく。
その様は何とも美しい。
「憂? 憂に……返す……ね」
「――――?」
姉は優の思い出の集まりをこの日、憂に返却した。思い出たちと一緒に新たに貯金通帳も手渡された。名義は【立花 優】から【立花 憂】へと変化していた。優の口座を解約し、憂の口座を開いたのだ。そこには何時ぞやの買い物で、姉から借りたお金を引いた祖父からのお盆玉分も加算されていた。また1つ、姉は妹に自立への道を拓いたのである。
「――これ!」
憂は1枚の可愛らしい封筒を手に取った。可愛げの無い、犬らしき動物めいたイラストが成されている。
慌てふためき、便箋を取り出そうとした憂の手を姉が阻んだ。
「……ゆっくり。破れちゃう……よ?」
その姉の手に清らかな雫が落ちた。
(……思い出したんだね。千穂ちゃんの告白……)
姉に言われたように、そっと便箋を取り出すと憂は涙声ながら、はっきりと言った。
「――よめない」
涙で見えないのか、漢字が読めないのか……。なんとも判断し難い。姉はそんな妹に何とも不思議な笑みを向けた。
「読んで……あげよっか?」
「――うん」
……断られると思っていたようだ。少し呆気に取られた様子で手紙を受け取ると、その便箋に目を通した。今の千穂より拙い。拙いが、精一杯、一文字ひと文字丁寧に書かれており、愛の頬が緩んだ。
「優くんへ――」
愛は目を見張った。
「――優くんに――大切な――おはなしが――あります――」
驚きに声も無かった。
「今日の――ほうかご――おくじょうで――まってます――」
「漆原――千穂――」
次から次へと妹の大きな瞳から大粒の雫が伝い、ポタリポタリと零れていった。
姉は妹の頭を胸に抱くと「あんたはどうすんのさ? どうしたいのさ? 千穂ちゃんと離れられないんでしょ……」と、何の配慮も無く呟いた。
「それなのに男の子と付き合おうなんて……。無理な癖に……。グスッ! あー! 悲しいねー!」
「千穂ちゃんを……諦め……られる?」
「――ひっく」
1つしゃっくりすると、それから返答した。
「うぅ――わかんない――」
「わか「ひっく」
「………………」
(久々の大泣きだったからねぇ……。しゃっくりしてる憂も可愛いわ……)
「――――――」
「………………」
「ひっく――うぅ――」
「まぁ……じっくり……考えて……?」
「かんがえた――だから――」
何度も何度も考えた結論が放課後のソレだったのだろう。それは愛も理解している。そうするべきだとも思う。だが、その理性を想いが邪魔をしている。
「もうい「ひっく」
「………………」
「――――――」
「もう一度……かん「――っく」
「もう一度……考えて……?」
「――うん」
この日、憂は珍しく遅い時間まで起きていた。
アルバムを興味津々に覗き込み、時折、遠くを見詰めた。かと思えば、黒目がちな大きな目を見開いた。単純な目のサイズで言えば驚くほどは大きくない。顔が小ぶりな為にそう見えるのだ。
アルバムを見終えると、今度は一冊の雑誌を開いた。バスケの専門誌であるそれには、全国制覇の有力候補である藤校中等部を撃破した蓼学の記事が載っていた。
見出しは【稀代の天才・厚い壁を打ち破る】だった。
残念ながら読めなかったようだが―――後日、愛に読んで貰った。愛はこの時、刺繍の勉強中だった―――、掲載された写真に目を奪われていた。試合終了を告げるホイッスルが鳴り響き、背を向けた4番の下に駆け寄る4人の姿だった。
試合にストイックな優は、試合終了直前、自身のゴールで2点のリードを奪うと、動けない9名とは違い、自陣へと守備の為、素早く戻っていたのである。
……DVDも観ようとしていたようだが、睡魔に負けてしまったらしい。
この日の夜。憂にとって、実に有意義な時間だったようだ。
お姫様抱っこでベッドに寝かすと愛は目を細めた。
今の今まで思い出の品々を渡さなかったのは、何も意地悪をしていた訳ではない。過去に縛られている憂。それを助長する事に成り兼ねない……と、封印していたのだ。
梢枝によって思考を促され、もう大丈夫……。成長したと判断したのである。例え、電話越しの梢枝に『止めたほうが良い』と言われていたとしても、きっと思い出の塊たちを返却していただろう。
憂の全責任を負うと言っても過言ではない姉は、きっと誰かしらからの同意が欲しかっただけなのだ。