117.0話 憂、鬱
―――8月21日(月)
……ん?
なんだ? どしたの?
「ぅ――ぅぐ――」
……泣いてんのか。困った子だね。
「……どしたのよ。あんたは……」
今、何時かね……?
…………。
4時半……。
まだ眠いんだけどね。
「お姉ちゃん――ボク――」
「……うん。どした?」
「どう――――」
…………?
……どう?
ありゃ? 小首傾げた。
「――なんでも――ない――」
なんじゃそりゃ。
「――しっこ――いく――」
……今度はどんな夢見たのさ?
枕の上……あった。便利だよねー。起きる必要なし。
ぴ、ぴーって、明るくなる室内。電気のリモコン考えた人、天才だわ。表彰してあげたい。
でも立ち上がる。避けてあげなきゃならん。意味ないよねー。
ゴソゴソ這い出てきて、トットトット……ってかーるい足音響かせて、サーって音立てて襖を開いてペタペタってトイレへ。転ぶなよー。
開けっ放しかーい!
まぁ、いいか。暗いの苦手だもんね。オバケ怖いとか子どもだよねー。
……私もだったけどさ。いつからだっけ? 平気になったのは。
大人になったんでしょ。たぶん。よく判らんけど。
ザー。トイレの方から水の流れる音。案外、近いから聞こえるんだよね。開けっ放しだし。
お。戻ってきた。
もう大丈夫かな? そろそろ私も自分の部屋で寝ようかな?
……うーむ。
……いや。やっぱりやめとこうね。まだ早いよ。それより何より私が寂しい。
そろそろ私も認めてやろうじゃないか。憂に構いすぎ。そうだ。悪いか。私は憂依存症だ。
…………。
なんでこの子、立ちっぱなしかね? 襖、閉めなはれや?
あ。閉めた。目線に気付いたのか?
いつからだろうね。前より察する能力が上がってるんだよ。
「さ。布団……入ろ?」
「――うん」
お。反応早い。
……聞いとくべきか?
迷うね。そう言えば憂のすすり泣きで目が醒めたんだよ。トイレに行ったのは誤魔化し? 私が起きたもんだからついでに行っただけ?
……どうしたもんかね?
ん? 傷痕見てる? ……何を今更……?
パジャマの上の裾をぺらり。
……何してる?
首、傾げた……。
ボタン外し始めた。
「……なに……してるの?」
……ボタン留め始めた。
「……なに……してんの……」
「なんでも――ない――よ?」
出たな。なんでもないよ。信じられるかっ! 憂の行動には何か意味ある……はず。
「……なんで……泣いてたの……?」
「――ないて――た?」
……忘れた? ホントに?
…………目が泳いだじゃないかっ!
「隠さない……で?」
誤魔化されつづけないよ。私だって。でもまぁ、ホントに言いたくない事かもだから、逃げ道の為に疑問形。
……甘いかな?
お。出たな。唇。押してあげないぞ?
「――お姉ちゃん――だって――」
え……?
…………。
……憂にしてる隠し事なんてほとんど無いよ……?
でも……まさか……ねぇ。意識不明だったんだし。
聞こえてたとか? 先生や看護師の皆さんの会話が……。そんな訳……ないとも言い切れないか。先生に報告を……って。その前にやっぱり聞いておこっか。
「言えない?」
答えられるものなら答えてくれるでしょ……。
「はっきり――おぼえて――ない――」
憶えてない? ……って事は……。
「夢……見たの?」
「ゆめ――?」
……なんか、いつもと違うね。たぶん、私か千穂ちゃん……。専属の皆さん……は、もう難しいかな? 退院して、この子も少しは成長してるし……。
傍に居る機会の多い私たち2人なら気付けるレベルの差異。
……きっと、機能の回復。憂は夢を見た。例の夢。自由に考えられるって憂が言った夢。
「ゆめ――」
ちょ……っと……、憂……?
「――ゆめ」
「ごめん! ごめん! 忘れて!?」
……抵抗もしない……。カタカタ震えて……。縋り付いて……。
何を見たの?
『はっきり憶えてない』って事は少しは憶えてる……? 何を?
……憂はそのまま眠らなかった。
落ち着くまでには時間が掛かったけど、いつも通り朝ご飯食べて、いつも通り、支度をして……。
あれ以降は何一つ、違和感無くて……。ただ、笑顔が見られなかっただけだった。
そのまま、千穂ちゃんにバトンを引き継いだ。
……愛さんから聞かされていた通り、憂の様子がたしかにおかしい。
昨日、勇太くんの家に遊びに行った時には、いつもと変わらなかったって……。
今日は凌平くんのところに行かない。教科書を開く訳でもなく、タブレットを取り出す訳でもなく……。まだ1時間目なんだけどね。
「……憂ちゃん?」
今度は千晶。数分おきに誰かが話し掛けてる。
今はスカーフをいじってるね。ずっと、セーラー服のどこかをいじり回してる。さっきまではスカートのプリーツを1つ1つ丁寧に直してたんだよ。すっごく珍しい。スカーフは時々直す事あったんだけどね。几帳面なところは優の頃からあったから……。
憂は少しの間、千晶を見て……またスカーフに視線を落とす。
千晶……。私を見られても困る……。私だってどうしたらいいのか分かんないんだよ?
今のところ、話し掛けたのは私と佳穂、千晶に勇太くん。梢枝さんも康平くんもダメ。
寂しいよ……。
……ちらり。
あらら……。
ばっちり目が合っちゃった。思わず逸しちゃったけど……。
勇太くんに課題を与えて自習中の拓真くん。普段と変わらないように見えるけど、気になってるんだよね。
あとは……貴方を残すだけなんですよ……なんて。
「……憂?」
あ……。声掛けてくれた……。
「――――」
無言で振り向いて……またスカーフに目を戻した……。
「――ごめん」
反応あった!
「何が……あった?」
朝、早い時間に起きたら泣いてたって、愛さんの情報。それは知ってる人みんなで情報共有済。
色々まとめての質問だね……。
「ひとりに――なりたい――」
ぎぃ。そう言って立ち上がった。
……どうしたらいい?
歩き始めた……。
クラス中の注目を浴びてるこの状況で……。どうするの……?
一人に? 憂を? どうして? 今までこんな事なかったのに……。
「千穂……」
佳穂の声……。
「千穂?」
憂はドアを開けて……教室を出ていった……。梢枝さんが追従。
「千穂!?」
千晶の2度目の呼び掛けに体を戻すとスマホを見せてた。
【ウチが行きます。1人に出来ません。皆さんはこの場に。ウチくらいの距離感のほうが良いのかも】梢枝
『かも』で終わってる。珍しい……。慌てて入力したから……?
……憂。ホントにどうしたの……?
「ねぇ!? 千穂ちゃん! 憂ちゃん、どうしたの!?」
「何かあったの!?」
…………。
「わからないよ……」
……ホントに分からない……。
「分からないってどう言う事!?」
「あんな憂ちゃん初めてだよ!?」
「……喧嘩でもしたんじゃね?」
「知ってんだろ!?」
「知らないってば!!」
「「……千穂」」
……皆さん、千穂ちゃんの事は任せまっせ。梢枝、どこ行った?
…………居た。
階段……か……。
追いついた。憂さんの足ならすぐだよな……。俺が隣。梢枝が後ろ。
『一人になりたい』か……。
…………。
ごめんな。今は出来んよ。憂さんは以前、手首を……。
ぼんやりしてるな……。何を思ってる?
階段踊り場……。また階段……うわっと!!
「……憂さん、驚き……ましたわぁ……」
躓きはった……。危ねぇ……。
…………。
柔らかいな……。
………………。
すんません……。そんな見られると困る……。
小首を傾げて上目遣い……。綺麗な目だな……。この澄んだ目で何を思ってるんだ?
「――ありがと」
「あ。いや。礼……なんか、要りまへんわ」
普通にお礼言われてちょいびびり。卑怯やわ。
「みんな――かまい――すぎ――」
……ん?
「やめた――ほうが――いい――よ?」
……やめた方がいい? 『やめて』じゃなくて?
……なんでだ?
梢枝も顎に手を添えて思案中か……。
おっと。進み始めた……。梢枝! 考えるのはお前の仕事! 任せた!
2階に到着。3階へのっと!!
2度目だよ? 憂さん?
「――ごめん。ありがと――」
「いやいや。問題……ないっすよ?」
なんか俺、言い方変だったな。
……。
……また、進み始めた。
それより……。思考に注意力を持っていかれてるのか? 過去の経験で階段を上がってるのか?
それなら何度も躓くのも納得だ。優くんの感覚で足を上げると上げ幅が足りず躓く。ぼんやりしてる時の階段は危険だな。
……今更気付いたわ。ぼんやりの時は、いつも千穂ちゃんが注意を促してるから……。千穂ちゃん凄いな。それに気付いてんだ。あの子は……。
……さて、踊り場……。
「憂さん、階段や……」
…………。
よっしゃ! 躓かんかった!
そうか……意識せな、階段1つが危険なのか……。それをずっとこの子は……。そりゃ、脳みそフル回転だわ……。
そう思うときついな……。俺の考え浅かったわ……。なんで慣れないんだー、とか……安易に思ってたわ。
そして3階の到着。
「憂さん? 階段やで」
……一歩目。それが大事なんか。一歩目で小さくなった体を意識すると、あとは無意識で上がれる。ぼんやりしながらでも上がれる。小さな体って事を無意識に理解する。
慣れる訳ねー。意識しなければ優くんの体のサイズで足を出す。そうしたら躓く。躓かない為に小さな体を意識する。
こんなん……どうやったら慣れる事が出来る……?
憂さん……。これは……辛いわ……。
あと3段。
……2段。
1段……。
「憂さん。階段や」
一歩目はやっぱり足をしっかり上げてるな。これで屋上の塔屋まで無事上がれる……。
いっつもやってる千穂ちゃんや愛さんに感服した。
あと5……。
4……。
3……。
2……。
1……。
うわっ! 何やってんねん! 躓いたやんか!!
「康平さん!!」
「ゃぁぁ――」
ちゃうねん! 事故や!
あ……憂さん、梢枝に攫われた……。
「高校一年生の胸に触れるなんて!!」
「咄嗟に助けた結果や! 最後の最後に躓くとは思ってなかった!」
「憂さんがぼんやりしてはったん見とったやろ!?」
「――け「一段目上がれば平気や思うやろ!」
「千穂さんは最後まで気ぃ抜かへん!」
「俺が悪い言うんか!?」
「け「憂さんに謝ってください!」
「もちろん謝るわ!!」
「はよぅ!」
「けんか――!! やめ――!!」
「ごめんなさい」
「すみません……」
本気で怒られたの初めてだ……。
梢枝、一瞬で涙目じゃねーか!?
……にしても……柔らかかった……ぞ?
「康平さん……?」
「あぁ……」
憂さんは屋上に踏み出した。
真っ直ぐ……片足を引いて歩き続ける……。
人が居るな……。1組だけ……。男女のペア。イチャイチャしてんなよ?
憂さんはそいつらとは、離れていく。気を使ってるんか……?
お……。あいつら立った……。行ってくれるんか。すまんな。
「憂ちゃん!? 千穂ちゃん! どしたの!?」
普通、そう思うよな。誰が見ても一心同体の2人……ってか、大声やめろ。
「おい! 行くぞ! あの人怖ぇよ!」
……俺の事? この眼鏡のせい?
「憂ちゃんたち、ばいばーい!」
――――。
「――ばいばい――」
「きゃーー!! ばいばいして貰ったぁーー!!」
……行ったか……。騒がしい子だったな……。
さて……。憂さん……。
「まぁいいや――」
止まってた足をまた動かす。屋上の端に寄っていく。
フェンスを掴んだ。憂さんには悪いが登れないと断言できる。
過去1人。C棟じゃないが、1人の生徒が身を投げている。その防止の為にフェンスは高い。250cmはある。
学園裏サイトの存在を学園は知っている。過去にプライベート写真を晒されまくった生徒が出た。よくあるイジメの類だ。下着姿まで投下された。おそらく『解剖』された画像だ。その女生徒はそれを苦に自殺。
『解剖』の画像を投稿した生徒はもちろん、関わった者、他の画像をUPした7人に情け容赦無く退学処分が下された。蓼学が持つ悲しい過去だ。
事件を受け、学園は……。前学園長は【以降、一切の画像の投稿を禁ずる】……と、サイト内で告知した。
試した者が居た。そこに現れ、告知した者が学園長その人であるか不明だったからだ。成りすましている可能性があった。
何名もくだらない画像を投稿した。その全員が停学処分を受けた。それ以降、一切の画像は貼られなくなった。
学園裏サイトのTOPページには、今も注意書きがある。
【停学、退学処分を受けたくなければ画像を投稿するな】
……これが憂さんを含めた有名人たちの画像が貼られない理由だ。
前学園長も苦渋の決断だっただろう。原因の1つとなった裏サイトの存続を公認する形だ……。だが、この判断は見事だと言い切れる。この時、裏サイトを潰したとしても、ネットの更に深部に潜り込み、続けられる事は目に見えている……。
風に靡く髪をそのままに……憂さんはフェンスの金網に指を絡ませ、遠くを見詰める。見詰め続ける。
「――康平?」
「……なんでっか?」
「――梢枝?」
「……はい」
「おねがい――ひとりに――」
フェンスを掴んだまま、柔らかい体を捻り、俺らを見回す。
……どうする?
「……わかりました。さっきの……階段に……います……」
梢枝は意思を尊重……か。こいつも憂さんがもしもの事を考えていたとしても登れないって判断だろう。登ろうとしても走れば間に合う……。
……梢枝は塔屋に向けて歩いていった。
「――康平?」
上目遣いでじっと見上げられる。涙が膜を張っている。懇願……だ。
「憂さん?」
……1人になるなんて悲しくないか?
「――なに?」
「何も……しない。言わない……」
……待つ。じっと待つ。憂さんが理解するその時まで。
「――わかった」
3分ほど後に意外な言葉が返ってきた。略した『だから傍に居させてくれないか?』まで捉えてくれた。
……憂さんは……ただただぼんやりと遠くを見詰め続けた。
立ったままに疲れると、高架水槽の土台のコンクリによじ登り、そこに座って空を眺めた。
表情は固まったり……、移ろいだり……。
屋上内を移動し、吟味し、適当な場所で動きを止めた。
……全てネガティブな思考や回想に見えた。13時を過ぎると、憂さんは3度目の高架水槽のコンクリートに体を横たえ、眠ってしまった。食事も摂らなかった。
……眠ってしまった憂さんの細い髪は、風に揺れていた。今朝は誰にも髪型を変えさせなかった。拒絶では無く。やんわりと断っていた。自分で丁寧に髪を解いた。丁寧に。綺麗に。
何があったかなんか分からない。憂さんの想いを解れるはずはない。憂さんの複雑に絡み合った感情を完全に理解できるはずがない。解ると断言した奴が現れたとしたら、そいつはペテン師の類だ。
俺は収まるところに収まる事を信じて、その可愛らしい寝顔を見詰めていた。
15時。憂さんはそっと目を開いた。
……俺は一切の着信を無視した。チャットも無視した。それが憂さんに対する誠意だと感じたからだ。
俺は空気だった。空気になれていた……はずだ。
憂さんが眠る直前に見せた唯一の涙。その時だけは感情を誤魔化さなかった。
「――康平!」
元気な声音に驚いた。
「ありがと――!」
………………。
……可愛いな。
吹っ切れたんだろうか?
……誤魔化されたんだろうか?
「きょうしつ――もどろ――?」
目映いほどの笑顔だった。
「おなか――すいた――ね?」
「……せやな!」
「ごめん――ね――?」
彼女の中で解決した……。そう信じたい。
健太くんが覗いていた廊下から頭を引っ込めて私を見た。
「おい! 憂ちゃん、帰ってきたぞ!」
帰って……きた……?
「千穂!」
憂! 帰ってきた!
「速ぇな……」
それはそうでしょ!
健太くん! ドア! ありがと!!
全力疾走! 憂だ!
「ちょ! 千穂ちゃん!?」
「わぁぁぁ――!!」
憂!!
「……熱烈なハグやねぇ」
「――千穂!?」
ちっちゃな憂の感触!
「憂! おかえり!!」
「千穂――? ただいま――?」
「喧嘩して仲直りって事でええですか? ……このままじゃ変な噂が立ちますよって……」
「はい! それで!!」
「千穂――?」
「なに?」
「しんぱい――ごめん――ね?」
「仕方ない……。許して……あげます……」