115.0話 祖父母来訪
―――8月13日(日)
黒のワンピースが何とも少女の儚さを際立たせている。その肌の白さが強調されてしまっているのである。この頃、ネットの深部で『白の少女』と揶揄される所以である。もちろん純正制服と相俟っての比喩であろう。
そして憂は白、若しくは黒の単色が良く似合う。白か黒の単色のコーディネイトは人を選ぶ。素材の善し悪しがそうさせるのだ。似合い過ぎる憂の素材の良さは計り知れない。
憂を初見したお坊さんが思わず、手を合わせてしまったほどだ。
読経の声が響く中、件の憂は居心地が悪そうに縮こまってしまっている。
切っ掛けは……朝、まだ早い時間に訪れた父方の祖父母……いや、祖父だった。
立花家の5名は揃って喪服を身に着け、祖父母を全員揃って笑顔で出迎えた。祖父母も黒の衣装。礼服であるのは当然だろう。
「息災そうで何よりだ!」
第一声は問題なかった。祖父は明朗に笑ってみせた。
「じいちゃん、ばあちゃん、はよ。早いな」
「親父、母さん。久しぶり……」
「おはよう――ございます――?」
「おはよ。久しぶり!」
「まぁまぁ、お義父さん、お義母さん、お久しぶりです」
「みんな元気そうで……」
祖母は愛おしそうに孫3人に目を向けた。
「おぉ! 久しぶりだな! 愛、剛!」
祖母のそれに対して、祖父は、そこに居るはずのひと際小さな新しい孫が、まるで見えていないような物言いだった。
「……お父さん?」
祖母は小声で主人を叱責した……が、彼は意に返さなかった。愛も剛も……その場の全員の表情が凍てついた事さえ無視した。
「……優くんに逢わせてくれまいか」
「親父……。その前に紹介を「要らん」
「おや「早く優くんに逢わせろ!」
仏間へは憂の部屋を経由する必要がある。
ズカズカとその部屋を通過する際には、丁寧にハンガーに掛けられた白いセーラー服を一瞥し、「ふん」と鼻を鳴らした。
優の遺影を前にするとそんな態度は一変した。
……葬儀は家族のみで執り行った。親族誰一人呼ばず、焼き場まで足を運んだ。当然だ。遺体など無かった。純白に包まれた何かが棺桶に入れられていただけだ。そこから生じる疑問は余りにも危険すぎた。つまり、この遺影が亡くなったと聞いてから見る、初めての姿なのである。
「ぅ……ぐぅ……優……。……優……」
家族一同、肩を震わせ、咽び泣く後ろ姿を前に何も言えなくなったのだった。秘密にしている罪悪感がそうさせたのだろう。
そんな中、忙しなく目を泳がせ、落ち着き無く体を揺らす憂を、祖母は「おいで?」と招き寄せた。
「憂ちゃんだね。はじめまして……」
傍に寄った憂の手をしっかりと握り、にっこりと微笑んだ。
「――はじめ――まして――?」
疑問形だった。見覚えがあるのかも知れない。記憶に引っ掛かる部分があったのだろう。
『優しいおばあさん』を前にし、憂もにっこりと笑顔を見せた瞬間だった。
「……っく……、頼む……。済まんがその名を呼ばないでくれ……」
祖父は振り向きもせず、優の遺影を見詰めたまま、そう呟いた。
何とも言えない沈黙の中、インターフォンが鳴り響いた。
ここで冒頭へと戻る。
祖母は問題ないようだ。憂を憂として受け入れられているようである……が、祖父はそうもいかないらしい。
迅は幾度となく、憂によってもたらされた……、戻ってきた幸せについて、電話越しに語っている。その時は何も言わず、静かに聞き入っていた。大丈夫だと思っていた。
祖母もまた、大丈夫だろうと迅に語っていた。
……憂本人を前にし、感情が吹き出してしまったのかも知れない。
今もまた読経を聞きつつ、涙を見せている。優は5人の孫の中で一番下だった。その可愛がり様は親族一同、呆れ返るほどだった。
世間の目で、憂は優の代役だ。そう仕向けた。危険性の排除の為、家族以外の親類は全員が優の生存を知らない。
憂は愛される立場へと上り詰める必要がある。いつか秘密が暴露されるその日までに。
着々とその計画は成されている。全て、総帥と病院関係者たちの目論見通りに事が運んでいる。
その計画の為に家族は血縁にさえ、口を閉ざしている。
祖父の憂に対する余りに冷淡な態度は、謂わば代償だ。
(それでも……)
そう愛は思った。会う機会こそ少なかったものの、祖父は亡くなった孫を間違いなく愛していた。孫もまた、だらしなく目尻を下げる祖父に懐いていた。
(あんまりだ……)
お経を上げる野太い声が響く中、行儀よく正座しているものの、体を揺らし居心地悪そうにどこかソワソワとする隣の憂。全てを告げてしまいたい衝動に駆られる。
『この子が優なんだよ!』
そうひと言、ひと言だけ発すれば全て丸く収まるかも知れない。しかし、可能な限り、リスクは下げて然るべきだ……と、心を頑なにする。
父を想う。母を想う。弟を想う。
秘密を共有する全員がどこかでその気持ちを抱えているはずだ。
本当の妹のように可愛い千穂も、つい最近までそうだった。
千穂は、たった1人の家族に秘密を押し通した。予期せぬ手紙を機に、『知る』事となっただけだ。
もしもあの手紙が無ければ、きっと今も心で謝りながら嘘を吐き続けていただろう。
愛はきつく膝の上の両手を握り締めた。
読経が終わり、有り難い説法をどこか上の空で聞いてしまった迅だったが、礼に乗っ取り、住職を見送った。
そして自嘲する。
茶番だ。先程のお坊さんは真剣そのものだった。そのお坊さんの性格だろう。涙を流す爺様の姿に感化されていた。
15歳の短い人生を終えた悲しい事故。悲劇だと大真面目に受け止めている。
欺いている。世間への終わりの無い背信行為だ。
事実が晒された時を恐ろしくも思う。世間は許してくれるのだろうか……と、眠れない日もあった。
それでも……と、信じる。実際、それしか方法は無いと思う。
悲劇的に世間を欺いた悲しき一家。
……そうなる日をただ待つばかりだ。
どうにもネカティブな方向に陥る午前だった。
住職を見送ると、リビングで久々の面と向かっての会話が始まった。
いつものL字のソファー。玄関側から見て祖父、父、母、妹、兄、祖母、姉。そんな形に落ち着いた。
愛が外側に座ったのは、お茶のおかわりなど、利便性の為だろう。
「親父。そろそろ紹介……受けてくれるな?」
若干、険のある言い方だった。迅にしては珍しい。
「……すまんかった。頭では解っているんだ。その子は何も悪くない……」
「憂だ。この子を迎えてウチは立ち直った……」
幸の、愛の、剛の……憂の視線が集まった。迅の決意は伝わった。あくまでも秘密を保持する。それを意味する言葉だった。
―――祖父母は遠方に住んでいる。それが意味する懸念。
……悪い言葉だが、相互監視の目が無い。この意味合いは大きい。少し前、猫の手紙の件でチャットは紛糾した。その時、爆弾と評した圭佑と佳穂の言葉は、正にそれを示している。
それが例え、実の祖父母にさえ、真実を告げられない理由である。
もう一件。母方の祖父母は然程、遠くない。蓼園市に住んでいる……にも関わらず『知らない』ままなのは、同じ祖父母に差を付けない為である―――
「憂? 挨拶を……」
おそらく1人だけ解っていない憂には、明らかな緊張が見て取れた。
「――はじめまして――憂です」
視線が集まる。注視される。家族は憂が思い出したかどうかの確認を。祖父母は哀れみとも取れる、ひと言では言い表せられないものを。
その状況に憂は益々、萎縮してしまった。俯いて顔を上げられなくなった。
「綺麗な声……。本当に可愛い子ね……。ごめんなさい。こんなに緊張させてしまって……」
「……お婆ちゃん? 憂は……その……」
「あ……。そうだったねぇ。ごめんねぇ……」
年齢の割に嗄れていない、綺麗な声音だ。どこか落ち着きを与える……。そんな声だ。
「いい子ね。私たちを……笑顔で……出迎えて……」
憂の顎が上がった。祖母を見上げたのだ。そんな憂を見て、剛は席を立ち、祖母と入れ替わった。
入れ替わると彼女はまた、憂の手を取った。年輪を感じさせる手だった。
憂の硬直していた表情筋がゆっくりと弛緩していく。それに合わせ、その場の者たちの表情も緩んでいった。
「おじいさん……。こんな人……だから……」
責めるような一瞥だった。「んん……」と祖父はそっぽを向いた。彼にも当然、有り得ない態度を取ってしまった自覚があるのだろう。
憂は少しの間、小首を傾げその言葉の意味を解きほぐすと、ふるふると首を横に振った。
「優しい子……」
『おばあちゃん』によって、少しずつ張り詰めた空気が薄まり始めた時だった。
ピンポーンとインターフォンが鳴った。何ともタイミングの悪い来訪者に、愛は一瞬、顔を顰め、玄関へと向かっていった。
愛の案内で、リビングに招き入れられた一団。本居一家だった。本居家は礼儀正しい。初めて見る、祖父母を前に、中学生の美優さえもしっかりとした挨拶を行なっていた。
挨拶を終えると、すぐに仏間へと案内されていった。
迅により、本居家の子細を聞くと「……家族ぐるみの付き合いか。いい事だ……」と呟いた。
祖父の呟きには、『近所付き合いの薄くなった現代にも関わらず』……と、云う枕詞が掛かっていたのかも知れない。
「我侭言うな……」
鈴の音が響いてしばらく。そんな拓真の声が届いた。この日ばかりは、憂の部屋の襖は全て開かれている為だろう。
これから総帥や優の友人たちもまた、仏壇に合掌する為、訪問してくる予定なのだ。
「どうしたの?」
幸が美優に問い掛けた。我侭を言ったのは美優らしい。
「こいつ、『憂先輩と遊びに行きたい』って……」
「まぁ……。憂ちゃんは慕われているのねぇ……」
「構わんよ。行ってきなさい」
「本当ですか!?」
「「「美優!」」」
思いがけない祖父母の言葉に喜んだのも束の間、即座に窘められ、がっくりと肩を落とした。
そんな美優を見て憂は苦笑い……。実に珍しい。初めてかも知れない。
「ごめんね――。また――こんど――」
「本当ですか!? 約束で……。えっと……」
……どうやら途中で思い出したらしい。興奮したとは言えど、配慮を完全に怠っていた……が、問題ない。
「――うん。やくそく――」
笑顔を見せた。学園での千穂のように、自宅では幸がその役割を果たしている。つまるところ……通訳のようなものだ。
それからは入れ替わり立ち替わりだった。
千穂の漆原家。有希&優子に付いてきたと思しき健太。勇太たちバスケ部トリオ他、優の世代の控え選手や先輩に後輩。学園長と当時の担任の現国教師。佳穂&千晶。さくらと陽向、瀬里奈など、かつてのクラスメイトたち。多くの者が線香を立てていった。
続々と訪れる面々に祖父母は何を思ったろうか。遺影の前で泣いた者も居た。『知らない』かつてのクラスメイトやバスケ部の仲間たちの中に、それは居た。優を偲び、涙した。
その後、憂に優しい笑顔を向けた面々を見て、何を感じたのだろうか。
……それは夕方、また遠方へと戻る玄関先で判明した。
「みんな元気でな。事故など要らんよ……」
「……本当。気を付けて過ごしてねぇ……」
「あぁ……。親父も母さんも気を付けて……」
「またね。今度、遊びに行くよ」
「お義父さんもお義母さんもお元気で。風邪など召されないようにして下さい」
「じいちゃん、ばあちゃん、長生きしてくれよ」
別れ際の挨拶。1人、深く沈んだ表情の憂が居た。憂は祖父、祖母の2人をおじいちゃん、おばあちゃんと認識した。優の記憶を引き出せた訳ではない。新たにだ。
……思い出せなかった。
この事実が憂の心を押し潰さんばかりに苛んでいた。
そんな時に祖父が言った。
「憂も……来るん……だぞ?」
初めて、ゆっくりと憂に話し掛けた。初めて大切な大切な名前を呼んだ。
「待ってる……からね?」
祖母の優しい物言いが駄目押しとなった。
憂は隠す暇無く、涙を流してしまったのである。
それを見た瞬間、祖父は靴を脱ぎ捨て、新たな孫となった憂を胸に抱いた。
「済まんかった! 儂が悪かったな! 憂に辛い想いをさせたな……。馬鹿なじじいを許してくれ……」
憂の涙が収まるまで、祖父は孫を抱いていた。涙が収まると、もう1度「済まんかった」と腰を落とし、目線を合わせ謝った。
「――ううん――。ごめんね――。ありがとう――。」
……今度は祖母の番だった。
「何一つ……悪くない……。謝らないで……」
そう言い、祖母も孫を抱き締めた。
……これには、おそらく多分の勘違いが含まれている。
『ううん。謝らないで。悪いのはボクだから……。でも、孫と認めてくれてありがとう』
これが祖母の認識だろう。
『ううん。謝らないで。思い出せなくてごめんね。それでも優しくしてくれてありがとう』
実際はこんな感じだろう。
「おぉ! 忘れとった!」
何やら、鞄を漁り始めた。そして小さなポチ袋を取り出した。
「最近はこんな物もあるんだぞ!」
先ずは愛にその袋を手渡した。
【お盆玉】
愛の片眉が上がった。なんだこれ? ……と云った処か?
裏を見ると【愛へ】と達筆な文字。祖父の字だ。
「ほら! 剛も!」
同じく【お盆玉】の裏面に【剛へ】と丁寧なひと文字。
「もちろん憂にも!」
憂は押し付けられたポチ袋をひっくり返す。
そこには【憂へ】と見事に書き上げられていた。
一家は揃って曖昧な笑顔を見せた。もちろん憂を除いて……だが。
到着するなり、祖父は一度たりともその鞄を開けていない。数珠も祖母のバッグから出てきた。
つまり、最初から用意していたお盆玉である。この気難しい祖父は最初から憂を受け入れるつもりだった……が、本人を前にし、意固地になってしまった……。それだけの事だったのだ。
「――ありがとう?」
憂は状況に付いていけていない。置いておくとする。
「おじいちゃん、私はもう25歳だよ……」
「愛? 貰っておきなさい」
「そうよ。お義父さんはしてあげたいの」
「ありがとよ! ……ったく、素直じゃねーんだからよっ!」
「う……。面目ない……。実はな……。写真より実物がめんこくてなぁ……。咄嗟に名前を呼べんかっただけだ……」
そんなお爺ちゃんを肴に一頻り笑い合うと「お父さん?」と、幸が目線を送った。
「お父さん?」
「……親父?」
愛も剛も追従した。
……話してもいいんじゃないか?
雄弁に目が物を言っていた。
「さぁ! 帰りが遅くなるぞ! 気を付けてな!」
……結局、迅は自らの両親に秘密のままにした。祖父の車を見送った直後に彼は言った。
『2人には憂が思い出してからで遅くない。思い出したらすぐにでも伝える』
一家の大黒柱としての存在感を珍しく示してみせた一日であった。
……その横では憂がポチ袋から現れた福沢先生のお姿に『おぉ――』と釘付けになっていたのである。
尚、お盆玉の中身は仲良く一律1万円であった。
既存の孫と新しい孫。社会人と大学生と高校生。
そんな孫たちに差を付けてはならないと云う、細やかな気配りなのだろう。