107.0話 思い出探し
―――7月30日(日)
本日は、午後より高等部男女バスケットボール部の決勝戦が行われます。
午後の試合開始なんですけど、憂さんたち……。千穂さん、佳穂さん、千晶さん、梢枝さん、拓真くん、康平くんは10時頃より、学園を訪れてます。
梢枝さんはビデオカメラ持参ですね。良いシーンが撮れるといいですね!
……日曜日は復習授業も自習も行われないんです。昨日、何かあったみたいで、『思い出探し』に……。
優くんの頃の記憶を憂さん自身が思い出したい……って。そうはっきりと言ったそうなんです。
……大事な思い出を失うのって、どんな気持ちなんだろう……って、昨日の学園長先生からのメッセージを受け取ってから、随分と考えさせられました。
私たちにとって、当たり前に持ってる過去の思い出。
それは無くなっても本人には気付かない事だったんです。ただ忘れられた側が傷付くだけ……。
……でも……ふいに部分的な記憶が戻った瞬間、憂さんは気付いてしまうんだそうです。相手を傷付けてしまっていた事に……。
そして傷付けていた……と、自分を責める……。
憂さんはそれを善しとはしなかった……。だからその記憶を探しに中等部校舎へ。憂さんたちへの引率ですね。
中等部の校舎は日曜でも生徒が居ないわけじゃありませんから。
私の同行は学園長先生からのお願いです。2つ返事で引き受けました。可愛い教え子の為なら休みが半日減ったところで平気です! どの道、午後には大体育館で観戦予定でしたので!
中等部校舎……。ここは私にとっても思い出深い場所。私もこの校舎で学び、この校舎に教師として戻ってきたんです。
「リコちゃん、どう?」
陰から声を掛けられました。佳穂さんですね。明るい元気な良い子です。
「大丈夫です。行きましょう」
中等部の生徒たちの中には部活に来ている子も居ます。……当たり前ですね。運動部は当然、校舎外です。
問題は文化部。逆L字の中等部校舎。音楽室や家庭科室など特別教室が入る側に集中しているんです。だから教室のある東校舎には人影はありません。
それでも憂さんたち高等部の子が見付かったら……問題ですよね。憂さんはもちろん、憂さんのお友達もこの中等部で憧れのアイドル的な立場。見つかったら大騒ぎです。その後には『なんで中等部に?』って……。
憂さんは転入してきた事になっているので、言い訳が難しい。
……だから私が先行して、案内してるんです。
憂さんは校舎内で何1つ思い出さなかった……。3-Cで小首を傾げたけれど、それだけだけでした。
『私のリコちゃんって呼び方、なんでか憶えてる?』
それに対する答えは……『なんで? ――おしえて――?』でした。
……悲しくなるって事を身を以て思い知りました。
もちろん教えてあげました。でもピンと来なかったみたいですね。
『ごめんなさい――』
悔しそうにそう俯いてしまいました。
……それから屋上へ。ここは千穂さんにとって大事な場所……なんだそうです。憂さんにとっても……のはずなんですけどね……。
「……憂?」
千穂さんの涼やかな声。
やや強めの風に靡く髪を抑え、憂さんは振り向きました。
「ここが……大切な……場所だよ?」
「ここで千穂が告白したんかー」
「相談も無かったよね?」
「どこだった?」
拓真くんの質問に、千穂さんは恥ずかしそうに少し躊躇いながらフェンスの一角を指差しました。
……ここで告白したんですね。当時、中学2年生ですよ!?
「最近の子って凄いです……」
「リコちゃんセンセは無かったんです?」
……う。梢枝さん……それは聞かないで欲しかった……。
「私は……真面目だったから……」
「「「…………」」」
……沈黙?
なんで……?
!?
「あ! ごめん! 千穂さんが不真面目って言ったんじゃないですよ!?」
「……そう言う事にしておきます」
「千穂さんが怒ってるー!」
「「あははは!」」
会話をしながらも、そのフェンスに歩みを進めました。千穂さん、本当にごめんね……。
憂さんは……ただぼんやりと追従しているだけですね。一向に口を開きません。無表情です。何も考えていないのかも……と思わせるほどに表情がありません。自分でそうしてるんでしょうか?
「――わぁ!」
突然、強く吹いた一陣の風に憂さんの短いスカートが翻りました。
……白でした。
「ラッキー」
「うん。いい物見せて貰った」
長らく女の子をしている子たちは慣れたものですね。軽くスカートを抑えただけで対応してしまいました。やはりキャリアの差が出てしまうのでしょう……か? 私は今日はロングのスカートですので、あれくらいの風なら大丈夫です。
あ……。きっと、この感覚の差ですね!
憂さんと拓真くんと康平くんが赤くなった。可愛いですね。
何気に女子たちも軽く赤面しています。私もかも……。
……学校ってなんでプリーツスカートなんでしょうね? あれは風に弱めなんですよ?
きっと喜ぶ人が決めて、それがそのまま拡がってしまったんです。誰ですか? 犯人は?
微妙な雰囲気の中、千穂さんの指示の下、2人は思い出の場所で向き合いました。
……これは……。
「……ドキドキしちゃいますね」
「センセ……。わかりますわぁ……」
思わず潜めた声に、同じく潜めた梢枝さんの声。気持ちは一緒なのでしょう。
千晶さんの喉が大きく動きました。生唾を呑み込んだんですよね。佳穂さんは神妙な顔付きで2人を見詰めています。
これから千穂さんは……その時の再現をしてみせるつもりなのです。
そのシーンは千穂さんにとって思い出深いですよね……。憂さんの思い出と云う曖昧な物を探す中で、はっきりと再現出来る数少ないシーンなんですよね……。
「優くん」
「――んぅ?」
「……お手紙……読んで……くれた……?」
「――おてがみ――?」
憂さんは困ったように小首を傾げました。そのまま憂さんの焦点は遠くを見詰めるように……。たぶん千穂さんを通り越しています。
「うぅ――ごめん――」
数分後に口を開きました。どうにもピンと来ないみたいですね……。辛そうに……申し訳なさそうに眉を顰め、翳ってしまいました。
「うん! 読んだ! だからここに!」
千穂さんは、ふわりと微笑んだ後にそう続けました。優くんの台詞……だったのかな?
……千穂さんも強いですね。
「……そうだよね。ごめん!」
千穂は記憶を手繰り寄せつつ……でしょうか? 言葉を紡いていきます。
「ううん! 大丈夫!」
すぅ……はぁ……と、千穂さんは胸を抑え、呼吸を整えます。
少しの間、俯き、そして顔を上げ……。
…………。
その横顔に見惚れてしまいました。元々、整った端正な顔立ちの美人さんです。その決意の表情は凛々しくて綺麗でした……。
憂さんも息を呑んでいますね。惚れ直しちゃったのかな?
「優くんが……好きです! 付き合って……下さい!」
「ごめん――ごめん――千穂――」
「憂……私こそ……ごめん……」
……結局、憂さんは思い出せなかった。千穂さんは憂さんが思い出せなかった事に傷付き、憂さんは大切な思い出を思い出せなかった事に傷付いた。何より千穂さんを傷付けた事に傷付いた。
私と教え子7人は、重い足取りで懐かしい中等部校舎を後にしました。
そして……C棟応接室。
「また――いきたい――」
この憂さんの発言には驚かされました。また中等部を訪ねて、また思い出せなかったら……。
……また傷付く事になるんです。
それでも憂さんは行きたい……って……。強いですね。こんなに壊れそうなのに憂さんは強いんです。
「……憂さん……無理……しないでね……」
だからついついこう優しく声を掛けてしまいます。
……思い出す事って、そんなに大事なんでしょうか? 新しく思い出を作っていくって方法もあります!
「そうだよ……。無理に……思い出さ……なくても……」
佳穂さんは同じ意見みたいですね。
「男だった証明なんですよ……」
あぁ……。そうですね……。事情は私の想像を超えるほど複雑……。拓真くんの言葉は何よりも重いものでした。
憂さんは、まだ馴染めていない。女の子に成りきれてないんですね。だから男性だった確かな記憶を求めているんですね……。
憂さんと千穂さん。惹かれ合っていた子たちがどうしてこんな目に遭わなければならないんでしょう……。
「リコちゃんセンセ? もう涙は抜きにしますえ?」
……それは……その……。
「……ごめんなさい」
屋上で泣いて謝る憂さんと宥める千穂さんを見てたら……私まで貰い泣きを……。
「憂ちゃんより泣いちゃうとは思ってもいなかったです」
「千晶さん! それは言わないで下さい!」
顔が熱くなってしまいました。恥ずかしすぎるー!
「――また」
いつの間にか私を真っ直ぐ大きな瞳で見上げていました。
「――いい?」
「わぁ――!」
その瞳は不安に揺れていて……。
怖いんだろうな……。
また傷付ける事が……。また傷付くことが……。
それでも過去を見付ける為に前に進もうとしてるんだね……。
「いいですよ……。いつでも……」
「あたしリコちゃんが担任でホントに良かったと思ってる」
「わたしも」
「すぐに抱きつきますえ?」
「憂ちゃんにばっかり」
…………。
「みんなも抱っこして欲しい?」
「無理です! そんな恥ずかしい!」
「千晶に同じく!!」
……恥ずかしいって事は……嫌って訳じゃあ無いんですよね?
……?
憂さん、最初は少し抵抗したけどいつの間にか大人しくなっちゃいました。
「白ですねぇ……」
「今日は白じゃないですよ?」
「何がや!? リコちゃん先生、勘違いしてはる!」
…………?
「そのブラウスですえ? パンツやありません……」
……つい……。
憂さんの白いのが脳裏に残ってて……。
「憂は白い色が落ち着く色なんです……」
千穂さん、赤くなって……。私は……たぶん、みるみる内にその色を超えていきました……。
それから憂は眠った。
もちろん、午後の試合観戦に備える為である。
先んじて行われた女子決勝では、下馬評通りに完勝した。全国トップクラスの力をホームゲームで発揮して見せたのである。
そして、男子決勝開始前。
観客席は超満員に膨れ上がった。悪い意味でだが、蓼学が注目を集めていた結果とも云えるだろう。
その観客席には勇太を除くいつもの7人に加え、利子と愛、美優の姿も見えた。
ざわざわと騒がしい会場の一角では、突如、拍手が沸き起こった。
全国大会進出を決めた高等部女子バスケットボール部の一団が、その勇姿を観客席に見せたのである。
男女の対立に終止符を打った2年生と1年生は当然ながら、ちゃこたち3年生も現れた。
……犬猿の仲と謂える男女バスケ部の3年生だが、その男子バスケットボール部最上級生は、負ければは引退となる大会だ。女子バスケ部の3年生にも想いがあるのだろう。
そんな中、藤ヶ谷学園高等学校が先に姿を見せた。早過ぎるくらいの登場だ。試合開始まではまだしばらく時間がある。
……折角なので覗いてみようと思う。
「……見て下さい。この観客席を。君たちはこれをどう思いますか?」
藤校の監督は中等部の騒がしい監督とは打って変わって、眼鏡を掛けたインテリ風のまだ若い男だった。近年、監督が変わったらしい。
「悔しいです」
「むかつきますね」
「いつもホームを作りやがって……」
「今回、特に観客多くないっすか?」
藤校の面々から出たのは愚痴ばかりだった。彼らは蓼学の遣り方が気に食わないのである。
「……それだけですか? 藤校とはっきり違うところがありませんか?」
「女の子……」
「あぁ……それだ……やっぱむかつくよな」
「くそっ! むかつく!」
「あいつら、いつもキャーキャー言われてます! 俺等より弱ぇのに!」
男子校の藤校とは異なり、会場には多数の女生徒の姿が見える。
「そうです! その女生徒の前で蓼学に無様な姿を晒してあげましょう!」
「っす!!」
「絶対に負けません!」
「叩き潰します!!」
「大差で勝ちますよ!」
「軟派なあいつらに負ける訳がねぇ!!」
これは蓼学との決勝戦に臨む際の儀式とも謂えた。毎回、多数の観客に取り囲まれる藤校。その大半が蓼学の応援だ。当然、その重圧は大きい。その上、今回はいつもの比ではない大観衆だ。
いつものように重圧を闘争心に置き換える儀式を済ませると、監督はようやくミーティングを始めた。
通常ならば控室で行う事だが、彼らはこの場で行う。その内容が蓼学に伝わっても負けない絶対の自信の表れだろう。それを敢えて見せ付けるのだ。
「1年生には苦い思い出がありますね。相当、悔しい想いをしたメンバーもいるでしょう」
現在の1年生は公式戦で1度だけ蓼学に敗れている。その時の事をわざわざ持ち出しているのだろう。
「あの時のレギュラーが3人。いずれもベンチ入りをしています。特に新城 勇太には注意を。自由に動かしては危険です。君たちの力を持ってしても18番に空中戦を支配されるかも知れません。彼は、この試合は間違いなく、スターティングメンバーとして出場します」
「……190くらい、俺等にも居ますよ?」
「そうですね。単純な高さ勝負では勝てるでしょう。ですが、18番は……。いえ、18番だけでは無いですね。14番も17番もです。彼らは1人の天才によって鍛え上げられた。彼らの最大の長所はそのポジショニングにあります。……それも現在のパスの供給係の能力で半減してしまっていますがね。ところが守備となると話は別です。18番を自由にさせてはいけません。彼は脅威と成り得ます」
「天才……。立花 優……っすか?」
「……はい。何故、全国のバスケ小僧たちが集まる藤中が、優秀な指導者を据えているとは言え、蓼園市から集まった少年たちに負けたと思います? 蓼学はその特性上、優秀な選手を集め始めるのは高等部からなのですから」
「理由が全部、優って事ですか?」
「はい。そう断言しても問題ありません。……惜しい事です。彼は日本バスケ界を担っていた……と言っても過言ではありません。彼が居て、他の4人が機能したのです。彼が居て、4人は成長したのです。彼のパスに順応した4人もお見事……と言っても良いのですけどね……」
監督の言葉を聞き、藤校のベンチ入り選手は俯いてしまった。試合前に話すべき事柄では無かったのかも知れない……と、監督の顔に後悔が見て取れた。
しかし、すぐにそれを取り払い、見事に繕ってみせた。
「……どうしました? 何を恐れます? あの天才はもうこの世には居ません! もう敗北は有り得ません! 我々は努力を惜しまない秀才の集まりではありませんか!」
選手たちがその強い監督の言葉に顔を上げた時、会場が沸いた。
私立蓼園学園高等部男子バスケットボール部が入場したのである。
彼らはほぼ同時にアップを始めた。
蓼学のポテンシャルに大観衆は沸いた。そんな中でひと際、よく通る声が響いた。
「勇太――! ――ダンク!!」
……して見せろ……と云う、アピールだったのだろう。
蓼学の18番はそれに応えてみせた。一層、盛り上がる会場だったが、逆に藤校は大人しくなった。
声を張り上げた少女の姿を見付けてしまったのだ。その少女は18番の見せたダンクシュートに満面の輝く笑顔を見せていた。
……そして彼らは決意を新たにした。
(ぜってーに負けられねぇ……)
それは、ベンチ外の部員を含めた全員の心が1つに纏まった瞬間だった……のかも知れない。