105.0話 母の浴衣
―――7月29日(土)
「おまつり――いく――」
余韻の残る大体育館。高等部男女準決勝戦を観戦し終えた憂が口を開いた。今日も今日とて白い制服を身に纏い、通学したのである。憂とそのグループの出席率は午前中に集中こそしているものの実に高い。
そしてグループの出席率に伴い、今年度の全体の出席率は、過去の記録と照らし合わせて異常に高い。特にC棟が突出している。
「え……。ちょっと……待って……ね?」
憂は学園と云う空間が大好きなのだ。
憂が行くなら学園へ。或いは憂に逢いたい。
他のグループメンバーはそんな想いで折角の夏休みを棒に振っている……が、一部の拓真を除き、不満では無いようだ。
拓真は『やれやれ』と云った様子を隠さない。それでも憂と行動を共にしている。彼なりの照れ隠しなのかも知れない。通学も結局、元に戻った。
…………。
高等部男女バスケットボール部の結果の報告を忘れていた。
ひと言で結果を伝えると……、男女ともに見事に決勝戦進出を果たした。女バスは問題なく全国大会進出を果たすだろう。そして男バスは例によって、いつもの対戦相手が控えている。第一シードvs第二シード。高等部にとって、いつまでも超えられない因縁の対戦相手だ。今大会も苦戦が予想されている。
大会が進むに連れ、勇太の出場時間は確実に伸びてきている。彼の身長は190cmを超えたらしい。高1の今現在、更に成長中なのである。
空中戦の威力はもちろん、彼ら『優の世代』の最大の武器は巧みなポジショニングにある。そこは散々、優によって鍛え上げられてきた。彼の容赦の無いパス1本に付いていく為に行なった、血の滲むような猛練習の賜物だ。
その努力はリバウンドに於いても発揮されている。その為、入部間もない勇太がレギュラーポジションまで薄皮一枚に迫っているのである。
圭佑もまた着実に出場時間を伸ばしている。圭佑の最大の特徴は、たった一人で戦況を打開出来る突進力にある。それはスーパーサブ……、シックスマンとして、十分過ぎる能力だ。天才をして『困ったら渓やん』と言わしめた能力は伊達では無い。彼の身長があと10cm高ければ、すでに全国にその名を轟かせていたのかも知れない。
優の世代、レギュラーメンバーのもう1人。京之介は伸び悩んでいた。彼もまた巧みなポジショニングの持ち主だが、彼が出場すると徹底的なマンマークを受けた。彼の最大の特長である3Pシュートを封じられてしまうのだ。彼のプレイスタイルは勇太や圭佑のように、個人で切り開けるスタイルでは無い事が原因だろう。
後に全国制覇を果たした藤校中等部を撃破し、県バスケ界に衝撃を与えた際の主要メンバーである彼らは、他校にとっても要警戒の相手となっているのである。
話を冒頭に戻そう。
憂の言ったお祭りとは、地域の夏祭りの事だ。蓼園市が蓼園市となる以前から行なわれている縁日である。かつて優が父により置き去りにされ、危うく父が迷子と云う名の行方不明に成りかけたお祭りである。
(……憶えてたんだ……)
これは千穂の心の声だ。しかと聞き遂げた。憂の記憶に法則性は無い。そろそろ、そう断言したい……が、印象が強かったのかもしれない。どうにもはっきりしない。
この祭りの存在は憂の家族からNGを出されていた。一切の情報を遮断していたはずだった。何しろ憂はお祭り大好きだ。いや、優が大好きだったと言い直しておこう。それは憂となった現在も健在のようだ。
NGが出された理由は簡単な事だ。
人混み。
これだろう。護衛の体制が問題だ。憂は未だに他者を恐れる節がある。人とぶつかるだけでパニックを起こす可能性すらある。
【ダメって訳じゃないけど避けたいとこだなー】愛
ログを記憶していた千穂はスマホを手早く操作する。
『もしもしー。どしたのー? すぐ戻るよー?』
「すいません……。憂がお祭り行きたいって……」
愛はお手洗いに行っているだけだ。秘密を共有してくれているバスケ部3名はもちろん仲間だ。大切に感じている為、愛はこの日、一緒に観戦し応援した。
『え? マジで?』
「愛さん、素が出てますよ?」
『あはは……。ごめん。それじゃ行こっか……』
「いいんですか?」
『うん。憂が憶えてたんでしょ? 誰も言ってないよね?』
「はい。私はクラスメイトが話してたの聞こえましたけど……。憂は聞き取れていなかったと思います」
『それなら連れてくよ。何か思い出すかも知れないよ?』
「……そう……ですね。はい! みんなに伝えますね!」
『うん。お願いね! ……じゃなくて、すぐ戻るから私が話すよ』
憂とお祭り!
家族で行くのかな……? 私も行きたいな……。話の流れからすると、行きたい人は付いてく形……だよね?
「千穂? どうなったの?」
「うん。ちょっとわかんない」
「なんだそりゃ?」
優とお祭り行った時の事、思い出すなぁ。
人が多くて、離れ離れにならないように……って、ずっと手を握って。
私も緊張で手に汗、掻いちゃったけど、優の手も汗ばんでて……。ドキドキした大切な記憶。
どんなお店、覗いたんだっけ? 金魚すくいとか、スーパーボールすくいとか、ゲーム系の屋台で頑張った記憶はあるんだけどね。
私もドキドキフワフワしてたから余り覚えてないや。
「ごめん! お待たせ!」
「おかえりなさい!」
「お姉さん、おかえりなさい」
「お姉ちゃん、おかえりなさーい!」
「佳穂ー! 嬉しいね! こいつめ!」
「きゃー!」
愛さん、佳穂の頭をぐりぐり。
……佳穂ってば、いつの間にか『お姉ちゃん』って愛さんの事、呼び始めてた。羨ましいな……。佳穂のこう言うところ……。
「ところで……。憂をお祭り連れてこうと思ってるんだけど、みんなはどうする?」
「考えるまでもありません」
「同じくです」
梢枝さんと康平くん。当たり前……じゃないんだよ? 2人の任務は、たぶん通学から帰宅まで。まだはっきりとしないんだけどね。今までの事を総合するとそうだと……思う。
猫の事が終わった直後には、特別ボーナスみたいなものが出たとか、康平くんが言ってたけどね。
どうする? 行ける? ……とか相談してた佳穂&千晶も「参加しまーす!」って。
私は……お父さんのご飯……。どうしよ?
「千穂ちゃんと拓真くんはどうする?」
「美優のヤツも……いいっすか?」
「もちろん!」
ぅ……。視線集中。
「私は……」
行きたい……。行きたいけど……。
「あ! そっか! ちょっと待ってて!」
観客席の階段を駆け上がる愛さん。周り、まだちょっと騒がしいから……。愛さんが電話。たぶん、相手はお父さん。梢枝さんと康平くんも離れていった。
「……ところで勇太、どうしよっか?」
「来ても追い返す」
「うわ。拓真くん酷い」
「仕方ないよ。決勝、明日だもん」
「決勝かぁ……。今回は……勝てる?」
あ。憂に誰も話し掛けてなかった。みんなお祭りの事に頭がいっちゃってた。私も。ごめんね……。佳穂、ナイスだよ?
……その勝ち誇った顔は腹が立ちますけどね!!
「勝って――ほしい――な――」
「ん? どゆ事? 願望?」
「そう言う事だ」
元バスケ部の見解は一緒……か。
「千穂は? 千穂はどう思う?」
「あ。あたしも聞きたい」
……藤校。今日の準決勝を見ただけだけど……。
「勝てないと……思う……」
「「………………」」
「なんで黙っちゃうの!?」
「憂ちゃんもオブラートに包んだのに」
「まったくだー!」
「千穂ちゃん!」
「あ。愛さん」
「お父さんからOK出たよ! 例の物はお母さんのタンスに入ってるってさ!」
……嬉しい。
「千穂ー! 良かったなー!」
「千穂が居ないと憂ちゃんも萎んじゃうからね!」
「千穂――これる――「来られる!」
愛さん……。『ら抜き』ですか……。それは憂にはちょっと辛いかもです……。
「千穂――こられる――の?」
言い直すんだ。素直だね。
それより……分かったんだね。いつからだろう? 前なら気付かなかったと思う。
誰も憂にゆっくりと教えられてないのに。表情をよく見てる。ぼんやりしてるように見えるんだけどね。……ただ、ぼんやりしてるだけの時もあるけど……。
「うん! 一緒に……行こうね!」
パァ! ……って眩しいくらいの笑顔。優を誘った時もこんな笑顔だったなー。
「千穂ちゃん、自分で着られる?」
「えっと……。着れない「着られない」
……………………。
「着られない訳じゃないですけど……」
「「ぷぷっ!」」
そりゃ、言い直しますよ!
「じゃあ、早めに千穂ちゃんちに行くね! 私が手伝ってあげる!」
「はい! 待ってます! ……ところでお父さんのご飯は……?」
「ウチで食べるから心配しないで大丈夫だよ! 母の食事を……」
……尻すぼみ。愛さんの目が泳いで……。
『気に入ってくれた』だよね……。
「……ごめん」
「いいえ。大丈夫です。見返しますから!」
「おぉ……千穂が燃えてる」
「この子が燃えてると萌えるよね」
「違う漢字が聞こえましたわぁ。千穂さんの女子力の高さはたしかに萌えますねぇ……」
「あ。梢枝さん、戻ってきた」
「話し合い完了や!」
「なぁ……そろそろ、ここ離れねぇ?」
「はい。後ろ向いて?」
「はーい」
「綺麗な浴衣だね」
「はい……」
「ここ持ってて」
「はい」
「……形見かな?」
「はい。形見、いっぱいあるんですよ。お父さんが物を捨てられない人だから」
「私も似たような……って言ったら違うかな? 優の物、捨てられなくてさ」
「……褒めてくれると思ったのに」
「え? ……何が?」
「『ら』です」
「ら?」
「ら」
「――ら?」
部屋の隅っこで正座して背中を向けて、ぬいぐるみをいじりまわしてた憂が振り返った。
「千穂って呼んでいい?」
「……え?」
久々の突然話題転換ですね……。佳穂に『佳穂』って呼んでる事、気にしてるのかな? 佳穂が自分からお願いしたんだろうね。
「はい……」
「ホントに!? やば。マジ嬉しい……。『お姉ちゃん』って呼んでくれるともっと嬉しい」
……それは……やっぱり……。恥ずかしい。
でも「お姉……ちゃん……」って、頑張って呼んでみた。
「………………」
……沈黙。
「なんで黙るんで……」
振り向いて言い始めた言葉は最後まで続けられなかった。
「ご、ごめ……。なんかブワッときて……」
「……時々……ですよ……?」
「うん。それでいい……。ありがと……」
「――よしよし」
「憂!? あんたいつの間に!?」
あ! 愛さん、手を離したら……! あーあ。浴衣……。
……褒められちゃった。お母さんの浴衣。最近のデザインみたいにキラキラしてない、紺色の地に白の花柄模様なシンプルな物。古いデザインだから流行らないだろうけど、私のお気に入り。中2の時、優と行ったお祭りもこれだったんだよね。
「千穂も――よかった――ね」
…………?
「……何が……かな?」
憂の浴衣は白地に紺の夏模様。綺麗な花火と可愛い金魚が印象的。
……高そう。何とか染とか、そんな雰囲気……。総帥さんの贈り物かな……?
「ごめん。また着直しだね」
「お姉ちゃん――うれしなき――」
「……もう。意外と見てるんだから……。この子は……」
「いいこと――あった――?」
「そんな……とこ……」
「余計な情報を遮断してるんだろうね。声のトーンや、仕草、表情を見てるんだよ。たぶん……としか言いようがないけどね。いつの間にそんな事、出来るようになったんだか……」
「――おしえて――?」
…………。
可愛いおねだり声に振り向いたら、小首を傾げて見上げてた……。
……卑怯だよ? 狙ってるよね?
「……教えてもいいよ」
いいんだ……。
「愛さんを……お姉ちゃん……呼んだんだ……」
「はい。帯……持ってて……」
「はーい」
「着たらパンツ脱いでね」
……。
「そんな嘘情報は必要ありません」
「……知ってたか。残念」
「もしかして憂「ない! ない! さすがに履いてるよ!?」
……ホントかな?
「――それ!」
「「憂……?」」
あ。ハモった……。お姉さん。震えが伝わってくる……。笑いを堪えてるんですよね? 憂の反応が何テンポも遅れてたから……。違うかな?
「千穂が――いもうと――!」
「私が妹!? お姉ちゃんじゃないの!?」
「憂が……妹……だって……」
「通訳要りませんっ!」
「ボクが――としうえ――」
唇出てきた。でも、どんなに頑張っても中学生までにしか見えない……。小学生でも十分通用するんだよ?
「あと……1週間で……追い付く……」
「憂の言いたい事……判った?」
「……はい」
憂が言いたい事。私と憂が姉妹……兄妹かな? 憂にとっては。
……だったら、問題の半分解決。私と憂は一緒に居られて……。私も憂もいい人が居たら家を離れる事が出来る……。ある意味では理想的な形。
でも……それって淋しい。そうは思わない? どうなのかな? そこが問題だから半分だけの解決。
「ボクが――としうえ――」
「しつこい! 同級生!」
愛さんは憂のおでこをペチン!
「あぅ――」
「着付け終わったよ。こっち向いて?」
「はーい」
「うん! 似合ってる! 2人とも白と紺でホントの姉妹みたい! 可愛いよ!」
「にあってる――よ」
「うん。ありがと!」
これ見るの、2回目なんだよ?
そして愛さん……お姉ちゃん……?
「……どっちが……姉……ですか?」
「……それ聞いちゃうんだ。しかもわざわざゆっくりと」
「気になることは聞いちゃうタイプなんです」
「知ってた。……私から……見たら……やっぱり……」
「としうえ――あぅ――」
またツッコミ。されて喜ぶ憂もどうなのかな? Mっ気あるよね?
「千穂……かな……?」
「「お姉ちゃん!(――!)」」
……憂と初めてハモった……。記念日にしよっかな……?
「――あははは!!」
……怒ったはずなのに笑ってる。
かわいいなぁ……。
あれ……?
固まった……。戻った。
「――にあってる――よ?」
「……ありがと……」
それ……2回目……。優の時を含めたら3度目……だよ? 憂もすっごく似合ってるんだけど、言わない方が憂の為かな? 着るのも勇気振り絞っただろうから……。
あ! そうだ!
「憂……? 後ろ……向いて?」
「んぅ――?」
――――。
「――うん」
「ひぃやぁぁぁぁぁ!!」
……良かった。ホントに履いてた。
「千穂ちゃん。履いてるって言ったでしょ……」
「ごめんなさい」