10.0話 大混乱
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昼休憩を挟んた5時間目の授業は英語Ⅱである。
その英語の授業の中ほど、女性教諭は窓際後方の席を見ると、さも残念そうに言った。
「話題の立花さんをいっぱい見ようと思ってたのに残念です」
その言葉にクラスの至る所から笑いが溢れた。
話題の人物は、すぅすぅと可愛らしい寝息を立てている。憂は先生の英語をBGMに撃沈してしまっているのである。
「……起こしましょうか?」
先生の言葉を受け、千穂が困り顔で先生にお伺いを立てた。このまま眠らせてあげたいと言う願いが、言葉の中に宿っているようにも聞こえた。
「いえ。そのままで大丈夫です。立花さんの事は、よく聞いてますから。転入初日で疲れてしまったんでしょう」
中年の英語教師の顔は優しさと悲哀に満ちていた。
授業開始時の少女の姿を思い出す。
少女は明るい表情で先生を迎えた。新たな優しい家族。学校生活への復帰。今が楽しくて仕方ないといった所か。
だが、この美少女は薄幸の美少女だった。
両親も兄弟も居なかった。親類がこの世に存在しているのかさえ怪しい。この少女は施設の子であったと聞く。その施設生活の中で事故か病気か。そして入院。長い意識不明から目覚め、残った後遺症。何故、こんな小さな可愛らしい少女がそんな不幸を一身に背負わねばならないのか。神と云うものが存在するのであれば、小一時間は問い詰めた上で思い切り叩いてやろうと思う。
C棟の職員室は、小休憩の度に転入生『立花 憂』の話題に包まれる。詳しい話は昼休憩中にC1-5担任の、現代国語の先生から聞いていたのだった。
英語教師はそっと憂に近づくと、自身が身に着けていた白いカーディガンを憂の肩に掛ける。
「――ん」と可愛い声が零れた……が目を覚ます事は無かった。周囲の生徒たちは微笑みながら、この少女を優しく見守っている。
この生徒たちは『立花 優』を知っていると聞いている。彼への親愛をそのままこの少女の向けているようだ。それを嬉しく思う。この健気な愛くるしい少女に、これからは幸せな人生を歩んで欲しいと切に願った。
憂が眠ったまま、5時間目の英語の授業は終わりを迎えた。
キーンコーンカーンコーンと鳴る鐘の音で少女はガバリと体を起こす。その反動で白いカーディガンが肩からずれ落ちると、後ろの大きな少年が長い手を伸ばし、裾が床に着く寸前で受け止めた。
「起立……礼……着席……」
クラス委員長の号令で一連の挨拶を済ませた後、寝惚け眼にカーディガンを渡され、少女は困惑の表情を浮かべている。隣のほんわかした優し気な少女が耳打ちすると驚きの表情に変わった。
薄幸の美少女がカーディガンを大切そうに両手に抱え、近づいてくる。軽く右足を引き摺っているのが何ともせつない気持ちにさせた。
少女が近づくにつれ、英語教師の鼓動が高鳴る。なんと健気で美しく愛らしい事か。
ゆっくりと歩みを進めた絶世の美少女が、目の前で立ち止まった。
「あの――」
澄んだ美声と共に、カーディガンを持った両手をおずおずと差し出してきた。
「ありがとう――ございました――」
顔を伏せると長い睫毛が扇を成した。
「ボク――ねちゃって――ごめん――なさい」
女性教諭はカーディガンを受け取らず、ただただ目の前の少女を見詰める。見惚れているのだ。
少女は困惑の表情を浮かべ、上目遣いに教師を見上げた。
「あの――」
そこで教師は我に帰った。カーディガンを受け取り、少女から目線を外し、見惚れていた事をごまかすように「あぁ。それは構いません。当学園では授業中、他の生徒の邪魔をしなければ特に問題になりません。でも授業は進んでいくので、そこは気を付けて下さいね」と早口で捲し立てた。
言い切ってから目線を戻すと、目の前の少女は呆然としていた。
(あ! しまった!)
この少女に早口は禁物。職員室で散々聞いていたはずなのに失念していた。
少女は困ったように小首を傾げている。その姿は、なんと庇護欲を掻き立てる事か。
彼女は少女に手を伸ばす……が、その途上、必死な思いで気持ちを抑え込むと、上げた手を下ろした。
「大丈夫……ですよ」
ゆっくりと言い直す。ゆっくりと話さなければ伝わらないもどかしさ。それは更なる庇護欲を掻き立てる。
少女はゆっくりと深く頭を下げ、身を翻すと、近づいてきてくれた時と同様に、右足を引き、友人たちの元に戻っていった。
英語教師は、またこの話を職員室で広める。本人の知らぬ間に職員室でどんどんと人気者になっていく憂なのであった。
5時間目の終了後、C1-5付近の廊下は、とんでもない事になっていた。
憂の噂は昼休憩を挟むと一気に広がり、更なる噂を呼んだ。
そして、ついに噂の転入生をひと目見ようと、C棟の1年生の何割かが5組へ殺到しているのだ。
1年生の何割か……。少ないように聞こえるかも知れないが、そこは巨大学園。C棟の1年生だけで16クラス。現在、1クラスの平均人数は32名。C棟の1年生だけで500名を超える。転室などの独特なシステムによる取材やTV中継での知名度と、来る者を拒まずの姿勢が学園を肥大化させ続けている。その何割かが一教室の廊下に集まる状況……と言えば、想像にかたくないだろう。
いや。よく見れば1年生だけでは無い。今期の1年生のカラーは赤だ。上靴やネームのライン、体育館シューズなどに赤が取り入れられている。
その上靴に黄色や青が散見される。黄色が2年生。青が3年生である。
5組の教室と廊下を隔てるスライドドアは、転入生見物に来た他クラスの生徒たちの手により開け放たれている。
「おい! どこだよ、その娘!?」
「後ろ。後ろの窓際の辺り」
「おい! 押すなって!」
「なんであんなに遠いとこに座ってんだよ!」
「……あれか? 顔伏せてんじゃん」
「えー? ちょっとどの子よー。男子邪魔! 見えないー!」
教室内に突入せず、ぎりぎりで見物を決め込んでいるのは彼らなりの配慮なのだろう。
一方の教室内。
注目を浴びる憂はスヤスヤと眠っていた。
「いま――ねとく――」
そう言って、英語教師が去ると両腕を枕にし、すぐに入眠してしまった。所要時間15秒足らず。の○太には敵わないものの、かなり好タイムだった。
今、寝ておくと言う事は、6時間目は起きておくつもりなのだろう。
千穂は廊下から覗く集団と憂とを交互に見比べる。
「どうしよっか? この騒ぎ……」
「どーするもこーするも本人寝てるし」
勇太の返答に愉快な仲間たちはうんうん頷く。
「こんなに集まっちゃうとは思わなかったけど……」
いつものようにビデオカメラを回しながら、「ウチはええ事や思います」と、梢枝が近づいてきた。
「なしてや? 本人、あないな大勢に話しかけられたらきついやろ」
康平が疑問をぶつける。1対1の会話にも憂は苦労しているのだ。
「憂さんは良くも悪くも目立ちます。憂さんの事を知ってもらうええ機会やありませんか?」
グループ内の何名かが首を捻り、何名かが眉を顰める。
梢枝の言いたい事は解る。解るが納得は出来ないと云った処か。
「このクラスだけ憂ちゃんの事、知ってるのかな?」
千晶が言う。憂の存在を……と言う意味では無く、後遺症について話しているようだ。千晶の疑問に返答したのは千穂だった。
「たぶん……。トイレ行く時も普通に声掛けられるし……。千晶も見たでしょ?」
昼休憩終了間際のトイレ。憂は、その時も興味津々な他クラスの女子に声を掛けられた。行く時も帰る時もである。
「そうだったね。いきなり抱き着いてきた子も居たね」
千晶はその時の事を思い出したのか、うんざりとした表情だった。
「ちょ……ちょっと通してくれー!!」
廊下から大声が聞こえる。健太が人を掻き分け教室内に入ると、健太の後ろから何名かのクラスメイトが続いた。
「ったく! 便所に行くのも一苦労かよ!」
彼は不機嫌そうな顔で、眠っている憂を見る。健太は髪をかなり短く刈り込んでいる。二重の瞳は、やや大きく童顔である。彼もまた表情がコロコロ変わる。彼はどこか優を彷彿とさせる部分があった。
憂を見て健太の表情が和らぐ。
しかし、またすぐに険しい表情に変わった。
「おい! そっちからも!」
健太が窓を……、正確には窓の外のグラウンドから花壇越しに、教室を覗き込む生徒を指差す。彼らは体操着だ。6時間目の授業前なのかも知れない。
「ここが5組だよね? ねぇねぇ? 立花さんって、どの娘?」
女生徒の1人が花壇を飛び越え、窓の傍の席に座る千晶に馴れ馴れしく、砕けた調子で聞いた。聞くだけ聞いて、教室内を無遠慮に見回す。
「美少女……美少女……って、目の前に! ううん。この娘は前から居るよね」
千穂に目を付けたようだ。憂の外見を隔世の深窓の姫君と表現するなら、千穂は明るい社交的なお姫さまと表現できるだろう。千穂は平均顔と言えた。これといった特徴は見られないがバランスが取れ、それ故に魅力的なのである。
その千穂は人差し指を口の前に立て、もう一方の手で憂を指差している。
千穂の意図に気付いた女生徒は1つ頷き、口を噤んだ。視線は憂に注がれている。だが見えない。完全に下を向いて眠っているからだ。女生徒は右に左に体を倒し、ひと目見ようと四苦八苦し始めた。
「――んぅ」
憂がゆっくりと体を起こす。
「「「おお……」」」と途端に廊下がざわつく。
寝惚けた眼をセーラー服の袖でぐしぐしと擦る。
続く動作で「くぁ――」と欠伸を小さな手で隠した。
「起きたぞ!」
「マジで!? ちょっとどけろ!」
「やだ。ホントに可愛いじゃん……」
「くっそ! もっと近くで見せろ!」
教室の最奥と廊下との微妙な距離。視力の良し悪しが問題になっているようだ。その微妙な距離からスマホを掲げ、写メを撮る者も居る。
その教室の最奥。憂は窓の外の見る初めての顔を、小首を傾げて見詰めていた。見詰められた女生徒は、千晶に気軽に声を掛けた時とは別人のように、どもりながら挨拶した。
「こ……こんにちは……」
窓の外からこんにちは。一見シュールな絵面である。
「こんにちは――」
憂の反応は早かった。定型文への反応は早いらしい。女生徒は憂の声を聴くと、それだけで満足したのか、身を翻した。花壇を飛び越えようとして、ぎりぎりの所でレンガに足を取られた。バランスを崩したが、彼女のクラスメイトと思しき体操着の女生徒に助けられていた。
彼女は憂たちに手を振り駆けていった。憂は狐につままれたような顔で、それを見送る。
廊下側では秩序が崩壊寸前となっていた。目の良い生徒はひと目見て、その集団から抜けていったが目の悪い生徒が出入り口に居座り、まだ見られていない生徒が彼らを押し、彼らは耐え、互いに押し合う形となった。
その一角、教室前方のドアの均衡が崩れる。後ろからの圧力が勝り、集まった生徒たちが教室内へと突入する。
それを機に後方のドアからも生徒たちが突入する。たちまち大混乱となる教室内。
憂は、びっくり眼だ。突如として、知らない生徒たちが教室内に乱入。驚いた様子を見せている。
梢枝がそんな憂の腕を引き、窓側後方の一番、隅っこに立たせ、自身を壁に立ちはだかる。憂は余計に目を丸くしたが、梢枝にとっては、それどころではない。
それに倣ったのか、単に突入してきた集団から逃げたのか、クラスメイトの女子の多くは憂と梢枝の居る隅に集まっていった。
前方では健太が真っ先に彼らを止めに入った。そこに周囲の男子生徒と勇太が援軍に入る。
後ろのドアから突入した生徒には拓真と康平を筆頭に数名の生徒が反応した。
均衡は取れていない。多勢に無勢である。
「何事ですかっ!!」
「お前ら、教室に戻れ!」
「解散しろっ!」
徐々に狭まる包囲網に大勢の教師たちが声を張り上げる。野次馬の1人が職員室に飛び込み、事態を伝え職員室の教員のほとんどが駆け付けたのである。
元々、美少女と噂される転入生をひと目見たいだけで、危害を加えるつもりなど無い集団は、教職員軍団にあっさりと沈静化された。
ただ立ち去る者は少ない。
口々に転入生を見たいと居座る。
そこに学園常駐の警備隊が到着。強制排除が現実的となった時だった。
高く澄んだよく通る声が響いた。
「――ちょっと――とおして?」
その声に5組の女子たちが躊躇いつつも道を空ける。
最奥から小さな少女がゆっくりと歩き出てくる。
その姿を初めて見た者は一様にピタリと制止した。生徒だけでなく教師も警備もだ。
憂は周囲を見回し、戸惑った様子ながら、はっきりと言った。
「こんにちは――はじめ――まして」