98.0話 男子制服
これから先、少し投稿ペースが低下するかも知れません。
可能な限り、現在のペースは維持致しますが……。
遅れ始めたらごめんなさい。。
―――7月10日(月)
――きょう――てすと。
うぅ――ふあん――。
憂と2人での起床後、朝の愛は朝食の支度を手伝っている。憂にとって比較的、自由な時間帯だ。
――そうだ――!
何か思い付いたらしい。因みに一階に引っ越しした部屋はフローリングでは無い。畳張りの和室である。そこにベッドが置いてある。畳への傷は覚悟の上だろう。
その部屋の襖は、部屋の3面にある。
1つは居間。リビングへと通じる襖。
もう1つは廊下と玄関に続いている。
憂はそのどちらでも無い最後の襖を開けた。途端に線香の香りが漂い始める。
奥に鎮座している小さな仏壇の前、座布団に正座すると、チャッカマンで蝋燭に着火する。傍らにマッチ箱が置いてあるが、賢明な判断だろう。
1本の線香を不器用な手で取り出すと、左手で線香に火を灯し、香炉にそれを立てた。線香立てでも通じるらしいが、『香炉』と云う名を是非、憶えておいて頂きたい。何となく言えれば格好良い。
憂は鈴棒を右手で摘み上げると、鈴を上からチーンと1回鳴らした。少々、音が小さかったが、不器用な右手で扱ったせいだろう。
――てすと――うまく――いきますように――。
正座し、背筋を伸ばし、両手を合わせ、真摯に祈る憂の姿は神々しさ、さえ感じさせた……が、誰も居ないのが残念である。もしもその様子を見ていれば、誰しもがその姿に見惚れていた事だろう。
仏壇への願い事については賛否両論だと思われるが、そこは気にしないでやって欲しい。
憂は合掌を解き、掌をそれぞれの膝に乗せると真っ直ぐに遺影を見詰める。自身のかつての姿を。彼は、屈託のない良い笑顔を見せている。それは褪せることのない永遠の笑顔だ。
――優。おはよ――。
――てすと――がんばる――。
遺影は他に無い。優1人だけが祀られている仏壇である。もちろん対外的なアピールのものだ。実際には誰も祀られていない。
優の葬儀は家族のみでひっそりと執り行われた。その為に、歩道橋のあの場所が祭壇のようになってしまっているのである。この仏壇を訪ねて来る者は半年経った今、皆無とも云える。
――あ。
仏壇の傍にある優の制服に目が行ってしまったようだ。ハンガーに掛けられ、吊るされた制服だが、埃は全く掛かっていない。母と姉により、この仏間は護られている。
――ぐれーの――せいふく――。
――なつかしい――な――。
おこられる――かな?
――いいよね?
――じぶんの――だし。
座布団の上を正座でバックし、座布団から離れると、よいしょと立ち上がる。そしてパジャマのボタンに手を伸ばしたのだった。
数分後。
キッチンでは母と姉が忙しなく動き回っている。
一家は憂が退院し、しばらくすると全員で朝食を摂り始めた。良い習慣である。朝の忙しい時間の為、食べ終えた順に抜けていくのは、已むを得ないことだろう。いつも最後となるのは憂だ。右手は器用さを取り戻していない。
姉が箸置きにそれぞれの箸を置いていっている時だった。和室の方向からバタンと音が響いた。
ご飯を注ぐ母と姉の手が同時に止まった。顔を見合わせる暇も惜しんだかのように2人は和室……憂の部屋へと駆けた。
襖を勢い良く姉が開け放つと、そこには膝までずり下がったグレーのスラックスと可愛いお尻を隠すように同じグレーのブレザーを身に纏った憂がうつ伏せに転がっていた。
そう。憂は懐かしい男子制服を着たのは良いがベルトが無く、ベルトを探しに自身の部屋に戻る最中。スラックスがずり下がり、足に纏わりつき、転倒してしまったのである。
「……あんたは……何やってん……のよ……」
疲れた顔で愛は声を掛ける。母は、愛の後ろでお茶碗片手に覗き込んでいる。
「――――――――」
「ちょっと! 憂!?」
反応の無い憂に姉がスリッパのまま走り寄る。スリッパを脱ぐ間ももどかしいと云った処か。
愛は憂を助け起こそうすると『待ちなさい』と母に止められた。母がゆっくりと慎重に憂を仰向けにする。体に力は入っていない。完全に弛緩している。
「…………憂?」
母の声に反応は無かった。目を瞑ったままだった。
憂は……失神していたのだった……。
【憂が転倒し、気絶しました。これから病院に連れていきます。申し訳ありませんが、対応を宜しくお願いします】愛
スマートフォンのアラームが鳴り響いた。それは突然の全体へ向けた緊急メッセージだった。グループ名は『秘密を知り得た者たち』。パスワードと同じグループ名。セキュリティ的に少し問題はありそう。それでも暗号化に自信はある。私は問題ないと判断した。
コメントに付随する時間は【6:57】を指し示していた。
【そんな!? 憂は!?】千穂
【大丈夫なんですか!?】千晶
【意識は戻りましたか?】Dr.島井
【なんだと!? 迎えを寄越そうか!?】肇
【嘘だろ……】勇太
【何か出来ることは?】拓真の父
【脳を可能な限り、揺らさないように。可能な限りで大丈夫。救急車でも揺れるから同じ事。愛ちゃんの判断に間違いは無い。ゆっくりと迅速に。ストレッチャーを用意して待ってる】Dr.渡辺
秘書【肇さま。落ち着いて下さい。どの車でも同じ事です】
入力しつつ、私はもう1つのスマホを取り出し、本社守衛室に連絡する。その傍らで着替えを始める……と、言ってもブラウスは着用済みですが。いつも寝起きに寝間着からブラウスに着替えておく。それはこんな事態を想定しての事。
【意識はありません。今、車にそっと乗せたところです】剛
【家を立ちました。すぐに病院に着きます】Ns.伊藤
【学生は静かに。出る幕はありません】梢枝
【ありがとう。譲二くん。大丈夫だよ】憂の父
【刺激への反応を診て下さい】Dr.島井
コール中も続くコメント。梢枝さん、流石ですね。助かります。
『はい。こちら蓼園商会セキュリティーセンターです』
【何か出来る事は無いのか!? 警察内部の者に伝え、道路を封鎖する!】肇
肇さま……。入力の手間が惜しいのですが……。已むを得ず、スーツのボタンを留める手を止め、コメントが流れ続けるスマホを手に取る。片耳には、もう1つのスマホ。
【私もマンションを立ちました】Ns.五十嵐
専属看護師の対応の速さ。素晴らしいのひと言です。
【出発します】剛
「一ノ瀬です。本日の会議は中止。肇と立花は出社しません」
秘書【肇さま。お控え下さい。すぐに参ります】
【必要と思われる機器の確保を指示しました】Dr.川谷
【専属2人のコメントを確認。看護師は確保しないよ】Dr.渡辺
『はい! かしこまりました!』
「宜しくお願いします」
ストッキングは……いいか。後で履くとしましょう。
私はいつものショルダーバッグを肩に掛け、マンションの部屋を後にし、向かいの部屋をノックする。
【地下からですか?】剛
ドアが音も無く開く。鍵も掛けず、相変わらずの不用心。セキュリティと私を信用しすぎです。
「遥くん! 儂はどうすればいい!?」
「何も出来る事はありません。ご家族、病院共に緊急時の想定通りに動いております」
「儂は心配でならんのだ!」
「病院へ向かいます。ご支度下さいませ。社への連絡は済ませております」
「そ……そうか。わかった……。少し待て……」
「かしこまりました」
ドアが音も無く閉まる。私はログに目を通しつつ、隣室に向かう。肇さまの部屋からは直通のオフィスへ。
【反応しません】剛
【打ち合わせ通り。正面からです】Dr.渡辺
【学生は通常通りに学校へ。休んだ者が出れば憂さんは気に病みます(レス不要)】梢枝
【一応伺いますが、呼吸、脈拍に問題はありませんね?】Dr.川谷
【今の所、単なる脳震盪と判断します】Dr.島井
【看護師の件。了解しました】Ns.鈴木
【はい。問題ありません】剛
オフィスに到着。状況を整理してみましょう。
現在、憂さんを乗せた車は移動中。朝早い為、渋滞は無し。時間的に12分ほど……いえ、ゆっくりと走るのならば18分で病院に到着。
運転は父の迅。姉の愛が傍で憂さまの様子を診ており、兄・剛が連絡係。母・幸は留守番と云ったところ。留守番も辛いでしょうね。しかし出発を急がなければならなかった為、1人、家に残った。施錠など完璧にしなければ、おちおち総出の外出も不可能。留守中に隈なく探索されれば良からぬ物を見られる可能性は排除出来ない。日頃から気は使っておられるでしょうが……、秘密の保持とはそう云うもの。
病院サイド……。主治医・島井は病院内。あの方は病院が家のようなもの。院長・川谷も脳外科医・渡辺も病院ですか……。彼らは少し不思議。何故、病院に? 話し合いでもさせておられたのでしょうか? お陰で願ってもない万全な体制。
専属看護師3名は病院正面のマンションに住んでいる。身辺警護2人と同じ、肇さまがかつて、無用の長物と吐き捨てた高層のマンションに引っ越し済み。
エレベーターさえスムーズに行けば、ものの5分もあれば到着する事でしょう。
「支度は済んだぞ! 運転手に連絡は済んでいるか!?」
……驚きました。やはり扉には多少なりとも音が必要。ストッキングを今の内に……なんて事を考えなくて正解でした。
「不要です。私が運転致します」
「そうか。行くぞ!」
「かしこまりました」
私たちが行っても意味は無いのですけど。彼は、憂さまが絡むと状況判断が鈍ってしまい、少し戸惑ってしまいます。
急ぎ足の彼の背中を追い掛け、ログに追おうと目線を落とすと、アプリは落ちていた。我ながら手間の掛かる機能を付加したものです。
アプリを再起動し、パスワードを入力。ログは……余り貯まっていない。
渋滞なし。憂さんに痛み刺激への反応見られた。専属看護師・山崎の出立、伊藤・五十嵐の両名の到着。CTの確保。ストレッチャーの用意の完了。
私は出立のコメントを入力し、車を走らせた。
10分ほどで蓼園総合病院に到着。予測通り、CTの撮影中だった。私どもは最上階。VIPルームで待機中。
「まだか……まだか……」
……落ち着きがありませんね。
「蓼園さん、一ノ瀬さん、本当にありがとうございます。アプリによる情報伝達の向上のお陰で素早い対応が出来ました」
顔一面に心配と書いてありますね。
この姉……愛さんの印象はいつからか変わった。純粋に憂さまの事を案じておられるだけと今は思える。
『あれは遠慮しているだけだ』
肇さまの言葉にも納得できる。
ふいにNSの扉が開き、専属の伊藤さんが姿を現す。
「どうだった!?」
「問題ありません。とりあえず報告まで。詳細は後ほど、先生方から」
……ホッとした。あの子に何かあっては肇さまへの影響は計り知れない。
「……心底、肝が冷えた。君もそのようだな……」
「はい。それはもう……」
何かあっては大変です。貴方様が。
……憂さまに対する私の気持ちはどうでしょう?
ぼんやりとしておられる憂さま。どこか怯えた様子を見せる憂さま。その中に時折、見間違えたかのように凛としたお姿を見せる憂さま。
本当に可愛らしい方だと思う。
しかし、未だ私は親愛の情は持てていない……と判断する。肇さまと同じ気持ちを共有したいのは山々なのですが……。
「蓼園さん。一ノ瀬さん。本当にお世話になりました」
父の迅さん。決して特別に秀でているとは言えないものの、凡庸とは呼べないお方。ただ、その生真面目さと先見の明は周知の事実。
「立花くん。儂は疲れた。老けてないかね?」
蓼園商会がこの街に本社を移した時、そこにわざわざ飛び込んできた事実がそれを証明している。
「はは……何を仰いますか。ご壮健の様子で何よりです」
肇さまはこの丁寧ながらも、どこか気さくな語り口を気に入っておられる。
……取締役に名を連ねて時は経ちました。事故を機に総帥を強請った等と公然と発言する愚か者も現れる始末。そろそろ功績となる仕事を振る必要がありそうですね。
……取締役に推したのは肇さま。事故への罪滅ぼしの為です。この方に断れるはずがありません。むしろ強請った形となったのは、肇さまです。
……ストレッチャーに乗せられ、眠ったままVIPルームに入室された憂さまの格好は、余りに予想外でした。
懐かしい私立蓼園学園中等部男子制服。
愛さんは眉尻を下げ、困惑の表情で発見時の様子を語られました。
幸さんからのコメントにより、憂さまは自らの仏壇に線香を上げられた事は判明しています。
その後、おそらく男子制服を目にし、着用された。小さくなった体にサイズが合わず、何とかしようと自室に戻ろうとされ、その際、裾を踏んだか、スラックスがずり下がり、結果、転倒され脳震盪を起こしてしまった。
……なんて人騒がせな方でしょう。
「遥くん。そんな優しい顔付きは初めて見るな」
その肇さまのご指摘に何より驚いたのは私自身であったと推測します。
1時間ほど後、憂さまは目を醒まされました。
覚醒された場所がVIPルームのベッド上である事に目を丸くされ、説明を受けると『――ごめんなさい』と頬を赤らめ、深く頭を下げられました。
医師3名からの指示は、本日中の経過観察。つまり、本日は欠席となりました。期末テストの初日。可哀想な方ですね。
『ばちが――あたった――』
何のお願いをされたのでしょう?
そもそも仏へは感謝を述べるものです。願い事は神を祀る神社、若しくは神棚にするべきですね。
『しらな――かった』
『ありがとう――』
恥ずかしそうに儚く微笑む憂さまは、とても可愛らしく、惹かれていく自分を感じました。
この日、長い時間を共有。憂さまに請われ、僭越ながら勉強も少し見させて頂きました。