97.0話 絡まれた
―――7月12日(火) 昼休憩
護衛の片割れが休み始めた。
彼は風邪をいち早く治す為にこの日、早い時間に病院を訪れた。しかし、彼は風邪では無かった。アデノウイルス感染症。プール熱と呼ばれる事が多い疾病だった。
主に子どもが罹る病気だが、大人にも移らない事はない。
そして感染力が高く、症状の改善後、2日間の登校禁止処置が課せられる。法律で決まっている。私立蓼園学園と云えども法律には逆らえない。会社からも出勤停止を課せられた。護衛対象者に移すなど論外だ……と。
「どこで貰いはったんですかねぇ……」
「――康平――だいじょうぶ?」
梢枝が誰に言うでも無く呟き、溜息を付いた。
「大丈夫……ですわぁ。大変な……病気や、ありません。みなさんに感染って無ければええんですけど……」
佳穂も千晶も拓真も勇太も千穂も……。憂までもスマホないしタブレットを覗いている。
「クク……」
拓真から噛み殺した笑いが零れた。
「拓真……笑ったら悪ぃって……」
勇太が窘めるが、その勇太の顔もどこか締まりがない。
「……わかってる。けど……よ」
「子どもが罹りやすいんだよね。わたしも罹った事あるよ。小学生の時だったかな?」
「ぷっ……千晶。最後の言葉やめて……」
不謹慎極まりない。相手が康平だからだろうか? 彼もある意味で愛されキャラなのかも知れない。
「オレ、部活休もうか?」
でかい男が遥か下の憂を見下ろし、全員に問い掛けた。
「だめ――」
「反応……早かったな……」
「憂がダメって言ってもよ。男1人じゃ心配じゃね?」
「行け」
「行きなさい」
「憂ちゃんがダメって言ってるんだよ?」
「憂さんの事なら康平さん抜きで何とかしますわぁ……」
「……わかりました。ちゃんと部活行きます」
憂の言葉に逆らえた男は初めてかも知れない。だが、その勇気ある行動は仲間たちによって叩き潰されたのであった。
ん? 球技大会前に拓真がバスケでの出場を止めたのが初めてか? その時も周囲の声に掻き消されてしまった。民主主義とは無情なものなのである。
結局、この日は何事も無く終わった。平和で何より。
―――7月13日(水)
「まだ熱が下がらないって。さっきチャット入ってたよ?」
「うん。あたしもさっき見たー」
「来週までに戻ってこれるのかな?」
「無理やないですかねぇ?」
「再テスト組の中に混じるのか……。南無……」
「踏んだり蹴ったりだな」
「アデノウイルスは厄介なものらしいですわぁ……」
「うん。調べたよ? 有効な薬が無いから、今でも対症療法しか無いって」
千晶の言う通りだ。重篤化するケースは殆ど無いものの、ウィルスを殺す薬は未だに開発されていない。その為、高熱に対して解熱等、症状に対抗する手段しか無いのが現状である。
「潜伏期間は5日~7日……みなさんも十分に気ぃ付けておくれやす……。すみませんねぇ。身辺警護が危険を増やしてまうなんて……」
「まぁまぁ。康平くんだって好きで罹ったワケじゃないんだから……」
「梢枝さんはどうしてるの?」
「ウチも康平さんとは一昨日の晩から接触してませんえ?」
「……ご飯とか、どうしてるのかな?」
「会社の者が世話してますよって、心配は要りまへん。憂さんの護衛は当社にとって、最重要の仕事ですので……」
「総帥さんの依頼だから?」
「そう云う事です」
……そして、この日からヤケに憂たちに接触してくる生徒たちが増加していたのであった。
突然、後ろから声を掛けられ、憂が少し怯えた様子を見せた事もあった……が、取り乱したりはしなかった。
―――7月14日(木)
「お! 憂ちゃんはよー!」
「憂ちゃんは今朝も可愛いなー」
……まずいな。明らかに声を掛けてくる男の数が増えた。美優が朝練で良かったのか悪かったのか……。
「おはようございます」
千穂ちゃんは黙ったままの憂の代わりに、愛想を振り撒く。
「おはようですわぁ……」
梢枝さん……。憂の空いてた左手を握って合流。助かる。梢枝さんが混ざるとハードルは上がるはず。この人は独特な雰囲気を醸し出してるからな。
康平。笑って悪かった。あんたの存在感って、でかかったんだな……。早く復帰してくれ。
「憂ちゃんはよっ! いかついのどうした?」
今度は茶髪に染めた、ちとチャラい感じの……たぶん先輩だな……。
「おはよです。風邪みたいなものですよ」
「……千穂ちゃんだっけか? 俺、憂ちゃんに聞いたんだけど」
「あ……。すみません……」
相手が正面に立ったせいで、千穂ちゃんの足が止まった。4人揃って足踏み状態。東門見えてんのに。
……行くか?
……だめってか。
…………目線で止められた。梢枝さん……。
「先輩。すみませんねぇ……。ゆっくり話してくれへん時には、周りの者が対応させて頂いてます。ご理解頂けると助かります」
東門をくぐってしまえば『学園内の騒動を未然に防止する部』の活動範囲だ。康平は話を通してくれているらしい。
「あー。そうだった。悪かったな……」
「おい、シンヤ! はよー!」
「うぃー!」
「おはよー!」
……くそ。シンヤさんは行こうとしてくれたのに3人も増えやがった。まだ進めねぇ……。
「行きますえ? 失礼します」
「おー! 憂ちゃんじゃんか! おはよ!」
「お前、遠目に気付かんかったん?」
「お前1人だよ。俺も気付いてたし」
「うっせー! ……にしてもたまにゃ東門って思って、こっちきたら大正解! 朝から可愛い憂ちゃんたちを見られた!」
「だな! 憂ちゃん、おはよ」
憂は俯いたまま。挨拶を返せねぇ。シンヤさんに言われた直後の千穂ちゃんは反応できねぇ。
「憂ちゃん、どしたの?」
「声、聞かせて欲しいな」
「すみません。知らない男性が怖いみたいなんですわぁ……」
「え? そうなん?」
「おい、シンヤ。やめとけ。噂聞いてんだろ?」
「あぁ……。本当なのかもな……」
いつも付いてくる集団登校の連中は、さっさと行っちまった。見て見ぬ振りだ。使えねぇ。
「でもよ。おかしくね。ほら、そこの拓真くん」
「あぁ。ちとむかつくな」
……うぜぇな。
「拓真くんはどうやって近づいたのかな?」
「ちょっと教えてくれない?」
「うは! こいつマジででけぇ。俺、勝てる気しねぇ!」
「勘弁してください。揉め事は避けたいんで」
「あ!? 揉める気なんてねぇんだけど!?」
「むかついた。俺、切れちまっていい?」
……どうやっても絡む気かよ。居るんだよな。こう言う連中。処分の重てぇ蓼学では少ねぇはずなんけどよ。
憂は……怯えてるか。無理もねぇ。
「先輩。堪忍ですえ……?」
梢枝さんは物腰柔らかく対応中。千穂ちゃんは……キレそうだな。キレんなよ。余計にややこしくなっちまう。
「すいません。そんな気はありません。この通りです」
「――拓真?」
憂……。しゃしゃり出るな……。怯えてろ……。
こっち来た。来んなって!
「憂ちゃん?」
「拓真くん守るの?」
「やべ。グッときた」
「健気だねぇ……。余計むかついたけどな!」
「憂!!」
千穂ちゃんの声で頭を上げると、憂は左腕を掴まれていた。
その先輩の右手に千穂ちゃんの両手と梢枝さんの右手。俺の右手と、もう1本の手が掛かる。
「何をしている!?」
凌平……。
「朝から気分の悪いものを見せられた。見ろ! 憂さんの姿を!!」
憂は小刻みに小さな体を震わせ、俯いていた。早くその恐怖症を克服出来るといいな……。
「あ……。悪い……」
「謝罪など要らん! 散れ! 憂さんの事を思うならば、金輪際、憂さんの前に姿を見せるな!!」
「……そうよ! どっかに行っちゃえ!」
「憂ちゃんに近寄らないで!」
「最低野郎!」
凌平の言葉に勇気を貰った外野まで、こいつらを罵倒し始める。それもちょっとまずいな……。
あ!?
インカム付けた連中が東門から飛び出してきやがった……。
あー! クソ! 仕方ねぇ!!
「……元々は憂への挨拶が始まりです。俺らが先輩方への対応を誤っただけっす。すみませんでした」
「すみません……」
梢枝さんも悪いな。頭、下げさせて……。
「あ、あぁ……。俺らも悪かった。それじゃな……」
発端となったシンヤさんが謝り、東門とは別方向。南へと歩いていった。俺らは遠く見えた東門へと、ようやく到着した。
「生温いな」
凌平は東門を抜けた瞬間、拓真に鋭い視線を向けた。イケメンだ。かつては特進クラスに所属した頭脳を持ち、大運動会では意外なスペックを垣間見せた。実は相当に優秀な男である。
「凌平さん。これでええんです。あのままでは凌平さんが彼らの敵意を引き受ける事になりましたえ?」
「問題ない。憂さんの為ならばな」
「敵は要らねぇ」
拓真は苦虫を噛み締めたように吐き捨てた。憂に向かう可能性のある敵意は全て排除していく。身辺警護の2人と拓真の方向性は同一だ。
「ありがとう。凌平くん。ちょっとすっきりした」
未だ、下を向いたままの憂をあやしながら千穂は言った。憂に対し、心配で堪りません的な表情を見せていたが、凌平への感謝を述べる時には、どこか晴れ晴れした顔をしていた。千穂はあの手の手合が嫌いなのだろう。
「あぁ。そうだな。それは間違いねぇ」
「ウチからも『ありがとう』と言わせて頂きます」
梢枝は凌平に感謝の意を伝えると、遠巻きに見ているインカムを付けた男に向けて歩き出した。
「ふん。僕が救うべきと勝手に判断した結果だ。そう言われる筋合いは無い。それより憂さんは?」
「憂? 大丈夫?」
千穂の……愛する少女の声に憂はようやく顔を上げた……が、暗い。世界中の不幸を背負い込んだかのように、その類稀な美貌の中で表していた。
それでも少女は笑顔を見せた。それは精巧に作られたガラス細工のように儚かった。
周囲の者たちを含め、拓真と千穂さえも魅了した。目を奪われた。当然、凌平もだ。
「凌平――ありがと――」
「あ……あぁ……。君の……為ならば……」
返事を出来た凌平は大したモノだ。盛大な拍手を贈りたい。
「千穂――拓真――ごめん――」
千穂と拓真は返答出来ず、言葉に詰まる。憂は自分が原因である事を理解している。普通に挨拶さえ返していれば、こんな事態には陥らなかった。言葉は聞き取れなくても、感情の動きは読み取れる。
「ボクの――せいで――」
「そんな事……ないよ?」
千穂はふんわりと優しい笑顔を見せる。
「怖く……なくなると……いいね」
「そうだな……」
千穂の聖母のような微笑みに対して、拓真は苦笑いだった。
拓真は思う。中等部女子バスケットボール部の面々の過剰なスキンシップで蘇った抵抗する事が出来ない恐怖心は、数日を掛け、男子への恐怖心をも増大させてしまっていた。
今日、男子たちからの挨拶を返せなかったのは、そう云う事だろうと思う。
元々、男子からの挨拶は少なめだった。強烈個性を発揮している康平が、憂の後ろから睨みを利かせていたのだろう。康平の……もちろん憂もだが、彼らの背後には大物の姿が見え隠れしている。康平の存在は、その背後の存在の強烈なアピールとなっていたのだ……と。
(早く戻ってきてくれ……)
拓真は今一度、居なくなった康平の存在の大きさを噛み締めるのであった。
梢枝と部長の遣り取りは纏めさせて頂こう。
―――部長は先ず、梢枝に謝った。
『学園外での活動は禁止されている為、躊躇いました。申し訳ありません』
『伺っておりますえ? お気になさらず。無事に解決しましたよって……』
『まだです。しばらくは先程の4名を監視させて頂きたく……』
『お任せします。本当に頼りにさせて頂いてます。ありがとう』
『はい。それでは早速、調査を開始致します』
『やり過ぎには……』
『解っております。憂さんに敵意が向くことの無いよう、十分に配慮する所存です』
『ホンマ頼りになりますわぁ……』
『光栄です。それでは失礼致します!』
『あ!』
『はい? どうなさいましたか?』
『親衛隊。中等部の夏休み明けに承認されますえ? ぶつからないよう気を付けやす』
『把握しております。しばらく我々の活動の障害となると思いますが、それも次第に収まるものと推測しています』
『ウチらと同じ見解ですねぇ。流石です……』
『夏休み明けには親衛隊と衝突する部分があると思います。我々は極力、衝突を避けるつもりですが、そこはご容赦、ご理解下さい』
『解ってますえ?』
『はい。それでは』
『気張りやぁ?』
梢枝の最後の言葉にニヒルな笑みを見せ、再び部活動に戻る部長なのであった―――
「康平くんが学園復帰するまで限定だ。僕も君たちに同行させて貰う」
「あぁ。頼む」
「助かりますわぁ……」
「あれ? グループメンバー増えちゃった? あたしは大歓迎だよ、ね? ち・あ・き?」
「そ、そうだね……うん」
上記は朝礼後の遣り取りである。こうして、康平の代役として凌平がグループメンバーに加わったのだった。




