92.0話 秘密を知り得た者たち
「はぁぁ――」
憂は控室に戻ると、盛大に溜息を付いた。疲労困憊の様子だ。
「――はっぴゃく――んぅ?」
首を捻った。数字を忘れてしまったらしい。
憂は強く言い聞かされたり、叱られるとよく頭に残る節がある。勉強も叱りながら厳しく教えれば案外、伸びるのでは……と、思うが周囲がそれをする訳は無い。机上の空論である。
「難しく……考え……ないの」
忘れてしまった事には触れず、千穂は優しく諭した。憂は、優の頃の誕生日と比較している。そう感じたのだろう。
正解かも知れない。しかし、その答えは千穂が思考を放棄させた為、憂のみぞ知る事となってしまった。
控室には現在、憂と千穂。それと姉の3名のみだ。
愛が居る以上、着替えの問題は無い。ついでに愛も千穂も恥ずかしい。もちろん憂も嫌がる。わざわざ女性スタッフたちの視線に晒されながら更衣する必要は無いのだ。
「着替え……ちゃうよ?」
愛の号令を受け、千穂はすぐに着替え始める。マーメイドラインのドレスは体のラインをはっきり見せた。やっぱり恥ずかしいのだ。着る前には喜びを露わにした千穂だったが、そのドレスへの憧れは、着た後には吹き飛んでしまったらしい。彼女は小市民なのである。
愛も千穂もお互いに手を貸し、さっさと着替えていった。憂は、そっぽを向いていた。彼女らは着替えを終えると、憂の着替えに移る。
憂は未だに恥ずかしそうな様子を見せている。いつまで経っても慣れない。忘れたい記憶として破棄されているのでは……? と、勘ぐりたくなるほどだ。
実際に愛も千穂も聞いた事がある。いずれも答えは過去の着替えシーンを『おぼえてる――よ?』だそうだ。それでも恥ずかしいままらしい。
姉との入浴については多少、慣れてきている。それも姉の裸を見慣れた……と云った様子である。自身の裸体には全くと言っていいほど慣れていない。
閑話休題。
着替えを終えた彼女らは蓼園総合病院の最上階へと移動したのであった。そこへは一斉に移動するには不向きだ。どうしても人目に付いてしまう。その為、3名だけでの移動となったのである。おそらく他の面々も少人数で移動していったのであろう。
パン! パパン!! パン!
最上階の廊下で島井に迎えられた3人は、島井のカードキーやら網膜認証やらの厳重なセキュリティを突破し、NSを経由せず、直接VIPルームに入室した。
先程の音は、クラッカーの音である。
憂はまたもその音に驚き、目を丸くしたまま固まった。慌てるクラッカーを鳴らした面々だったが、拓真1人が大笑いしていた。千穂も笑みを見せたが、彼女の場合は苦笑いだ。今朝の記憶を呼び起こされたのだろう。
VIPルーム内は大勢となった。
総帥・蓼園 肇に、その秘書・一ノ瀬 遥。
蓼園総合病院院長である川谷 光康。憂の主治医である島井 裕司。脳外科医・渡辺 智貴。看護部長・鈴木 慈子。専属看護師・伊藤 草太。同じく、山崎 祐香。同じく、五十嵐 恵。
私立蓼園学園より学園長・西水流 靖一。C棟1-5担任・白鳥 利子。
更には友人たち。男子は本居 拓真、新城 勇太、池上 京之介、渓 圭佑。そして、身辺警護でもある鬼龍院 康平。
女子は漆原 千穂、大守 佳穂、山城 千晶、身辺警護でもある榊 梢枝。
憂の家族である立花家。父・迅。母・幸。姉・愛。兄・剛。
もうひと家族の姿も見られる。拓真の本居家。父・譲二、母・由美子、妹の美優。
―――今朝の美優との遣り取りを見ていた憂の母は、信頼できる本居家に早速とばかりに憂イコール優。その事実を拓真の母に伝えてしまったのであった。どの道、美優の帰宅が遅くなる。その理由に必要となる。時間の無い中での今朝の決定には問題があったのだ―――
以上の27名。憂を含めた28名。
全員が憂が優であった事を知り得ている者たちである。
多いのか、少ないのか判断は付かない。
固まっている憂を拓真の母は、壊れ物を扱うように、そっと抱き締めた。涙は見せなかった。優しい微笑みを浮かべていた。
―――時は30分ほど前に遡る。拓真の父は、既に『知った』母と共に、訳の分からぬまま、立花家の夫妻にこの最上階に案内された。そこで立花の大黒柱に衝撃の事実を知らされた。俄には信じられなかった様子だったが病院関係者の証言もあった。そしてトドメとばかりに美優から自身が納得した経緯を教えられると、迅と抱擁し合ったのである。
拓真の父は優の生存を知り、男泣きに暮れた。その様子を見ていた拓真の母も涙を見せたのであった。因みに彼女は昼間、幸に聞かされ、その時も泣かされている。早い話が、もう充分に泣いていたのである―――
憂は大人しかった。拓真の両親への認識がどうなのかは判らない。思い出しているのかいないのか判断が付かない。美優を切っ掛けとして思い出していても不思議は無い。
拓真の母はハグから憂を解放すると、入れ替わりに父が憂の正面にしゃがみ、ゆっくりと声を掛けた。
「優……くん……なのか……?」
「――はい」
躊躇うこと無く、自身の正体を告げた少女を前に視界がぼやけてしまったようだ。彼は憂と優とを照らし合わせているのだろう。
「また……キャンプ……行こうな……」
……震える声で発したその単語は特別な物だったようだ。憂の視線は、しばしの間、眼前の拓真の父・譲二を通り越した。
「はい――。たっくんの――お父さん――」
千穂を含めた何名かが、にっこりと笑った。それは千穂に聞かされた渾名の法則。拓真は1人、背を向けた。その拓真の肩に手を載せると勇太は「良かったな」と祝福したのだった。
勇太もまた思い出した。優は中1の途中まで『たっくん』と拓真を渾名で呼んでいた。それを拓真が嫌がった為、『拓真』と呼び捨てに変化した。しかし、拓真の両親に対してはいつまでも『たっくんの……』と付けると愚痴を零していたのだ。
憂は、その流れで愛と島井に今朝の失態を叱責……と、までは行かないものの、しっかりと言い聞かされていた。ちょっと可哀想に思えたが已むを得まい。不用意な発言は正体の暴露に繋がる。平穏で平凡な生活を望んだのは憂自身である。それを望むのであれば、多少の制約は生じてしまう。憂も十分に反省した様子だった。
そんな感動の再会(?)シーンが終わると二次会がスタートした。
憂【優だよー】
バースデーパーティーとは違い、二次会は細やかな形式が取られた。まさか、ここに料理人など呼ぶ訳にもいかない。豪華な食事を運び込む訳にもいかない。運び込んだ食材をコネクティングルームに備え付けてある調理場で、大人たちが簡単に調理した物や、そのままで食せるチーズや菓子の類が準備された。800を超える贈り物から賞味期限付きの物も見繕われているようだ。当然だが、5人家族では消化し切れない。折角の心の籠ったプレゼントを廃棄するより随分とマシだろう。
憂【16才だよー】
【わかってるってば!】千穂
【ごきげんですね】Dr.島井
しかし、酒は用意されていない。21時頃まで二次会として、『知った』者たち大集合で誕生日を祝い、その後には折角だから……と、今後についての話し合いに突入する予定なのである。
憂【勇太が一番、誕生日遅いー(笑)】
因みに学生たちは各自、親の許可は降りている。この日までに憂の後ろ盾との接触を公言するよう、遥から愛へ。愛から学生たちへ……と、伝えられているのである。彼らの両親たちは当然のように、この日の夜の帰宅を許可した。総帥との邂逅など、通常は有り得ない。彼ら学生たちにとって大きなチャンスと成り得るのだ。チャンスだけでは無い。許可しなかった場合には一転し、大ピンチである。総帥に睨まれてはこの街では生き辛い。ここでも総帥は自らの絶大な権力を誇示しているのである。
【たしかにそこは、おもしろい】佳穂
【おお……。そうだなー。優はすごいなー】勇太
憂【年上だよー】
【あぁ! もう! 憂のにゅうりょく、はやいよー!】千穂
絶大な権力の発露はこれだけでは無い。この細やかな宴の冒頭。彼ら『知っている』者たちからの誕生日プレゼントが渡された。
【16さい。わかいっていいねぇ】肇
総帥と元会長秘書からのプレゼントは形を持つ物では無かった。例の名の無いチャットアプリのバージョンアップが彼らからの贈り物であった。
憂【ここでヒマだったから】
【はじめさま? きけんな、はつげんは、おひかえ、ください】遥
このチャットアプリを持つ者は、元々、知る者たちの一部だけだった。
【ひま、いわれると、ちょっと、さみしい、っす】草太
しかし、どこでログを盗み見されるか判らない事がネックだった。なので、重要な会話は行われなかった。
そこで遥はチャットアプリを開発した企業ではない、蓼園関連外の企業に依頼し、このチャットの外部からのログ参照の可能性の排除に成功したのである。所定のID以外がアクセスした場合、数千種類にも渡る暗号化が云々……。よく解らないがそれにより何1つ、憚ることなく、コメントする事が可能となったらしい。
憂【あ……。ごめんなさい……】
現在進行形の遣り取りが示す通りである。
このプレゼントを憂は大いに喜んだ。
―――憂のタブレットにはアプリをインストールされていなかった。うっかりコメントは外部への情報拡散を招く恐れがあったからだ。その恐れが払拭され、晴れてアプリを手に入れたのである。
アプリをインストールされたスマホの紛失による拡散の危険性も大方、排除された。アプリにアクセスする際には共通のパスワードの入力が必要になった。そのパスワードは『秘密を知り得た者たち』。もしも忘れ去られたスマホを拾い、謎のアプリにアクセスしようとした時、到底、思いも付かないパスワードである。
ついでに言えば、アプリに接続したまま待機画面に戻すと即座にログアウトされ、再度のパスワード入力が必要となった。少し手間だが、リスクは下げて然るべきだ。そこは仕方が無いだろう。パスワード内に『秘密』と云う単語が入れられたのは島井の提案だった。この単語を介す事でチャットの遣り取りでルーズに成り兼ねない『憂の絶対の秘密』を意識させる事となるのだ―――
【伊藤さん! きょうは、もう、憂さんを、せめない!】祐香
【伊藤さん! べつに、いいじゃない、ですか!】恵
【あ、あぁ……憂さん、ごめん】草太
伊藤は入力が超速い。ソシャゲやらMMOで鍛え上げられたスキルである。
何はともあれ、憂はこのように知っている者たちとの忌憚ない遣り取りが楽しくて楽しくて……と、全身で表現している。ずっと笑顔だ。さすがに小躍りまではしていない。
やけに平仮名多めなのは、読めない誰かさんへの配慮である。他の全員は読みにくい。
【憂せんぱい、おこられちゃい、ましたからね。おたんじょうび、なのに】美優
【憂ちゃん、よかったね。アプリ、うれしそう】佳穂
このとんでもない銭が投入されたプレゼントは一番、最後に発表された。当たり前だ。他の者が出しにくくなる。
【憂……。この字に、なると、なんか、てれるな。おんなのこっぽくて】圭佑
大人数のチャットは話が混信する。ポンポン話が飛んで申し訳ない。ログは後で見返して貰う方が良いかも知れない。混乱してきた。
憂【伊藤さん、あやまられると困る……】
最初のプレゼントは千穂、佳穂、千晶の3人娘からだった。姉は1人ずつのプレゼントを遠慮した。グループ内からだけで多くの贈り物を受け取る事は避けたかった。何より学生たちにお金を沢山、使わせる事になる。蓼学は、なかなかにお高い学園だ。ここに居る学生たちも、なかなかの裕福層の子たちだが、それでもお小遣いには限度がある。その為、いくつかの小グループでのプレゼントなのである。
【すっげーわかるわ】勇太
憂【ボクがしっぱいしたからおこられて当たり前……】
【話すのも大事だけどたまにはチャットで話すのもいいね>佳穂】千晶
【うん。わかる】京之介
【憂さん……。よし! このはなしは、おわりで!】草太
憂は他の贈り物と違い、この場で開封した。海外方式ぽい。
【なんだって、こんなに可愛く……】圭佑
憂【りょうかい。美優ちゃん?】
千穂たち3人のプレゼントは開封した途端に真っ赤になり、必死の形相ですぐに隠してしまった。中身は純白でシンプルな上下セットの下着だったのだ。Tバック付きの3点セットだったのは、千穂のいたずら心かも知れない。千穂は以前の愛を含めた3人でのショッピングでの出来事を覚えていたのだろう。
【はい?>憂せんぱい】美優
【すっげーわかるわ>圭佑】勇太
次のプレゼントはバスケ4人衆からだった。憂は開封すると一頻り喜んだ後、ちょっと複雑な顔に変わった。
彼らのプレゼントはジャージ上下とスポーツ用の半袖上下だった。彼らは憂へのバースデープレゼントをメンズにするかレディースにするかで悩んだ。悩んだ結果、『なんでこの子、メンズ物を?』と思われたら危険だと、レディースを選んだ。それはサイズ的に可愛らしい物になってしまったのである。
憂【大会、あさってだよね? 言葉でつたえたいけど、ボクこんなだからこれでごめん。がんばって。おうえん行くよ】
チャットの遣り取りはピタリと止んだ。3人を除いて。しばらくプレゼントの説明を中断する事とする。
【でも……あたし、なやんで、ます……】美優
憂【どうして……? なにを……?】
【まだ、んなこと、いってんのか?】拓真
憂【どういうこと?】
【憂せんぱい……。優せんぱい……】美優
憂【もしかして、ボクのこと……?】
【やれよ。それが憂の為だろ?】拓真
【お兄ちゃん! お兄ちゃんは何で辞めたままなの!?】美優
憂【拓真……美優ちゃん……。けんかは……】
【勇太もきょうちゃんも渓やんも見てる中で悪い。俺は優とバスケしてるんが楽しかったんだよ。憂にも悪いな……。でも、俺、前みてーにやれねぇ】拓真
千穂は、いつものようにそっと憂に囁き始める。拓真のコメントは動揺か他の何かか、憂への配慮に欠けている。
「だからそれをずるいって! 卑怯だって言ってるんだよ!」
美優はコメントを放棄した。涙を一杯に浮かべている。大人たちもじっと見守っている。兄妹喧嘩、双方の言い分を理解できるのだ。対する拓真は辛そうにスマホを操作している。
勇太と圭佑は拓真の傍に、京之介は憂の傍に移動した。拓真の気持ちも憂の気持ちも考えれば考えるほど居た堪れない。
【まだそう言うんか……。考えてみろ。俺が気の抜けたプレーして、それを憂が見てどう思う? その憂の気持ちを考えてくれ】拓真
「……お兄ちゃん」
憂【ボクは……。ボクのせいで美優ちゃんが辞めたら悲しい。拓真にもホントに悪いと思ってる。ボクは、たまにバスケ出来ればいいんだよ? 今でもホントに楽しい。今日、貰ったプレゼントでまた遊ぶよ? 美優ちゃんも一緒に遊ぼ? あの時、死んでたら……。遊びでも出来なかったんだ。今は、これで十分なんだよ? 美優ちゃん。辞めるなんて言わないで? せっかく、バスケ出来る体なんだよ? ボクに全国制覇……見せて?】
憂は千穂の力を借りつつ、たっぷりと時間を掛けて、その心の内を見せた。
美優の瞳のダムは決壊した。幾人もに、それが伝染った。
美優は憂の正面に移動すると、その手を握った。美優の手より小さく柔らかかった。
美優は涙を拭うとはっきりと宣言した。
「憂せんぱいに……全国……制覇……見せます」
「お兄ちゃんには……納得……出来ない……けど」
「優せんぱいの……夢……あたしが……叶えます」
美優の宣言に高等部、現役バスケ部員3人も心に誓った。
―――必ず、分厚い壁を突破する―――と。
……しんみりとしてしまったが、プレゼントの内容を紹介しよう。
蓼園総合病院の面々からはバッシュが贈られた。以前、鈴木看護部長がクリスマスプレゼントとして、優にそっと贈ったバッシュだが、現在、使用中らしい。そこで、屋内用と屋外用に使い分けの為、もう一足を贈ったのである。一々、靴底を綺麗に洗う手間が省略される事になるだろうと。
身辺警護の2人は家庭用ゲーム機とその周辺機器であるVR。更にソフトを数点。ソフトはいずれもまったりとプレイ出来るものが選ばれていた。梢枝も康平も憂の努力を知っている。勉強や運動の息抜きに使って欲しいと云う気持ちなのだろう。
家族のプレゼントはバスケットボールだった。もちろんそれだけでは無い。小さな庭の一角にはバスケゴールが取り付けられたのだった。