91.0話 お誕生日会
スポットライトを浴び、純白の少女は光り輝く。無数の両の手が打ち鳴らされる中、片足を小さく引き摺り、ただ無表情に一歩、また一歩と白い絨毯を踏み締めていく。深みのある色合いのカクテルドレスを纏った美女と美少女が柔らかく微笑み、純白の少女をエスコートしている。
純白の少女は比喩では無い。肌の露出の少ない純白のドレスに身を包んでいる。その僅かに露出した肌は白磁器の如き、透き通る白だ。
エスコートする美女が1つ耳打ちすると、一瞬で露出した部位……。名の知れた造形作家でも作り上げられないであろう美貌と両手を朱に染めた。
それでも純白だった少女は正面を見据え、一本のヴァージン・ロードならぬ白い絨毯を踏み締め、真っ直ぐに進んでいく。
多数のゲストは、そんな直向きな少女の背中に惜しみない拍手とエールを送り続ける。
黒服を纏った柔和な優男が小さなお立ち台へと誘導し、一段、また一段とゆっくりと上がっていく。階段を上がる間、純白の少女の背をそっと支えた美女と美少女の白い手が、その白の少女の儚さに拍車を掛けた。
階段を登り切り、純白の少女は振り返る。美女と美少女は傍に控えた。素早くマイクスタンドが設置されると無数のゲストは息を潜める。見上げる者たちの中には、声を控えた者だけで無く、言葉を失くした者も多数存在しているようだ。
幾つもの視線に晒され、少女は次第に真っ赤に染まっていき、もじもじと体を揺らし項垂れた。
ゴン
「いた――」
……何のお約束か?
痛いほどはぶつけていない。失態を犯した憂は一歩下がり、照れ隠しにおでこをスリスリと撫でる。クスクスとそこかしこから笑いが零れた。嗤いで無いのが救いだろう。
「憂ちゃん、頑張れー!」
佳穂の声は瞬く間に広がりを見せ、しばらく励ましの声援の時間が続いた。
その優しい言葉の数々に背を押され、再びマイクへと一歩踏み出した。そしてまた、静寂がこの場を支配した。
「ほんじつ――は――」
……それだけ。マイクはそれだけ憂の小鳥の囀るような美しい声を拾ったきりとなった。憂は遠くを見詰め、小首を傾げてしまった。忘れてしまったらしい。
―――そう。彼女は今―――
―――いっぱいいっぱいなのである―――
憂は固まった。説明しておこう。
―――遥は会場に蓼園駅横に鎮座する、お高いホテルの結婚式に使われる披露宴会場を選んだ。蓼園グループに籍を置くホテルだ。何かと融通が利き、距離的にも蓼園学園から、さほど離れていない。放課後からの移動と云う事もあり、これ以上の会場は条件に合致しなかったのである。
だが、そこはお高いホテル。前任の会長であり、今でも巨大な権力を有する、総帥の懐刀の指名。スタッフの気合の入り様は半端では無い。
背の低い憂に高砂を用意した所で、一、二列目を確保出来た者以外には姿が見えないだろう。そこで考案されたのが、このお立ち台である。華美な装飾を施されたそのお立ち台は、『お立ち台』などと謂う呼び方をしていいのか判らないような代物である。おそらく特注したのであろう。
白い絨毯は総帥自らの指定である。白い長絨毯など、急遽誂えられるはずも無い。総帥が憂に心酔し始めた頃、特注をかけた品である。レッドカーペットならぬホワイトカーペットと遥は名付けた。
『こんな事もあろうかと!』と大いに彼はふんぞり返っていたのだったが、それは今、関係ない話だ。
続いて、純白のドレスについてだが、これは愛に車が贈られた際、車内にあったドレスとは別物である。この16歳のバースデーパーティー用に誂えられた物だと遥は言う。たしかにあの車に積まれていたドレスは短いスカートだった。今回のドレスはマーメイドラインのシックな雰囲気を漂わせている。
……良く見れば、純白だけではないらしい。胸元や二の腕付近は透けているようだ。シースルーとなっている。憂の肌もまた新雪のように白い為、ぱっと見で気付きにくい。
後ろに控える2人のドレスも控室に用意されていた。遥は、何故だか愛と千穂の詳細な体型の情報をも握っていたのだ。
愛は深い緑の憂と同じマーメイドライン。千穂は深い青の同じくマーメイドラインのドレス。完全に憂の引き立て役となっているのだ―――
「――――――」
……憂は未だに固まっているようだ。
続けよう。
―――これから運ばれてくるであろう料理の数々も、通常の披露宴よりも格上の物だ。産地、鮮度など、ホテルの持つ力を最大限に活用し、ホテル内に入るテナントのレストランのシェフたちさえ招集し、雁首を揃え何度も会議の場を持ち、決定したメニューである。
その食事形式は立食。学生主体となるこの会に於いて、一番、喜んで貰えるだろうとこの形式が採用された。何より、席に付いてしまえば、交流を妨げる事にも成り兼ねない。
その為、現在はごく小さな円卓がぽつりぽつりと設置されているのみである。その丸テーブルには様々な色とりどりのジュースの類がグラスに注がれ、綺麗に並んでいるのである―――
「――――!」
……どうやら戻ってきたようである。そして口を開いた。
「――わすれた――」
予想通りだ。何も驚くことはない。ゲストたちもそのようだ。只1人「可愛いぃぃ!」とキーの高い声で喜んでいるオバサンが居たが、至って平穏を保っている。微笑み、或いは苦笑し、憂を見上げるゲストたちだった……が、スタッフは違った。黒服は即座に憂に2つ折りにされたメモをお立ち台の下から憂に差し出した。この際、カンニングでも……と、思ったのかも知れない。
憂は不器用にその紙を開き、目を通すとまた2つ折りに戻してしまった。
「――ありがとう――」
「でも――いらない――」
憂は正面を見据えている。つまり誰とも目を合わせていない。2度目となるが彼女はいっぱいいっぱいだ。現にその声は震えている。
それでも彼女は口を開いた。
「きょうは――えっと――」
「その――」
「――ありがと」
何名もが拍手をし、すぐに鳴り止む。彼女の言葉は終わっていない。
憂は俯き、逡巡する様子を見せる。やがて決心したかのように顔を上げ、周囲を見渡した。その表情に翳りは無かった。晴れ渡った穏やかな面持ちだった。
「――いきてて――」
「――いき――のびて――」
「ほんとに――よかった――」
「いろいろ――」
「えっと――」
良い所で固まってしまうのはご愛嬌だろう。招待を受けた者たちはそれを理解している。静かに優しくじっと待つ。最愛の少女がそうするように。
黒服たちはソワソワと落ち着きが無い。この場で主役の少女に恥をかかす訳にはいかない。
憂の表情は移ろい変わっていく。思い出そうとしているのではない。今、この場で言葉を組立てているようだ。おそらく慎重に、バレないように言葉を選んでいるのだろう。千穂に強く言い聞きされたばかりだ。うっかりかまして千穂に見捨てられたくない一心なのかも知れない。
数分後、閃いたように口を『あ』の字に開いた。どうやら良い言葉が見付かったようだ。何よりである。
「てま――かけたり――」
「めんどう――だったり――」
「いらいら――させたり――」
「えっと――」
「――いろいろ――ある――けど――」
「これから――も――」
「よろしく――ね?」
憂にしては長い文章だった。淀みなくとはいかない。流暢になど、決して言えない。
それでも。
途切れ途切れであっても、所々詰まりながらでも、健気に一生懸命に紡がれた言の葉は100名近いゲストたちの心にストンと染み渡ったようだ。いや、ゲストのみならず、スタッフからも事務的ではない心からの拍手が聞かれた。
ホテルのスタッフにとって、憂は総帥の後ろ盾を得る謎の美少女だった。ある女性スタッフは衣装の着付けに立ち会った。その際、傷痕を目撃し眉を顰めた。少女の仕草や言葉でどういう少女であるか察した。
その愛くるしい少女は幾度もの自殺を乗り越えた。『生きてて良かった。生き延びて良かった』と語った。その後の言葉は謂わば独白だろう。障がいを抱えてしまった自責の念の発露だろう。そして、それを踏まえた上で『よろしく』と……。
その女性スタッフは美少女の壮絶な過去を想像し、今現在、燦然と輝く姿と見比べ、そっと密かに目元を拭ったのであった。
「ブラボー!!!」
鳴り止まない拍手と賛辞の中。低く、重い、大きな声が響き渡った。少し腹の出た中背のこれと云った特徴の無い。それで居て、妙な存在感を持つ男。凄まじいオーラを幻姿させる存在。蓼園のドン、総帥などと幾つもの二つ名を持つ男、蓼園 肇である。
総帥は悠々とお立ち台へと進み出る。それを合図に黒服たちが動き始める。次々とゲストに手にグラスが渡っていく。
「健太……! 待ちなさい!」と、小さな叱責の声も聞かれた。彼は総帥の登場による妙な緊張感に耐えられなくなったのか、グラスに口を付けてしまい、それを有希に叱られたらしい。
お立ち台の下では、総帥が慇懃に手渡されたマイクを手に不敵に嗤い、グラスが行き渡る瞬間を今か今かと待ち侘びる。
黒服の1人が遥に何やら耳打ちし、秘書は総帥に目線を送った。支度が整ったらしい。
「目出度い日だ! そうだろう諸君!」
悠然とゲストたちを見回し、満足した様子で続ける。
「見事な演説だった。儂は憂くんにいつも感動させられる。儂はこの子を敬愛しておる。尊敬と謂っても良い。この少女の為ならば、儂は全てを犠牲に出来る。憂くんの為ならば監獄にでも入ってやろう。儂のこの言葉を家族や知人、友人に伝えるがいい。それはこの子を護る事に繋がるだろう」
今一度、周囲をギョロギョロと見据える。ある者は彼の威厳に俯き、ある者は真っ直ぐに総帥から目を逸らさず頷いた。
「ふはは!! すまんな! 儂も年甲斐もなく興奮しているらしい。見るが良い。憂くんの姿を。美しいと思わんか? 畏怖さえ感じぬか? 女神そのものと思わんか?」
どこか愛嬌のあるおっさんは恍惚とし、憂を見上げる。孫や曾孫を見詰める老人以上の眼差しだった。
「まだ16歳だ。憂くんの可能性は計り知れない。尤も、本人はそれに気付いていないだろうがな」
今は憂の傍らに控える愛も千穂も憂に語りかけていない。憂は不思議そうにグラスを左手に持ち、総帥を壇上から見下ろしている。
「……儂の力など、たかが知れておる。儂や憂くんのご家族、友だけでは護り切れんかも知れん……。彼女が苦難に立ち止まった時、皆の力を貸し与えてやって欲しい。輝かしい未来は憂くんの下に必ず訪れる。儂にはそう思えてならん。憂くんの道を閉ざすこと無く照らせ。示せ! その勇気は彼女自身が与えてくれる! 以上だ!! 憂くんの16歳の誕生日に!! 語り継がれるであろう未来に!! 乾杯!!」
蓼園 肇がグラスを高々と掲げる。『乾杯!』と総帥の祝杯に応じる。幾人もの学生たちがグラスを合わせ、打ち鳴らし、薄いガラスを割ってしまったが咎める者は、その者に近しい者たちばかりだ。
黒服たちは予想していたかのように動き出す。学生たちの良い経験になるだろうと秘書は注意事項として伝達しなかった。高級なグラスの粉砕など問題にならない。それ以上の効果をいずれ蓼園にもたらしてくれるだろうと。
そんな学生たちの様子を眺め、懐かしい物を見るように目尻を下げると『儂が居ては盛り上がる事も適わんだろう』と総帥はすぐに辞した。
そして、会場はお祭り状態へと変わっていった。
憂がお立ち台から降りると、すぐに友人、知人に取り囲まれた。口々に先程の挨拶、高級感溢れるドレスに負けないその容姿を、美貌を褒め称えた。もちろん『誕生日おめでとう』と言う言葉を添えて。
次々に姿を現す料理に学生たちは舌鼓を打った。憂も顔を蕩けさせ、多くの種類を少しずつ食した。ペース配分を考え、取り分ける姉と彼女の姿がいつも傍にあったのだ。
1時間を経過した頃、学園での772の誕生日プレゼントと会場の面々の贈り物を含めた総数が遥により発表され、会場中を驚愕させた。黒服たちも驚いていた。さもありなん。
憂はここに来て、ようやくその数を理解すると精一杯に礼と謝辞を述べた。
何故、こんなにもと云う戸惑い。でも本当に気持ちは嬉しい事。余りの数にお返しが難しい事。ゆっくりと時間を掛け、伝えていった。言葉を引き出していった2人の努力ももちろんある。
遥は憂の言葉を纏め終えると宣言した。
『先程の憂さまのお言葉をメッセージとして、プレゼントのお返しとさせて頂きます。この場にいらっしゃらない方には、メッセージをお手紙とし、配布する事でご容赦願う所存です』
総帥秘書の対応は見事としか言いようが無かった。
実は後日、郵送された憂の手紙と共に、蓼園グループで扱える商品優待券が同封されていた。
プレゼントのお返し問題を解決すると同時に、蓼園グループの懐まで潤う一挙両得な手段なのであった。
流石は総帥が信頼を寄せる秘書と云った処である。
それが弱みとなり、贈り物を断る手段を失う事になるとは露知らず。遥の宣言に心から御礼を述べたのは愛なのであった。
何も愛が切れ者に弱い訳では無い。それ以上に遥の能力が上回っているのだろう。
かくして、憂の16歳のバースデーパーティーは大盛況の内に幕を閉じた。パーティーの終了間際には総帥が再降臨し、緊張感の漂う中『言い忘れていた! 儂は小児性愛者では無い! 断じて無い! 純粋に憂くんを慈しむ者だ!』といきなり弁明し、笑いを誘っていたのだった。ピエロさえ演じられる優れた男なのだ。たぶん。
最後に登場したバースデーケーキはウェディングケーキのような、とんでもない代物だったのは特記するまでも無いだろう。
1つ追記しておこう。
進学を決めた者の多い、生徒会の面々だったが、この日以降、生徒会長・文乃を含めた何名かが蓼園商会本社や中核を担う企業から誘いを受けた。遥による青田刈りである。通常、大卒で無ければ採用しない蓼園商会本社。文乃はエリートコースを突き進む事になるのだった。
文乃たちもまた憂を通じ、運命を変えられた者と断言して問題ないだろう。