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86.0話 キューピットさん

 


 ―――7月3日(月)



 千穂がいつもの時間に目を覚ますと、隣に愛の姿は無かった。すでに起き出したらしい。夜の内に千穂のベッドから脱出し、改めてベッドの下で眠っていた事を千穂は知らない。


 そして、前日に続いて憂は起きていた。憂は6時少し前に目を覚ます習慣があるらしい。千穂は起き抜けに憂のお手洗いに付き合う事になった。階段は何かと恐ろしい。


 これを毎朝は大変かも……。


 そんな事を千穂が思ったかどうかは定かではない。


 朝食は愛が早起きし、作っていた。憂の自宅での食事と同じ。前日と同じ和の朝食だった。


 愛は食後も憂の支度にピッタリと侍従のように付き添っていた。そんな愛の姿に千穂は尊敬の眼差しを向けていたのだった。介護とは忍耐である事を理解したのかも知れない。家族介護の場合には愛情も伴ってくるが、その話は置いておこうと思う。



 憂も千穂の家から直接、学園へと歩みを始めた。もこもこした雲がゆっくりと流れる良い天気ある。


 私立蓼園学園東門。千穂も憂も……C棟の生徒の大半がこの門をくぐり、学園に到着する。この東門がC棟に一番近く、駅からも便利なのだ。


「憂先輩! 千穂先輩! おはようございます!!」


 東門に到着すると突然、大声で声を掛けられた。セーラーカラーの薄いグレーのラインは2本。中等部の少女だった。


「近い内に大発表があるので楽しみにしてて下さいね!!」


 一方的にそう告げると、千穂が挨拶を返す暇さえも無く、走り去っていった。当然、憂は反応出来るはずも無かった。


 2人は呆然とそんな忙しい少女。七海の後ろ姿を見送ったのだった。




 憂は教室に到着すると何をするでも無く、窓の外を眺めるとぼんやりし始めた。何も珍しいことではない。憂はよくこうして外を眺めている。何気にこの姿には人気があったりするが、今は関係のない話だ。


 千穂も憂もいつも早い時間に到着している。元々、千穂はその性格上、早い通学時間だったのだが、それよりも挨拶攻勢で疲れてしまうのだ。


 この日は一番の到着だった。すぐに遅れて梢枝と康平が到着した。彼らは憂が無事に通学を完了した事を報告などしているのかも知れない。いつも少しのラグがある。



 続いて到着したのは余りにも意外なコンビだった。


 佳穂&千晶である。到着するなり疲れた顔で汗を拭きながら「おはよ」と挨拶。


「――おはよ――」


「おはよ! 早いね! びっくりしたよ!」


「今日から歩きだよ。早めに出たら早めに着いちゃった。それより聞いて? 佳穂が起きてたんだよ?」


 千晶が制汗スプレーを吹き付けながら千穂に語った。憂は挨拶するなり空を見上げた。物思いに耽るかのようにも見える憂いのある表情だった。


「ホントに歩いてきたんだ……。千晶、偉い!」


「付き合うあたしはもっと偉い」


「佳穂さんも優しいですねぇ……」


「お前もその優しさが感染ってしもうとるがな……。それで身辺警護大丈夫かいな?」


「……そうやろかぁ……?」


「うん。最初は取っ付きにくかった。でも康平くんは人の事言えないと思うけど。ところで憂ちゃんどうしたの?」


 千晶は憂を覗き込みながら言った。佳穂は制汗シートで首やら肘の内側やらを拭きながら憂の視線に割り込む。


「――佳穂?」


「憂ちゃん、どしたの?」


 ――――――。


「――なんでも――ないよ?」


「そう? あ。これ……良い香り……なんだよ? ほら」


 佳穂は拭いたばかりの手首を憂の鼻に寄せる。憂は赤くなりつつ、スンスンと鼻を鳴らした。即座に顔が蕩けた。相変わらず香りフェチの素養は残しているようである。


「――せっけん?」


「うん。大人気……せっけんの……香り……」


 憂に話しかけた後、全員向けに速度を上げた。


「憂ちゃんが好きそうな香りだと思ったんだよー! これにして大正解! あ! しまった! うなじで嗅いで貰ったほうが効果的だったかも!?」


「あんたね……」


「あれ? 憂ちゃん、また外見てぼんやり……」


「……だね。憂いのある表情してると本当に綺麗。名前の通りだね」



 憂は利子が教室に駆け込んでくるまで、ぼんやりと窓の外に目を向けていたのであった。


 利子は酷く慌てていた。時計は8:40を指し示している。利子が口を開こうとした時、チャイムにそれを妨げられた。


 ピンポンパンポンと上がっていく音階。お知らせや呼び出しに使われるチャイムである。


『お知らせ致します。本日、当学園内の敷地内で事件が発生致しました。事件から時間は経っておりません。尽きましては、学園の校舎を離れないようにして下さい。繰り返します。本日、当学園の敷地内で事件が発生致しました。事件から時間は経っておりません。尽きましては、学園の校舎を離れないようにして下さい』



「今の放送の通りです! 絶対に教室を離れないで下さいね! 点呼を始めます! まだ来てないお友だちが居たら、メールでも電話でもして注意の呼び掛けと無事の確認をお願いします!」


「……康平さん?」


「あぁ……ちょっと行ってくるわ」


 康平は駆け出した。普段、早い通学の拓真の姿が見えないのだ。


「あ! 康平くん!?」


「リコちゃんセンセ? 大丈夫ですわぁ……。彼は伊達に憂さんの身辺警護を務めておりまへんえ?」


「私、拓真くんに電話してみる」

「あたし勇太に……」

「わたしはチャット入れとくね……」


 各々、行動を開始する。周囲のクラスメイトたちも、まだ到着していない者に連絡を取ろうとスマホを取り出している。そんな中、憂は未だぼんやりと空を眺めていたのだった。


 ぽつりぽつりとクラスメイトは1-5に到着する。利子の点呼の声と至る所で電話での遣り取り―――電話中の者の返事は近くの者が代理で返事している―――が行われる中、ピンポンパンポンと下がる音階……。


『失礼致しました』


 そして再びピンポンパンポンと上がる音階が鳴り響いた。こんな時にあるあるは必要ない。


『お知らせ致します。先程、お知らせ致しました事件に於きまして、現時点での当学園の児童、生徒に被害は確認しておりません。ご安心下さい。繰り返します。先程、お知らせ致しました事件に於きまして、当学園の児童、生徒に被害はありません』


「あ! もしもし! 拓真くん!」

「勇太! 繋がった!」


 ……また、締めの下がるチャイムは無かった。次のお知らせの際、再び失礼致しましたから始まることになるだろう。学園側の混乱ぶりが伺われる。


「佳穂ー! おはよー!」

「はよ」


 スマホを2人とも耳に当て、拓真と勇太の大きな2人が到着した。千穂も佳穂も何も言わず、無表情で通話を終わらせたのだった。その後、康平もまた教室に戻ってきた。拓真たちにはすぐに出会ったらしい。



 8:50までに連絡の付かないものは2名居た。1名は欠席の連絡を既に受けていたらしい。もう1名もまた欠席であった。学年主任が5組を訪れ、利子に欠席を伝えたのだった。


 C棟1-5は無事に40名全員の確認が取れたのである。


 利子は心底、胸を撫で下ろした様子で職員室へと戻っていった。




「何の事件だったのかなー?」


 落ち着きを見せない教室の中、憂のグループメンバーは集合した。話題はもちろん事件の話である。


「……猫や」


「康平さん?」


 佳穂の問い掛けに応えた康平に、梢枝は咎めるような視線を送る。そして、すぐにそれを改めた。


「……仕方ないですかぁ」


「せや。すぐに分かる事やろ。猫の死体が5つほど敷地内で見付かったそうや。それで学園は大騒ぎっちゅーワケやな」


 康平の言葉に各自、眉を顰めた。梢枝は点呼の間、スマホを触っていた。警備隊に派遣されている仲間や裏サイトで情報収集していたのだろう。康平がいち早く情報を得られた理由も似たようなものかも知れない。


「……勇太はともかく、今日は何で拓真くんまで遅かったの?」


 佳穂が拓真を見る……と、今度は拓真が勇太を見やる。その勇太は肩を竦めてみせた。


「運動……な」


「あ。今日は拓真くんも一緒にしたんだね」


 佳穂も千晶も何やら知っているらしい。


「あぁ……。こいつが付き合えって」


「1人じゃ……なぁ……」


「……何の事かな?」


 千穂が聞くと長身2人は憂に目を向ける。小さな憂は相変わらず、外をボーっと眺めていた。


「これ」


 勇太はボールを下に突く素振りを見せ、続いてシュートの姿勢を見せた。勇太のバスケ熱は収まりを見せていないらしい。わざわざ佳穂&千晶と駅前で合流し、そこからの3人での通学を止めたのも、少し前、憂と偶然会ったあの公園のバスケコートで朝から遊んでいる為だと言う。憂がぼんやりとして動かない内に、勇太はそんな話を千穂たちに伝えたのだった。



「……憂に……あ。憂?」



 事件の話が広がりを見せつつある教室内で、憂がついに動いた。


 突然、頭の上に豆電球を浮かべるとリュックサックを開け、何やらゴソゴソと漁り、3枚の袋を取り出した。


「――おもい――だした――」


「これ――康平――」と紫の巾着袋を。


「これ――拓真――」と青の巾着袋を。


「勇太は――これ――」と緑の巾着袋を手渡した。


 女子たちの巾着袋よりも二回りも三回りも大きい。


「バッシュ――いれて――「憂さん」


 そこで梢枝が憂の言葉を制止した。この会話は危険だ。拓真と勇太がバスケ部に所属していないことは球技大会以降、クラス内のほとんどが知る事となっている。もしも話が進み、高等部から彼らと知り合ったはずの憂が『バスケを続けろ』と言ったとすれば、それはおかしな話となる。梢枝の判断は正しい。


「俺だけじゃなかったのか……」


 憂たちの遣り取りを目撃していた少年が2人だけ存在していた。凌平と健太だ。凌平は教科書と参考書を開いていたが距離的にも聞こえていたはずだ。しかし、以前の彼は他人に全く興味が無かった。拓真と勇太の過去を知っているとは思えない。問題ないだろう。

 一方の健太。彼は愕然としている。ざわめく教室内。憂の声が通るとは言っても、通常の声量だった。話の内容までは聞き取れて居ないのかも知れない。巾着袋を手渡す憂の動作を寂しそうに見詰めていた。彼は自分への特別な贈り物と勘違いしていたのかも知れない。

 そんな健太の様子をしっかりと後ろの席で見ていた者が居た。彼女は何やら覚悟を決めたように健太の背中を見詰めていたのだった。





 この日の放課後、クラスメイトたちの大半が部活や帰宅の途に付くと、千穂は憂を屋上へと(いざな)った。今朝の巾着話の再開が目的だ。そしてグループメンバー全員と京之介、圭佑で屋上に辿り着く直前だった。屋上の出入り口。仲睦まじく手を繋いで校舎内に戻ろうとしている健太と有希の2人と鉢合わせしてしまった。


 2人は狼狽した。繋いでいた手を慌てて離し、互いにそっぽを向いてしまう。そんな2人に千穂は『おめでと!』と祝福した。それと同時に『やっぱり――つきあってた――』と得意満面で呟いた者が居たが、他の8人の祝福に掻き消されてしまった。


「……誰にも言わないでね」


 有希の言葉に全員が頷いた。いくつもの秘密を共有している彼らは、隠し事に慣れているのだ。


「憂ちゃんの……お陰……ありがと」


 有希が続けて言ったこの言葉に、憂は沢山のクエスチョンマークを頭の上に浮かべていたのだった。他にも何人かよく分かっていない様子の者がいたが想像にお任せしよう。



 ―――憂のお陰。


 ある意味、それは正解なのだろう。彼らは元々、惹かれ合っていた。だが、2人の性格上の問題で叶わなかっただけだ。そこに憂からの誕生日プレゼント。健太は美少女からの手作りの贈り物に舞い上がった。クラスメイトの可愛い子、と云う認識から別のモノに昇華した。そして、今朝、勘違いに気付かされた。


 有希は憂のプレゼントを機に健太との距離を開け、自分を見つめ直す機会を得た。そして、憂への遠慮から一度は身を引いた。彼女は今朝の遣り取りを目撃はしなかった。しかし、健太の視線を追うと巾着袋を持つ男子3人の姿。すぐに合点がいったようだ。


 そして放課後、健太を呼び出し、告白と相成ったのである。


 傷心の健太に降って沸いた有希の告白。彼は、縋るように色良い返事を返したのだった。




「うらやましー!! ちっきしょー!!」


 他の者の居なくなった屋上で佳穂は空に叫んだ。哀愁漂う後ろ姿だったが、ほとんどの者が苦笑いを貼り付けていただけだった。


「憂! ありがとな!」

「憂さん、おおきに。大事にしますわ」

「……さんきゅ……な」


 佳穂を置き去りに3人は憂に感謝の意を示す。いきなり『バッシュ』の件を持ち出しても憂は忘れているかも知れない。


「――うん。バッシュ――いれて?」


「きょうちゃん――たにやん――まってて?」


 まだ縫うつもりらしい。彼らとは今でこそ微妙な距離感だが、以前は仲良くしていたのある。


「その事……だけど……さ」


 朝と同じ言葉に応答したのは勇太だった。彼は憂に内緒でバスケ熱を上げている。憂への後ろめたい気持ちがそうさせたのかも知れない。


「――うん」


「憂は……何も……思わんの?」


「――なに――が?」


 憂は小首を傾げて困り顔だ。話が噛み合っていない。そんな憂にいつものように千穂が囁く。

 たっぷりと時間を掛け、完全に理解が及ぶまでゆっくりと説明していった。



「バスケ――やって――?」


「けどよ……っと」


 勇太がしようとした返答を拓真が手で制する。憂の言葉は終わりを見せていない。


「ボクは――できなく――なった――」


 哀しそうに目を伏せるが涙は見せなかった。遊びとしてのバスケは可能だ。憂が言っているのは本気で……である。


「そのぶん――がんばって――ほしい」


「ボクに――えんりょ――いらない――」



 ……憂は思いの丈を時折、忘れながら……それでも思い出しながらも一生懸命に紡いでいった。


 憂は自分の事故が元で拓真と勇太がバスケから離れてしまった事を嘆いた。本当にバスケが好きならば、また始めて欲しい。藤校……憂はその名前を忘れていたがそこを越えていって欲しいとも伝えた。そして、全国大会を見せて欲しい……と。

 途中で涙腺が崩壊してしまったのは話の内容から仕方のない事だろう。


 そして、勇太はバスケ部に復帰する事を憂に伝えた。その勇太の言葉に京之介も圭佑も大いに喜んだ。しかし拓真は違った。


 拓真の言葉は憂に伝わりやすい。それについても憂に問うた。憂は拓真の表情で大体分かると言ってのけた。余り表情の変わらない拓真だからこそ分かり易いらしい。憂の感覚的な話なのだろう。


 閑話休題(それはともかく)


 拓真は()が居なければ自分の力は出ないと語った。もしも優と同等……若しくはそれ以上の者が出現したとしても、もう本気にはなれないとも。優が居なくなり格下に大敗したあの日、気付いたらしい。


『俺は優と全国大会に出るのが夢だったらしい』


 その言葉を理解すると、憂は何も言えず押し黙ってしまった。拓真に自分が叶えられなくなった夢を追いかけて欲しい気持ちが悲しみを呼び、拓真にそこまで言って貰えて嬉しい気持ち。そんな気持ちが交錯し言葉にならなかったものと推測する。


 ……この話題は憂の記憶の1つを呼び覚ました。


「けっしょう――のこり――じゅうびょう――どうてん」


 光景を幻視するかのように空を見上げ、呟き始めた。


「ボクの――シュート――どう――なった?」


 空中へとシュートする仕草を見せた。


「……決まったよ。あの……シュートで……壁を……破った」


 京之介が懐かしそうに応えた。



 ――――。



「――そっか。勝った――んだ――」



 それは消え入りそうな、か細い声だった。



「う――ぅぐ――うぅ――ごめ――」


 声を押し殺し、嗚咽を漏らす。

 きっと憂はその勝利の後、バスケ部が歩んだ道を想像し、理解した。


 自身の事故に端を発する崩壊。


「ぅぐぅ――ごめ――ごめん――」


 ……咽び泣く中での謝罪がそれを証明していた。





「あの試合のDVD、みんな届いてるよね?」


「僕の家にも届いたよ」


「俺んちにも。俺らにも届いてるなら全員だろ?」


 千穂の問いに現役バスケ部員2人が答えた。


「お姉さんに伝えておくね。もう観ても大丈夫ですって……」


「それがええですわぁ……」


 梢枝はビデオカメラを止めると千穂に同意を示したのであった。




 おぉ……。

 そうでした。書き忘れてました。

 短編小説『TS婆さんの話』を投稿しております。

 萌えはありません。婆さんなので(;´Д`)

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